兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

品川台場建設に貢献した博徒・大場久八

2017年03月18日 | 歴史
大場久八は、韮山代官江川太郎左衛門の要請により、兄弟分である甲州豪商天野海蔵とともに、品川台場建設に協力した博徒として有名である。大場久八、天野海蔵、竹居安五郎(吃安)3名は昔より博徒兄弟分として付き合いがあった。大場久と天野海蔵は、嘉永6年(1853年)6月、新島を島抜けし、伊豆網代の海岸にたどり着いた安五郎を甲州まで逃亡させたと言われている。

(博徒名) 大場 久八  (本名) 森 久治郎
(生没年) 文化11年10月2日(1814年)~明治25年(1892年)12月3日  享年79歳
      上州への旅の途中、現・都留市谷村において中風で死亡

大場久八は伊豆国田方郡函南村間宮の百姓栄助の長男として生まれた。28歳のとき野天博打で無宿となり、博奕常習の罪で韮山代官に捕縛され、中追放となる。中追放とは、伊豆はもとより東海道筋、駿河国、武蔵国への立ち入り禁止の処分である。その頃、甲州博徒武居吃安、甲州豪商天野海蔵と兄弟分になる。その後、伊豆に戻り、結婚するが、妻・志津の弟が、東海道随一の貸元と言われた丹波屋伝兵衛である。

35歳のとき、兄弟分の桐生半兵衛を殺害した田中村岩五郎・石原村幸次郎と遠江国岡田村(現・磐田市)で決闘し、両名に深手を負わせた。その頃、上州博徒大前田英五郎の暗殺を謀った御宿の惣蔵を殺害し、大前田英五郎と兄弟分となった。

当時の久八は抜身の長脇差、槍、鉄砲で武装した子分20人以上を引き連れた武闘派博徒の親分になっていた。この頃、出入り相手の博徒は次々と捕えられているが、久八はなぜか生きのび、伊豆で縄張りを張っていた。裏で韮山代官と繋がっていたとしか思われない。

大場久八の勢力圏は駿河、伊豆、甲州、武州、相州の5カ国に及び、子分3,000人以上、当時の三大博徒である、上州の大前田英五郎、伊勢の丹波屋伝兵衛と並ぶ博徒である。台場建設の貢献で、韮山代官江川から支配地の御用・二足草鞋の要請もあったが、「骨が舎利になっても二足の草鞋は履かない。常に人の下に立つ」の信念でこの申し出を拒絶している。

日常の食事・服装は質素を重んじ、食事は常に一食一菜、服は木綿着で生涯を通した。これを聞いた武州の博徒・小金井小次郎が村山織二反を送り届けたが、ありがたく受領しただけで一向に着ることはなかった。

慶応4年には武州・甲州の子分30人からなる「辰巳隊」を構成し、新撰組近藤勇が率いる甲陽鎮撫隊に加わったという。当初「辰巳隊」は食糧運搬任務の後方部隊だったが、本隊の相次ぐ脱走に伴って、戦闘にも参加することとなった。これは関係の深い韮山代官江川英龍の秘蔵子松岡磐吉との関係があったためと言われている。

甲陽鎮撫隊の大敗したのち明治以後、久八は跡目を三島の玉屋佐十郎に譲り、博徒の足を洗い、百姓として余生を暮らす。明治25年12月3日、上州への旅の途中、山梨県南都留郡谷村町の旅籠で中風で倒れ、死亡した。享年79歳だった。

久八は、次郎長より6歳年上で、次郎長が保下田久六を殺害した際には現・富士宮市に子分を集め、敵対した反次郎長派の博徒である。この時、次郎長は、大政と八五郎の二人だけを連れて、自ら久八に面談に行ったが拒絶され、大政一人が面談して久八を説得した。久八は、久六のアコギなやり方を聞いて、納得、水に流した。そして次郎長たちは、久八の世話で近くの旅籠に泊まった。

しかし次郎長たちは久八の襲撃を恐れ、別の部屋で寝たが、久八の襲撃は無かった。これを次郎長の用心深さと言う人もいる。次郎長と久八の貫禄の違いが本当だろう。遊侠としての久八は、当時の次郎長と比べると数枚上の貫禄だった。

久八は上州の大前田英五郎と兄弟分。明治7年2月26日、英五郎が82歳で死去したとき、久八は病み上がりの61歳だったが、駕籠に乗って上州に駆けつけた。英五郎のの葬式は、久八の到着を待って行われ、一番上座に久八の席が用意された。英五郎亡き後は、大前田一家の後見人をしたと言われる。

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新島を島抜けした博徒・竹居安五郎という人

写真は大場久八の墓。田方郡函南町間宮 広渡寺にある。この寺の前に自宅があった。二十何貫もある大男と言う。地元では「辰巳屋の久八」と呼ばれた。
墓の正面真ん中に法名「信禮院義誉智仁徳善居士」とある。左右に「孝道院操誉貞順念浄大姉」「至徳院善誉貞操孝順大姉」とある。向かって右側が、天保11年2月17日に死亡した先妻の「シズ」、左側が、大正2年10月3日に88歳で死亡した後妻の「モン」の法名である。久八の法名は、浄土宗鎮西派総本山である芝の増上寺から贈られたものと言われる。

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偽官軍の名で殺された美濃博徒・水野弥三郎

2017年03月01日 | 歴史
皆さんは幕末に偽官軍として、信州下諏訪で処刑された「赤報隊」のことをご存じだろうか?その後、昭和になって亡霊のように、朝日新聞襲撃事件において「赤報隊」の名が使用された。この赤報隊に深く関わり、最後は自ら縊死した博徒が水野弥三郎である。

(博徒名)岐阜の弥太郎  (本名)水野弥三郎
(生没年)文化2年(1805年)~慶応4年(1868年)  享年64歳
     大垣藩本牢内で縊死により自殺

水野弥三郎は、岐阜矢島町の医師の子に生まれるが、医業を嫌って、一心流鈴木長七郎に入門する。めきめきと剣の腕をあげるが、医家から破門され、博徒となる。その後、武儀郡関小左衛門、安八郡神戸政五郎と並ぶ美濃三人衆と称され、子分配下500余人を抱える大親分となる。

水野家は代々京都西本願寺の典医であった。そのため京都とのつながりが強く、新撰組から分離した反近藤派の高台寺党を率いた伊東甲子太郎と関係があった。その後、甲子太郎が暗殺された後は、赤報隊2番隊長で、甲子太郎の弟の鈴木三樹三郎と関係を強めていく。

赤報隊とは、慶応3年12月西郷隆盛らの策略による薩摩邸焼き討ち事件を成功させた部隊が京に戻り再結集、倒幕挙兵の同志を募り、京都を脱走した綾小路俊実、滋野井公寿の二卿を奉じ、東征軍の先鋒として編成された草奔の部隊である。

一番隊は相楽総三、二番隊は鈴木三樹三郎、三番隊は江州水口藩士油川錬三郎がそれぞれ隊長を務めた。慶応4年正月に江州松尾山金剛輪寺で結隊、15日江州松尾山を出発、近江を経由、21日に美濃の加納宿に到着した。二番隊には、荒神山の決闘から姿を消した黒駒勝蔵が参加していた。

黒駒勝蔵は、水野弥三郎とは親子ほど年が違うが、昔から水野弥三郎の手下の関係にあった。赤報隊から、弥三郎に300人程の子分を出すよう指示があった。弥三郎はこれに応じ、270人の手下を出した。しかし、加納宿での手下博徒らの乱暴、狼藉行為が大きな問題となる。それ以上に問題となったのは弥三郎が、赤報隊が美濃路街道沿いに勝手に発布した年貢半減令の告知に深く関わったことにある。

新政府は財政逼迫しており、年貢半減は認めらるものでない。さらに恭順一色の幕府の対応に赤報隊の緊急性は不要となり、むしろ邪魔になった。東山道鎮撫総督府は大垣藩に弥三郎捕縛の命令を出す。しかし、弥三郎は手下500人を持つ博徒である。総督府は官軍協力の褒賞授与による呼出の形式をとり、一種のだまし討ちで弥三郎を捕縛した。翌日、事実を知った弥三郎は牢内で縊死して死亡した。

死亡後、加納宿に次のような高札が掲げられた。

 「岐阜住人 水野弥三郎」
「右之者、従前より天下之大禁を犯し子分と称し候無頼従者衆し、奸吏と交わりをむすひ、良民を悩まし候件、少なからず、あまつさえ官軍之御威光を仮り、欲しい儘に人命絶って候段、不届き至極に付き、召し寄され御詰問之処、申し訳相立たず、罪あり、入牢仰せつけられ候に付き、追々斬罪之上、梟首仰せつけらるべきところ、死去いたし候につき、其の儀に及ばざること相なりこと、百姓町人共右の次第、篤と相心得べきものなり。」

水野弥三郎の墓は、水野家菩提寺蓮生寺の家墓から追い出されて、岐阜市の共同墓地に眠っている。弥三郎の法名は「釋専志信士」。隣に弥三郎に殉死した子分の生井幸治の墓が並んでいる。子分・生井幸治の戒名は「勇肝鉄心信士」、任侠の生き方が何たるかを後世に伝えている。

歴史の大義に賭けた博徒・弥三郎の思想は幕末維新の中で消滅した。しかし、慶応4年正月尾張藩が急遽編成した「尾張藩草奔隊」に、尾州の博徒北熊実左衛門、三州平井の博徒雲風亀吉に並んで、水野弥三郎の一の子分岐阜の高井辰蔵の名前がある。

振り返って、幕末の草奔隊には清水次郎長の系列は一人も参加していない。反対に次郎長は、時代の風を読む天性の能力で、葵から菊への時代の大激動を難なく乗り切ってみせた。
(参考)「アウトロー・近世遊侠列伝」高橋敏著・敬文社


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悪者にされた勤皇博徒・黒駒勝蔵という人

会津藩に味方した越後博徒・観音寺久左衛門

三河博徒・雲風の亀吉(博徒史その1)


写真は水野弥三郎の墓(右側)正面は戒名「釋専志信士」側面に水野彌三郎源維光・終年六拾四歳とある。
左側は殉死した子分・生井幸治の墓である。 

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