国定忠治を、幕府代官の羽倉外記が「赤城録」で、「凡盗にあらずして劇盗なり」と言わしめたのは、忠治が相応の学問を修め、かつ剣術にも深くかかわっていたためである。
忠治は、赤城の山に立てこもり、代官や関東取締出役と対決した博徒である。清水次郎長が半分、二足草鞋に近いような博徒に対し、徹底抗戦を貫き、最後は大戸関所で磔となった忠治の美学に、庶民が共感したのだろう。
(博徒名)国定忠治 (本名)長岡忠次郎
(生没年)文化7年(1810年)~嘉永3年(1850年) 享年41歳 上州大戸関所において磔刑
国定忠治は、上野国佐位郡国定村(現・群馬県伊勢崎市国定町)富農本百姓・長岡弥五左衛門の長男として生まれ、二男の弟の友蔵が、長岡家を継ぎ、手広く糸繭商いをした。10歳の時、父親が死亡、母親に育てられた。17歳の時、放蕩から、人を殺め、無宿となる。25歳で、島村(現・伊勢崎市)を地盤とし、関東取締出役と通じていた島村伊三郎を闇討ちして縄張りを奪う。
その後は、関東取締出役を敵に回し、兇状持ちとなった。しかし、次々と各地の賭場を手に入れ、子分500人以上と言われる勢力に拡大していった。
子分に、軍師と言われる日光円蔵、叔父の関東取締出役道案内の三室勘助とその子を殺害し、長槍が得意な板割浅太郎がいる。天保飢饉には、地元民救済のため、地元の分限者から金を集め、窮民に金一両と米一俵を配った。地元百姓の水源の磯沼の浚渫工事を行い、地元で大賭博を開き、田部井村名主・宇右衛門を仲間に引き入れ、賭博のあがり銭で工事を完成させた。
嘉永3年(1850年)7月21日、愛妾「町」の家で、忠治は中風で倒れた。弟の友蔵と子分はもう一人の妾「徳」の家に忠治を運び込もうとしたが、徳に断れ、やむなく宇右衛門宅に隠した。しかし、関東取締出役の手が宇右衛門宅にも迫り、遂に、忠治、町、徳、宇右衛門ら7人は捕縛される。
勘定奉行池田播磨守頼方の吟味を受け、大戸関所破りの罪で忠治は大戸で磔、宇右衛門は死罪、子分は中追放、妾の徳と町は押し込めの罪が決定する。そして江戸伝馬町の牢から上州大戸刑場に護送される。
嘉永3年12月16日、江戸を立ち、大戸に向かった忠治一行は、囚人忠治を乗せた唐丸籠の前後に、関東取締出役が各地から集めた道案内、エタ頭浅草弾左衛門、非人頭車善七配下総勢500人が並ぶ大行列である。忠治は、白を基調にした死出の旅装束、唐丸籠の中で、唐更紗・紅の布団に座り、首に大きな数珠かけた人目を引く姿であった。まさに歌舞伎役者並みである。
12月21日早朝、大戸関所刑場で1,500人の見物客の中、車善七配下の刑吏により執行された。忠治は、槍を左右の肋に交互に受けながら、ひと槍ごとに目をカアアと見開き、14度目にして瞑目した。
大戸刑場に曝された首と遺体は、妾の徳の一味が刑吏を買収して、ひそかに持ち帰られ供養された。首は忠治の師匠養寿寺の住職貞然が預かり、寺の庫裡の天井裏に隠したと言われている。首以外の遺体は妾お徳(菊池徳)が自宅に隠し、その後、忠治追慕の墳を建て埋葬した。
これが「情深墳」である。「情深墳」はJR伊勢崎駅近くの善應寺にある。正面には忠治の戒名「遊道花楽居士」が刻まれている。大正元年(1912年)、養寿寺庫裡の修理の際、法衣に包まれた忠治の頭蓋骨なるものが発見され、大騒ぎとなった。その意味でも住職貞然の墓碑に刻まれた辞世は、意味深長である。
「あつかりし ものを返して 死出の旅」
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長寿を全うした博徒・大前田英五郎
写真は国定忠治の墓。伊勢崎市国定町養寿寺にある。墓石が削り取られるため鉄格子で囲まれている。戒名「長岡院法誉花楽居士」
1929年、詩人・萩原朔太郎は妻と離婚、父親看病のため群馬前橋に戻る。自宅から忠治の墓まで自転車で来て、次の詩を詠んだ。
「見よ、ここに無用の石、路傍の笹の風に吹かれて、無頼の眠りたる墓は立てり」
写真はお徳が建てた「情深墳」伊勢崎市駅近く善應寺内にある。忠治の片腕を埋めたと言われてる。表は戒名「遊道花楽居士」裏側は「念佛百万篇供養」と刻まれている。
忠治は、赤城の山に立てこもり、代官や関東取締出役と対決した博徒である。清水次郎長が半分、二足草鞋に近いような博徒に対し、徹底抗戦を貫き、最後は大戸関所で磔となった忠治の美学に、庶民が共感したのだろう。
(博徒名)国定忠治 (本名)長岡忠次郎
(生没年)文化7年(1810年)~嘉永3年(1850年) 享年41歳 上州大戸関所において磔刑
国定忠治は、上野国佐位郡国定村(現・群馬県伊勢崎市国定町)富農本百姓・長岡弥五左衛門の長男として生まれ、二男の弟の友蔵が、長岡家を継ぎ、手広く糸繭商いをした。10歳の時、父親が死亡、母親に育てられた。17歳の時、放蕩から、人を殺め、無宿となる。25歳で、島村(現・伊勢崎市)を地盤とし、関東取締出役と通じていた島村伊三郎を闇討ちして縄張りを奪う。
その後は、関東取締出役を敵に回し、兇状持ちとなった。しかし、次々と各地の賭場を手に入れ、子分500人以上と言われる勢力に拡大していった。
子分に、軍師と言われる日光円蔵、叔父の関東取締出役道案内の三室勘助とその子を殺害し、長槍が得意な板割浅太郎がいる。天保飢饉には、地元民救済のため、地元の分限者から金を集め、窮民に金一両と米一俵を配った。地元百姓の水源の磯沼の浚渫工事を行い、地元で大賭博を開き、田部井村名主・宇右衛門を仲間に引き入れ、賭博のあがり銭で工事を完成させた。
嘉永3年(1850年)7月21日、愛妾「町」の家で、忠治は中風で倒れた。弟の友蔵と子分はもう一人の妾「徳」の家に忠治を運び込もうとしたが、徳に断れ、やむなく宇右衛門宅に隠した。しかし、関東取締出役の手が宇右衛門宅にも迫り、遂に、忠治、町、徳、宇右衛門ら7人は捕縛される。
勘定奉行池田播磨守頼方の吟味を受け、大戸関所破りの罪で忠治は大戸で磔、宇右衛門は死罪、子分は中追放、妾の徳と町は押し込めの罪が決定する。そして江戸伝馬町の牢から上州大戸刑場に護送される。
嘉永3年12月16日、江戸を立ち、大戸に向かった忠治一行は、囚人忠治を乗せた唐丸籠の前後に、関東取締出役が各地から集めた道案内、エタ頭浅草弾左衛門、非人頭車善七配下総勢500人が並ぶ大行列である。忠治は、白を基調にした死出の旅装束、唐丸籠の中で、唐更紗・紅の布団に座り、首に大きな数珠かけた人目を引く姿であった。まさに歌舞伎役者並みである。
12月21日早朝、大戸関所刑場で1,500人の見物客の中、車善七配下の刑吏により執行された。忠治は、槍を左右の肋に交互に受けながら、ひと槍ごとに目をカアアと見開き、14度目にして瞑目した。
大戸刑場に曝された首と遺体は、妾の徳の一味が刑吏を買収して、ひそかに持ち帰られ供養された。首は忠治の師匠養寿寺の住職貞然が預かり、寺の庫裡の天井裏に隠したと言われている。首以外の遺体は妾お徳(菊池徳)が自宅に隠し、その後、忠治追慕の墳を建て埋葬した。
これが「情深墳」である。「情深墳」はJR伊勢崎駅近くの善應寺にある。正面には忠治の戒名「遊道花楽居士」が刻まれている。大正元年(1912年)、養寿寺庫裡の修理の際、法衣に包まれた忠治の頭蓋骨なるものが発見され、大騒ぎとなった。その意味でも住職貞然の墓碑に刻まれた辞世は、意味深長である。
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「見よ、ここに無用の石、路傍の笹の風に吹かれて、無頼の眠りたる墓は立てり」
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