兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

吃安を捕縛した博徒・江戸屋虎五郎

2022年12月20日 | 歴史
安政5年(1858年)8月、竹居の吃安(竹居安五郎)は、伊豆・新島の名主を殺して、島抜けに成功、甲州へ舞い戻った。吃安が50歳のときである。甲州の岡っ引きは皆、金をつかませられ、誰一人として、吃安を捕縛できなかった。そこで江戸屋虎五郎と高萩の万次郎の二人の岡っ引きに、吃安捕縛の密命が出た。

二人は甲州に乗り込み、練りに練った作戦で、まず吃安の一の子分黒駒勝蔵を甲州から追い出した。そして舘林藩浪人・犬上郡次郎を、巧みに吃安の用心棒に送り込んだ。それから約2年余り、歳月をかけた3人による捕縛作戦の結果、吃安は捕らえられた。捕縛された吃安は、石和代官所牢内で毒殺された。文久2年(1862年)10月6日、吃安、54歳だったrr
(博徒名) 江戸屋虎五郎  (本名) 岡安七五郎(岡安兵右衛門)
(生歿年) 文化11年(1814年)1月5日~明治28年(1895年)10月22日 享年83歳 病死れ

虎五郎の出生地は不明。邑楽郡舘林(舘林市)百姓源七の倅の説、武州新座郡岡村(埼玉県朝霞市)の出身、秩父の出身とも、三河の生れとも言われる。若い頃、草相撲の土俵上で、誤って相手を投げ殺し、舘林に逃げて来た。舘林荒宿(舘林市下宿)の香具師弥七を頼って、草鞋を脱いだという。

弥七のもとに居るとき、舘林連雀町の的屋・江戸屋こと岡安兵右衛門に見込まれて、娘の「ちか」と夫婦になり、江戸屋の跡目を継いだ。身の丈6尺の大男、目玉がギョロリとしていたため「目玉の親分」と言われた。縄張りは邑楽郡(群馬県南東部)全域、埼玉県、栃木県の一部まで及んだ。天保11年(1840年)虎五郎は26歳、遠州博徒・都田の源八を殺したという説もある。源八は森の石松を殺した都田吉兵衛の父親である。

江戸屋虎五郎となってからは、関東取締出役の道案内を務めた。役目柄、舘林に居るより旅暮らしが多かった。そのため子供もいなかった。吃安捕物の任務を果たした後は、舘林に戻り、豊次郎という養子をもらった。慶応3年、明治元年頃である。同時に、町内の島田庄次郎の二女「えい」を豊次郎の嫁にした。

明治を迎えて、岡っ引きは廃止された。虎五郎は生活のため博奕打ちとなった。明治5年壬申戸籍には、「正月脱籍当時尋ね中」とある。当時、虎五郎は手配され、失踪中と思われる。養子の豊次郎は「雑業」とある。豊次郎も定職は無かったと思える。そのためか、豊次郎夫婦は明治9年、正式に離婚している。

明治になって、博徒に対する取り締まりは厳しくなった。明治13年4月1日、虎五郎は自首して出てきた。すでに江戸屋の跡目も堀越喜三郎に譲り渡しており、虎五郎も67歳となっていた。

かつての親分の面影はなく、その日の生活にも困る状態であった。住居も転々と移り、最後は子分であった柴田三七の世話を受けていた。明治28年10月22日、ひっそりと息を引き取った。虎五郎は、次郎長より6歳年上である。国定忠治よりは4歳年下だが、45年長く生きた。

堀越喜三郎の呼びかけで、上州、武州の博徒百余名が協力して、堀越家の菩提寺である舘林市本町の大道寺に石塔、墓石が建立された。戒名「宝松院梅誉樹林居士」である。墓には妻の「ちか」とともに葬られている。


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写真は江戸屋虎五郎の墓。向かって右側の墓。正面中央に戒名「宝松院梅誉樹林居士」右に「逝誉妙遊大姉」左に「切誉徳行信士」とある。
墓の台石には建立に協力した67名の親分衆の名前が刻まれている。「村山玉五郎」「吉田藤三郎」「関口刀太郎」などの名が見られる。
向かって左側面に、施主人として堀越喜三郎と岡安ナミの名が刻まれている。

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遠州はんか打ち渡世人・小松村の七五郎

2022年12月11日 | 歴史
都鳥一家の闇討ちを受け、深手を負った森の石松は、小松村の七五郎の家に身を隠した。ふたたび二俣街道に出たところ、地蔵堂の近くで殺された。この話は芝居、講談にも登場し、有名な場面である。森の石松は架空の人物という人もいる。しかし小松村の七五郎は実在の人間である。

七五郎の家があった長上郡小松村は現在の浜北市小松町にあたる。浜松市街中心から二俣街道(旧国道152号)を10キロほど北上し、江戸時代の頃は寒村だった。秋葉山へ向かう街道が通っていたため、旅人の往来は多い。秋葉山の火祭りのときには高市が開き、多くの渡世人が集まった。

(博徒名) 小松村の七五郎  (本名) 松本七五郎
(生歿年) 文化14年(1817年)~明治5年(1872年)5月24日 享年55歳 病死

(妻女)  松本その
(生歿年) 文政8年5月15日~明治38年8月22日 享年81歳 病死

七五郎は、もともとは甲州の生まれ、「はんか打ち」博徒だった。「はんか打ち」とは子分をもたない一匹狼のばくち打ちである。当時、七五郎の家は小松村の百姓の家だった。家には男の子がおらず、娘の「その」が甲斐国出身の庄太という若者を婿養子に取り、農業を営んでいた。

ところが数年で、庄太が病気となり、回復の兆しもなかった。それを風のたよりで聞いた庄太と同郷の七五郎が小松村まで、見舞いに来た。七五郎に看取られて、庄太は嘉永3年(1850年)に息をひきとった。庄太の法名は寺の過去帳によると「方室宗道信士」とある。

七五郎は、旦那を失った女房の「その」を励ました。その励ましが愛に変わり、「その」は七五郎と夫婦となった。七五郎は「はんか打ち」渡世人のため、七五郎の家には多くの博徒たちが立ち寄るようになった。その中の一人が森の石松であり、都鳥一家の事件が発生した。

七五郎は「はんか打ち」博徒のため、見附の大和田友蔵、山梨の巳之助のように親分とは言われない。現在の松本家に、七五郎が愛用した二振りの「脇差し」が残されている。一振りは白鞘に納められ、長さ一尺九寸五分(約59cm)鞘に「遠州侠客小松村七五郎刀」と墨書きされている。七五郎の女房・そのが使っていた「火のし」(昔のアイロン)と茶釜、それに清水一家の者と一緒に撮影された写真も残されている。

七五郎の女房「その」は身の丈、5尺3寸(153cm)、一升を飲み干すほど酒に強く、度胸もある美人だった。ある日、七五郎は捕り方に追われて逃げ帰った。「その」は七五郎を布団と蚊帳に包んで、その上に腰を下ろし、手槍を持って捕り方を待ち構えた。捕り方が「七五郎を出せ」叫ぶと、「居ねえものが出せるか!」と啖呵を切って追い返したという。

石松が都田一家に追われた時も、石松を仏壇の下に隠して、啖呵を切った。その仏壇も、晩年「その」が売り払って酒代になってしまったが、かなり大きかったという。石松は身長5尺そこそこ、約150cm余りの小男のため、隠れることができた。当時「その」は36歳の大年増だった。

江戸時代に姓を持たなかった七五郎の家は、明治に入り「松本」を姓とする。七五郎と「その」の間には子供がなかった。そのため跡継ぎは両もらいで家系をつないだ。浜松宿丸塚村(浜松市東区丸塚町)から百姓の定八を、「その」の身内から「とく」という娘をもらい、定八の女房とさせた。松本家は今も小松町に存続している。

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写真は小松村の七五郎の墓。浜北市小松町の紹隆寺にある。
七五郎は「松本家」養子。紹隆寺過去帳には七五郎は「戒名・秀岸良苗居士・明治5年5月24日歿、享年55歳」女房「その」は「蓮宝貞香大姉・明治38年8月22日歿、享年81歳」とある。



明治4年、浜松五社神社で行われた荒神山手打ち式での清水一家写真。後列右から6人目が小松村の七五郎。死去の1年前である。右隣は大瀬の半五郎。
後列の左から4人目が大政。座っている前列の左から、増川仙右エ門、桶屋の鬼吉、清水次郎長。次郎長の右隣は、二代目お蝶を殺した旧幕武士を斬った田中敬次郎。国定忠治一家の3代目、博徒取締りから逃亡、次郎長の客分となった。

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幕末最長老の博徒・人斬り長兵衛

2022年12月07日 | 歴史
長兵衛は、幕末博徒の最長老で、次郎長はじめ多くの博徒が長兵衛の前では頭が上がらず、一目を置いた。「吉田中村の仏の長兵衛」とも、別名「人斬りの長兵衛」と呼ばれた博徒である。実際は温厚な親分で、生涯、人を斬ったこともなければ、喧嘩をしたこともない。それで「仏の長兵衛」と言われ、どんな博徒も、長兵衛には一目置いた。

人によっては、「人斬りの長兵衛」ではなく、「人食いの長兵衛」だと言った。その理由は、長兵衛の賭場の博奕で負けて、家財産を失い、娘から果ては女房まで売り飛ばす羽目に陥った者が多かったからである。

(博徒名)人斬り長兵衛   (本名)渡辺長兵衛
(生没年)天明4年(1784年)~文久2年(1862年)12月9日 享年78歳 病死

長兵衛は、下吉田村中村(現・山梨県富士吉田市下吉田)の名主・右近之助の息子である。若い頃、博奕の罪で流罪となる。のちに大赦になった。しかし生家では、流罪の長兵衛を迎えに行く旅費の都合がつかず、屋敷内の土地一部を、家の前の田辺という質屋へ、3両2分で売ったという。この長兵衛一家の三羽烏が、竹居の吃安、鬼神喜之助、大場の久八である。

大場の久八は、慶応4年2月「甲州ニセ勅使事件」で、小沢一仙に協力して、甲州を回り、軍資金を集めた。久八は、慶応4年6月8日、下吉田村で官軍に捕まって、投獄された。「ニセ勅使事件」とは、官軍東海道総督府から勅宣を受けていない草奔隊のニセ官軍鎮撫隊が、正月に甲府城へ入城した事件である。各地で税免除を約して、軍資金をを集めた。

小沢一仙は、静岡県賀茂郡松崎の船大工・石田半兵衛の倅で、甲府勤番家の養子となった。大場の久八は、小沢一仙と同じ伊豆出身で、黒駒勝蔵は吃安との縁で、久八とも結びつきがあった。そのため当時、京都にいた勝蔵から頼まれて、片棒を担いだと言われる。

「ニセ勅使事件」の参謀は、舘林藩の中老を務めた岡谷繁実である。岡谷繁実は「斯波弾正」の偽名を使い、当時まだ18歳の京都の公家・高松実村を担ぎ上げて、甲州までやってきて、失敗、挫折したものである。

「ニセ勅使事件」の8年前、舘林藩浪人・犬上郡次郎、舘林の江戸屋虎五郎などが甲州入りして、黒駒勝蔵を追い出し、吃安を捕らえた事件が起きている。甲州と舘林とは奇妙な因縁がある。舘林藩主・秋元但馬守の祖先は、3代で70年以上、甲州郡内領主として君臨した関係もあるだろう。

長兵衛は文久2年(1862年)12月9日死亡した。富士吉田市にある長兵衛の菩提寺・福源寺過去帳に「遊侠・中村長兵衛」と記されている。福源寺に長兵衛の墓はなく、過去帳のみが残っている。

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写真は人斬り長兵衛の菩提寺・山梨県富士吉田市の福源寺。荘厳な山門は市の観光スポットである。

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彰義隊戦死者を埋葬した博徒・三河屋幸三郎

2022年12月01日 | 歴史
薩長による江戸城攻撃の噂が高まったとき、勝海舟の依頼で、「こんな下衆な私でよろしければ」と言って、江戸の治安維持に協力した侠客がいた。それが三河屋幸三郎である。神田旅篭町に一家を構え、いい顔の親分だった。本名は浅岡幸三郎という。

(博徒名) 三河屋幸三郎   (本名) 浅岡幸三郎
(生没年) 文政6年(1823年)生まれ~明治22年(1889年)5月5日 享年67歳 
      肺炎発症による病死

幸三郎の父・与兵衛(与平ともいう)は湯島天神の門前町で金貸しを営んでいた。与兵衛は享和2年(1802年)32歳のとき、高利貸しの罪で、八丈島に流された。それから25年後、文政9年(1826年)12月放免となった。与兵衛には八丈島の女との間に男の子がいた。その子を3年後に江戸へ呼び寄せた。これが幸三郎である。人は彼を「島小僧」と呼んだ。

幸三郎は先見の明があり、商売上手だった。横浜築港の際には、人足を手配して港工事に協力した。開港後は、弁天通りに外国人相手の金銀、べっ甲、珊瑚細工の装身具の問屋を開業した。これが図に当たり、港貿易取引でひと財産を築き上げた。

上野戦争では、彰義隊の武器を自らの蔵に預かり、逃げ込んだ彰義隊を匿い、戦死者を手厚く葬うなど、勝海舟との約束を実行した。そのため官軍からにらまれて、一時検索されかかった。明治2年、横浜にいた幸三郎の所に、ヤクザ風の男が舞い込んだ。幸三郎はわらじ銭をもらいに来た男と考え、軽くあしらった。

その男は江戸無宿鉄五郎と名乗った。榎本武揚と共に江戸を脱走、五稜郭に立てこもり、函館の牢に入れられた「石川忠恕」が獄中で記述した「函館脱走一件」の始末記を、その男は保持していた。石川忠恕から三河屋幸三郎に渡してほしいと頼まれたと言った。

鉄五郎に事情を聴くと、鉄五郎は江戸から津軽に流れ、ある寺の賭場へ通っていた。その寺が仮牢になっており、石川が入牢していた。石川は近いうちに切腹か、打ち首が決まっていた。「江戸から脱走したと汚名を着せられ、我々の行動の真実が正当に評価されないのは残念である。後世に真実を伝えるためにも、三河屋に始末記を渡して、公表してもらいたい」と頼まれたと話した。

三河屋幸三郎は、鉄五郎にお礼として百両を渡そうとした。鉄五郎は「島っ子」から金をもらう訳にはいかないと、断り、一文も受け取らず立ち去った。幸三郎は始末記公表の機を狙った。しかし時節柄、旧幕臣の刊行は難しく、預かっている間に、明治22年(1889年)5月5日、肺炎で幸三郎は死亡した。

幸三郎の七回忌に際し、幸三郎の息子・浅岡岩太郎がこれを公刊した。福地桜痴、三宅雪嶺が序文を書き、後に有名となった「説夢録」である。この頃から旧幕臣の記録が刊行されるようになった。明治30年、大鳥圭介の「獄中記」が「旧幕府」という雑誌に発表された。25年間、散逸させず、保存し続けた三河屋幸三郎と息子・浅岡岩太郎の義理固さは特筆すべきであろう。


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賊軍幕府兵を埋葬した博徒たち

函館の博徒・柳川熊吉

写真は江戸屋幸三郎の墓。左側の墓である。右側の墓は娘婿の草刈家の墓。多摩ひばりケ丘東本願寺別院にあった。現在は横浜市久保山墓地の浅岡家の一角に移転されている。
久保山墓地には元奇兵隊士で御用商人となった山城屋和助の墓もある。また東条英樹らA級戦犯7名が秘密裏に火葬された久保山斎場もここにある。



写真は荒川区南千住円通寺にある上野彰義隊顕彰碑「死節之墓」である。元は幸三郎の向島の別荘にあったものを円通寺に移転した。(日本伝承大鑑より)
幸三郎と円通寺住職・達磨和尚は上野戦争で戦死した隊士266名を同寺に埋葬し、顕彰碑を建立した。



写真は彰義隊戦死者の墓。明治37年5月15日榎本武揚建立。墓碑銘は榎本武揚の書である。


写真は三幸翁之碑。明治23年三河幸三郎が建立した。

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