兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

次郎長を呼び捨てにした博徒・高萩万次郎

2022年11月15日 | 歴史
高萩万次郎という博徒を知っている人は少ない。江戸時代末期、笹川繁蔵・飯岡助五郎の天保水滸伝の頃から博徒として有名であり、武蔵国高萩(現・埼玉県日高市高萩)の出身で、明治中頃まで長生きをした博徒である。

清水次郎長より15歳年上である。次郎長が凶状持ちの旅に出たとき、万次郎は自宅に次郎長を匿い、次郎長は生涯、万次郎を親分と敬った。一方、万次郎は次郎長と呼び捨てにすることができたと言う。

(博徒名) 高萩 万次郎
(本 名) 清水 万次郎(別名・喜右衛門)
(生没年) 文化2年(1805年)5月10日~ 明治18年(1885年)5月22日
      享年81歳で死亡

高萩万次郎は武蔵国高萩の弥五郎の長男として生まれた。実家は名主で裕福であったが博徒の世界に身を任せ、赤尾林蔵に殺害された博徒・高萩伊之松の勢力を引き継ぎ、生家のある高萩上宿に高萩一家を構えた。当時、万次郎は武州きっての博徒として名を知られ、縄張りである飯能(現・埼玉県飯能市)には関東一と言われる高市が立った。

遠方各地にも出先の縄張りを持ち勢力を伸ばした。東海道では原、三島の二か所、中山道では天神橋、上尾に出先を構え、子分を派遣した。武州の博徒・小金井小次郎、小川幸蔵、府中の博徒・田中屋万吉(藤屋万吉)らは万次郎の盃を受けた弟分である。

万次郎は高萩宿で旅籠を経営し「鶴屋」を屋号とした。その鶴屋に次郎長は二回、訪れている。一回は、弘化2年(1845年)次郎長が地元清水で盆の上の争いで人を斬ったため、兄弟分の江尻の大熊とともに役人に追われ、逃亡したときである。

その頃、次郎長は、叔父の和田島太右衛門と津向文吉の争いの調停をして博徒として売り出しの真っ最中であった。2年間の逃亡の旅を終え、清水に戻って、次郎長は大熊の妹・おちょうを嫁にした。

次郎長は安政5年(1858年)甲州での出入りで役人に追われ、凶状持ちの旅に出た。途中、尾張で同行のお蝶を病気で失った。その際、不義理をした保下田久六の策略により恩義ある兄貴分・巾下の長兵衛が牢死した。

次郎長はその報復のため、知多乙川で久六を殺害した。その後、久六の兄貴分の常滑一家・中野兵太郎の報復を避けるため、逃亡の旅に出た。その旅の途中、安政6年、高萩万次郎宅に在留、それが二回目の訪問である。

二回目の訪問のとき、万次郎は次郎長に草鞋銭として百両を渡した。通常ではありえない金額である。万次郎の妻女は、駿府研町の出身であり、さらに妻女の身内の武州の清五郎は、次郎長と兄弟分との関係もあっただろう。このとき同行した森の石松は、「うちの親分も偉くなったものだ。旅の餞別が百両だ!」と周囲に吹聴したという。

どちらの時かわからないが、万次郎宅で盆の上での勝負があった。相手は上鈴木村の平親王平五郎という博徒である。平五郎は背中に平将門の入れ墨をしていたため、平親王と呼ばれた。この平五郎は次郎長に散々に打ち負かされた。次郎長の博奕の腕前は名人クラスだったという。

高萩万次郎は、甲州国分村の目明し的存在であった国分三蔵と同一人物という説がある。万次郎は、博徒・藤久保重五郎とは兄弟分で、江戸屋虎五郎、藤久保重五郎、高萩万次郎の3人は関東取締出役の道案内人を務めていた。

甲州博徒・竹居安五郎捕縛の際には関東取締出役が大きく関わったとされるためである。当時は別名を使うことが多く、本人確認も十分できなかった。しかし国分三蔵と同一人物の説は信憑性が少なく、現在では信じられてはいない。

万次郎生家のある高萩宿は「日光千人同心街道」と呼ばれる街道沿いにある。主要街道ではないが、八王子千人同心が日光東照宮火番の交代のルートである。その頃、万次郎は高萩宿の宿役人も務め、中山道熊谷宿より高萩宿に助郷命令が来たとき、助郷免除の嘆願をし、地元の助郷負担軽減に努力している。

慶応2年(1886年)武州一揆発生時には、高萩宿の外れで一揆衆に酒、食事を振る舞い、高萩宿の打ちこわしを回避させている。地元のために貢献している。明治15年には鶴屋で金比羅講を開催し、清水次郎長、津向文吉、桝川仙右衛門ら有名人が世話人として名を連ねている。


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下の写真は高萩宿の万次郎生家旅籠「鶴屋」跡地に万次郎が建立した金毘羅大権現碑。関東大震災、新潟中越地震、東日本大震災の影響で崩れ、地元の要望で2017年7月に再建された。
高萩宿は、八王子千人同心が日光の火の番を交代で務めるため、日光へ向かう「日光千人同心街道」沿いにある。八王子から6番目の宿場、人馬交代、継立ての宿場として繁栄した。



写真は高萩万次郎の墓。埼玉県日高市高萩1553、低い丘の林の中に墓地がある。
正面に「篤翁大儀居士位」右側面に明治18年5月22日、俗名・清水喜右衛門孝信・享年81歳。「悟翁貞道大姉」明治25年6月28日とある。妻であろう。左側面に「高萩村・孝子・清水仙次郎・商人身内中・寄子中」と記されている。
妻の除籍は「静岡県有渡郡麻屋町二丁目・平民・亡白金義平二女・喜右衛門妻・清水カノ、文政6年12月25日生まれ」とある。19歳年下である。


写真の向かって左側の墓は万次郎が建立した父母の墓。正面に「徳生大勇居士霊位」左側面に「慶応元乙丑年12月7日、施主高萩邑・清水万次郎」とある。更に左側は祖父母の墓。墓には「施主・清水弥五良」と万次郎の父の名前がある。

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遠州の博徒・山梨の巳之助

2022年11月12日 | 歴史
江戸時代末期、遠州で知られた博徒は、大和田の友蔵、都田の吉兵衛、相良の富吉、そしてここで取り上げる山梨の巳之助である。巳之助が渡世を張った山梨は現在の袋井市の北部、周智郡森町に近く、秋葉山への信仰の道・秋葉街道に沿った地にある。巳之助の家には常時20~30人の子分がいた。

巳之助の稼業は、表は興行師、裏はサイコロ賭博で暮らしていた。子分には播鎌の周太郎、堀越の藤左ヱ門がいた。正式な子分ではないが、一時は江戸相撲をつとめた四角山周吉も出入りしていた。のちに遠州博徒の一時代を築いた大和田の友蔵も巳之助のもとに出入りしていた。幕末の遠州博徒の世界は、山梨の巳之助、大和田の友蔵の二人によって仕切られていた。

巳之助が初めて捕らえられたのは弘北2年(1845年)12月である。駿河の博徒・安西の吉五郎、柳新田の政蔵が総勢100人余りを引き連れて遠州にやって来た。巳之助はこれを迎え撃つため、堀越の藤左ヱ門ら身内を集めた。この情報が中泉代官所に分かり、役人の御用提灯に取り囲まれ、捕縛された。

捕らえられていた巳之助はその後釈放され、山梨へ戻った。その後、安政5年(1858年)に起きた「万松寺事件」で再び巳之助は捕らえられた。万松寺事件とは、巳之助の子分が万松寺の住職を殺して、金を奪った事件である。巳之助はこの子分を匿った罪で、江戸伝馬町の獄舎につながれた。調べの結果、八丈島への島流しが決まった。

万延元年4月、八丈島に送られたのち、島破りの計画に加わったため、流罪が取り消され、死罪が決定した。万延元年(1860年)10月13日、八丈島で病死した。享年53歳だった。八丈島「流人帳」には下記のように記載されている。

「万延元庚申4月流罪 万延元庚申10月11日島抜露顕 同月23日日病死 無宿・巳之助」病死とあるが、おそらく責め殺されただろう。巳之助と一緒に島破りをした、高麗本郷無宿・秀次郎、常州寺具村宝蔵寺の如篤、甲州市川大門村百姓・忠吉、常盤町太助店吉五郎同居・鉄五郎、武州小和瀬村・竜蔵、亀島町忠七地借勘助召使・民蔵、西富岡村無宿・兼吉、小船木村無宿・喜助の8人も巳之助同様に、万延元年10月中に「病死」したと書かれているから間違いないだろう。

巳之助の墓は袋井市用福寺にある。墓の正面は、「古梅良香信士・大安妙道信女・各霊位」とある。左側面には「慶応三寅十二月」と刻まれている。これは慶応3年12月30日に没した巳之助の妻「三千」のことを示す。巳之助には子供が無かったため、巳之助は「松井」姓を名乗り、養子両もらいの形で家系をつないだ。

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三つ並んだ墓の写真は松井家一族の墓、一番左側苔むした墓が巳之助の墓である。中央の墓は松井家墓。右側は松井家の先祖の墓。



山梨の巳之助の墓。当初近くの南晶寺にあったが、廃寺となり、用福寺に移された。
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