寺津間之助(本名・藤村甚助・父親の名を襲名した。)は、清水次郎長より一つ年上で、次郎長と4分6の兄弟分の杯を交わした、三州幡豆郡寺津村(現・愛知県西尾市寺津町)の博徒である。
幕末の寺津村は、上横須賀村とともに沼津藩の飛び地領地として、大浜陣屋(現・愛知県碧南市)の支配下にあった。三河平野一帯は三河木綿の栽培地で、三河木綿の綿打ちが盛んに行われていた。寺津港は綿花、木綿、さらには古くからの吉良の製塩「饗庭塩」の物資集積地として繁栄していた。その物資は清水、伊豆経由で廻船で江戸に送られていた。
間之助は、父親の跡を継いで藩から十手取り縄を預かり、言わば博徒との二足草鞋を履いていた。身長、5尺6寸(1.76メートル)体重、24、5貫(90キロ強)と相撲取り並みの大柄で、寺津港に百石船3隻を保有、海運業でも稼いでいた。しかし、間之助の性格は、人との争いを嫌い、博徒渡世人としては、珍しく穏健な人物であったようである。
そんな間之助の性格が好まれたのか、清水次郎長は清水に居られなくなると、いつも寺津間之助の家に逃げ込み、常に間之助は次郎長の良き支援者であった。次郎長の妻、三代目お蝶は、三河西尾藩の侍、篠崎東吉の娘であり、同藩の侍と一度結婚して、清太郎という一子をもうけたが、その後に離婚し、清太郎は後に次郎長の家に引き取られている。
若き頃、次郎長は、寺津に逃亡滞在中、吉良の博徒親分である備前浪士・小川武一の弟子となり、昼は猛稽古に励んだと「東海遊侠伝」に記述がある。博徒剣法の修行も三河寺津で習得したわけである。当時、寺津一家の自宅の裏には、寺津港につながる水路があり、万が一の時はそこから舟で三河湾に逃れることができた。敵に襲撃されてもすぐに逃亡できる地形だったのだ。
昭和2年発行「名古屋地方裁判所管内博徒ニ関スル第2調査書」によると、吉良一家の項があり、「吉良一家は、嘉永期(1848年~54年)に初代寺津治助が立ち上げ大いに勢力を振るい、清水次郎長が食客となった。治助の跡目は実弟の藤村間之助で、次郎長と兄弟分となり、連携して勢力を拡大した。子分には大田仁吉(吉良仁吉)がおり、膂力胆力群を抜く存在となり、間之助は跡目を仁吉に譲った。」と記述されている。
しかし、これは間違いで、吉良仁吉は寺津間之助の身内子分であり、その後、仁吉の吉良一家は寺津一家から独立、一家を立ち上げたもので、両方を混同している。
寺津間之助には実子に定五郎がいるが、堅気で、鰻、焼きハゼの商売を行い、藤村家を継いでいる。唯一、博徒になったのは、孫の牛五郎で、祖父・間之助の名声に憬れ、龍の彫り物を入れて、一時、清水一家の食客にもなっている。そのため、藤村家は牛五郎の弟の幸一郎が後を継いだ。
それ以降、寺津一家は博徒稼業を廃業し、普通の堅気となる。よって、寺津身内は初代、兄の寺津治助、2代目、弟の寺津間之助で博徒稼業は終了している。寺津間之助は明治10年10月14日没している。
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吉良の仁吉が命を懸けて加勢した博徒・神戸の長吉
義理と人情に生きた博徒・吉良仁吉
両名の墓は愛知県西尾市寺津東市場48 養国寺にある。
下の写真は初代・寺津治助の墓。本名「藤村治助」、戒名「勇応猛進信士」嘉永2年(1849年)2月13日歿、享年44歳。
下の写真は二代目・寺津間之助の墓。本名「藤村間之助、戒名「嵩誉爾豕信士」明治4年(1971年)10月14日歿。
幕末の寺津村は、上横須賀村とともに沼津藩の飛び地領地として、大浜陣屋(現・愛知県碧南市)の支配下にあった。三河平野一帯は三河木綿の栽培地で、三河木綿の綿打ちが盛んに行われていた。寺津港は綿花、木綿、さらには古くからの吉良の製塩「饗庭塩」の物資集積地として繁栄していた。その物資は清水、伊豆経由で廻船で江戸に送られていた。
間之助は、父親の跡を継いで藩から十手取り縄を預かり、言わば博徒との二足草鞋を履いていた。身長、5尺6寸(1.76メートル)体重、24、5貫(90キロ強)と相撲取り並みの大柄で、寺津港に百石船3隻を保有、海運業でも稼いでいた。しかし、間之助の性格は、人との争いを嫌い、博徒渡世人としては、珍しく穏健な人物であったようである。
そんな間之助の性格が好まれたのか、清水次郎長は清水に居られなくなると、いつも寺津間之助の家に逃げ込み、常に間之助は次郎長の良き支援者であった。次郎長の妻、三代目お蝶は、三河西尾藩の侍、篠崎東吉の娘であり、同藩の侍と一度結婚して、清太郎という一子をもうけたが、その後に離婚し、清太郎は後に次郎長の家に引き取られている。
若き頃、次郎長は、寺津に逃亡滞在中、吉良の博徒親分である備前浪士・小川武一の弟子となり、昼は猛稽古に励んだと「東海遊侠伝」に記述がある。博徒剣法の修行も三河寺津で習得したわけである。当時、寺津一家の自宅の裏には、寺津港につながる水路があり、万が一の時はそこから舟で三河湾に逃れることができた。敵に襲撃されてもすぐに逃亡できる地形だったのだ。
昭和2年発行「名古屋地方裁判所管内博徒ニ関スル第2調査書」によると、吉良一家の項があり、「吉良一家は、嘉永期(1848年~54年)に初代寺津治助が立ち上げ大いに勢力を振るい、清水次郎長が食客となった。治助の跡目は実弟の藤村間之助で、次郎長と兄弟分となり、連携して勢力を拡大した。子分には大田仁吉(吉良仁吉)がおり、膂力胆力群を抜く存在となり、間之助は跡目を仁吉に譲った。」と記述されている。
しかし、これは間違いで、吉良仁吉は寺津間之助の身内子分であり、その後、仁吉の吉良一家は寺津一家から独立、一家を立ち上げたもので、両方を混同している。
寺津間之助には実子に定五郎がいるが、堅気で、鰻、焼きハゼの商売を行い、藤村家を継いでいる。唯一、博徒になったのは、孫の牛五郎で、祖父・間之助の名声に憬れ、龍の彫り物を入れて、一時、清水一家の食客にもなっている。そのため、藤村家は牛五郎の弟の幸一郎が後を継いだ。
それ以降、寺津一家は博徒稼業を廃業し、普通の堅気となる。よって、寺津身内は初代、兄の寺津治助、2代目、弟の寺津間之助で博徒稼業は終了している。寺津間之助は明治10年10月14日没している。
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吉良の仁吉が命を懸けて加勢した博徒・神戸の長吉
義理と人情に生きた博徒・吉良仁吉
両名の墓は愛知県西尾市寺津東市場48 養国寺にある。
下の写真は初代・寺津治助の墓。本名「藤村治助」、戒名「勇応猛進信士」嘉永2年(1849年)2月13日歿、享年44歳。
下の写真は二代目・寺津間之助の墓。本名「藤村間之助、戒名「嵩誉爾豕信士」明治4年(1971年)10月14日歿。