兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

ヒーロー博徒・国定忠治

2017年02月22日 | 歴史
国定忠治を、幕府代官の羽倉外記が「赤城録」で、「凡盗にあらずして劇盗なり」と言わしめたのは、忠治が相応の学問を修め、かつ剣術にも深くかかわっていたためである。

忠治は、赤城の山に立てこもり、代官や関東取締出役と対決した博徒である。清水次郎長が半分、二足草鞋に近いような博徒に対し、徹底抗戦を貫き、最後は大戸関所で磔となった忠治の美学に、庶民が共感したのだろう。

(博徒名)国定忠治  (本名)長岡忠次郎
(生没年)文化7年(1810年)~嘉永3年(1850年) 享年41歳 上州大戸関所において磔刑

国定忠治は、上野国佐位郡国定村(現・群馬県伊勢崎市国定町)富農本百姓・長岡弥五左衛門の長男として生まれ、二男の弟の友蔵が、長岡家を継ぎ、手広く糸繭商いをした。10歳の時、父親が死亡、母親に育てられた。17歳の時、放蕩から、人を殺め、無宿となる。25歳で、島村(現・伊勢崎市)を地盤とし、関東取締出役と通じていた島村伊三郎を闇討ちして縄張りを奪う。

その後は、関東取締出役を敵に回し、兇状持ちとなった。しかし、次々と各地の賭場を手に入れ、子分500人以上と言われる勢力に拡大していった。

子分に、軍師と言われる日光円蔵、叔父の関東取締出役道案内の三室勘助とその子を殺害し、長槍が得意な板割浅太郎がいる。天保飢饉には、地元民救済のため、地元の分限者から金を集め、窮民に金一両と米一俵を配った。地元百姓の水源の磯沼の浚渫工事を行い、地元で大賭博を開き、田部井村名主・宇右衛門を仲間に引き入れ、賭博のあがり銭で工事を完成させた。

嘉永3年(1850年)7月21日、愛妾「町」の家で、忠治は中風で倒れた。弟の友蔵と子分はもう一人の妾「徳」の家に忠治を運び込もうとしたが、徳に断れ、やむなく宇右衛門宅に隠した。しかし、関東取締出役の手が宇右衛門宅にも迫り、遂に、忠治、町、徳、宇右衛門ら7人は捕縛される。

勘定奉行池田播磨守頼方の吟味を受け、大戸関所破りの罪で忠治は大戸で磔、宇右衛門は死罪、子分は中追放、妾の徳と町は押し込めの罪が決定する。そして江戸伝馬町の牢から上州大戸刑場に護送される。

嘉永3年12月16日、江戸を立ち、大戸に向かった忠治一行は、囚人忠治を乗せた唐丸籠の前後に、関東取締出役が各地から集めた道案内、エタ頭浅草弾左衛門、非人頭車善七配下総勢500人が並ぶ大行列である。忠治は、白を基調にした死出の旅装束、唐丸籠の中で、唐更紗・紅の布団に座り、首に大きな数珠かけた人目を引く姿であった。まさに歌舞伎役者並みである。

12月21日早朝、大戸関所刑場で1,500人の見物客の中、車善七配下の刑吏により執行された。忠治は、槍を左右の肋に交互に受けながら、ひと槍ごとに目をカアアと見開き、14度目にして瞑目した。

大戸刑場に曝された首と遺体は、妾の徳の一味が刑吏を買収して、ひそかに持ち帰られ供養された。首は忠治の師匠養寿寺の住職貞然が預かり、寺の庫裡の天井裏に隠したと言われている。首以外の遺体は妾お徳(菊池徳)が自宅に隠し、その後、忠治追慕の墳を建て埋葬した。

これが「情深墳」である。「情深墳」はJR伊勢崎駅近くの善應寺にある。正面には忠治の戒名「遊道花楽居士」が刻まれている。大正元年(1912年)、養寿寺庫裡の修理の際、法衣に包まれた忠治の頭蓋骨なるものが発見され、大騒ぎとなった。その意味でも住職貞然の墓碑に刻まれた辞世は、意味深長である。
「あつかりし ものを返して 死出の旅」

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長寿を全うした博徒・大前田英五郎

写真は国定忠治の墓。伊勢崎市国定町養寿寺にある。墓石が削り取られるため鉄格子で囲まれている。戒名「長岡院法誉花楽居士」
1929年、詩人・萩原朔太郎は妻と離婚、父親看病のため群馬前橋に戻る。自宅から忠治の墓まで自転車で来て、次の詩を詠んだ。
「見よ、ここに無用の石、路傍の笹の風に吹かれて、無頼の眠りたる墓は立てり」




写真はお徳が建てた「情深墳」伊勢崎市駅近く善應寺内にある。忠治の片腕を埋めたと言われてる。表は戒名「遊道花楽居士」裏側は「念佛百万篇供養」と刻まれている。
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美談で作られた火消の頭・新門辰五郎

2017年02月13日 | 歴史
新門辰五郎は、江戸浅草金竜山浅草寺に住み、鳶仕事師の親分、町火消十番組の頭であり、浅草寺の香具師、大道商人の総元締めである。

辰五郎は、寛政12年(1800年)下谷山崎町飾り職人中村金八郎の長男として生まれ、その後、上野輪王寺の家来町田仁衛門の養子となった。新門という名は、倫王門跡宮が浅草寺別当の伝法院へ隠居したとき、浅草凌雲閣付近に新門を作り、その番人に町田を任命したことによる。しかし、町田家は生活困難なため、辰五郎はほとんど教育を授けず、鳶職の小僧となる。従って辰五郎は一生涯、一字も知らなかったという。

江戸の火消は町火消と武家火消がある。武家火消は幕府旗本支配下の定火消と大名火消がある。辰五郎の町火消十番組は総勢731人で、町火消の最後にあたり、人数も一番少なかった。そのため、他の町火消、武家火消に対する対抗心も強く、常日頃は鳶人足をしながらも、博打好きで粗暴な振る舞いをする者が多かった。

たまたま、大名火消の柳川藩火消との間で喧嘩があり、柳川火消側に十数名の死傷者が出た。これにより辰五郎は江戸追放となるも、夜には妻妾の家に戻り、配下を指示したため、さらに佃島送りとなる。この佃島で小金井小次郎と知り合い、本郷円山からの火事が佃島に及んだ際、小次郎と二人で囚人を指導して火消に努め、その功により赦免されたという。

博徒の親分と鳶の頭の違いは、鳶の頭は町民支援の手前もあって、浮浪者を居候にしないが、博徒の親分はその気兼ねがなく、浮浪者、無宿人を食客とする点に違いがある。

その点では辰五郎は、勢力範囲が浅草一帯で、香具師、大道商人の売上のカスリが収入の中心のため、町民に対する気兼ねもなく、浮浪者も遠慮なく置き、スリ、誘拐者など無法者も支配下に置いた。そのカスリ銭、付け届けの金を押し入れに投げ込んでおいたところ、重さで床が抜けたという。弱者には強く凶暴であっても、強者には極めて従順であったのが辰五郎の本質である。

新門辰五郎は、娘が徳川慶喜の愛妾であった関係で、慶喜が京都警備で上京した際には、子分300人を連れて随行している。また、慶喜が鳥羽伏見の戦いで敗れ、開陽艦に乗って江戸に逃げ帰った時には、大阪城に大金扇の馬印を置き忘れ、辰五郎がこれを城内から持ち出し、陸路東海道から江戸に持ち帰った。慶喜が水戸へ謹慎となった時は、2万両の用金を辰五郎が水戸へ輸送したという。

これらが後日、美談として伝えられている。しかし、当時、官軍側がそれほど優位な情勢ではなく、権力中心は幕府にあり、判官贔屓の江戸庶民の気持ちが辰五郎の美談につながったもので、褒めるほどの事ではない。唯、辰五郎が、徳川氏を天皇より上に考えていたことは事実である。明治になって、祭礼の提灯に、上に日の丸、下に葵の紋がつけてあるのを見て、怒った彼は、提灯を破り捨てたという。

慶喜が駿府に隠遁したとき、辰五郎も同行し、下桶屋町の大見文蔵宅に寄宿した。このとき清水の本町の回漕問屋・松本屋兵右衛門の仲立ちで清水次郎長と兄弟分の盃を交わした。明治2年12月、辰五郎69歳、次郎長49歳だった。それから6年後、明治8年(1875年)9月、辰五郎は馬道の自宅で、76歳で病没した。辞世の歌に
  「思いおく、まぐろの刺身、ふぐと汁
       ふっくりぼぼに、どぶろくの味」

真偽の程はわからないが、好きなものを並べたもので、上品な歌ではない。

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新門辰五郎の弟分博徒・小金井小次郎


写真は新門辰五郎の墓。東京板橋巣鴨の盛雲寺にある。戒名「徳広院正誉真覚居士」
昭和49年9月19日俗名新門辰五郎100回忌記念。

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義理と人情に生きた博徒・吉良仁吉

2017年02月03日 | 歴史
吉良仁吉は、村田英雄の歌「人生劇場」で有名な博徒である。清水次郎長の子分として、荒神山の喧嘩で壮絶な死を遂げた「義理と人情に生きた博徒」でもある。

(博徒名) 吉良仁吉  (本名)太田仁吉
(生没年) 天保10年(1839年)~慶応2年(1866年)  享年28歳
      勢州高神山観音寺境内の裏山で喧嘩死

三州吉良仁吉は、三河国幡豆郡上横須賀村御坊屋敷(現・愛知県西尾市)の小作農出身である。別名「御坊善」の博徒名を持つ父親・太田善兵衛・りきの長男として生まれた。

仁吉は、子供の頃、綿の実買いの手伝いをし、やがて知多郡半田村(現・愛知県半田市)の酢屋に奉公に出る。子供の頃から体格は大きいが、吃音であったらしく、人との付き合いは苦手であった。15歳の頃、半田の奉公先から帰った仁吉は、地元博徒の親分・寺津間之助の子分となる。父親「御坊善」の影響があったと思われる。

仁吉はどのような人物であったのか?
仁吉の姉・板倉いちの二男・倉蔵の証言が残っている。仁吉が死亡した時、僅か10歳だったが、母親・いちに連れられ、仁吉の遺体と対面している。仁吉は幼いころ疱瘡を患い、長じてもその痕が残るあばた顔で、身長6尺(1.8メートル)の大男であったという。

仁吉は、たまたま博徒仲間の争いで喧嘩相手を撲殺した。そのため、寺津間之助の兄弟分である清水次郎長のもとに博徒修行を兼ねて一時逃亡した。その後、安政7年(1860年)ごろ地元に戻った仁吉は、間之助のところで再度修業しながら吉良一家を構える。次に仁吉の名が出るのは、清水一家の平井亀吉、黒駒勝蔵襲撃事件の時である。この時、仁吉は子分3人を連れ、清水一家34人と襲撃に参加している。

仁吉が戦死したのは有名な「荒神山の喧嘩」である。喧嘩の発端は勢州桑名の博徒・穴太徳次郎(別名・安濃徳)が、次郎長・間之助と親しい勢州神戸町(現・三重県鈴鹿市)の博徒・神戸長吉の縄張りを奪ったことによる。縄張りを奪われた神戸長吉は寺津間之助に助けを求めた。当時、間之助は55歳高齢だったため、間之助の代わりに仁吉が助っ人となった。

たまたまそこに寺津間之助宅に厄介になっていた清水一家の大政が居り、長吉を助けようと立ち上がった。その頃、大政は、飯田の「なめくり初五郎」との喧嘩出入りで、相手が逃げ込んだとの理由で百姓の家を焼き払ってしまった。これを次郎長に咎められ、堅気衆に迷惑かけたと次郎長の勘気を被り、寺津一家に一時、難を避けて寄宿していた。

大政は、ここで何かひと働きして、手柄話を持たなければ、清水に帰れないと神戸長吉の助っ人を買って出た。大政一行には、桶屋の鬼吉、大瀬半五郎、法印大五郎、益川仙右エ門らの子分たちが同行していた。

荒神山一帯では、毎年4月上旬に神社、寺院のお祭りが続く。祭りには地元博徒が野天博打の賭場を開催するのが常である。この祭りの時期に清水一家は長吉一家の縄張り奪還抗争を開始する。

船で三河から伊勢に向った清水側部隊は、清水一家の大政以下9名、吉良一家は仁吉以下7名、神戸一家は長吉以下7名、総勢23名である。対する穴太徳側は、穴太徳次郎、角井門之助以下雲風亀吉子分20余名を加えた、総勢40余名である。戦闘参加人数は、穴太側100名以上、長吉側50名余りとの説もあるが、話が大きすぎる。

舞台となった高神山観音寺周辺には標高85メートルの高塚山がある。近くの加佐登神社裏に陣取った長吉側に対し、穴太徳側は高塚山頂上に陣取る。慶応2年4月8日朝、戦いの火蓋が切られた。

穴太徳側は猟師に鉄砲を持たせ、「先ず肥大の者を撃て」と、大政と仁吉を狙い撃ちさせたところ、仁吉が撃たれた。仁吉が木の根元にしゃがみ、槍を肩にかけ苦しんでいると、穴太徳側の角井門之助が仁吉を見つけ斬りかけた。仁吉が槍で防いでいると、そこに仁吉を探していた長吉の子分・久居才次郎が駆けつけ、槍を投げつけ門之助を斬り倒した。敵将門之助を討ち取られた穴太徳側は戦意を失い、総崩れ、逃走した。

重傷を負った仁吉は戸板で山下まで運ばれたが、鈴鹿郡上田村から石薬師に至る途中の畑で絶命した。享年28歳の若さである。この喧嘩で即死した者は、穴太徳側は角井門之助はじめ5人、一方、長吉側の即死者は、仁吉の子分船木幸太郎、清水一家の法印大五郎以下4人という。

但し、法印大五郎即死説は間違いと言われている。「東海遊侠伝」は天田五郎が次郎長から聞いた話を、20年後に記したもの。曖昧な記憶に基づくもので事実と違っても不思議はない。

長吉側の重傷者は、吉良仁吉以外に3名いる。清水一家の大瀬半五郎・清次郎、長吉一家の糸屋市五郎である。軽傷者は、清水一家が保太郎・勝太郎、吉良一家が松坂米太郎・伏見桃太郎・小山田丹蔵、長吉一家が四日市敬次郎・久居才次郎・神戸宇吉の合計9名である。

浪曲では、仁吉の妻は穴太徳の妹「きく」とされ、荒神山へ出かける直前に、仁吉は新妻であるにもかかわらず離縁して決意を固めたとしている。つまり「義理と人情」のため、命を落とす任侠道の世界と美化された由縁である。

しかし、仁吉の姉いちの子である板倉倉蔵は、「仁吉には真の女房というものはなかった」と、後日、語っている。喧嘩のために妻を離縁した話は講談師・神田伯山によるまったくの創作である。だが創作としても義理を通して、若くして逝った吉良仁吉の生き方に、人々の心に通じるものがあったのかもしれない。

仁吉の死後は太田勘蔵が吉良一家の跡目を継いだ。勘蔵は仁吉の従弟に当たり、仁吉より一つ若い。この勘蔵も明治13年2月3日、41歳で死亡した。勘蔵には子供がなく、勘蔵の妻おせんは男を作って出奔した。当時、政府は博徒の取り締まりを強化していたため、吉良一家も衰微、一家は自然消滅した。


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次郎長より有名な博徒・森石松

次郎長一家の平井亀吉・黒駒勝蔵襲撃事件



下の写真は吉良仁吉の墓。法名は「釋馨香」。源徳寺(愛知県西尾市吉良町)にある。
清水次郎長建立の説があるが、実際は広沢虎造の浪曲で有名になり、昭和になってから建立された。更に尾崎士郎の「吉良の男」でも有名になった。

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関東取締出役を翻弄した博徒・石原村幸次郎

2017年02月02日 | 歴史
武州熊谷石原村(現・埼玉県熊谷市)の無宿幸次郎という博徒をご存じであろうか?

石原村幸次郎は、嘉永2年(1849年)、武蔵国熊谷宿あたりに突如出現し、武装したアウトロー集団を結成、次々と殺人、強盗、拉致傷害などしたい放題、挙句の果てに逃亡、甲州から駿河と、行く先々を荒らし回り、甲州に舞い戻り、信州までわがもの顔で横行して、悪の限りを尽くした博徒一味の頭目である。

最後は、甲州勤番に捕縛され、江戸小塚原の刑場の露となった博徒である。この騒動は、幕府の治安警察力を蹂躙し、その組織の弱点を露呈させた。しかし、無宿幸次郎の名はほとんど知られていない。

(博徒名)石原村幸次郎  (本名)石原村無宿幸次郎
(生没年)文政5年(1822年)~嘉永2年(1849年)  享年28歳
     江戸小塚原刑場で獄門

関東取締出役が、石原村幸次郎一味の悪行を把握したのは、嘉永2年8月のことである。幸次郎は、熊谷宿の絹商人を襲って300両を強奪、道案内の板井村の八五郎を恐喝して金を奪い、熊谷宿髪結い林蔵の女房さくを拉致するなど、悪党ぶりを見せつけた。一味の総勢は21人、長脇刀、槍、鉄砲まで携帯、武装し、電光石火のごとく犯罪を起こし、神出鬼没、逃げ足も速い。

嘉永2年は関東取締出役とって大変な年であった。この年、下総利根川流域では博徒・勢力富五郎一味が大暴れし、その捕縛に必死であった。関東取締出役の手勢だけでは幸次郎一味を捕縛は困難である。そのため関東取締出役の指揮、命令下にある各村の自衛組織の「改革組合」を利用した。

幸次郎一味捕縛のため各村に改革組合の動員をかけ、川越藩の協力も得て、総勢4,000人余りの体制を引いた。しかし、人数は多いが農民等素人の集まりで、お祭り騒ぎ的捕りものでは、費用のみ掛かり、成果は殆どなかった。

幸次郎一味21名は、包囲網を逃れ、武州を南下する。甲州鰍沢で博徒の目徳を殺害、駿州一本松新田(現・沼津市)の質屋源兵衛から35両強奪、遠州相良の博徒富五郎を襲撃など次々に事件を起こす。

一方、伊豆、駿河支配の韮山代官江川英龍は、捕縛のため最新鋭ドントル銃を持たせた手代を派遣し、幸次郎一味と激突、2名捕縛、1名射殺するも、幸次郎本人は取り逃がした。

信州東山道山岳地帯に逃げ込んだ幸次郎一味は、中之条代官の必死の捜索で、信州岩村田宿(現・長野県佐久市)、長久保宿(現・長野県小県郡)で子分たちを捕縛し、遂に、嘉永2年9月2日、甲州勤番が幸次郎をお縄にした。

まさに幸次郎と関東取締出役の疾風怒涛の3ケ月間の戦いにより幸次郎一味は壊滅した。しかし、捕縛は、管轄外の韮山代官、中之条代官、甲州勤番の手に委ねられていた。これはいかに、関東取締出役の警察力が弱体化していたかを示している。

捕縛された14人の構成は、無宿9人、百姓4人、浪人1人である。幸次郎は江戸送り後獄門、5人は死罪、2人は吟味中牢死、残りの6人は不明である。この騒動は石原村無宿幸次郎・田中村無宿岩五郎連合と伊勢古市の伝兵衛一家・伊豆間宮の久八連合の博徒同士の抗争が背景にある。

石原幸次郎騒動があった時代は丁度、国定忠治が中風で倒れ、捕縛された時代である。また当時は関東取締出役と勢力富五郎と壮絶な抗争のあった時代で、博徒も鉄砲で武装しており、捕り手方・韮山代官江川英龍配下の柏木捻蔵隊もドントル銃で武装していた時代である。

江戸後背地の関八州は、御三家水戸藩以下、譜代、旗本の知行地、直轄領であるが、幕府に裁判権、警察権の権限のない分割支配地である。しかも相互複雑に錯綜しており、集中統一支配は困難を極めた。したがって、関東取締出役の警察力の拡充は最後まで未了のままに終わったのである。

国定忠治、勢力富五郎は東映映画でもヒーローとして知られている。しかし石原村幸次郎は同じ時代ながら、彗星のごとく登場し、瞬く間に走り去った博徒であり、人々の記憶にも残らない無宿渡世の英雄である。
(参考)「アウトロー・近世遊侠列伝」高橋敏著・敬文社


(参照)関東取締出役との抗争で自決した勢力富五郎



写真は韮山代官江川英龍配下柏木捻蔵隊が保持した「ドントル銃」持ち運びに便利で連発式である。 
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