兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

幕末志士と芸者「維新侠艶録」志士の素顔

2023年10月20日 | 歴史
「維新侠艶録(いしんきょうえんろく)」井筒月翁著・中公文庫2007年11月発行

本書初刊は昭和3年12月、萬里閣書房から発行された本の文庫本化である。

著者の井筒月翁の経歴は明らかではないが、著者自身が京都祇園新地の芸者中西君尾、大阪南地宮田屋の芸者お雄、下関遊郭の芸者津山太夫、横浜富貴楼の芸者お倉からの話を聞き書きしたものである。それなりの脚色もあり、どこまで本当か判然としない。

高杉晋作は下関(当時は馬関と言った)の廓芸者・おそのと相思相愛の仲になった。高杉は24歳、おそのは5歳下の19歳。高杉は絶えず幕吏に追われ、変装して西、東へと隠れ歩いた。その間、おそのは常に短刀を懐中に入れ、高杉の身の回りを警戒していたと言う。

高杉が肺病で死去したのは28歳、おそのは23歳、連れ添ったのは4年間あまりである。高杉死後は長州吉田村に引き込み、髪を下ろし梅匠尼と名乗り、明治42年8月、出家したまま、死去した。

長州藩維新の志士は多くが当時下関で知り合った芸者を妻とした。伊藤博文の妻・梅子などがいる。井上馨は馬関の芸者力松を落籍した。しかし力松との世帯は3か月で終わり、その後、お照という舞妓を男装させ、小姓侍に変装、いつも若侍として連れていた。

後に参議、枢密院議長、内務大臣となった副島種臣は若い頃、女嫌いで有名だった。その副島が江戸築地の遊郭梁山泊の美人芸者小浜を見初めた。
その頃の副島は着るものに無頓着、風呂にも入らず、汚くて人が避けて歩くほどだった。小浜も一度は断ろうとしたが副島の真面目さに負けて、遊郭の女将に副島を小浜の家に一週間預かりたいと申し出た。

小浜は居候の副島に命令して、湯屋で毎日、三助に垢を落とさせ、床屋で散髪、日本橋の大丸呉服店で着物を仕立て着させた。馬子にも衣装どころか、根が立派な美男子のため、隆々とした男丈夫に変身した。

小浜は今から井上馨、伊藤博文に挨拶に行くから、ついて来なさいと言われる。井上、伊藤は副島を見ても別人、「お前が副島か?」と驚いた。一週間後、井上らが祝宴を開き、二人の契りを結んだと言う。

久坂玄瑞は小柄な男、いつも頭は坊主だった。なかなか粋な男で詩歌にも通じていた。中西君尾が記憶している都都逸を下記に並べる。

「咲いて牡丹と言われるよりも、散りて桜と言われたい」
立田川無理に渡れば紅葉が散るし、渡らにゃ聞こえぬ鹿の声」
「鴨川の浅き心と人に見せ、夜は千鳥で鳴きあかす」

久坂は京都島原角屋の芸者(本名は竹内辰)お辰(辰路とも言う)と馴染だった。お辰と一緒に外出のとき、久坂と桂小五郎が路上の易者に占ってもらった。桂はさほど悪くはないが、久坂は不時の死をすると出た。「どうせ国のため死ぬ。早いも遅いもない」と笑った。

中西君尾の話によると、西郷隆盛は太った、肥えた女が好きで、ゾウのように肥満した女性を愛した。京都祇園の奈良屋のお虎という仲居を可愛がったみた

西郷が倒幕のため、京都を出発するときに、お虎は別れを惜しんで、京都から大津まで駕籠に乗って見送った。西郷は「戦の門出に虎が送ってくるちゅうは縁起がよか」と上機嫌で、褒美に30両を出したという。

お虎は西南戦争で西郷が死んだと聞いて、ひどく悲しみ、それから3年後にお虎も死んだ。君尾は「女で西郷さんからお金を貰ったのはお虎さんだけでしょう」と言う。

西郷は酒席では、無邪気に遊ぶだけ。偉いのか、馬鹿なのか得体のわからない人だった。酒を飲んでも大声を出すのでもなく、芸者と遊ぶわけでもない。ただ静かに邪気なく遊ぶだけだった。

祇園の川端井末の女将のお末も豚のように太っており、西郷はお末を追っかけた。お末は逃げてばかりで、西郷も諦めて、相撲甚句を踊って帰って行った。

お末は後にあの西郷吉之助が偉い人と聞いて「へえ、あの人が・・」と驚いたと言う。大西郷の面目躍如たるものがある。
維新志士の普通の一般人と変わらない素顔が見える。貴重な本である。


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女性から見た維新史「勤皇芸者」

下の写真は山口県萩にある高杉晋作の墓。吉田松陰の墓と並んでいる。

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女性から見た維新史「勤皇藝者」

2023年10月06日 | 歴史
勤皇藝者」小川煙村著・マキノ書店1996年2月復刻版発行

著者は明治10年(1877年)京都で生まれ、「やまと新聞」の記者を経て作家となった。原本は明治43年発行。本書はその復刻版、定価50銭とある。本書は「中西君尾」という京都の芸者から著者が聞き取った直話をもとに、脚色つけて執筆された小説、いわば女性からの維新史である。

主人公の君尾は、丹波国福井郡西田村の博徒の親分・友七の娘で、本名を君と言う。父・友七は博徒の喧嘩で殺され、君尾は母親ともに京都に移り住む。母子ともに地元では美人で有名だった。

君尾は文久元年(1862年)春、17歳で祇園新地の島村屋という置屋から芸鼓として売り出された。なお、芸者とは東京の呼称で、京都では芸鼓と称し、見習い修行中を舞妓と称する。

高杉晋作の取り持ちで井上馨の馴染みとなる。関白九条尚忠の腹心である島田左近の馴染となって隠密活動もする。島田左近はその後暗殺される。元治元年(1864年)池田屋事件から禁門の変の頃には品川弥二郎と馴染みとなり、鳥羽伏見の戦いで品川が作った「トコトンヤレ節」は君尾が節付けしたものとされる。

井上馨は伊藤博文と英国への密航を計画、大村益次郎と相談、御金蔵5千両を取り出して実行した。帰国後、長州藩は俗論派と正論派が対立。元治元年9月29日、井上は反対派に襲われた。傷は全身、40針以上縫う重傷で三日の間ピクピクと息をするばかりだった。逃げる途中、溝の中に落ち、腹を刺されたが、助かったのは密航出発の際、君尾が送った鏡が懐中にあったため。鏡が剣の切っ先をカチリと受け止めていた。

高杉晋作と祇園町の置屋井筒の芸鼓・小りか、桂小五郎と三本木の芸鼓・幾松、山県有朋と祇園町の舞妓・小菊・小美勇、久坂玄瑞と島原の芸鼓・辰路など、長州藩士馴染の芸者たちの名が挙げられている。久坂の馴染の芸鼓・辰路は本名を辰といい、姓は西村、京都島原の置屋桔梗屋に在籍した。辰路が久坂と知り合ったのは19歳頃と言う。

新選組の近藤勇も君尾の気っ風の良さと美しさに魅かれ、言い寄った。君尾は近藤勇の男らしさに魅かれるも、勤皇派芸者、佐幕派の近藤に勤皇派に転向すれば応諾すると答えた。近藤は「それは出来ぬ」と手を引いたという。

桂と幾松について、桂が「箱回しの源助」と偽って京に潜入活動中、新選組の近藤勇に問われたとき、君尾の機転で窮地を脱する逸話も紹介されている。「箱回し」とは首から箱をぶら下げて、箱の中の人形を操作し、三味線を弾きながら、路上で投げ銭を得て生計を得る大道芸人を言う。

幕末当時、京都諸藩の遊ぶ茶屋は決まっている。これを「お宿坊」と称する。長州藩は縄手大和橋北入東側の魚品、薩摩藩は末吉町の丸住、土佐藩は富永町の鶴屋、新選組は一力とそれぞれ決まっていた。

桂小五郎の幾松はすでに近江商人の旦那が付いていた。伊藤博文が置屋の女将を刀で脅かして桂との仲を認めさせたという。強引ではあるが、一応置屋の内諾を得ていたのである。

桂小五郎(木戸孝允)のように芸鼓を正妻にすることは、当時の武家社会では大変なこと。その後の写真を見ると、確かに美人である。それ以上に同志的な結合があったのだろう。

写真は松下村塾


写真は久坂玄端の墓


写真は萩にある高杉晋作の墓。
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