兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

女性から見た維新史「勤皇藝者」

2023年10月06日 | 歴史
勤皇藝者」小川煙村著・マキノ書店1996年2月復刻版発行

著者は明治10年(1877年)京都で生まれ、「やまと新聞」の記者を経て作家となった。原本は明治43年発行。本書はその復刻版、定価50銭とある。本書は「中西君尾」という京都の芸者から著者が聞き取った直話をもとに、脚色つけて執筆された小説、いわば女性からの維新史である。

主人公の君尾は、丹波国福井郡西田村の博徒の親分・友七の娘で、本名を君と言う。父・友七は博徒の喧嘩で殺され、君尾は母親ともに京都に移り住む。母子ともに地元では美人で有名だった。

君尾は文久元年(1862年)春、17歳で祇園新地の島村屋という置屋から芸鼓として売り出された。なお、芸者とは東京の呼称で、京都では芸鼓と称し、見習い修行中を舞妓と称する。

高杉晋作の取り持ちで井上馨の馴染みとなる。関白九条尚忠の腹心である島田左近の馴染となって隠密活動もする。島田左近はその後暗殺される。元治元年(1864年)池田屋事件から禁門の変の頃には品川弥二郎と馴染みとなり、鳥羽伏見の戦いで品川が作った「トコトンヤレ節」は君尾が節付けしたものとされる。

井上馨は伊藤博文と英国への密航を計画、大村益次郎と相談、御金蔵5千両を取り出して実行した。帰国後、長州藩は俗論派と正論派が対立。元治元年9月29日、井上は反対派に襲われた。傷は全身、40針以上縫う重傷で三日の間ピクピクと息をするばかりだった。逃げる途中、溝の中に落ち、腹を刺されたが、助かったのは密航出発の際、君尾が送った鏡が懐中にあったため。鏡が剣の切っ先をカチリと受け止めていた。

高杉晋作と祇園町の置屋井筒の芸鼓・小りか、桂小五郎と三本木の芸鼓・幾松、山県有朋と祇園町の舞妓・小菊・小美勇、久坂玄瑞と島原の芸鼓・辰路など、長州藩士馴染の芸者たちの名が挙げられている。久坂の馴染の芸鼓・辰路は本名を辰といい、姓は西村、京都島原の置屋桔梗屋に在籍した。辰路が久坂と知り合ったのは19歳頃と言う。

新選組の近藤勇も君尾の気っ風の良さと美しさに魅かれ、言い寄った。君尾は近藤勇の男らしさに魅かれるも、勤皇派芸者、佐幕派の近藤に勤皇派に転向すれば応諾すると答えた。近藤は「それは出来ぬ」と手を引いたという。

桂と幾松について、桂が「箱回しの源助」と偽って京に潜入活動中、新選組の近藤勇に問われたとき、君尾の機転で窮地を脱する逸話も紹介されている。「箱回し」とは首から箱をぶら下げて、箱の中の人形を操作し、三味線を弾きながら、路上で投げ銭を得て生計を得る大道芸人を言う。

幕末当時、京都諸藩の遊ぶ茶屋は決まっている。これを「お宿坊」と称する。長州藩は縄手大和橋北入東側の魚品、薩摩藩は末吉町の丸住、土佐藩は富永町の鶴屋、新選組は一力とそれぞれ決まっていた。

桂小五郎の幾松はすでに近江商人の旦那が付いていた。伊藤博文が置屋の女将を刀で脅かして桂との仲を認めさせたという。強引ではあるが、一応置屋の内諾を得ていたのである。

桂小五郎(木戸孝允)のように芸鼓を正妻にすることは、当時の武家社会では大変なこと。その後の写真を見ると、確かに美人である。それ以上に同志的な結合があったのだろう。

写真は松下村塾


写真は久坂玄端の墓


写真は萩にある高杉晋作の墓。
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流人となった日蓮宗僧侶日珠

2023年09月06日 | 歴史
江戸の流罪者は大島、八丈島、三宅島等の伊豆七島へ、京、大坂、西国の流罪者は長崎天草、五島、隠岐に流された。八丈島の流人帳「八丈島流人銘々伝」がすべて現存しており、それによれば流人の身分は多い順に、御家人381人、無宿人324人、町人315人、百姓281人、僧侶221人である。僧侶は百姓に次いで5番目に位置する。

それは江戸時代の罪状規定「御定書百箇条」で遠島罪状の定めの中に「女犯の僧で寺持ちの者」「三鳥派、不受不施派の布教に携わった僧、改宗を申し出ても許さず遠島」の規定のためによる。「御定書百箇条」の対象地は関八州と京、大坂、長崎、佐渡の遠国奉行支配地、天領の幕府直轄地である。

三鳥派、不受不施派の信仰に関わった者は遠島と定められている。どちらの派も日蓮宗の一派である。鎌倉時代に宗祖の日蓮が法難により佐渡に流された。江戸時代は三鳥派と不受不施派が幕府により禁教とされ、弾圧された。江戸時代、禁教とされた宗教はキリシタンと呼ばれるキリスト教だけではなかった。日蓮宗不受不施派は、磔刑17人、死刑8人、牢死91人、派祖の日奥をはじめ181人の僧侶が流刑となっている。

不受不施派がご禁制となった理由は次のとおりである。豊臣秀吉は方広寺の大仏が完成すると、豊臣家先祖の菩提を弔うため、毎月法要を営むとし、天台宗や真言宗以下八宗にそれぞれ百人の僧侶の出仕を求めた。これに対し、日蓮宗では大論争が起こった。日蓮宗は「法華を信じない者の施しは受けず、また報恩も与えない」という不受不施を伝統としていた。

激論を戦わせた結果、相手は最高権力者だから、ここは妥協して、出仕しようという結論に達した。しかし京都の妙覚寺の住職日奥はあくまで不受不施を主張し、日蓮宗は受布施派と不受不施派の二派に分裂した。不受不施派の寺院は一切、本堂前に賽銭箱を置かない。それは日蓮信徒以外の者から賽銭即ち布施を貰わないためである。

慶長4年(1599年)受布施派の訴えによって、家康は大坂城で受布施派と不受不施派の日奥を討論させ、日奥を「法華の大魔王」と決めつけて、対馬に流した。それでも不受不施派の抵抗は止まず、寛文5年(1665年)幕府の寺領地子供養の手形提出を拒否して国禁とされた。国禁となると、不受不施派は地下にもぐり、隠れの宗教組織によって信仰を守る。

その後、徹底した原理主義を唱える律寺派(講門派)と一部妥協を唱ええる日指派に分かれる。日指派は岡山県御津町に本山の妙覚寺、講門派は同じく岡山県に本覚寺を本山として信仰の灯を守り続けた。明治9年(1876年)やっと明治に入り不受不施派のご禁制は解かれた。

不受布施講門派三十三世法灯に日珠という僧侶がいた。法灯とは同派の最高位の僧で、日珠は31歳のとき、寛政5年(1793年)「諫曉した行為」を咎められ、国禁の布教の罪で三宅島に遠島となった。不受不施派は「諫曉(かんぎょう)」を究極の目的とした。諫曉とは国王を改宗させるべく諫状を提出することであり、それは宗祖日蓮を見習うものである。

もちろん「諫曉」しても幕府がご禁制の不受不施派に改宗するものでもなく、不受不施派の健在を誇示し、信徒を励ます狙いがあった。日珠は、寺社奉行脇坂淡路守に対し「天下を守る法はひとり法華のみ!」と叫び、更に奉行所前で「日蓮宗不受不施沙門 本妙院日珠」と大書したのぼりを掲げて、諫曉を実行した。

三宅島に上陸した日珠を迎えたのは、御蔵島の船主弥兵衛と船頭の市右エ門が待ち受けており、彼らは島役所の許しを得て、日珠のための借家、食料さらに看護人まで雇い入れていた。これは御蔵島の日蓮宗流僧日縁の指図であった。日珠は三宅島の伊ケ谷村に住み、布教を開始する。

三宅島は水の便が悪かったので、日珠は島民の心をつかむためまず井戸を掘る。役人たちへの振舞いも欠かさず、文盲の島民には文字を教え、医者の子である日珠は病人が出るとすすんで看護した。本土からは色々な薬や医書の送付を依頼し、島民の面倒を見た。

島民は日珠を生き仏と敬い、たちまち30人以上の信者が生まれた。信者には島役人も多く、島内で説教・布教も自由に行うことができた。島民からは「お島さま」と呼ばれ、深く尊敬された。日珠は在島25年の文政元年(1818年)正月21日、56歳で生涯を終えた。

日珠は、島では水汲み女も雇い入れ、何の不自由もない生活を過ごし、三宅島では最も幸せな流人と言っても良いだろう。日珠の墓は伊ケ谷の常勝庵の境内にある。このような攻撃的な日蓮宗不受不施派の修義に田中智學も影響を受けたのだろうか?


下記、ブログ内に関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
新門辰五郎の弟分博徒・小金井小次郎

島抜け物語


写真は三宅島に流され死亡した日蓮宗不受不施派の僧侶の墓である。

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酒で死んだ清水一家博徒・大政

2023年07月06日 | 歴史
次郎長の一の子分は大政である。次郎長の軍師であり、槍の腕前は相当のもの、やくざには惜しい男である。本名は原田熊蔵、のちに政五郎と改名した。常滑の回漕問屋の長男で、学もあり、次郎長の手紙などの代筆をした。身長は6尺2寸(186cm)、体重は30貫(112キロ)堂々たる体格である。

若い頃、町道場で槍を修行した。一方、相撲好きで相撲取りの仲間に入り、そこで博奕を覚えて、嘉永2年(1849年)18歳で次郎長の子分となった。人柄も良く、腕も立つので、子分たちから「政兄い」と慕われた。次郎長の喧嘩には、大政がリーダーとして指揮、先頭で戦い、次郎長が前面に出ることは無かった。明治7年、次郎長が富士山麗開墾のため、清水を留守にすると、次郎長一家を束ねた。

(博徒名) 清水の大政   (本名) 原田熊蔵(後に政五郎と改名する)
(生歿年) 天保2年(1831年)~明治14年(1881年)2月15日 病死  享年50歳

子供の無い次郎長の最初の養子は小政である。小政が獄死すると、大政が正式に次郎長の養子となり、山本政五郎となった。明治になって、清水港に落ち着いてから「おたね」という女房を貰い、世帯を持った。おたねはしっかり者で、のんびり屋の大政を助け、豊かでない家計を切り盛りした。あまりにがっちりしているので、「清水のしわん坊」と呼ばれた。男1人と女2人の子供を生み、長男の小三郎はその後、小沢惣太郎として清水一家の2代目を継いだ。

大政は大酒飲みだった。次郎長から体のために控えるよう言われていたが、止められない。次郎長は巴川畔の大政の住居を訪れるとき、気を遣って、まず裏口で「政や、政や、居るかい、俺だ、俺だ」と呼んでから、ゆっくり玄関に回る。その間に吞んでいた徳利、盃を片付け、「へい、親分、政は居りやすよ」と出迎えた。

大政は明治14年2月15日、男盛りで病死した。病死したとき、次郎長は「俺の死に水を取ってもらいたかった!」と嘆いたと言う。葬儀は盛大で、全国の親分衆、代理が集まった。武州の高萩万次郎、島帰りで高齢の津向文吉も参列した。次郎長、万次郎、文吉は、逆送りになると、墓地に行かず、2階から見送った。

ブログ内に下記の関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
義理と人情に生きた博徒・吉良仁吉

遠州はんか打ち渡世人・小松村の七五郎

写真は静岡市清水区の梅蔭禅寺にある大政の墓。後の左に見えるのが石松の墓。

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三州平井一家初代・小中山の七五三蔵

2023年06月05日 | 歴史
名古屋控訴院管内における「賭博に関する調査」によると、
「平井一家は、吉良一家とともに三河では古い一家である。幕末頃、小中山(現・愛知県田原市小中山町)の七五三蔵なる者が博徒の親分となって、威勢をふるった。その子分に、雲風こと平井亀吉なる者があった。大胆で、よく衆を率いて勢力があり、配下も多かった。

文久から慶応の頃、七五三蔵の跡目を継ぎ、二代目の親分になり、平井一家と称した。亀吉の跡は、実弟の原田常吉が継ぎ、その跡を常吉の実弟・原田善六の実子・清水善吉が継いだ。善吉の跡は、高安伊作が傍系から入って継ぎ、その跡を七五三蔵の実子・小川浅蔵が継いでいる」と記載されている。

黒駒勝蔵とその子分は、信州で悪事を働き、文久2年冬、信州の岡田滝蔵という捕り方に追われて、遠州へ逃げ込んだ。追いかけて来た滝蔵は、中泉代官所に応援を頼んだ。代官所は、見附宿の顔役博徒・大和田友蔵に、勝蔵捕縛を命じた。友蔵は、温厚な博徒で、已む得ず引き受けたが、積極的な行動には出なかった。代官所は、再び友蔵を呼び出し、「必ず、勝蔵を捕らえよ」と厳命した。

それを知った勝蔵は「大和田一家を皆殺しにしてやる」と100名近い仲間を集め、天竜川の西岸に集結した。友蔵も対抗上、清水次郎長に応援を頼んだ。次郎長が身内を連れて、友蔵の応援に駆け付けると、勝蔵はとたんに姿をくらました。勝蔵は、兄弟分の三州平井の雲風の亀吉のところに潜んでいた。

次郎長は、代官所の命による勝蔵逮捕を買って出る。清水から連れて来た身内24人を連れて、平井に押し掛けた。この時、次郎長は、雲風の亀吉の親分である小中山七五三蔵のところへ行き、仁義をきった。「雲風の亀吉が、兇状持ちの黒駒勝蔵を匿っている。わしらは中泉代官所の命令で、勝蔵を召捕るのだが、亀吉の出方によっては、一戦交えるかもしれないから・・」と念を押して、寺津の間之助のところへ行った。

小中山の七五三蔵は、清水一家とイザコザを起こしたくなかったので、御油の玉一に、次郎長と亀吉との和解仲立ちを依頼した。玉一は寺津へ駆けつけ、和解の取り持ちをしようとした。しかし玉一の口利き程度で収まる紛争ではなかった。

文久3年6月5日、次郎長一家は、吉良の仁吉、形原の斧八ら10名が加わり35名余りで、雲風の亀吉、黒駒勝蔵らのいる家に斬り込んだ。これが世に言う「平井一家襲撃事件」である。亀吉・勝蔵側は5人が即死した。斬り合いの間に、亀吉は、勝蔵は裏から逃がした。このとき、亀吉は、近所の農家に行き、蓑傘をつけた泥だらけの百姓姿に変装して、近所の百姓連中に交じって、悠々と斬り合いを眺めていたと言う。大した度胸の男である。

その後、次郎長と亀吉は長く仲たがいをしていたが、明治6年、山岡鉄舟の肝いりで、浜松の茶屋旅館「花屋」で仲直りしたと伝わっている。亀吉は次郎長と同じ年の明治26年3月24日に死去した。次郎長より九つ年下、行年65歳だった。

昭和12年頃、関東国粋会副幹事長・生井一家の鈴木栄太郎の話が伝わっている。鈴木栄太郎が17歳で、岡田政という親分のところに居たとき、三河から来た旅人から聞いた話。清水の次郎長は大した名前だが、それより雲風の亀吉の方が貫禄があった。手打ち式のとき、雲風は床柱を背に座り、そこへ、次郎長が三つ指をつき、「お久しうござんした」と挨拶をしたと言う。

当時、次郎長の評判は大したもので、これを聞いた新聞社の連中が、雲風の所へ行って、次郎長のことを聞いたりした。そこで貫禄の違いを持ち出すと、雲風は「せっかくの次郎長を台無しにするから、そんな話は黙っていろ」と言った。だが次郎長より九つ年下の雲風に、そんな貫禄の違いがあったとは思われない。三河人のお国自慢から作り出された話ではないだろうか?

七五三蔵は、本名は「小川松三郎」、戸籍簿に本籍地「愛知県渥美郡福江町大字畠字原ノ嶋20番地」、明治32年(1899年)10月3日死去した。法名「法光院鉄肝明光居士」行年81歳。次郎長より一つ年上である。墓は豊橋市龍粘寺にあると言われる。しかし墓を探したが、見つからなかった。

七五三蔵の妻は「ハマ」といい、明治34年6月28日死去した。法名「柳因玉翠信女」、行年は不明である。七五三蔵の実子・小川浅蔵は、昭和23年1月27日に死去、岡崎市丸山町の長徳寺に墓がある。法名「妙光院鉄心日朝居士」である。

ブログ内の下記関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
三河博徒・雲風の亀吉

清水一家の平井亀吉・黒駒勝蔵襲撃事件

次郎長と連携した遠州博徒・大和田の友蔵

写真は小中山の七五三蔵の子分で、二代目平井一家の雲風の亀吉こと平井亀吉の墓。明治26年(1893年)3月24日歿、行年65歳、法名「要義院大乗法雲居士」豊川市御津町の共同墓地にある。側面に「士族・平井亀吉」と刻まれている。博徒から武士になった誇りだろう。


写真は平井亀吉の妻の墓。亀吉の墓に並んで建っている。

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和田島の太左衛門と津向の文吉の喧嘩

2023年05月01日 | 歴史
弘化2年、和田島の太左衛門と津向文吉が興津川での喧嘩に清水次郎長が駆けつけ、仲裁して男を上げた話は有名だ。和田島太左衛門は次郎長の叔父となっているが、血のつながりはない。太左衛門は江尻宿の博徒、評判の良い親分だった。駆け出し頃、次郎長は太左衛門に子分にして欲しいと頼んだ。「渡世人なんかになるものではない」と断られている。

講談では興津川騒動を仲裁した次郎長の器量を評価する。しかし当時の次郎長の貫禄で仲裁が付く話ではない。だが次郎長が2,3回川原を行き来しただけで、急転直下、収まった。理由は、津向の文吉の弟分で、通称「三馬政」という男が居た。太左衛門の所に転がり込んできたが、この男、すこぶる身性が悪かった。

太左衛門も目に余ったので、注意した。それを根に持ち、逆恨み、和田島一家と津向一家に紛争を起こさせようと企む。双方にデタラメを言って、けしかけた。それで興津川の対陣となった。

次郎長の仲裁で原因が分かり、誤解とわかれば、面倒はない。二人はその場で和解。「三馬政に振り回されて、世間の笑いものになるところだった。お前さんのおかげで、恥をかかずにすんだよ」と次郎長に礼を言って、甲州へ引き上げた。この一件にオヒレがつき、噂となり、次郎長の名が高まった。次郎長として上手に男を上げた形である。

太左衛門は、江尻宿から三里ほど北の和田島村の名主・上田家の三男として生まれた。いわゆる「旦那親分」である。本名を竹次郎といい、生まれが生まれだけあって、おっとりした人柄、悪い話は伝わっていない。

竹次郎には二人の兄と一人の弟がいた。長兄は家を継いで名主を務め、次兄は仏門に入って、生家から一つ山向こうにある宝樹寺の住職となり、「宝樹寺三世中興」といわれた信庵禅師である。弟は江尻の伝馬町に住んでいた田中屋の勇吉と言われた。

一方、津向の文吉は当時、35歳の男盛り、すでに甲州では名の知られた親分である。文吉は、読み書きソロバンが達者、絵心もあり、医術の心得もあった。腕っぷしにモノを言わせるタイプでなく、利巧に立ち回って男を売るタイプである。

縄張りの鴨狩津向は富士川沿いの寒村、盆で稼げる土地でもなく、博奕となるとガメツかったらしい。「津向の文吉 火事より怖い 火事は 裸で飛んで来ぬ」と地元で歌われた。文吉は、喧嘩のとき、裸で出かけて行ったためである。

文吉は、和田島の太左衛門と悶着があった4年後、嘉永2年4月、八丈島に遠島となった。理由は「博奕筒取り、貸元をした者」の罪である。それから2年後、嘉永4年4月、通称「吃安」こと竹居の安五郎が新島に遠島となった。

八丈島での生活は20年に及んだ。御一新でご赦免になって帰ると、妻はすでに死亡、倅の栄吉は行方不明、家も取り壊されていた。悄然とした文吉はかつての知り合いの清水次郎長を訪ねた。次郎長は、文吉の訪問がよほど嬉しかったのだろう。大事な賓客として処遇、行方知れずの文吉の長男・栄吉までも探し出し、世話をした。ここから次郎長との長い付き合いが始まった。

明治4年、清水次郎長と穴太徳(安濃徳)との手打ち式が浜松の五社神社で行われた。荒神山騒動の正式決着である。手打ちの仲介を取ったのは、津向文吉と藤枝の長楽寺清兵衛である。

(博徒名)和田島の太左衛門   (本名)山田竹治郎
(生没年)生年不詳~明治元年(1868年)8月5日 病死 享年不詳

(博徒名)四ツ目の房五郎    (本名)山田房五郎
(生没年)弘化2年(1845年)~明治35年(1902年)9月29日 病死 享年58歳

和田島の太左衛門は、明治元年8月5日、江尻宿紺屋町(現・静岡市清水区江尻)で病死した。墓は法雲寺にある。法雲寺の過去帳には、「博道慈愛居士・明治元年8月5日歿、町内・竹治郎」とある。法雲寺には、清水次郎長の子分の山田房五郎の墓もある。

山田房五郎は、弘化2年7月、江尻宿の旅籠「四ツ目屋」を経営する山田惣左衛門の子として生まれた。惣左衛門は和田島太左衛門の女房の実家である。

太左衛門は、女房の実家、江尻宿の旅籠・四ツ目屋に婿入りし、「四ツ目屋伝左衛門」を襲名していたといわれる。「伝左衛門」は四ツ目屋の通称である。太左衛門との関係で、次郎長は房五郎を可愛がり、子分にしたと思われる。山田房五郎は「四ツ目の房五郎」と名乗った。

文久3年5月、黒駒勝蔵の子分が遠州の大和田の友蔵を襲撃、敗退した事件が起きた。これを聞いた勝蔵は、80余名の子分を集め、天竜川西岸に集結させ、友蔵にケンカ状を叩きつけた。友蔵は次郎長に応援を頼み、次郎長一家も子分を集め、天竜川東岸に集結した。この部隊に房次郎の名が載っている。

その後、荒神山騒動の決着、吉良の仁吉の敵討ちのために、清水一家が穴太徳と対決、伊勢古市に集結した部隊にも、房五郎の名があった。山田房次郎は、明治35年9月29日、58歳で病死した。

ブログ内に下記の関連記事があります。よろしければ閲覧ください・
次郎長の兄貴分博徒・津向文吉

次郎長と連携した遠州博徒・大和田の友蔵

写真は静岡市清水区の法雲寺にある和田島の太左衛門の墓。墓の正面に「博道慈愛居士・蓮台妙華大姉」と法名が刻まれている。向かって左側面には「文久三亥年6月初4日、町内・俗名 さと」とある。


写真は山田房五郎の墓。正面に「侠客房五郎」とある。戒名は「勇山道義居士」墓石の土台に「山田」とある。

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喧嘩ぎらいの博徒・長楽寺の清兵衛

2023年04月14日 | 歴史
上州で喧嘩嫌いの親分は大前田英五郎、東海道筋では藤枝の長楽寺の清兵衛が有名だ。静岡県藤枝市本町に長楽寺という臨済宗古刹がある。清兵衛は、この寺の門前に住む藤八の次男として生まれ、すぐ近くの菊次郎という人の養子となった。寺の門前に住んでいたので「長楽寺」と呼ばれた。

清兵衛は、骨格たくましく、腕っぷしも強かった。田中藩4万石の御用を勤め、藩主(本多紀伊守正納)のお供をして甲府に行ったとき、偽勅使を見破って召捕った話、晩年に凶悪犯人を捕まえて、警察に感謝状を貰った話が残っている。喧嘩嫌い、穏やかな人柄、旅人の世話も良いことで名が通っていた。さらに白粉彫りで、背中に小野の小町、胸から腰、両手足に桜の花をちりばめた彫り物の見事さでも有名である。

(博徒名)長楽寺の清兵衛   (本名)杉本清兵衛
(生歿年)文政10年(1827年)2月29日~大正10年(1921年)8月12日 病死 享年95歳

(博徒名)大藪の平五郎    (本名)佐野平五郎
(生歿年)文政12年(1829年)~明治41年(1908年)4月5日 病死 享年79歳

長楽寺の清兵衛を有名にしたのは、浜松の五社神社で行われた荒神山の喧嘩の手打ち式で、甲州津向の文吉と二人で仲介人をしたことである。清兵衛は次郎長より七つ年下だったが、それほど渡世人としての貫禄があった。

清兵衛の長い生涯で渡世人として喧嘩をしたのは、たった1回かぎり。相手は、隣村の郡村(現・藤枝市郡町)の大藪の平五郎という親分であった。平五郎は、清兵衛より三つ年下、清兵衛とは四分六の兄弟分。性格は短気で粗暴だった。だから、五社神社の手打ち式のときも、この男には声をかけずにコトを運んだ。

平五郎は、この扱いを根に持ち、兄貴分の清兵衛に恨みを持った。それがこじれて、平五郎は清兵衛に果たし状を突き付けた。清兵衛もいきり立って、身内を招集した。明治14年10月24日の夕方、双方とも約70名の人数を近くの青池に繰り出した。この喧嘩で平五郎の息子・佐野銀次郎が殺害された。

殺害された銀次郎は、堅気の青年で、郡役所に勤めていた。このとき26歳、父親の身を案じて、木刀をたずさえて駆けつけた。父親の平五郎に「ここは、堅気の来るところではない!」と一喝され、余儀なく家に戻る途中、長楽寺方の一隊と出くわし、血祭りにあげられてしまった。

翌日、長楽寺一家から三州の忠次郎が銀次郎殺しの下手人として警察へ自首してきた。仲間の横内の角蔵と浪人の金山敬助は草鞋をはいたが、捕らえれれて、懲役2年に処せられた。平五郎も静岡に逃げ、博徒仲間のもとに隠れていたが、次郎長の仲裁で清兵衛と和解、家に戻って来た。

大藪の平五郎こと佐野平五郎は、明治41年(1908年)4月5日死亡した。藤枝市本町の慶全寺に葬られている。法名「泰岳良平居士」。行年79歳。慶全寺には、平五郎が建てた息子・佐野銀次郎の墓がある。銀次郎の妻は名を「サト」と言った。あまり身持ちは良く無く、銀次郎の死後、平五郎の妾になって、二人の子を産んでいる。平五郎の死後、子分の妾になったという。

一方、清兵衛は、大正10年8月12日、95歳で大往生した。法名は「大量正眼居士」。藤枝市洞雲寺に墓がある。清兵衛の墓は、杉本家墓として建立され、昔の墓は隣に積み上げられている。隣に説明の石碑が建っている。

ブログ内に下記関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
吉良仁吉が命を懸けて加勢した博徒・神戸の長吉

次郎長の兄貴分博徒・津向文吉

写真は藤枝市洞雲寺にある長楽寺の清兵衛の墓で、杉本家の墓。石碑の後に昔の墓石が積まれている。


写真は藤枝市慶全寺にある大藪の平五郎が建てた佐野銀次郎の墓。左側面には事件の経過が刻まれて、墓石の土台には子分らしき名前が刻まれている。

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祭りの名脇役・テキヤとはどういう人か?

2023年04月04日 | 歴史
映画「男はつらいよ」のフーテンの寅さんはテキヤである。「一本の稼業人」のテキヤと呼ばれる。親分を持たない旅人(タビニン)を意味する。軒下三寸借り受け増して・・」の仁義。同業者への付き合いの挨拶である。寅さんは、祭りの一角で「コロビ」(地面にゴザを敷き、商品を並べる)商売の啖呵売りのテキヤである。テキヤの実態を描いたユニークな本がある。

「テキヤの掟・祭りを担った文化、組織、慣習」廣末登著・角川新書2023年1月発行
著者は1970年生まれ、現・龍谷大学犯罪学研究センター嘱託研究員、犯罪社会学専門の社会学者。「ヤクザと介護」「裏社会メルトダウン」等多くの著書がある。

テキヤとは祭り、縁日に露店や興行を営む業者を言う。当たれば儲かるとの意味で「的屋」「香具師」とも呼ばれる。2010年暴力団排除条例の施行でテキヤも反社組織と見なされ、更に2020年コロナ禍で人の集まりが消滅した。本書は、薄利の商品を祭りで売る、縁日を支える人たちがどのように商売し、どう生活しているのか?「テキヤ社会」の現場報告である。

本書は二人の「テキヤ」に焦点を当て、二人の回想でテキヤ社会の実相に迫る。ひとりは関東神農連合会の幹部・世話人を務め、30年間夫婦一緒でテキヤ稼業を続けた。しかし暴力団排除条例から、2017年テキヤを脱退、副業の建設業に専念しようとした途端、2021年建設業許可を取り消された。その理由は条例の「元暴5年ルール」である。反社組織脱退後5年経過しない者は銀行口座作成、各種契約ができない規定である。

テキヤ系暴力団もある。戦後、池袋のブラックマーケーットを仕切っていたテキヤ集団・極東会関口愛治、桜井一家関口一門である。
著者は言う。暴力団は博徒、テキヤは商売人、全く「稼業」が違う。にも拘らず、反社勢力と一括りされる。この世間の理不尽さは是認できないと。昭和初期、百貨店の横暴に抗議して、日本橋三越本店で一人のテキヤが割腹自殺した。四谷新花会所属露天商・中村宗郎である。

テキヤは中国古代の神「神農黄帝」を祭神とする神農界社会。ヤクザは「天照大神」を祭神とする任侠界社会である。テキヤは200円、300円の商品を販売する商売人である。一方、ヤクザは裏社会のサービス業である。前記の元世話人は「三寸」(露店の売台をいう)を並べて露店商売をした妻を失った。希望を失った彼は早く妻の所に行きたいと嘆く。

もう一人は、深川本所の江東地区テキヤの帳元(親分)の娘である。父親は人形作りをしながら、テキヤ稼業を営む。彼女は父親から、23歳で跡を継いだ。そして63歳で引退する。彼女は、テキヤとはご縁による商売、一期一会の出会いであると言う。縁日という人間交差点の風景を回想する。

テキヤは祭りの名脇役であり、神社仏閣を支えてきた商売人である。いま日本文化の一角を担ってきたテキヤが消滅しようとしている。テキヤの課題は色々ある。一つはテキヤのなり手がいない。若者の人材不足である。もう一つは、テキヤ商売する場所が少ないこと。寺院規制、警察の道路規制など。最後はテキヤ商売のグレー的色彩を取り除き、ホワイト化することだろう。巻末にテキヤの隠語集も掲載されている。ユニークなテキヤ論である。

ある人が山田洋次監督に聞いた。「寅さんの結末はどうなりますか?」監督はしばらく考えて答えた。「寅さんは年を取ると、帝釈天の寺男になる。ある日、帝釈天の境内で子供たちとかくれんぼをする。寅さんがみつからないので、子供たちがみんなで探す。すると寅さんが本堂の縁の下で眠るように死んでいるのを見つけた」こんなシーンかなと。寅さんらしい。



                    寅さんの啖呵売口上である。

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小政の女房「おかと」と大庭の平太郎

2023年03月21日 | 歴史
清水一家の小政の女房であった「おかと」は「お加登」とも書く。小政と同じ浜松の出身である。弘化4年(1847年)生まれ、掛川に移ってから、小政と知り合った。所帯を持ったのは、おかとが18歳の頃と言われる。鉄火肌の女性で、芸事が達者、読み書きもしっかりでき、その上、掛け値なしの美人である。

当時の女性で、町家住まいの者は、生活に困らぬ限り、女の身だしなみとして芸事を仕込まれた。三味線を弾き、小唄も歌い、家に人が集まったとき、披露して座を取り持った。おかともそういった女性だった。しかし小政と一緒になったばかりに苦労を重ね、小政が手配を受けて留守中は、浜松に戻り、芸事で生活を立てたという。

おかと     生歿年 弘化4年(1847年)~大正10年(1921年21年)8月24日 享年75歳 病死
大庭の平太郎  生歿年 嘉永元年(1848年)~明治45年(1912年)4月23日 享年65歳 病死
清水の小政   生歿年 天保13年(1842年)~明治7年(1874年)5月29日 享年32歳 浜松監獄で獄死

小政が浜松の監獄に捕らえられている間に、おかとは大庭の平太郎という博徒に一目ぼれされた。見附の大和田友蔵は地元では名の知られた親分だった。その子分に中泉の五郎という博徒が居た。中泉村は見附宿(現・静岡県磐田市)の隣村で、中泉代官所があり、中泉の五郎も、大和田友蔵と同様に代官所の道案内人を務める博徒である。この中泉の五郎の子分が大庭の平太郎である。

大庭の平太郎は嘉永元年(1848年)生まれ、船大工あがりで大柄の、温厚な人物で、おかとに対する思いは真剣だった。おかとは天下の小政の女房、平太郎は博徒としての格が違っていた。その小政が獄中で死亡した。その後、平太郎はおかとと夫婦になった。平太郎は28歳、おかとは29歳、一つ年上の姉さん女房だった。

大庭の平太郎は、中泉の五郎の跡目を継ぎ、一本立ちの親分となった。その後、中泉の太郎と呼ばれた大和田友蔵の跡目を継いだ。平太郎を立派な親分にしたのは、おかとが男まさりの女房で、しっかり者だったためと言われる。

平太郎は子分のしつけの厳しさで有名な親分である。平太郎に由という子分がいた。由が博奕で勝ち、女郎買いに行った。平太郎は博奕で生きる人間が勝った金で女郎買いとはその根性が許せないと、子分を裸にし、天井から吊して折檻をしたと言う。それから子分は褌を見るたびに折檻を思い出し、身震いしたという。

平太郎は、甲州の吃安の二代目・中村宗太郎とは気心が知れ合った仲だった。宗太郎は吃安の実姉の孫で、吃安一家が途絶えたのち、周囲から勧めで、跡目を継いだ。平太郎とおかとは甲州の中村宗太郎の所に寄ったとき、宗太郎の子分が、平太郎を博奕に誘った。平太郎は素っ裸になるまで負けた。親分という者は、他人の賭場では決して勝つものではない。親分の礼儀、仁義である。

この時、おかとは生理が始まっており、紙を買う金もなく、平太郎の下帯を裂いて使ったと言う。平太郎が甲州を去ってから、宗太郎がこのことを知って、誘った子分たちを呼びつけ、叱り飛ばし、一家から追い出した。遠州中泉に帰った平太郎は、この話を聞いて、その子分たちを引き取り、2年ほど手元に置いて、改めて甲州に連れて行き、謝ってやり、宗太郎の元の子分に戻させたと言う。

明治になっての話である。遠州に「日坂の権太郎」という渡世人がいた。権太郎は大庭の平太郎の弟分だったが、平太郎の賭場で多額のホシ(博奕の借金)を作った。「博奕の借金返済は速やかに、きれいに」が博徒の不文律。しかしどうしても金の工面ができない。すぐさま家屋敷を売って返済した。権太郎は百姓家の納屋に引っ越した。

大庭平太郎はこれを聞いて驚いた。「あの男のことだから、いったん出した金は持って行っても受け取らない」と思い、その家屋敷を買い戻し、「日坂の、俺の顔を立てて、何も言わずに、元の家に帰ってくれ」と頼んだ。権太郎は、「ご厚意は涙が出るほど有り難いが、これに甘ったれては、家を売った、俺の気持ちが無駄になる」と平太郎の申出を断った。地元博徒仲間で今でも語り草になっている。

平太郎は、明治18年頃、中泉で「迎陽館」という大きな旅館を経営し、当時の桂内閣の仲小路廉農商務大臣に近づき、親密な関係となった。皇室の小松宮彰仁親王にも気に入れられ、三島の別荘に呼ばれ、別荘の庭石を天竜川から運ばせている。死ぬ少し前、中泉と天竜との間の鉄道工事を請け負った。しかし見込み違いで巨額な借金を背負い、裸同然となった。

赤字の穴埋めで心労がたたったのか、明治45年(1912年)4月23日、行年65歳で病死した。平太郎の葬儀は、跡目相続も絡み、一家内で揉め事が発生し、葬儀が三日も延びたという。女房のおかとは、このゴタゴタで、人間の醜さを見せつけられ、嫌気がさし、静岡へ移った。静岡では近所の娘たちに芸事を教えながら、静かな余生を送った。大正10年(1921年)8月24日、75歳でおかとは亡くなった。

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次郎長一家 小政の獄死

次郎長と連携した遠州博徒・大和田の友蔵

写真は磐田市中泉寺の大庭平太郎の墓。正面に法名「瑞龍院東海頷珠居士」左側に「明治45年4月23日歿・俗名大庭平太郎行年65歳」とある。




写真は浜松の大聖寺にある小政の墓。


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次郎長一家の重鎮・増川の仙右衛門

2023年03月02日 | 歴史
富士山のふもとの増川村(現・富士市)に佐太郎(佐治郎とも言う)という親分が居た。子分は少ないが、この地方では親分で通っている。アコギなこともせず、60歳を超すまで生き延びていた。ある時、佐太郎の子分が隣村の遊び人と博奕をして、借りを作った。博奕の貸し借りはこの世界では厳しい。

隣村の遊び人の力蔵は、下田の安太郎一家の用心棒をしていた流れ者浪人の竹次郎を交えて、佐太郎の子分に催促したが、佐太郎の子分は払わない。そこでいっそのこと殺してしまえと、押しかけたが本人は居ない。ならば、親分の佐太郎をやっつけろと、佐太郎が近くの妙蓮寺に居るところを急襲して、佐太郎を殺害した。文久2年6月13日のことである。

(博徒名) 増川仙右衛門   (本名) 宮下仙右衛門
(生歿年) 天保7年(1836年)~明治25年(1892年)8月6日 病死 享年56歳

佐太郎には仙右衛門という息子が居た。渡世の修行に下田の安太郎のもとに出されて、その時26歳、安太郎の身内の者を女房に貰っていた。安太郎は伊豆の赤鬼の金平の身内である。金平は黒駒勝蔵と組んで次郎長と敵対している。

仙右衛門は父の悲報を知ると、安太郎身内の女房を離縁し、父の仇を討とうと清水次郎長を頼った。その時、次郎長は43歳、直ちに承諾した。次郎長の子分にしてくれと言う仙右衛門に敵討ちが先だと答えた。その足で増川村の力蔵を探した。力蔵は御殿場と裾野の中間にある村、神山の芝居小屋に居ることがわかった。村はずれ待ち伏せし、仙右衛門は一刀で力蔵を切り倒した。次郎長は助太刀しようと木の陰で様子を見ていたが、その必要は無かった。

仙右衛門は15歳の時から伊豆に修行に出されて、韮山代官所下役の松下又右衛門の道場に通い、やくざながら相当な腕前だった。力蔵を斬った仙右衛門は清水に戻り、次郎長の盃を貰い、子分となった。もう一人の相手、竹次郎は行方をくらましたが、次郎長が人の手を使って探すと、遠州小松村の祭りに来ていると知らせが入った。

仙右衛門は、父・佐太郎の子分の辻勝と二人で小松村に駆け付けた。竹次郎は観音堂の盆芝居の見物をしていた。二人は後たすき掛けで襲った。竹次郎は観音堂の階段に置いてあったドスを取ろうと駆け上がったところを、仙右衛門に下から槍で突きあげられ、殺害された。

丁度この時、一緒に来ていた竹次郎の女房・お鶴が駆けつけて来た。殺された竹次郎を眺めたあと、「うちの人のドスがその辺にありませんか」と探し回ったという。この女房は遊女あがりで妾奉公しているうちに、竹次郎と駈け落ち、同棲していたという。かなりの男勝り、気の強い女だった。

仙右衛門は次郎長生家近くの波止場のまえの家に住み、大政亡き後は次郎長一家の束ねをした。賭博犯狩りのときは次郎長と一緒に静岡の井宮監獄に入った。出るときも一緒である。仙右衛門は、明治25年8月6日、死亡した。56歳であった。次郎長の死ぬ前年である。

墓は梅蔭寺にもあるが、後に清水の妙慶寺にある宮下家の墓にも合祀されている。宮下家の没年は明治15年となっている。明治25年の間違いだろう。

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次郎長と連携した遠州博徒・大和田の友蔵

次郎長の秘書役・律儀な博徒・当目の岩吉

写真は静岡市清水区の梅蔭禅寺にある増川仙右衛門の墓である。

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次郎長と連携した遠州博徒・大和田の友蔵

2023年02月16日 | 歴史
遠州見附宿の博徒・大和田の友蔵を知っている人は少ない。幕末の遠州で日坂の栄次郎、都田吉兵衛、堀越藤左ヱ門と並ぶ博徒である。温和な性格で、喧嘩はあまり得意ではなかった。遠江国大和田(現・磐田市大原)の百姓・庄兵衛の次男に生まれた。相撲取りのような体格で、米二俵をぶら下げて歩くほど力持ちだった。遠州博徒・山梨の巳之助の所に出入りし、徐々に勢力を広げた。

石松を都田吉兵衛が謀殺したことによる次郎長一家と都田一家の対立は、次郎長の吉兵衛殺害の「駕籠屋(かごや)事件」を発生させた。この事件は吉兵衛の兄貴分である伊豆本郷の金平と次郎長との抗争へと発展。赤鬼の金平と兄弟分の丹波屋伝兵衛は、抗争拡大を心配して、仲裁に入る。伝兵衛は妻の弟である増川仙右エ門を次郎長へ手打ちの使者として送り込んだ。

仙右エ門は、手打ちの場所は菊川宿、斡旋人は丹波屋伝兵衛、金平側仲人・日坂の栄次郎を挙げ、次郎長側仲人の意向を次郎長に尋ねた。このとき、次郎長が名前を挙げたのが大和田の友蔵である。当時、次郎長は友蔵と親しい関係ではなかったが、友蔵は親黒駒派ではなく、無色透明の立場が幸いした。この時から友蔵と次郎長の兄弟分の付き合いが始まった。

菊川宿の手打ち式は、金平側から黒駒の勝蔵、箱根の二郎、下田の栄太郎、都田常吉が出席、次郎長側は寺津の間之助、大政以下の子分が出席、総勢400人の博徒が集合した。殺された吉兵衛の実弟の常吉は本心から手打ちに納得せず、手打ちは形式的で、その後も両者の抗争は継続した。

これ以降、文久元年頃より、遠州の博徒は二つに分かれ、清水次郎長派と黒駒勝蔵派に分断された。次郎長派は、大和田友蔵、気子島の新吉、四角山の後継の南新屋の常吉である。一方、黒駒勝蔵派は、堀越藤左ヱ門、国領屋亀吉、日坂の栄次郎らである。

文久2年6月13日、富士山のふもと増川(現・富士市)で、増川仙右エ門の父・佐太郎(佐治郎ともいう)が比奈の民蔵、力蔵一味に殺される事件が起きた。その頃、手打ち式の使者の役目を立派に果たした力量に感心した次郎長は、仙右エ門を清水一家の客分にしていた。その後、仙右エ門は次郎長の子分となる。

文久2年暮、黒駒勝蔵が遠州の絹商人を殺し、金を奪い、信州に逃亡した事件が起きた。勝蔵は再び遠州に戻って来た。大和田友蔵は中泉代官所より、十手捕縄の役を受け、勝蔵捕縛の命が出た。その役は避けたかった。しかしお上の命のため、引き受けざるを得ない。その後、勝蔵が気子島の新吉を斬りつける事件、森の新屋の虎造が勝蔵の子分の大岩、小岩に殺される事件が発生、友蔵は勝蔵と対決せざるを得なくなった。

文久3年5月、黒駒勝蔵は友蔵にケンカ状を送付した。友蔵は清水次郎長に応援を依頼、天竜川河畔の子安の森で対決する。清水一家24人、石重の重蔵12人、総勢80人近くを集め、勝蔵側も80人近くが鉄砲を携え、夕方より対峙した。しかし翌朝になると、勝蔵側は逃亡、もぬけのカラだった。友蔵には中泉代官所のバックがあり、黒駒側は大事となることを恐れたためである。

以後、次郎長と勝蔵との対決は本格化し、清水次郎長と黒駒勝蔵との抗争は慶応年間まで6年間続き、荒神山騒動、慶応2年末の富士川水神の森の決闘など大きな喧嘩が発生する。慶応4年正月、黒駒勝蔵は四条家の公家侍となり、官軍に入隊し、戊辰戦争を戦うことになって、その対立は終了した。

大和田友蔵は、明治15年(1890年)10月25日、病死した。墓は磐田市の金剛寺に妻とともに葬られた。

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悪者された勤皇博徒・黒駒勝蔵

清水一家の平井亀吉・黒駒勝蔵襲撃事件

写真は大和田友蔵の墓。正面に戒名「凌雲亥霜居士」隣に「雪顔貞操大姉」覐位とある。墓は磐田市見附の金剛寺にある。

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次郎長の秘書役・律儀な博徒・当目の岩吉

2023年02月13日 | 歴史
清水一家の大政が死に、一家の要である増川の仙右衛門が病気がちとなると、次郎長は何かことがあると「当目を呼べ」と言った。それ以前からも当目の岩吉は次郎長の秘書役兼参謀の役を持っていた。浜松の五社神社で撮影した荒神山手打ち式の写真にも、大政が後列でのんびり立っているのに、前列の次郎長のすぐ左隣に座っている。

岩吉は、志太郡東益津村浜当目(現・焼津市浜当目)の出身、次郎長より20歳ばかり年下である。頭が切れて誠実味のある男である。若い頃、焼津の漁師仲間と博奕を打ち、いつしか次郎長の子分となった。いつもは焼津港の近くの浜当目に居住した。次郎長が博徒狩りで逮捕された時は、増川の仙右衛門とともに捕縛され、静岡の井宮監獄に収監された。釈放も次郎長と一緒である。

(博徒名) 当目の岩吉   (本名) 久保山岩吉
(生歿年) 天保10年(1839年)~大正3年(1914年)4月9日 病死 享年75歳

岩吉が「当目」と呼ばれたのは、焼津浜当目の生まれであり、夜目、遠目がきくこと、物事の先の見通しがきくことから、そう呼ばれたと言う。本名は久保山岩吉。老後の次郎長やお蝶の面倒は、この岩吉が一番みた。何かことがあれば、焼津から日本坂を越えて、清水に小走りで駆けつけた。次郎長が死んでからは、清水に泊まり込みで清水一家やお蝶の面倒をつくした。

岩吉は病気がちになると、浜当目に引き込んで静養した。自分の死期が近づいたと知ると、「俺が死んだことは、姐さん(お蝶)には知らせてくれるな。姐さんを送らずに先にゆくほど不幸なことはない。親分にはあの世へ行って土下座してお詫びする」と家族に言った。そう言われても、家族は清水へ岩吉の病状を知らせた。駆けつけたお蝶を見て、布団の上に起き上がり、両手、両膝を揃えて、ボロボロと涙を流して、先立つ不孝を詫びたと言う。

義理堅い律儀な性格の岩吉は、大正3年4月9日、75歳で病死した。岩吉の墓は焼津市当目山麓の曹洞宗・弘徳院にある。法名「本来是空居士」である。毎年2月23日、「虚空蔵山達磨市」が開催され、だるま市で有名。岩吉の墓に近くには、ビキニ水爆実験の犠牲者・久保山愛吉の墓もある。

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次郎長の三人の妻・お蝶

次郎長妻・三代目お蝶の仲人・西尾の治助

写真は焼津市弘徳院の当目の岩吉の墓。正面「本来是空居士・奉岳妙翠大姉」右側面に明治42年10月1日・俗名まつ(妻)大正3年4月9日・俗名岩吉とある。妻と一緒に葬られ、立派な墓である。


写真はビキニ水爆の犠牲者久保山愛吉の墓。



写真は明治4年、浜松五社神社で行われた荒神山手打ち式での清水一家の写真。
前列の左から、増川の仙右エ門、桶屋の鬼吉、清水次郎長、田中敬次郎、当目の岩吉、小走りの半兵衛。
後列の左から、興津の盛ノ助、四日市教太郎、辻の勝五郎、大政、関東丑五郎、寺津の間之助、鳥羽熊、清水の周吉、三保の松五郎、小松村の七五郎、大瀬の半五郎、大野の鶴吉、伊達の五郎、舞阪富五郎、国定の金次郎。

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遠州浜松宿の博徒・国領屋亀吉

2023年01月23日 | 歴史
遠州の博徒は江戸時代後期から明治初期に活躍した。国領屋亀吉もその中の一人である。亀吉は通称名で、本名は「大谷亀次郎」と言った。生家は水車を使った精米業である。米穀販売も営んでいた。生まれたのは馬込川右岸敷智郡船越村(現・浜松市中区船越町)で、亀吉が25歳のとき、安政4年(1857年)に浜松の博徒「棒周」こと中村周蔵から縄張りを譲られた。

周蔵が生まれた中村家は、浜松宿で筆を販売する商家だった。筆を棒と呼び、「棒周」の名がつけられた。周蔵は博徒の世界に入り、縄張りを亀吉に譲ったとき、46歳。明治に入り浜松県発足の頃、官命を受けて警邏長を引き受けた。警邏長とは、現在の警察官の警部に当たる。

国領屋亀吉の女房は「花(はな)」という。姉御肌、女丈夫の女性で、亀吉より6歳年下であった。棒周から縄張りを受け継いだ亀吉は、任侠の世界に生きたが、常に温和に徹していた。それだけに華やかな逸話は残っていない。

女房の花にはこんな話がある。森の石松が都田吉兵衛兄弟に殺される事件が起きた。その時、吉兵衛は石松を殺したのは国領屋亀吉だという噂を流した。これを聞いた亀吉は次郎長へ「それは嘘だ」と手紙を送った。「亀吉は次郎長寄り」と思った吉兵衛の弟常吉・留吉兄弟は国領屋宅に殴り込みをかけた。

亀吉と一緒に居た花はとっさに亀吉を蚊帳で包み、押入れに押し込んだ。「亀吉を出せ」という常吉・留吉兄弟の前で「喧嘩なら旦那が居るときに来ておくれ!」と啖呵を切った。常吉らは家の中を探したが、見つからない。「さあどうしてくれる!」と言う花の勢いに押され退散したという。

明治4年、清水次郎長と穴太徳(安濃徳)との手打ち式が浜松の五社神社で行われた。荒神山騒動の正式決着である。手打ちの仲介を取ったのは、津向文吉と藤枝の長楽寺清兵衛である。浜松から唯一親分格として国領屋亀吉が出席している。その亀吉も明治17年に博徒の世界から引退した。

亀吉引退後、国領屋は三つに分かれた。浜松宿の中央部を二代目を継いだ伊藤勝太郎が、北部を「下垂れの鍛治」(本名・本田芳太郎)が、南部を「成子の善五郎」(本名・斎藤善五郎)がそれぞれ引き継いだ。

国領屋亀吉が他界したのは明治38年7月1日、戒名「国翁勇亀居士」享年73歳。妻の「花」は同じ年の明治38年11月10日に死去、戒名「国室妙華大姉」享年67歳・俗名「はな」である。

国領屋亀吉の菩提寺・大聖寺には、清水の小政(吉川冬吉)の墓がある。小政も浜松宿の生まれ、若い頃から棒周や国領屋の賭場に出入りしていた。次郎長の子分となり、子供がいない次郎長の養子・山本政五郎となったのも国領屋亀吉の斡旋である。

小政が浜松監獄内で獄死したとき、遺体引き取りの世話をしたのも国領屋亀吉とその女房の「はな」である。小政は監獄内で死亡したのではなく、重体になったとき、浜松監獄を出て、国領屋が手配した住宅で療養、息を引き取ったと言われる。人によっては毒殺されたと主張する人もいる。


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荒神山の決闘博徒・穴太徳次郎

清水一家小政の獄死


写真は浜松市大聖寺にある国領屋亀吉の墓。正面に「国翁勇亀居士」先祖代々「国室妙華大姉」とある。右側面に「俗名・大谷亀次郎」左側面に「明治39年7月伊藤勝太郎建立」とある。伊藤勝太郎とは国領屋二代目である。


写真は同じ大聖寺にある山本政五郎(小政)の墓。法名「白応良滴信士」右側面に「明治7申戌年5月29日」とある。


写真は明治4年、浜松五社神社で行われた荒神山手打ち式での清水一家の写真。前列左から、増川の仙右エ門、桶屋の鬼吉、清水次郎長、田中敬次郎、当目の岩吉、小走りの半兵衛。

後列の左から興津の盛ノ助、四日市教太郎、辻の勝五郎、大政、関東丑五郎、寺津の間之助、鳥羽熊、清水の周吉、三保の松五郎、小松村の七五郎、大瀬の半五郎、大野の鶴吉、伊達の五郎、舞阪富五郎、国定の金次郎。


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遠州遠江の博徒・堀越の藤左ヱ門

2023年01月01日 | 歴史
堀越藤左ヱ門は、遠州見附(静岡県磐田市)を縄張りとする博徒である。黒駒の勝蔵と義兄弟の盃を交わした仲である。勝蔵の方が6歳年下だが、五分と五分の盃だった。

次郎長の兄弟分・大和田の友蔵とも仲が良かったが、浜松の国領屋亀吉、日坂の栄次郎、伊勢の丹波屋伝兵衛、大場の久六との繋がりがあって、勝蔵と兄弟分になった。その後、勝蔵とは縁が遠くなって、逆に次郎長と親しくなった。次郎長より長生きし、明治34年(1901年)5月、76歳で病死した。

(博徒名) 堀越の藤左ヱ門(藤左衛門ともいう)  (本名) 塚本(山口)藤三郎
(生没年) 文政9年(1826年)~明治34年(1901年)5月26日 享年76歳 病死。

藤左ヱ門は、袋井宿在の名主・塚本新左衛門の三男として生まれた。袋井宿堀越から遠州見附三本松松坂の魚屋に婿入りし、博徒となった。異名は「度胸骨の藤左ヱ門」、右の頬に縦の五寸ほどの刀傷があった。

この傷には逸話がある。見附の天神山裏山の賭場で博奕に負け、スッカラカンになった。胴元は袋井の金之助、山梨の巳之助の子分で、巳之助の代貸しとして出張っていた。藤左ヱ門が「金を貸せ」と言ったところ、金之助はその男の顔を見ると、三本松の魚屋の婿と気付いた。

金之助は婿に収まって間のないことを知っている。親切のつもりで、「また出直したらどうだ」と言った。藤左衛門は、その言い方が気に食わないと暴れ出し、大喧嘩となり、賭場を荒らし、自分も頬を斬られた。

家に帰って落ち着くと、金之助の親分・巳之助が黙っていないと、自分から巳之助の自宅へ出向き「どうでもしておくんなさい」とその場にひっくり返った。博徒が追いつめられて、やけっぱちでやる手である。巳之助は度胸の良さにほれ込み、その場で子分に加えた。博徒伝にはつきものの話である。

博徒のリンチで最も重いのは、首を斬り落とし、川に投げ込む。次に重いのは簀巻きして川に投げ込む。半死半生にするが、とどめは刺さない。運が良ければ、九死に一生を得る。国定忠治、次郎長も経験者である。藤左ヱ門は同じような失敗をまた重ねて、巳之助に追い出される。この時は、次郎長の口利きで、何とか勘弁してもらった。

遠州袋井出身で、四股名を四角山・周吉という相撲取りがいた。幕下まで昇ったが、相撲取りを廃業、故郷へ戻った。袋井に戻った四角山は身を崩して、山梨の巳之助身内の博徒となった。乱暴な性格で、女性をめぐるトラブルも多かった。

たまたま四角山は同じ身内の堀越の藤左ヱ門の女を寝取ってしまった。怒った藤左ヱ門は、四角山を袋井宿はずれに呼び出し、斬り殺した。安政7年(1860年)2月14日のことである。藤左ヱ門の女も親分・巳之助の妾だった。藤左ヱ門も妾と出来ていた。お互い様の関係だった。

四角山を斬り殺した藤左ヱ門は、手配を逃れ、遠州を出国、濃州(岐阜県)へ逃亡の旅に出た。旅の途中、有知の小左エ門親分宅で黒駒の勝蔵と懇意となり、義兄弟の契りを結んだ。それから3年後、藤左ヱ門は四角山の身内と話をつけ、役人にも袖の下を送って、文久3年(1863年)遠州袋井に戻った。

安政5年(1858年)、巳之助の子分が万松寺の住職を殺し、金を奪った事件が起きた。巳之助は子分を匿った罪で、八丈島へ島流しとなった。八丈島へ送られたのち、島破りの計画に参加したとして、流罪が取り消され、死罪が決定した。万延元年(1860年)9月11日、巳之助は鈴ケ森で処刑された。享年53歳だった。

藤左ヱ門の親分・山梨の巳之助が鈴ケ森で漸首されたのが万延元年9月11日。藤左ヱ門が四角山を斬り殺したのは、同じ年の安政7年2月14日である。巳之助が入牢中とあって、賭場は森の五郎が預かり、藤左ヱ門は賭場を回っていた頃である。森の五郎は、森の石松が次郎長の子分になる前、石松の面倒を見ていた遠州森町の博徒である。

明治17年2月の博徒刈込では、次郎長、増川仙右衛門等と共に、藤左ヱ門は静岡の井ノ宮監獄に入獄した。藤左ヱ門は博徒から足を洗い、跡目を羽鳥野の八百蔵に譲っていた。すでに博奕とは縁が無かった。しかし子分らが捕まったため、一緒に懲役を食らった。

出獄後は、孫を相手に暮らし、明治34年病死した。76歳の長寿だった。堀越の藤左ヱ門の墓は海蔵寺にある。位牌には「藤樹院大勇良義居士・明治34年5月26日・俗名山口藤三郎」とある。

 
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写真は静岡県袋井市堀越の海蔵寺にある堀越藤左ヱ門の墓。


写真は山梨の巳之助の墓。袋井市上山梨の用福寺にある。正面に「古梅良香居士・大安妙道信女・各霊位」、左側面には「慶応三寅十二月」とある。当初、墓は近くの南昌寺にあったが、廃寺となり、用福寺に移された。



写真は袋井市観福寺にある四角山周吉の墓。正面は「角山倒周庵主」「安政七申年」「二月十四日」と刻まれている。
観福寺過去帳は「安政七庚申年・今年改暦万延元年ニナル・角山倒周信士・二月十四日力士四角山周吉新墓地代金二百疋納ム」と記載されている。
2百疋とは今の価値でいくらか?百疋は1000文、1文は20円とすると、約4万円。誰が四角山の墓を建立したのかは不明である。

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吃安を捕縛した博徒・江戸屋虎五郎

2022年12月20日 | 歴史
安政5年(1858年)8月、竹居の吃安(竹居安五郎)は、伊豆・新島の名主を殺して、島抜けに成功、甲州へ舞い戻った。吃安が50歳のときである。甲州の岡っ引きは皆、金をつかませられ、誰一人として、吃安を捕縛できなかった。そこで江戸屋虎五郎と高萩の万次郎の二人の岡っ引きに、吃安捕縛の密命が出た。

二人は甲州に乗り込み、練りに練った作戦で、まず吃安の一の子分黒駒勝蔵を甲州から追い出した。そして舘林藩浪人・犬上郡次郎を、巧みに吃安の用心棒に送り込んだ。それから約2年余り、歳月をかけた3人による捕縛作戦の結果、吃安は捕らえられた。捕縛された吃安は、石和代官所牢内で毒殺された。文久2年(1862年)10月6日、吃安、54歳だったrr
(博徒名) 江戸屋虎五郎  (本名) 岡安七五郎(岡安兵右衛門)
(生歿年) 文化11年(1814年)1月5日~明治28年(1895年)10月22日 享年83歳 病死れ

虎五郎の出生地は不明。邑楽郡舘林(舘林市)百姓源七の倅の説、武州新座郡岡村(埼玉県朝霞市)の出身、秩父の出身とも、三河の生れとも言われる。若い頃、草相撲の土俵上で、誤って相手を投げ殺し、舘林に逃げて来た。舘林荒宿(舘林市下宿)の香具師弥七を頼って、草鞋を脱いだという。

弥七のもとに居るとき、舘林連雀町の的屋・江戸屋こと岡安兵右衛門に見込まれて、娘の「ちか」と夫婦になり、江戸屋の跡目を継いだ。身の丈6尺の大男、目玉がギョロリとしていたため「目玉の親分」と言われた。縄張りは邑楽郡(群馬県南東部)全域、埼玉県、栃木県の一部まで及んだ。天保11年(1840年)虎五郎は26歳、遠州博徒・都田の源八を殺したという説もある。源八は森の石松を殺した都田吉兵衛の父親である。

江戸屋虎五郎となってからは、関東取締出役の道案内を務めた。役目柄、舘林に居るより旅暮らしが多かった。そのため子供もいなかった。吃安捕物の任務を果たした後は、舘林に戻り、豊次郎という養子をもらった。慶応3年、明治元年頃である。同時に、町内の島田庄次郎の二女「えい」を豊次郎の嫁にした。

明治を迎えて、岡っ引きは廃止された。虎五郎は生活のため博奕打ちとなった。明治5年壬申戸籍には、「正月脱籍当時尋ね中」とある。当時、虎五郎は手配され、失踪中と思われる。養子の豊次郎は「雑業」とある。豊次郎も定職は無かったと思える。そのためか、豊次郎夫婦は明治9年、正式に離婚している。

明治になって、博徒に対する取り締まりは厳しくなった。明治13年4月1日、虎五郎は自首して出てきた。すでに江戸屋の跡目も堀越喜三郎に譲り渡しており、虎五郎も67歳となっていた。

かつての親分の面影はなく、その日の生活にも困る状態であった。住居も転々と移り、最後は子分であった柴田三七の世話を受けていた。明治28年10月22日、ひっそりと息を引き取った。虎五郎は、次郎長より6歳年上である。国定忠治よりは4歳年下だが、45年長く生きた。

堀越喜三郎の呼びかけで、上州、武州の博徒百余名が協力して、堀越家の菩提寺である舘林市本町の大道寺に石塔、墓石が建立された。戒名「宝松院梅誉樹林居士」である。墓には妻の「ちか」とともに葬られている。


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写真は江戸屋虎五郎の墓。向かって右側の墓。正面中央に戒名「宝松院梅誉樹林居士」右に「逝誉妙遊大姉」左に「切誉徳行信士」とある。
墓の台石には建立に協力した67名の親分衆の名前が刻まれている。「村山玉五郎」「吉田藤三郎」「関口刀太郎」などの名が見られる。
向かって左側面に、施主人として堀越喜三郎と岡安ナミの名が刻まれている。

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遠州はんか打ち渡世人・小松村の七五郎

2022年12月11日 | 歴史
都鳥一家の闇討ちを受け、深手を負った森の石松は、小松村の七五郎の家に身を隠した。ふたたび二俣街道に出たところ、地蔵堂の近くで殺された。この話は芝居、講談にも登場し、有名な場面である。森の石松は架空の人物という人もいる。しかし小松村の七五郎は実在の人間である。

七五郎の家があった長上郡小松村は現在の浜北市小松町にあたる。浜松市街中心から二俣街道(旧国道152号)を10キロほど北上し、江戸時代の頃は寒村だった。秋葉山へ向かう街道が通っていたため、旅人の往来は多い。秋葉山の火祭りのときには高市が開き、多くの渡世人が集まった。

(博徒名) 小松村の七五郎  (本名) 松本七五郎
(生歿年) 文化14年(1817年)~明治5年(1872年)5月24日 享年55歳 病死

(妻女)  松本その
(生歿年) 文政8年5月15日~明治38年8月22日 享年81歳 病死

七五郎は、もともとは甲州の生まれ、「はんか打ち」博徒だった。「はんか打ち」とは子分をもたない一匹狼のばくち打ちである。当時、七五郎の家は小松村の百姓の家だった。家には男の子がおらず、娘の「その」が甲斐国出身の庄太という若者を婿養子に取り、農業を営んでいた。

ところが数年で、庄太が病気となり、回復の兆しもなかった。それを風のたよりで聞いた庄太と同郷の七五郎が小松村まで、見舞いに来た。七五郎に看取られて、庄太は嘉永3年(1850年)に息をひきとった。庄太の法名は寺の過去帳によると「方室宗道信士」とある。

七五郎は、旦那を失った女房の「その」を励ました。その励ましが愛に変わり、「その」は七五郎と夫婦となった。七五郎は「はんか打ち」渡世人のため、七五郎の家には多くの博徒たちが立ち寄るようになった。その中の一人が森の石松であり、都鳥一家の事件が発生した。

七五郎は「はんか打ち」博徒のため、見附の大和田友蔵、山梨の巳之助のように親分とは言われない。現在の松本家に、七五郎が愛用した二振りの「脇差し」が残されている。一振りは白鞘に納められ、長さ一尺九寸五分(約59cm)鞘に「遠州侠客小松村七五郎刀」と墨書きされている。七五郎の女房・そのが使っていた「火のし」(昔のアイロン)と茶釜、それに清水一家の者と一緒に撮影された写真も残されている。

七五郎の女房「その」は身の丈、5尺3寸(153cm)、一升を飲み干すほど酒に強く、度胸もある美人だった。ある日、七五郎は捕り方に追われて逃げ帰った。「その」は七五郎を布団と蚊帳に包んで、その上に腰を下ろし、手槍を持って捕り方を待ち構えた。捕り方が「七五郎を出せ」叫ぶと、「居ねえものが出せるか!」と啖呵を切って追い返したという。

石松が都田一家に追われた時も、石松を仏壇の下に隠して、啖呵を切った。その仏壇も、晩年「その」が売り払って酒代になってしまったが、かなり大きかったという。石松は身長5尺そこそこ、約150cm余りの小男のため、隠れることができた。当時「その」は36歳の大年増だった。

江戸時代に姓を持たなかった七五郎の家は、明治に入り「松本」を姓とする。七五郎と「その」の間には子供がなかった。そのため跡継ぎは両もらいで家系をつないだ。浜松宿丸塚村(浜松市東区丸塚町)から百姓の定八を、「その」の身内から「とく」という娘をもらい、定八の女房とさせた。松本家は今も小松町に存続している。

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写真は小松村の七五郎の墓。浜北市小松町の紹隆寺にある。
七五郎は「松本家」養子。紹隆寺過去帳には七五郎は「戒名・秀岸良苗居士・明治5年5月24日歿、享年55歳」女房「その」は「蓮宝貞香大姉・明治38年8月22日歿、享年81歳」とある。



明治4年、浜松五社神社で行われた荒神山手打ち式での清水一家写真。後列右から6人目が小松村の七五郎。死去の1年前である。右隣は大瀬の半五郎。
後列の左から4人目が大政。座っている前列の左から、増川仙右エ門、桶屋の鬼吉、清水次郎長。次郎長の右隣は、二代目お蝶を殺した旧幕武士を斬った田中敬次郎。国定忠治一家の3代目、博徒取締りから逃亡、次郎長の客分となった。

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