兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

唐獅子牡丹のモデル・飛田勝造

2022年01月14日 | 歴史
「昭和史の隠れたドン・唐獅子牡丹・飛田東山」西まさる著・新葉館出版2020年9月発行

著者は1945年生まれ、はんだ郷土史研究会代表幹事、作家・編集者である。「次郎長と久六」「吉原はこうつくられた」「戦時下の東南海地震の真相」等、多くの著書がある。

飛田東山(本名・飛田勝造)という名を知っている人は少ない。私もこの本を読むまで知らなかった。飛田東山とは何者なのか?
(通称) 飛田 東山  (本名) 飛田 勝造
(生没年)1904年(明治37年)~1984年(昭和59年) 病死 享年80歳

背中に背負った唐獅子牡丹の彫り物と「弱きを助け、強きを挫く」その行動によって、任侠映画「唐獅子牡丹」のモデルになった人物である。尾崎士郎「人生劇場」吉良常のモデルとも言われる。

映画化は、飛田勝造の半生を描いた宮沢有為男「侠骨一代」を読んだマキノ雅弘が高倉健の「唐獅子牡丹」をシリーズ化した。だが飛田はヤクザではない。むしろヤクザを嫌い、ヤクザの更生に尽力した。

飛田勝造は、1904年(明治37年)8月24日、茨城県磯浜町(現・大洗町)で水戸藩浪人・国五郎の子として生まれた。
9歳の頃、東京神田三崎町の材木店へ丁稚奉公に出て、10年後に徴兵、2年で除隊、21歳から東京芝浦で人夫、沖仲士を経て、土木建築、船舶荷役業の飛田組を設立。いわゆる労働者供給業である。

飛田勝造は、下層労働者の働き先確保のため、1936年(昭和11年)東京都による青梅・小河内ダムの建設工事を請け負う。
全国から前科者を中心に670人以上の人夫を集め、工事着工する。荒くれ者の人夫教育のため宿舎内に「日本精神修行導場」を設置する。軍隊式教育と任侠精神の修行道場を運営した。

工事着工1年経過すると、受注できなかった建設会社、前科者労働者を不安視するマスコミ、利権を求める政治家などが、地元民の土地払下げ補償問題に絡めて、工事中止の反対運動が発生した。

混乱を避けるため飛田は東京都から多額の解決金を取り、労働者に全額を分配し、ダム建設工事から撤退する。解決金は当時の金で12万5千円余り、現在価値で7.5億円。分配金は労働者一人当たり150万円に当たる。

その後、朝鮮の鉱山建設、戦時中の中国、満州での建設工事を受注する、軍部との繋がりができる。そこから上海人脈と言われる児玉誉士夫、笹川良一との関係が生まれた。M資金にも関係があるとの噂もあった。昭和史のフイクサーと言われる所以である。

戦時中、「扶桑会」労務者組織を創設、140万人の労働者を集め、松代大本営建設を手掛けた。戦後は青梅に「東山農園」起こし、奥多摩地域の開墾、開発に注力する。その中で生まれた人脈は、岸信介、中曽根康弘、渋沢敬三の政財界、稲川組稲川聖城のヤクザ、尾崎士郎、川合玉堂などの文化人と多彩である。

飛田東山は、昭和36年から16年間中断していた隅田川花火大会を昭和53年再開するのに努力した。「庶民にこれ位の楽しみがあってもいい」これが彼の思いだった。

弱者のために生きた飛田東山は、1984年(昭和59年)80歳で死去した。あまり知られない侠客だった。自らは旗本奴に対抗する「町奴」と名乗った。

飛田東山は右翼である。保守・右翼は「人間はそれほど賢くない。そこそこの生活が出来ればいい」と考える。革新・左翼のように未来や人間の知恵に過大な期待をしない。だからこそ弱い者、貧しい者の辛さ、悲しい気持ちが理解できるのかもしれない。


著者・西まさる氏に関連する下記記事があります。よろしければ閲覧ください。

吉原遊郭の遊女

悪玉博徒・保下田の久六



1968年東大闘争中の東大駒場祭ポスター。「止めてくれるな、おっかさん!背中のいちょうが泣いてる。男東大どこへ行く」
後に小説家となった当時の東大生・橋本治のコピーである。当時、非常に話題となった。


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函館の博徒・柳川熊吉

2022年01月02日 | 歴史
幕末、北海道の函館に柳川熊吉という博徒がいた。年齢は、清水次郎長より5歳年下である。熊吉は、榎本武揚旧幕軍と薩長官軍との五稜郭における函館戦争で放置された旧幕軍兵士の遺体を勝手に埋葬した罪で死罪の刑を受けた。

(博徒名)柳川 熊吉
(生没年)文政8年(1825年)~大正2年(1913年)
     函館で死去。 享年89歳

柳川熊吉は、文政8年、江戸浅草で柳川鍋料理店を営む野村鉄次郎の長男として生まれた。若いころ、当時浅草で売り出し中の新門辰五郎の配下となり、博徒稼業に入ったという。

31歳で人夫請負業をしていた時、函館奉行・堀織部正に命じられた五稜郭築城に伴う人夫集めのため、自ら人員を率いて安政3年に江戸から函館へ移った。その後、函館で料理店を営業しながら、子分600人を抱える博徒の親分になった。

明治2年(1869年)函館戦争が勃発した。敗北した賊軍・旧幕軍兵士の遺体は函館市内に放置されていた。官軍は遺体に触れれば、旧幕脱走軍に内通する者として厳重に処罰した。

この惨状を見かねて、柳川熊吉は実行寺住職・松尾日隆、大工棟梁・大岡助右衛門と相談して、子分とともに一夜のうちに放棄された遺体を収容した。そして市内4つの寺に埋葬した。その数は、浄玄寺107名、実行寺94名、願乗寺54名、称名寺3名、合計258名と言われている。

戦争終了後、旧幕軍の遺体処理の探索が行われ、熊吉は捕縛され、軍法会議で死罪が宣告された。熊吉は、取り調べに際し、子分とは盃を返し親分子分の関係を断ち、すべて一人で埋葬したと主張した。

断首刑実行の寸前に、薩摩出身の軍監・田島圭蔵が介入し、「熊吉の行動は人倫にかなう。こういう男をむやみに殺してはならぬ」の助言により、熊吉はかろうじて罪一等を減じられた。

後年、旧幕軍戦死者796名が、函館八幡宮の東、函館山中腹に合祀され、明治8年(1875年)7回忌に墓碑「碧血碑」が建てられた。碧血とは「義に殉じた武人の血は、3年経てば地中で碧玉となる。」と言う中国の言い伝えによる。

碑の裏側に「明治辰巳(1869年)に実にこのことあり、石を山上に立てて、以ってその志を表す。」と漢文で記載されている。具体的内容が記載されていないのは賊軍の影響があったためであろう。

熊吉は、碧血碑建立に尽力し、晩年は碧血碑の整備・管理しながら近くに居住し、大正2年、88歳で死去した。熊吉は死に際、家族に「今、何時だ?そうか、潮の引き時だな。人てぇいうものは潮の引くときに死ぬもんだ。じゃ、これで行くよ、あばよ」と言って死んだという。

柳川家代々の墓は実行寺にある。柳川熊吉の戒名は「典松院性真日樹居士」である。

碧血碑のある函館山ふもとの西側斜面、海を眺める高台に外人墓地がある。外人墓地の中に60年安保全学連委員長・唐牛健太郎の墓がある。墓は低い板型の墓地のため目立たない。彼は1984年3月、46歳で死去した。新選組土方歳三が函館戦争で戦死したのが34歳の若さ。近くには石川啄木の墓もある。啄木は26歳の若さだった。

下記に参考記事があります。よろしければ、閲覧ください。
賊軍幕府軍兵を埋葬した博徒たち

下の写真は函館八幡宮にある「碧血碑」 題字は五稜郭で榎本武揚とともに戦った陸軍奉行大鳥圭介の字と言われている。


下の写真は碧血碑の隣にある柳川熊吉の碑


下の写真は柳川熊吉の墓



下の写真は函館八幡宮近くにある石川啄木一族の墓


下の写真は函館山西斜面の外人墓地内の唐牛健太郎の墓


「唐牛伝・敗者の戦後漂流」著者・佐野眞一は言う。唐牛健太郎の妻・真喜子氏は唐牛を最後まで支えた女性である。彼女の魅力、存在感は夫・唐牛以上であると下記で語る。彼女は2017年11月22日死去した。

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コメント (1)
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