兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

次郎長兄弟分博徒・寺津間之助

2017年01月31日 | 歴史
寺津間之助(本名・藤村甚助・父親の名を襲名した。)は、清水次郎長より一つ年上で、次郎長と4分6の兄弟分の杯を交わした、三州幡豆郡寺津村(現・愛知県西尾市寺津町)の博徒である。

幕末の寺津村は、上横須賀村とともに沼津藩の飛び地領地として、大浜陣屋(現・愛知県碧南市)の支配下にあった。三河平野一帯は三河木綿の栽培地で、三河木綿の綿打ちが盛んに行われていた。寺津港は綿花、木綿、さらには古くからの吉良の製塩「饗庭塩」の物資集積地として繁栄していた。その物資は清水、伊豆経由で廻船で江戸に送られていた。

間之助は、父親の跡を継いで藩から十手取り縄を預かり、言わば博徒との二足草鞋を履いていた。身長、5尺6寸(1.76メートル)体重、24、5貫(90キロ強)と相撲取り並みの大柄で、寺津港に百石船3隻を保有、海運業でも稼いでいた。しかし、間之助の性格は、人との争いを嫌い、博徒渡世人としては、珍しく穏健な人物であったようである。

そんな間之助の性格が好まれたのか、清水次郎長は清水に居られなくなると、いつも寺津間之助の家に逃げ込み、常に間之助は次郎長の良き支援者であった。次郎長の妻、三代目お蝶は、三河西尾藩の侍、篠崎東吉の娘であり、同藩の侍と一度結婚して、清太郎という一子をもうけたが、その後に離婚し、清太郎は後に次郎長の家に引き取られている。

若き頃、次郎長は、寺津に逃亡滞在中、吉良の博徒親分である備前浪士・小川武一の弟子となり、昼は猛稽古に励んだと「東海遊侠伝」に記述がある。博徒剣法の修行も三河寺津で習得したわけである。当時、寺津一家の自宅の裏には、寺津港につながる水路があり、万が一の時はそこから舟で三河湾に逃れることができた。敵に襲撃されてもすぐに逃亡できる地形だったのだ。

昭和2年発行「名古屋地方裁判所管内博徒ニ関スル第2調査書」によると、吉良一家の項があり、「吉良一家は、嘉永期(1848年~54年)に初代寺津治助が立ち上げ大いに勢力を振るい、清水次郎長が食客となった。治助の跡目は実弟の藤村間之助で、次郎長と兄弟分となり、連携して勢力を拡大した。子分には大田仁吉(吉良仁吉)がおり、膂力胆力群を抜く存在となり、間之助は跡目を仁吉に譲った。」と記述されている。

しかし、これは間違いで、吉良仁吉は寺津間之助の身内子分であり、その後、仁吉の吉良一家は寺津一家から独立、一家を立ち上げたもので、両方を混同している。

寺津間之助には実子に定五郎がいるが、堅気で、鰻、焼きハゼの商売を行い、藤村家を継いでいる。唯一、博徒になったのは、孫の牛五郎で、祖父・間之助の名声に憬れ、龍の彫り物を入れて、一時、清水一家の食客にもなっている。そのため、藤村家は牛五郎の弟の幸一郎が後を継いだ。

それ以降、寺津一家は博徒稼業を廃業し、普通の堅気となる。よって、寺津身内は初代、兄の寺津治助、2代目、弟の寺津間之助で博徒稼業は終了している。寺津間之助は明治10年10月14日没している。

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吉良の仁吉が命を懸けて加勢した博徒・神戸の長吉

義理と人情に生きた博徒・吉良仁吉


両名の墓は愛知県西尾市寺津東市場48 養国寺にある。

下の写真は初代・寺津治助の墓。本名「藤村治助」、戒名「勇応猛進信士」嘉永2年(1849年)2月13日歿、享年44歳。



下の写真は二代目・寺津間之助の墓。本名「藤村間之助、戒名「嵩誉爾豕信士」明治4年(1971年)10月14日歿。
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関東取締出役との抗争で自決した博徒・勢力富五郎

2017年01月30日 | 歴史
講談「天保水滸伝」で知られる総州下総国(現・千葉県)に有名な二人の博徒が居た。二足草鞋で関東取締出役道案内の飯岡助五郎と地元博徒の笹川繁蔵である。勢力富五郎は、この笹川繁蔵の子分である。

勢力富五郎は、親分の繁蔵が助五郎に謀殺された後、親分の仇討ちのため、助五郎を狙って、関東取締出役と死闘を繰り広げる。しかし最後に追い詰められ、28歳で自決した武闘派博徒である。その後、絵師歌川豊国が「近世嘉永水滸伝」で、勢力富五郎の錦絵を描き、一躍、侠客博徒として人気が出た。

(博徒名)勢力富五郎  (本名)柴田佐助
(生没年)文政5年(1822年)~嘉永2年(1849年)  享年28歳
     総州万歳村(現・千葉県旭市)金毘羅山中に立てこもり自殺

勢力富五郎は、干潟八万石の万歳村(現・千葉県旭市)に生まれる。江戸大相撲力士を志願し、雷権太夫に入門、三段目まで昇格した。しかし、その後廃業、博徒の世界に入り、笹川繁蔵の子分となる。弘化4年(1847年)親分繁蔵が、関東取締出役の手先飯岡助五郎の息子の堺屋与助に闇討ちされた後は、関東取締出役と対決、闘いを挑んでいく。

嘉永2年(1849年)12代将軍徳川家慶が、下総小金原の牧で鹿狩りを行うことが決定した。ところが下総東部、利根川下流域では、無宿の博徒勢力富五郎とその子分が関東取締出役の追及を尻目に無法を尽くし、跋扈していた。

この地域は江戸の後背地として、九十九里の干鰯と銚子の醤油の一大地場産業地であり、活気を帯びていた。そこに博徒らも入り込み、加えて、将軍鹿狩りもあり、治安維持は重大事であった。関東取締出役は面子にかけても、勢力富五郎捕縛をする必要があった。

関東取締出役は、関八州、東海道からの応援も受け、道案内、岡っ引き500人以上を集合させ、富五郎捕縛に向かわせた。ところが、勢力富五郎は鉄砲などで武装しながら、一味の行方は知れず、捕縛は困難をきたした。この地域は、この騒動の翌年に脱獄囚高野長英も潜伏したことがあり、お尋ね者が身を隠す格好の地域であった。

二足草鞋の飯岡助五郎と関東取締出役が裏での結託を知る地元の人々は、勢力富五郎に同情し、判官贔屓に傾いていた。そのため万歳村の名主・井上治右衛門等は勢力一派を密かに自宅に匿い、情報も筒抜けの状態であった。

業を煮やした関東取締出役上層部は、地域外の常州土浦藩の名主・内田佐左衛門を道案内にスカウトし、勢力富五郎捕縛の切り札に投入する。内田佐左衛門は勢力一味が潜伏する一帯をしらみつぶしのローラー作戦で包囲網をじわじわ狭めていった。本拠地の万歳村の隠れ家を出た勢力富五郎と子分たちは八重穂村を抜け、小南村金毘羅山の山頂に鉄砲を武器に立てこもる。

このことは本家「水滸伝」の梁山泊になぞらえ、江戸の評判となった。しかし遂に、追い詰められた勢力富五郎に付き従うのは、子分の栄助一人となった。二人は関東取締出役のお縄にかかるのは真っ平御免と、自決を選ぶ。時に嘉永2年(1849年)4月28日、大捕物は52日間に及んだ。

この騒動で清瀧村無宿佐吉ら9人、今郡村百姓四郎兵衛ら6人、合計15人が捕縛され、江戸送りとなった。そのときに押収した武器は、鉄砲10挺、鑓3筋、長刀2振り、種ケ嶋火縄銃、刀等となっている。幕府は、鉄砲を主体とした武器の質と量に驚きを隠せない。対抗する幕府の警察力は太刀、弓が中心で、鉄砲は火縄銃の範囲を出ない状態であった。

捕縛された者のうち、4人は無宿ではなく、人別帖に記載された百姓である。ごく一部とは言え、田作りの百姓が厳禁の鉄砲を保有し、勢力富五郎を支えていたという事実は重大である。それは貧民救済をした義侠勢力富五郎の人気をも示している。
(参考)「アウトロー・近世遊侠列伝」高橋敏著・敬文社

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悪者博徒の代表・飯岡助五郎

悲劇の博徒・笹川繁蔵


写真は勢力富五郎の碑(千葉県東庄町 延命寺内)

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新島を島抜けした博徒・竹居安五郎

2017年01月26日 | 歴史
竹居安五郎とは、伊豆新島から島抜けに成功、地元甲州に帰還、黒駒勝蔵を子分にもつ武闘派博徒で、通称「吃安」の名で有名な博徒である。

(博徒名)竹居安五郎 (通称)吃安  (本名)中村安五郎
(生没年)文化8年(1811年)~文久2年(1862年)  享年52歳
     石和代官所牢内で獄死

竹居安五郎は文化8年、甲州国八代郡竹居村(現・山梨県笛吹市)の中村甚兵衛・やすの四男として生まれた。父親甚兵衛は名主も務め、竹居村の草分け的な存在で、村内の上位にランクする自作農。名主は代官所の下部組織として、地元の村内統治など、代官の警察権、統治権の一部を付与されていた。

当時、甲州は、多数の無宿者、通り者が流れ込み、治安が悪化、加え、代官所の警察力の低下で、支配統治も混乱していた。そのため、地主の協力が必要で、安五郎の父親も新しく新設された「郡中取締役」に任命されていた。

父親亡き後、長兄の甚兵衛が中村家を継いだ。兄も、父親同様「郡中取締役」として村内騒動解決に辣腕を振るったが、二人とも従順な小役人ではなかった。特に、兄の甚兵衛は、無宿者の子分を抱え、賭場を開くなど博徒の親分でもあった。

弟の安五郎も39歳の時、度重なる博打喧嘩の罪で無宿となり、江戸送りとなる。それから2年後、嘉永4年(1851年)、安五郎は伊豆新島遠島が決定となる。安五郎40歳のときであった。

新島に到着し、島の生活にも慣れた嘉永5年(1852年)、安五郎は、流人仲間の丑五郎、貞蔵、角蔵の20歳台の若い3人の無宿人から島抜けの相談を受けた。最初は気乗りしなかったが、若者の意気込み負け、ほかに造酒蔵、源次郎、長吉の3人を加えた7人で、一年間入念に計画を練り、嘉永6年(1853年)島抜けを敢行する。

安五郎ら7人は6月8日の夜四つ時(午後10時)、名主の前田吉兵衛宅を襲撃し、家族一人を殺害、鉄砲を奪う。しかし、家族が騒いだため、鉄砲の弾まで奪うことはできなかった。襲撃時に傷を受けた名主はそれが原因で事件後死亡している。

その後急ぎ、腕利きの水主・市郎右衛門、喜兵衛の寝込みを急襲、村で最速の漁船を奪い、深夜、島を出発した。船は伊豆網代浦観音下屏風岩(現在の熱海市付近)に上陸、ほっとして海岸で流人たちが食事をしている間に、水主たちは船に飛び乗り逃走した。

7人は山中に隠れ、それぞれ別々に逃走した。安五郎は地元の博徒を頼りに、三島を経由して地元甲州へ帰還した。無事に帰還できたのは当時、黒船騒動で上陸地沼津藩役人も島抜け流人を捕縛する人員が不足していたためである。

地元に戻った安五郎は兄の甚兵衛と檜峯神社神主武藤外記の庇護の下、黒駒勝蔵ら子分を集め、昔の勢いを復活した。家康公を祭る神官武藤家は、関東取締出役の管轄外で追手の手が及びにくかった。しかし、兄の甚兵衛が急逝したのち、幕府の追及の手が迫り、関東取締役も面目をかけてあらゆる手段を行使して、安五郎の居所をみつけ、ついに捕縛した。

捕縛された安五郎は石和代官所に留置された。その後、牢内で毒殺とも、拷問攻めで殺害されたとも言われている。それは黒駒勝蔵らの子分たちが神官武藤家の支持の下、安五郎を奪い返しに襲ってくることを恐れたためと言われている。

安五郎と一緒に島抜けした他の流人のその後の消息も明らかになっている。7人のうち、丑五郎、貞蔵、造酒蔵、源次郎の4人は、江戸で捕縛、市中引き回しのうえ、磔、獄門となった。しかし、残りの角蔵と長吉の二人の消息は不明である。

竹居安五郎の島抜けが成功したのはまさに幸運である。新島の流人帖を見ても、宝永2年(1705年)から慶応3年(1867年)までの162年間で、19件、78人の流人が島抜けに挑戦し、成功例はわずか3件にすぎない。

安五郎の成功は、潮の流れをよく知った腕の良い水主が居たこと、幕末黒船騒動で役人の人手不足で追及の手が及ばなかったことの二つが重なったこととによる。島抜け、名主まで殺害した博徒が、その後10年近く捕縛されず、堂々と生きているのは当時の警察制度がいかに弱体化していたかを証明している。黒駒勝蔵が親分安五郎を匿った罪で各地逃亡せざるを得なくなったのはその後の話である。

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竹居安五郎と祐天仙之助・甲州博徒の抗争


写真は竹居安五郎の墓。(心誠院諦悟日道信士)笛吹市石和町唐柏の常在寺にある。墓石の側面には、「嘉永七巳年十二月五日 安五郎墓」と刻まれている。嘉永7年は安五郎が島抜けし、甲州に潜伏中の期間。墓は追手の目をくらますために子分の石原市五郎が建てたと言われている。隣には子分の石原市五郎の墓も建てられている。



写真は安五郎一派が島抜けする際、襲撃され、名主吉兵衛宅より鉄砲を奪った。事件後に死亡した新島の名主前田吉兵衛の墓。
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八丈島を島抜けした博徒・佐原喜三郎

2017年01月21日 | 歴史
黒船来航で騒がしい幕末の天保9年(1838年)7月に、鳥も通わぬと言われた八丈島から島抜けに成功した博徒がいた。総州(下総国)香取郡佐原村(千葉県香取市佐原)の豪農出身の博徒・佐原喜三郎である。

(本名) 本郷喜三郎 (博徒名) 佐原喜三郎
(生没年)文化3年(1806年)~弘化2年(1845年)6月3日 
     死罪を免れ、江戸追放後、病死   享年40歳

利根川沿いの佐原村は総州銚子からの米、醤油などの物資集積地として昔より活発な商業地域である。この地域は喜三郎死後も、浪曲、講談の「天保水滸伝」で著名な飯岡助五郎、笹川繁蔵、勢力富五郎などの博徒が勢力を張った地域である。

喜三郎の父・本郷武右衛門は関東随一と言われた下総十六島米の小作米600表の収入のある豪農である。喜三郎は本郷武右衛門のひとり息子として溺愛されて育った。そのため相応の教育も受け、一度も無宿人に落ちることもなく、いわばインテリ博徒といえる。同時に美声の持ち主で、義太夫、新内の名手でもあった。

喜三郎は22歳のとき江戸に出て、普化宗一月寺で虚無僧修行を始めた。しかし賭博に手を出し、侠客の道を歩むようになった。虚無僧修行が終わった後、佐原に戻り「伊呂波屋」という料理店を始める。この料理店を舞台に、賭場を開くなど、父親の財力を基盤に次第に博徒として売り出していく。喜三郎が31歳のころ、天保7年(1836年)、喧嘩の末、芝山の博徒・仁三郎を殺害する。喜三郎はこの事件で八丈島遠島刑が決定する。

八丈島に到着した喜三郎は、八丈島の村の一つ中之郷村に配属されたが、持ち前の知識で八丈島の歴史、地理、信仰など多岐にわたる記録を残している。それによれば、当時、八丈島の村は5か所あり、それぞれの人家数、流人数は下記のとおりである。
 
 村名        人家数(世帯)      流人数(人)
 三根村         200            70
 大賀郷村        400            90
 樫立村         150            70     
 中之郷村        350            70
 末吉村         280            70
 合計        1,380           370

喜三郎は、八丈島流刑後、虚無僧「朝日象現」と名乗り、島内を徘徊して島の海流、気象、地理などの状況を把握する。それからからわずか2年後、天保9年(1838年)7月、喜三郎は島抜けを敢行する。その時、島抜けのメンバーにしたのは喜三郎ほか、茂八(36歳)、常太郎(24歳)、久兵衛(24歳)、吉原の遊女・花鳥(15歳)合計7名である。(カッコ内年齢は島流しされた当時の年齢)

吉原の遊女・花鳥については以前、このブログで記載した「八丈島女流人お豊」にその経過が記載してある。喜三郎が吉原遊女・花鳥と得意の三味線を通じて島内でお互いに知り合ったとき、喜三郎は31歳、遊女・花鳥は22歳だった。

喜三郎らは島内三根村に隠してあった抜け船で、7月3日夜明けとともに出発も、7月5日三宅島あたりで暴風に合い、その後、漂流して、7月9日に常陸鹿島浦荒野村に漂着した。

7人は鹿島神社に参拝まで一緒であったが、7月13日、喜三郎は花鳥を連れて、故郷の佐原に戻った。遊女・花鳥が島抜けを望んだ理由は、死ぬ前に、江戸の両親に一目会いたいためであった。その約束を守るため、喜三郎はすぐに江戸に向かい、花鳥の両親との対面の約束を果たした。喜三郎の父・武右衛門は対面で安心したのか、翌月の1日に死去した。

関東取締出役は喜三郎らの島抜けを見逃せば面目丸つぶれである。必死の追捕の結果、島抜けから3カ月後、10月3日、江戸浜町で喜三郎と花鳥が一緒にいるとき、二人は捕縛される。

花鳥は、伝馬町に入牢から3年後、天保12年4月、江戸引き廻しうえ、打ち首となった。その時、差し入れのお金を貯めて、花鳥は吉原遊女の全盛往年のごとく、金襴の打ち掛けに白綸子の袷、襦袢まで新調し、処刑の日に備えた。花鳥、29歳、白の綸子の袷を重ね着し、帯は唐繻子の幅広、水晶の念珠を手にした姿は、白一色の見事な死衣装であったという。

打ち首の役目は、将軍家御腰物試し御用の7代目山田浅右衛門であった。花鳥は、覚悟を決め、処刑場では微笑みさえ漏らしている。さすがの浅右衛門も躊躇したものの、しくじっては家門の恥と気を取りなし、刀の峯に上半身を乗せて断首したという。

明治になって、山岡鉄太郎が浅右衛門にこの真相を聞いた際、「拙者はこれまで数知れぬ首をはねたが、ただ二人だけはどうしても、いつものように斬ることができなかった。一人は兇賊稲葉小僧、もう一人はあの花鳥である。

二人とも死に対して少しのわだかまりもない。全く心が生死の外にあるので、どうしても刀が下せなかった。そこへ行くと、安政の大獄の頼三樹三郎等は、死を拒み、幕府を恨み、悲憤憤慨していた。人間は怒っている者ほど斬りやすいものだ。」と語っている。

一方、喜三郎は花鳥斬首後も、足かけ8年牢獄暮らしののち、牢名主となる。牢名主のとき、牢内で火災が発生、切り離された囚人が全員が立ち帰った功により、死罪から永牢へ減刑。更に八丈島での流刑の実態を書いた「朝日逆島記」を奉行所に提出して、ついには江戸10里四方追放と減罪された。

島抜けの重罪の者が死罪から助命への減刑は奇跡に近い。これは当時の米国船モリソン号浦賀来航、羽倉外記による伊豆七島巡視、蛮社の獄など、日本近海の国防問題が背景にあった。幕府上層部は、水野忠邦の天保改革の反動、八丈島付近の外洋の事情について、喜三郎の実体験による生の情報が欲しかったと思われる。

江戸追放後、喜三郎は長年の牢獄暮らしで、肉体はボロボロ、故郷佐原までの帰りの道中もままならない重態であった。やむなく江戸に残り、養生に努めるも、江戸追放発令からわずか1カ月後、弘化2年(1845年)6月3日、波乱に満ちた40歳の生涯を終える。島抜けの大罪人が畳の上で往生するとは、まさに奇跡というほかはない幸運な博徒であった。

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八丈島女流人・お豊

新島を島抜けした博徒・竹居安五郎

写真は佐原喜三郎の墓。香取市佐原町 法界寺にある。墓側面に「弘化二年歳在乙巳六月初三年四十而歿」とある。法界寺過去帳に法名「即誉無生信士 向津、武右衛門男喜三郎こと、江戸にて死し、骨来る。寺宿青柳甚兵衛方にて弔之」と記されている。



写真は佐原喜三郎の墓の案内板
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遊侠の人博徒・原田常吉

2017年01月12日 | 歴史
幕末の博徒で国定忠治、清水次郎長を知っていても、原田常吉を知っている人は少ない。

原田常吉(博徒名・平井常吉)とは、幕末から明治にかけて、愛知県宝飯郡小坂井町平井(現在の豊川市小坂井町平井)を本拠として、東三河一円に勢力を有した「平井一家」の三代目親分(二代目は実兄・雲風亀吉)として、その名を知られていた人物である。大正時代まで生存し、85歳で大往生した。

(生没年) 天保2年(1831年)~大正4年(1915年) 享年85歳
(友好博徒)間の川又五郎 (敵対博徒)形原斧八・清水次郎長(後に手打ち和解)

原田常吉は兄の雲風亀吉にならって博徒の道に入り、地元で有名な暴れん坊であったが、権力を盾にして、弱者を抑圧する者に徹底的に反抗する若者でもある。

若いころ、駿河国清水の清水次郎長が喧嘩騒ぎで国を逃亡し、三河入りして放浪していた際、原田常吉と知り合い、二人して田原藩中間部屋の賭場荒らしなどに明け暮れていたという。のちに常吉が新居関所への火縄銃発砲事件で逮捕され、江戸送りとなる。

唐丸籠で東海道を通過し、たまたま清水に滞在したとき、次郎長が夜陰に乗じて、密に唐丸籠の常吉に、短刀を渡し、籠を破り、脱走するように勧めている。しかし、常吉は、兄の亀吉に累が及ぶことを恐れ、脱走をあきらめ、次郎長の申し出を丁重に断ったという。

このことは「東海遊侠伝」にも記述されており、二人に深い仲間意識があったことを示している。しかしその後、平井一家二代目である兄の雲風亀吉が黒駒勝蔵と兄弟分の同盟を結び、次郎長とは敵対関係となっていく。

原田常吉は江戸送りとなったのち、新島へ島送りの刑が決定、維新の大赦まで、約10年間の流人生活を送ることとなる。その間、平井一家と清水一家は吉良仁吉、形原斧八を含め、血なまぐさい抗争が続いた。

明治維新で、原田常吉が国に戻ると、兄の亀吉は尾張藩の先兵として、戊辰戦争に参加、帰国し、平井一家は消滅寸前の状態となっていた。そのため原田常吉は兄の亀吉の後を継ぎ、平井一家三代目として一家の再建を図ることとなった。

明治6年には次郎長と常吉は、東海道御油宿の「鯉屋」という旅籠で久しぶりに面会し、明治13年6月遠州浜松の料亭「島屋」で、信州の間の川又五郎を仲立人として手打ち式が行われた。手打ち和解後は、天竜川以西から東三河まで勢力を張り、千余人の身内を有する東三河最大の大親分にのし上がっていく。御油宿「鯉屋」は「大橋屋」の名で江戸時代から360年営業、2015年3月廃業、現在は豊川市管理の記念建物として見学ができる。

明治17年1月、明治政府は博徒取り締まりとして賭博犯処分規則を施行した。いわゆる「博徒大刈込」である。原田常吉は御油警察署に捕縛され、名古屋監獄で懲役7年の刑を受ける。服役中の常吉の態度は、従来博徒の無頼の徒との考えを改め、修正させ、看守たち自らが減刑の申請書を提出するほど、彼らから尊敬を受けた。

原田常吉は晩年、跡目を弟の善六の長男の善吉に譲り、宝飯郡小坂井町平井で妻きみとともに余生を送った。常吉の東隣に住み、小学校校長を務めた藤田東州氏の思い出話として晩年の生活の様子が扶桑新聞に載っている。

それによると、地元の人は常吉をご隠居と呼び、その温厚な人柄と愛想の良さでみんなに親しまれていた。たまに所用で、豊橋に出かけ、帰りに人力車で帰る時も、決して門前まで乗り付けず、村境で降り、家まで歩いてきたという。

村人がその理由を尋ねると、「村の人が一生懸命働いているのに、無職渡世人の自分が車で乗り付けては相すまぬ。」と答えた。また、旅の渡世人が家に立ち寄ると、何がしの草鞋銭を渡し、「渡世人は決して堅気の人に嫌われるような行いをしてはいけない。」諭しておられ、これがご隠居の信条でもあった。

ある日、初老の物乞いが幼い子供を連れ、門前に立った時がありました。親子とも着るものはボロボロ、子供の髪は毛じらみでいっぱいでした。ご隠居は見かねて、衣服を与え、湯を沸かし、庭先で子供の洗髪してやりなされました。博徒とは言え、それなりの人格者であったと言える。常吉の墓は、近くの村の墓地に妻の「きみ」と並んで今もある。
(参考)「侠客・原田常吉」中尾霞山著


ブログ内に関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
平井一家3代目 博徒・原田常吉№4


写真は原田常吉の墓(豊川市小坂井町内にある。戒名は妻と連名である)




墓の側面は右側常吉と左側妻きみの連名となっている


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