「八丈島流人銘々伝」によると、万延元年(1860年)10月に八丈島で利右衛門を主犯とする過去最大の島抜け事件が起こった。島抜け計画連判状に署名した流人は40数名、参加した流人は30人に及んだ。
首謀者の利右衛門は無宿人で26歳のとき、天保14年(1843年)5月賭博の罪で八丈島に送られ、大賀郷村に預けられた。その後に「あま」という水汲み女をめとり、八丈島に来て18年が経過していた。
利右衛門は三根村の名主の家に押し入り、鉄砲、火薬の武器を奪う。その後、各村を襲撃して仲間を増やし、全員で島役人の陣屋を占拠して、陣屋の船を奪い島抜けする計画だった。
その計画は最初から破綻した。副将格の兼吉が連判状を落とし、それを拾った村人が陣屋に届けたからだ。村々に伝達が飛び、直ちに捕り手が流人小屋にいた利右衛門と3人の仲間を捕縛し、入牢させた。計画の暴露を知った兼吉らほかの仲間7人は、樫立村の名主を襲い、一家をめった斬りして鉄砲、火薬を奪い、山中に逃げ込んだ。
島役人は一味の妻である水汲み女8人を捕らえて、山狩りを行い、兼吉ら一味全員を捕縛した。主犯の利右衛門と副将格の兼吉は牢内で責め殺されて死亡した。流人の中には逃亡中に自殺した者も多く、捕らえられた者は見せしめに残酷な処刑が行われた。
中之郷の流人は村人たちに木づちで頭を打ち砕かれ殺された。それだけでなく、事件に無関係であっても、日ごろから評判の悪い流人はこの事件に関連させて、すべて処刑し、病死扱いとして処理された。
八丈島同様に多くの流人がいた三宅島とともに、八丈島はこの島抜け事件に懲りて、今後は「流人免除扱い」を幕府に申し出た。しかし幕府はこれを無視して、三宅島にますます多くの罪人を送り込み、島では招かざる流人との間で血みどろの対決を余儀なくされていった。
ブログ内に下記の関連記事があります。よろしければ、クリックして閲覧ください。
八丈島流人・近藤富蔵という人
島抜け物語
写真は八丈島にある流人墓と言われる丸い墓
写真は新島にある流人牢屋跡
首謀者の利右衛門は無宿人で26歳のとき、天保14年(1843年)5月賭博の罪で八丈島に送られ、大賀郷村に預けられた。その後に「あま」という水汲み女をめとり、八丈島に来て18年が経過していた。
利右衛門は三根村の名主の家に押し入り、鉄砲、火薬の武器を奪う。その後、各村を襲撃して仲間を増やし、全員で島役人の陣屋を占拠して、陣屋の船を奪い島抜けする計画だった。
その計画は最初から破綻した。副将格の兼吉が連判状を落とし、それを拾った村人が陣屋に届けたからだ。村々に伝達が飛び、直ちに捕り手が流人小屋にいた利右衛門と3人の仲間を捕縛し、入牢させた。計画の暴露を知った兼吉らほかの仲間7人は、樫立村の名主を襲い、一家をめった斬りして鉄砲、火薬を奪い、山中に逃げ込んだ。
島役人は一味の妻である水汲み女8人を捕らえて、山狩りを行い、兼吉ら一味全員を捕縛した。主犯の利右衛門と副将格の兼吉は牢内で責め殺されて死亡した。流人の中には逃亡中に自殺した者も多く、捕らえられた者は見せしめに残酷な処刑が行われた。
中之郷の流人は村人たちに木づちで頭を打ち砕かれ殺された。それだけでなく、事件に無関係であっても、日ごろから評判の悪い流人はこの事件に関連させて、すべて処刑し、病死扱いとして処理された。
八丈島同様に多くの流人がいた三宅島とともに、八丈島はこの島抜け事件に懲りて、今後は「流人免除扱い」を幕府に申し出た。しかし幕府はこれを無視して、三宅島にますます多くの罪人を送り込み、島では招かざる流人との間で血みどろの対決を余儀なくされていった。
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