兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

平井一家3代目 博徒 原田常吉№4

2013年08月02日 | 歴史
晩年の原田常吉の行動を知らせる新聞記事が扶桑新聞に載っているので下記に紹介する。

「侠客の美挙」  (明治31年10月28日付けの新聞記事)

「三河国宝飯郡豊秋村大字平井、原田常吉は名を遠近に知られたる侠客なるが、去る頃より専ら教育等公共事業 に熱心にて、このほど同じ村の第二尋常小学校へオルガン(代金20円)、また伊奈村ほか、二ケ村組合高等小学校へ木銃百挺を寄付せり、奇特なると云うべし。」

常吉は、晩年、「今まで沢山の人を傷つけ、殺したりしたことの罪を悔いて、善根を施すことに努め、方々の神社仏閣に寄進したり、日清、日露の戦争に際して多額の軍資金を献納したり、故郷の平井村一帯、近在の生活の苦しい者に金品を恵んだりした」と常吉実談に述べられている。

地元で、常吉の自宅隣に住んでいた元小学校校長の藤田氏が常吉晩年の頃の話が残っている。

親分さんは、背丈が5尺6寸ほどあり、スンナリした体つきで、若いころは好男子であったとのことです。近所の人もご隠居と呼んでいました。村人に会うと必ず道を譲り、「ご精が出ますな」と愛想よく声をかけたそうです。

所用で豊橋に出かけて、人力車で帰る時でも、必ず村境で降り、歩いて家まで帰るのが常で、自宅の門前まで人力車を乗り付けることはしなかったそうです。不思議に思い、尋ねたところ、「村の衆たちが一生懸命に働いているのに、無宿渡世であった自分が車で乗り切っては相すまぬ。」との返事だったそうです。

時折、修行中の渡世人が立ち寄ることがあっても、草鞋銭を渡したうえ、「渡世人は決して堅気のひとに嫌われるような行いをしてはいけない。」とよく諭しておりました。

ある時、初老の物乞いが幼い子供を連れて自宅の門口に立ったことがありました。親子はボロボロの衣服を着て子供の頭は毛じらみでいっぱいでした。ご隠居は見かねて、衣服を与え、庭先で湯を沸かし、子供の頭を洗髪してやったそうです。そんな慈悲深い親分でしたと語っている。

原田常吉が波乱万丈の生涯を閉じたのは、大正4年2月6日午前1時、享年84歳であった。

博徒と言うと、「無頼の徒」のイメージが強いが、まれには常吉のごとく、本来の男気、または義気を有し、代償を求めず、弱者の味方となり、「弱きを助け、強きを挫く」いわゆる「侠客」「任侠の徒」もいたということを明らかにしたい。
(参考)「侠客・原田常吉」中尾霞山著

ブログ内に下記の関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
平井一家3代目 博徒 原田常吉№3

写真は原田常吉の墓。正面に常吉の法名「最成院釈常念」と妻の法名「正心院釈尼妙楽」とある。
墓は常吉の跡目を継いだ清水善吉が常吉存命中の明治38年12月に建てたもの。妻の名は「きみ」とあるが、除籍原本を見ると妻の名は「きん」で、「名古屋区杉出町平民・加藤こう亡夫松蔵長女、嘉永2年4月10日生」とある。

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