上州で喧嘩嫌いの親分は大前田英五郎、東海道筋では藤枝の長楽寺の清兵衛が有名だ。静岡県藤枝市本町に長楽寺という臨済宗古刹がある。清兵衛は、この寺の門前に住む藤八の次男として生まれ、すぐ近くの菊次郎という人の養子となった。寺の門前に住んでいたので「長楽寺」と呼ばれた。
清兵衛は、骨格たくましく、腕っぷしも強かった。田中藩4万石の御用を勤め、藩主(本多紀伊守正納)のお供をして甲府に行ったとき、偽勅使を見破って召捕った話、晩年に凶悪犯人を捕まえて、警察に感謝状を貰った話が残っている。喧嘩嫌い、穏やかな人柄、旅人の世話も良いことで名が通っていた。さらに白粉彫りで、背中に小野の小町、胸から腰、両手足に桜の花をちりばめた彫り物の見事さでも有名である。
(博徒名)長楽寺の清兵衛 (本名)杉本清兵衛
(生歿年)文政10年(1827年)2月29日~大正10年(1921年)8月12日 病死 享年95歳
(博徒名)大藪の平五郎 (本名)佐野平五郎
(生歿年)文政12年(1829年)~明治41年(1908年)4月5日 病死 享年79歳
長楽寺の清兵衛を有名にしたのは、浜松の五社神社で行われた荒神山の喧嘩の手打ち式で、甲州津向の文吉と二人で仲介人をしたことである。清兵衛は次郎長より七つ年下だったが、それほど渡世人としての貫禄があった。
清兵衛の長い生涯で渡世人として喧嘩をしたのは、たった1回かぎり。相手は、隣村の郡村(現・藤枝市郡町)の大藪の平五郎という親分であった。平五郎は、清兵衛より三つ年下、清兵衛とは四分六の兄弟分。性格は短気で粗暴だった。だから、五社神社の手打ち式のときも、この男には声をかけずにコトを運んだ。
平五郎は、この扱いを根に持ち、兄貴分の清兵衛に恨みを持った。それがこじれて、平五郎は清兵衛に果たし状を突き付けた。清兵衛もいきり立って、身内を招集した。明治14年10月24日の夕方、双方とも約70名の人数を近くの青池に繰り出した。この喧嘩で平五郎の息子・佐野銀次郎が殺害された。
殺害された銀次郎は、堅気の青年で、郡役所に勤めていた。このとき26歳、父親の身を案じて、木刀をたずさえて駆けつけた。父親の平五郎に「ここは、堅気の来るところではない!」と一喝され、余儀なく家に戻る途中、長楽寺方の一隊と出くわし、血祭りにあげられてしまった。
翌日、長楽寺一家から三州の忠次郎が銀次郎殺しの下手人として警察へ自首してきた。仲間の横内の角蔵と浪人の金山敬助は草鞋をはいたが、捕らえれれて、懲役2年に処せられた。平五郎も静岡に逃げ、博徒仲間のもとに隠れていたが、次郎長の仲裁で清兵衛と和解、家に戻って来た。
大藪の平五郎こと佐野平五郎は、明治41年(1908年)4月5日死亡した。藤枝市本町の慶全寺に葬られている。法名「泰岳良平居士」。行年79歳。慶全寺には、平五郎が建てた息子・佐野銀次郎の墓がある。銀次郎の妻は名を「サト」と言った。あまり身持ちは良く無く、銀次郎の死後、平五郎の妾になって、二人の子を産んでいる。平五郎の死後、子分の妾になったという。
一方、清兵衛は、大正10年8月12日、95歳で大往生した。法名は「大量正眼居士」。藤枝市洞雲寺に墓がある。清兵衛の墓は、杉本家墓として建立され、昔の墓は隣に積み上げられている。隣に説明の石碑が建っている。
ブログ内に下記関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
吉良仁吉が命を懸けて加勢した博徒・神戸の長吉
次郎長の兄貴分博徒・津向文吉
写真は藤枝市洞雲寺にある長楽寺の清兵衛の墓で、杉本家の墓。石碑の後に昔の墓石が積まれている。
写真は藤枝市慶全寺にある大藪の平五郎が建てた佐野銀次郎の墓。左側面には事件の経過が刻まれて、墓石の土台には子分らしき名前が刻まれている。
清兵衛は、骨格たくましく、腕っぷしも強かった。田中藩4万石の御用を勤め、藩主(本多紀伊守正納)のお供をして甲府に行ったとき、偽勅使を見破って召捕った話、晩年に凶悪犯人を捕まえて、警察に感謝状を貰った話が残っている。喧嘩嫌い、穏やかな人柄、旅人の世話も良いことで名が通っていた。さらに白粉彫りで、背中に小野の小町、胸から腰、両手足に桜の花をちりばめた彫り物の見事さでも有名である。
(博徒名)長楽寺の清兵衛 (本名)杉本清兵衛
(生歿年)文政10年(1827年)2月29日~大正10年(1921年)8月12日 病死 享年95歳
(博徒名)大藪の平五郎 (本名)佐野平五郎
(生歿年)文政12年(1829年)~明治41年(1908年)4月5日 病死 享年79歳
長楽寺の清兵衛を有名にしたのは、浜松の五社神社で行われた荒神山の喧嘩の手打ち式で、甲州津向の文吉と二人で仲介人をしたことである。清兵衛は次郎長より七つ年下だったが、それほど渡世人としての貫禄があった。
清兵衛の長い生涯で渡世人として喧嘩をしたのは、たった1回かぎり。相手は、隣村の郡村(現・藤枝市郡町)の大藪の平五郎という親分であった。平五郎は、清兵衛より三つ年下、清兵衛とは四分六の兄弟分。性格は短気で粗暴だった。だから、五社神社の手打ち式のときも、この男には声をかけずにコトを運んだ。
平五郎は、この扱いを根に持ち、兄貴分の清兵衛に恨みを持った。それがこじれて、平五郎は清兵衛に果たし状を突き付けた。清兵衛もいきり立って、身内を招集した。明治14年10月24日の夕方、双方とも約70名の人数を近くの青池に繰り出した。この喧嘩で平五郎の息子・佐野銀次郎が殺害された。
殺害された銀次郎は、堅気の青年で、郡役所に勤めていた。このとき26歳、父親の身を案じて、木刀をたずさえて駆けつけた。父親の平五郎に「ここは、堅気の来るところではない!」と一喝され、余儀なく家に戻る途中、長楽寺方の一隊と出くわし、血祭りにあげられてしまった。
翌日、長楽寺一家から三州の忠次郎が銀次郎殺しの下手人として警察へ自首してきた。仲間の横内の角蔵と浪人の金山敬助は草鞋をはいたが、捕らえれれて、懲役2年に処せられた。平五郎も静岡に逃げ、博徒仲間のもとに隠れていたが、次郎長の仲裁で清兵衛と和解、家に戻って来た。
大藪の平五郎こと佐野平五郎は、明治41年(1908年)4月5日死亡した。藤枝市本町の慶全寺に葬られている。法名「泰岳良平居士」。行年79歳。慶全寺には、平五郎が建てた息子・佐野銀次郎の墓がある。銀次郎の妻は名を「サト」と言った。あまり身持ちは良く無く、銀次郎の死後、平五郎の妾になって、二人の子を産んでいる。平五郎の死後、子分の妾になったという。
一方、清兵衛は、大正10年8月12日、95歳で大往生した。法名は「大量正眼居士」。藤枝市洞雲寺に墓がある。清兵衛の墓は、杉本家墓として建立され、昔の墓は隣に積み上げられている。隣に説明の石碑が建っている。
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吉良仁吉が命を懸けて加勢した博徒・神戸の長吉
次郎長の兄貴分博徒・津向文吉
写真は藤枝市洞雲寺にある長楽寺の清兵衛の墓で、杉本家の墓。石碑の後に昔の墓石が積まれている。
写真は藤枝市慶全寺にある大藪の平五郎が建てた佐野銀次郎の墓。左側面には事件の経過が刻まれて、墓石の土台には子分らしき名前が刻まれている。