兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

うつ病の尾張藩士小山田勝右衛門

2017年12月22日 | 歴史
尾張藩主側近である御小納戸職の職務記録の「御小納戸日記」にうつ病に罹った藩士の記録が載っている。

それは尾張在勤の御小納戸小山田勝右衛門高明という藩士である。小山田は家禄150石をうけ、藩主の側近として藩主の日常生活の下働きをする武士である。小山田は病気がちであり、いわゆる「気分不快引籠」つまり塞ぎ込み、引きこもるうつ病に罹っていた。そのため、天明8年(1788年)正月から上司の御小納戸頭取を通じて、欠勤届を出す日々が多くなった。その後、月の半分は欠勤する月が夏まで続いた。

御小納戸職の最上級の上司側用人らは、小山田の病状を気にかけ、城内勤務の仕事から、極力気分転換できる出張の仕事を与えている。この年の1月、京都の建仁寺門前町で大火災が発生、九条家、故近衛家など尾張藩親戚の公卿衆への火事見舞いのための使者として京都出張である。

2月4日に名古屋を出発、同月8日に京都に到着、三条大橋の柊屋万太郎の旅宿に滞在し、2月12日に名古屋に帰着している。単にお見舞いの金品を届けるだけで、公卿衆に面会する必要もなく、気楽な仕事であったようである。

次に、小山田は御深井御庭の弁財天への代参の仕事を命ぜられている。5月9日に弁財天の神事があり、小山田が藩主の名代として参詣している。弁財天参詣のお礼として、藩主及びその家族あてにお礼の金品を預かり、藩主に進上している。これらは「うつ病」的病状の小山田にとってやりやすい仕事であり、失敗もなく、小山田の周囲の同役が積極的に支援して、このような簡単な仕事をさせていたのだろう。

同年6月23日、小山田の実弟で尾張藩の医師を務めていた浅井万右衛門が病死した。これを受けて、小山田のうつ病もさらに悪化、進行し、再び城内勤務の仕事も休みがちとなった。

小山田は、8月23日、江戸下屋敷戸定詰足軽頭に任命される。この転役により、小山田は尾張在勤から江戸在勤になった。その理由、目的は江戸での転地療養により、医療最先端地の江戸で、良医に小山田の病気の診察をさせるためであった。本人の周囲の同役、藩当局も本人の病気を認め、必死で本人を支援している。まさに温情ある措置である。

その後、江戸での療養の小山田の経緯は記載されていないが、おそららく病気も改善し、江戸から名古屋に戻されているのだろう。享和3年(1803年)死去し、長男の新之助が跡目を継ぎ、馬廻組を拝命している。さらに新之助は犬山成瀬氏の寄合となり、文政10年(1827年)死亡している。小山田家の存続は、上司、同役、藩当局の支援があって初めて可能となる。今も昔も「うつ」に向き合うには周囲の支えが必要であることはなんら変わらない


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写真は昔「御深井御庭の弁財天」があった場所である。現在は宗像神社となっている。場所は名古屋城の西側、名古屋市西区浄心 財弁天通り沿いにある。

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