兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

博徒のハシリ幡随院長兵衛

2019年12月30日 | 歴史
「お若けぇの、お待ちなせぇやし」のセリフで白井権八を呼び止める、歌舞伎「御存知鈴ケ森」のシーンで有名な町奴・幡随院長兵衛。彼は博徒の発祥の人物と言われる。本来、博徒は博奕商売を本業にする。当時の長兵衛は土木人足請負業を本業として、人足を支配下に置く手段として博奕をする。人入れ稼業のための博奕である。

幡随院長兵衛の父は、九州肥後唐津の士族出身・塚本伊織であり、長兵衛は本名を塚本常平と言った。子供のころ、父とともに故郷を離れ、父親は長兵衛13歳のとき、下関で死亡した。その後、幡随院住職・白導和尚を頼り、面倒を見てもらうため、江戸に上った。

江戸では武家奉公人の口入屋・山脇惣佐衛門の世話になり、「渡り徒士」として旗本・花房大膳の所に住み込む。渡り徒士とは代々の家来でなく、1年契約雇用による日雇い徒士である。言わば、現在の派遣社員である。

旗本家の中間を渡り歩いているうちに、山脇惣佐衛門の娘を妻とし、義父同様の口入稼業を江戸浅草花川戸で開業した。山脇の娘は今でいうヤンキーな若者にあこがれていたようだ。そこにヤンキー長兵衛が現れ、一目ぼれしたのだろう。

一方、相手役の水野十郎左衛門は小普請組水野出雲守の長男。彼も長兵衛同様に、伊達風が好きで、異装をこらして町を歩いた。当時、旗本3千石以下で無役の武士は小普請入りを命じられ、仕事はない。しかし年に何回か、城などの修理工事に夫役の人足を出す必要がある。

常時、中間を雇用する余裕はないから、必要時、口入屋から臨時の人足を依頼する。いわば水野家は口入屋・幡随院長兵衛の顧客である。十郎左衛門は無役の旗本の長男坊、伊達男を好む侍、芝居小屋に出入りして町奴と競い合ういわばゴロツキである。今でいうハングレ集団だろう。

長兵衛が十郎左衛門か、その仲間たちに殺されたことは事実である。しかし物語にあるような町奴と旗本の対立ではない。十郎左衛門の謀略を承知の上で訪問して、風呂場で殺されたわけでもない。実際は、長兵衛が十郎左衛門の所へ行き、強いて遊郭に誘ったところ、都合が悪いと十郎左衛門が断った。長兵衛が「俺の勇気に恐れたか」と無礼な振る舞いをしたため、十郎左衛門が怒って斬殺し、奉行所に届け出たと言う。

長兵衛は常日頃から十郎左衛門と懇意だから、つい無礼な言動になったのだろう。長兵衛はいわば浪人の出、老中は無礼討ちを認め、十郎左衛門は無罪。長兵衛の斬られ損である。一説には男色の美少年の争奪が喧嘩の原因とも言われている。案外にこの説が真実かもしれない。

事件発生の年月日も、慶安3年(1650年)4月13日。または明暦3年(1657年)7月18日の二つの説がある。どちらでも長兵衛、30歳中頃の男盛りである。水野十郎左衛門が不行跡の理由で切腹を申し渡されたのは寛文4年(1664年)である。前者なら14年後、後者なら7年後、かなり期間が経過してから処罰である。事件とまったく関連はない。


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下の写真は東京都台東区東上野の源空寺にある幡随院長兵衛夫婦の墓。向かって左が長兵衛、右は妻のおきんの墓。
妻の父親・山脇惣右衛門が建てたと言われる。

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