兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

次郎長と連携した遠州博徒・大和田の友蔵

2023年02月16日 | 歴史
遠州見附宿の博徒・大和田の友蔵を知っている人は少ない。幕末の遠州で日坂の栄次郎、都田吉兵衛、堀越藤左ヱ門と並ぶ博徒である。温和な性格で、喧嘩はあまり得意ではなかった。遠江国大和田(現・磐田市大原)の百姓・庄兵衛の次男に生まれた。相撲取りのような体格で、米二俵をぶら下げて歩くほど力持ちだった。遠州博徒・山梨の巳之助の所に出入りし、徐々に勢力を広げた。

石松を都田吉兵衛が謀殺したことによる次郎長一家と都田一家の対立は、次郎長の吉兵衛殺害の「駕籠屋(かごや)事件」を発生させた。この事件は吉兵衛の兄貴分である伊豆本郷の金平と次郎長との抗争へと発展。赤鬼の金平と兄弟分の丹波屋伝兵衛は、抗争拡大を心配して、仲裁に入る。伝兵衛は妻の弟である増川仙右エ門を次郎長へ手打ちの使者として送り込んだ。

仙右エ門は、手打ちの場所は菊川宿、斡旋人は丹波屋伝兵衛、金平側仲人・日坂の栄次郎を挙げ、次郎長側仲人の意向を次郎長に尋ねた。このとき、次郎長が名前を挙げたのが大和田の友蔵である。当時、次郎長は友蔵と親しい関係ではなかったが、友蔵は親黒駒派ではなく、無色透明の立場が幸いした。この時から友蔵と次郎長の兄弟分の付き合いが始まった。

菊川宿の手打ち式は、金平側から黒駒の勝蔵、箱根の二郎、下田の栄太郎、都田常吉が出席、次郎長側は寺津の間之助、大政以下の子分が出席、総勢400人の博徒が集合した。殺された吉兵衛の実弟の常吉は本心から手打ちに納得せず、手打ちは形式的で、その後も両者の抗争は継続した。

これ以降、文久元年頃より、遠州の博徒は二つに分かれ、清水次郎長派と黒駒勝蔵派に分断された。次郎長派は、大和田友蔵、気子島の新吉、四角山の後継の南新屋の常吉である。一方、黒駒勝蔵派は、堀越藤左ヱ門、国領屋亀吉、日坂の栄次郎らである。

文久2年6月13日、富士山のふもと増川(現・富士市)で、増川仙右エ門の父・佐太郎(佐治郎ともいう)が比奈の民蔵、力蔵一味に殺される事件が起きた。その頃、手打ち式の使者の役目を立派に果たした力量に感心した次郎長は、仙右エ門を清水一家の客分にしていた。その後、仙右エ門は次郎長の子分となる。

文久2年暮、黒駒勝蔵が遠州の絹商人を殺し、金を奪い、信州に逃亡した事件が起きた。勝蔵は再び遠州に戻って来た。大和田友蔵は中泉代官所より、十手捕縄の役を受け、勝蔵捕縛の命が出た。その役は避けたかった。しかしお上の命のため、引き受けざるを得ない。その後、勝蔵が気子島の新吉を斬りつける事件、森の新屋の虎造が勝蔵の子分の大岩、小岩に殺される事件が発生、友蔵は勝蔵と対決せざるを得なくなった。

文久3年5月、黒駒勝蔵は友蔵にケンカ状を送付した。友蔵は清水次郎長に応援を依頼、天竜川河畔の子安の森で対決する。清水一家24人、石重の重蔵12人、総勢80人近くを集め、勝蔵側も80人近くが鉄砲を携え、夕方より対峙した。しかし翌朝になると、勝蔵側は逃亡、もぬけのカラだった。友蔵には中泉代官所のバックがあり、黒駒側は大事となることを恐れたためである。

以後、次郎長と勝蔵との対決は本格化し、清水次郎長と黒駒勝蔵との抗争は慶応年間まで6年間続き、荒神山騒動、慶応2年末の富士川水神の森の決闘など大きな喧嘩が発生する。慶応4年正月、黒駒勝蔵は四条家の公家侍となり、官軍に入隊し、戊辰戦争を戦うことになって、その対立は終了した。

大和田友蔵は、明治15年(1890年)10月25日、病死した。墓は磐田市の金剛寺に妻とともに葬られた。

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写真は大和田友蔵の墓。正面に戒名「凌雲亥霜居士」隣に「雪顔貞操大姉」覐位とある。墓は磐田市見附の金剛寺にある。

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次郎長の秘書役・律儀な博徒・当目の岩吉

2023年02月13日 | 歴史
清水一家の大政が死に、一家の要である増川の仙右衛門が病気がちとなると、次郎長は何かことがあると「当目を呼べ」と言った。それ以前からも当目の岩吉は次郎長の秘書役兼参謀の役を持っていた。浜松の五社神社で撮影した荒神山手打ち式の写真にも、大政が後列でのんびり立っているのに、前列の次郎長のすぐ左隣に座っている。

岩吉は、志太郡東益津村浜当目(現・焼津市浜当目)の出身、次郎長より20歳ばかり年下である。頭が切れて誠実味のある男である。若い頃、焼津の漁師仲間と博奕を打ち、いつしか次郎長の子分となった。いつもは焼津港の近くの浜当目に居住した。次郎長が博徒狩りで逮捕された時は、増川の仙右衛門とともに捕縛され、静岡の井宮監獄に収監された。釈放も次郎長と一緒である。

(博徒名) 当目の岩吉   (本名) 久保山岩吉
(生歿年) 天保10年(1839年)~大正3年(1914年)4月9日 病死 享年75歳

岩吉が「当目」と呼ばれたのは、焼津浜当目の生まれであり、夜目、遠目がきくこと、物事の先の見通しがきくことから、そう呼ばれたと言う。本名は久保山岩吉。老後の次郎長やお蝶の面倒は、この岩吉が一番みた。何かことがあれば、焼津から日本坂を越えて、清水に小走りで駆けつけた。次郎長が死んでからは、清水に泊まり込みで清水一家やお蝶の面倒をつくした。

岩吉は病気がちになると、浜当目に引き込んで静養した。自分の死期が近づいたと知ると、「俺が死んだことは、姐さん(お蝶)には知らせてくれるな。姐さんを送らずに先にゆくほど不幸なことはない。親分にはあの世へ行って土下座してお詫びする」と家族に言った。そう言われても、家族は清水へ岩吉の病状を知らせた。駆けつけたお蝶を見て、布団の上に起き上がり、両手、両膝を揃えて、ボロボロと涙を流して、先立つ不孝を詫びたと言う。

義理堅い律儀な性格の岩吉は、大正3年4月9日、75歳で病死した。岩吉の墓は焼津市当目山麓の曹洞宗・弘徳院にある。法名「本来是空居士」である。毎年2月23日、「虚空蔵山達磨市」が開催され、だるま市で有名。岩吉の墓に近くには、ビキニ水爆実験の犠牲者・久保山愛吉の墓もある。

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次郎長の三人の妻・お蝶

次郎長妻・三代目お蝶の仲人・西尾の治助

写真は焼津市弘徳院の当目の岩吉の墓。正面「本来是空居士・奉岳妙翠大姉」右側面に明治42年10月1日・俗名まつ(妻)大正3年4月9日・俗名岩吉とある。妻と一緒に葬られ、立派な墓である。


写真はビキニ水爆の犠牲者久保山愛吉の墓。



写真は明治4年、浜松五社神社で行われた荒神山手打ち式での清水一家の写真。
前列の左から、増川の仙右エ門、桶屋の鬼吉、清水次郎長、田中敬次郎、当目の岩吉、小走りの半兵衛。
後列の左から、興津の盛ノ助、四日市教太郎、辻の勝五郎、大政、関東丑五郎、寺津の間之助、鳥羽熊、清水の周吉、三保の松五郎、小松村の七五郎、大瀬の半五郎、大野の鶴吉、伊達の五郎、舞阪富五郎、国定の金次郎。

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