ヤクザの用心棒・平手造酒(平田深喜)は皆さんも良くご存知と思います。三波春夫の大利根無情、「佐原囃子が聞こえ来る。思い出すなぁ、お玉ケ池の千葉道場、平手造酒も今じゃ、やくざの用心棒、人生裏街道の枯れ落ち葉・・・」のセリフで有名です。
平手造酒は、天保15年(1844年)8月6日、飯岡助五郎と笹川繁蔵との闘いに笹川繁蔵の助っ人として参加、闘死した。講談、浪曲「天保水滸伝」の名脇役である。この闘いは飯岡方50数名、笹川方20名あまりだったが、笹川方は準備周到で、飯岡側は死亡者4名を出したが、笹川側の死亡者は造酒ひとりだった。
(本 名) 平田深喜、または平田三亀
(生没年) 生年不詳~天保15年(1844年)8月7日
享年37歳前後
平手造酒は元仙台藩士あるいは紀州藩士とも言われる。流浪の末、下総国香取郡松崎(現・神崎町松崎)の名主・山口左衛門宅に身を寄せ、剣道道場を開いた。そこで博徒の親分笹川繁蔵と知り合い、笹川一家の用心棒となった。
平手造酒は、飯岡助五郎との縄張り争いの喧嘩、斬り合いの末、戦いの翌日に死亡した。即死ではなかった。今も出役による「死体見分書写し」が飯岡町歴史民俗館に残っている。その見分書による死体の状況は下記のとおりである。
1.天窓に長さ6寸程の十文字切り傷、長さ1寸程他に3ケ所。
2.右の肩、長さ2寸程、左の肩、3寸程。
3.腕に長さ2寸程の切り傷3ケ所。
4.左の脇腹から心中にかけて長さ8寸程、同膝に長さ3寸程の切り傷。
都合11ケ所あり、繁蔵宅前に倒れており、家に入れ、医者が手当も死亡との記載がある。
「実録天保水滸伝」著者・野口政司の伝えによると、野口氏の家の隣の岩瀬家が笹川繁蔵の子孫で、野口氏の祖母の話は「平手造酒は痩せ男で、顔色悪く、斬られたときは腸が飛び出ていた。繁蔵自宅左手の竹やぶの入口に斃れていて白地の単衣が血で真っ赤に染まっていた。」という。
平手は無残な姿で倒れていたが、気は最後までしっかりしていた。とりあえず繁蔵の賭場に収容、介抱した。布団で寝ながら「みんな酒でも飲んでいてくれ」と気を使っていた。いよいよ絶命の時「繁蔵親分の前途を見ずに死ぬのが残念だ」が最後の言葉だった。
大利根無情の「止めてくださるな妙心殿、落ちぶれても平手は武士。男の散り際だけは知っております。どいて下され、行かねばならぬ。」のセリフのように無情の死であった。
笹川事件は、御用を務める二足草鞋の助五郎が繁蔵召捕御用書状を持って、殴り込みをかけたため、のちに飯岡周辺の村に対して、捕物費用が徴収され、飯岡助五郎に対する村民の評判は良くなかった。
旧飯岡村は上州高崎藩8万2千石の飛び地領の一部である。石高は17ケ村の合計で5,619石あり、現在の銚子市全体を占めている。治安管理は銚子陣屋の支配下にあった。銚子陣屋跡は太平洋戦争の空襲爆撃で消滅した。
一方、旧笹川村も伊勢の津藩の飛び領であり、諸家分知領内で実質無警察状態、治安は悪く、近隣の博徒は活動しやすい地域であった。
襲撃事件から3年後、弘化4年(1847年)、笹川繁蔵は飯岡助五郎手下の闇討ちにより斬殺される。その後、昭和7年(1932年)、銚子町で道路工事中、繁蔵の胴体遺骨が発見され、翌年に首塚が発見された。繁蔵の縁者がこの遺骨を引き取り、100年振りに故郷の笹川に戻った。
香取郡神崎町松崎の心光寺に平手造酒が身を寄せた名主が建てた墓がある。
墓石には、戒名「儀刀信忠居士」「天保15年甲辰8月16日」「平田三亀の墓」と彫られている。下記をクリック。
心光寺の平田三亀の墓
※ブログ内に下記記事もあります。よろしければ、閲覧ください。
悲劇の博徒・笹川繁蔵という人
悪者博徒の代表・飯岡助五郎という人
三波春夫「大利根無情」
写真は笹川(現・香取郡東庄町)の延命寺にある平手造酒の墓。平田の死骸はひとまず延命寺の墓地に仮埋葬され、翌年、江戸奉行の許可を受けて、そのまま本埋葬された。
平手造酒は、天保15年(1844年)8月6日、飯岡助五郎と笹川繁蔵との闘いに笹川繁蔵の助っ人として参加、闘死した。講談、浪曲「天保水滸伝」の名脇役である。この闘いは飯岡方50数名、笹川方20名あまりだったが、笹川方は準備周到で、飯岡側は死亡者4名を出したが、笹川側の死亡者は造酒ひとりだった。
(本 名) 平田深喜、または平田三亀
(生没年) 生年不詳~天保15年(1844年)8月7日
享年37歳前後
平手造酒は元仙台藩士あるいは紀州藩士とも言われる。流浪の末、下総国香取郡松崎(現・神崎町松崎)の名主・山口左衛門宅に身を寄せ、剣道道場を開いた。そこで博徒の親分笹川繁蔵と知り合い、笹川一家の用心棒となった。
平手造酒は、飯岡助五郎との縄張り争いの喧嘩、斬り合いの末、戦いの翌日に死亡した。即死ではなかった。今も出役による「死体見分書写し」が飯岡町歴史民俗館に残っている。その見分書による死体の状況は下記のとおりである。
1.天窓に長さ6寸程の十文字切り傷、長さ1寸程他に3ケ所。
2.右の肩、長さ2寸程、左の肩、3寸程。
3.腕に長さ2寸程の切り傷3ケ所。
4.左の脇腹から心中にかけて長さ8寸程、同膝に長さ3寸程の切り傷。
都合11ケ所あり、繁蔵宅前に倒れており、家に入れ、医者が手当も死亡との記載がある。
「実録天保水滸伝」著者・野口政司の伝えによると、野口氏の家の隣の岩瀬家が笹川繁蔵の子孫で、野口氏の祖母の話は「平手造酒は痩せ男で、顔色悪く、斬られたときは腸が飛び出ていた。繁蔵自宅左手の竹やぶの入口に斃れていて白地の単衣が血で真っ赤に染まっていた。」という。
平手は無残な姿で倒れていたが、気は最後までしっかりしていた。とりあえず繁蔵の賭場に収容、介抱した。布団で寝ながら「みんな酒でも飲んでいてくれ」と気を使っていた。いよいよ絶命の時「繁蔵親分の前途を見ずに死ぬのが残念だ」が最後の言葉だった。
大利根無情の「止めてくださるな妙心殿、落ちぶれても平手は武士。男の散り際だけは知っております。どいて下され、行かねばならぬ。」のセリフのように無情の死であった。
笹川事件は、御用を務める二足草鞋の助五郎が繁蔵召捕御用書状を持って、殴り込みをかけたため、のちに飯岡周辺の村に対して、捕物費用が徴収され、飯岡助五郎に対する村民の評判は良くなかった。
旧飯岡村は上州高崎藩8万2千石の飛び地領の一部である。石高は17ケ村の合計で5,619石あり、現在の銚子市全体を占めている。治安管理は銚子陣屋の支配下にあった。銚子陣屋跡は太平洋戦争の空襲爆撃で消滅した。
一方、旧笹川村も伊勢の津藩の飛び領であり、諸家分知領内で実質無警察状態、治安は悪く、近隣の博徒は活動しやすい地域であった。
襲撃事件から3年後、弘化4年(1847年)、笹川繁蔵は飯岡助五郎手下の闇討ちにより斬殺される。その後、昭和7年(1932年)、銚子町で道路工事中、繁蔵の胴体遺骨が発見され、翌年に首塚が発見された。繁蔵の縁者がこの遺骨を引き取り、100年振りに故郷の笹川に戻った。
香取郡神崎町松崎の心光寺に平手造酒が身を寄せた名主が建てた墓がある。
墓石には、戒名「儀刀信忠居士」「天保15年甲辰8月16日」「平田三亀の墓」と彫られている。下記をクリック。
心光寺の平田三亀の墓
※ブログ内に下記記事もあります。よろしければ、閲覧ください。
悲劇の博徒・笹川繁蔵という人
悪者博徒の代表・飯岡助五郎という人
三波春夫「大利根無情」
写真は笹川(現・香取郡東庄町)の延命寺にある平手造酒の墓。平田の死骸はひとまず延命寺の墓地に仮埋葬され、翌年、江戸奉行の許可を受けて、そのまま本埋葬された。