兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

会津小鉄という人

2024年07月18日 | 歴史
京都の会津小鉄会が山口組の抗争で話題となった。会津の小鉄は関東の大前田英五郎、東海の清水次郎長に対して関西の小鉄と並べられる博徒である。生まれはどこかわからない。秩父、坂東、西国、四国巡礼を母親とともに放浪旅をしながら育ったと言われている。

大坂に流れ着いたとき、母親が四天王寺の雪駄直し職人の内妻となり、小鉄である鉄五郎も養父の職人に引き取られた。鉄五郎が15歳の時に、父親の家を飛び出し、江戸に下り、大名の中間部屋の食客となった。

17歳の時、小鉄は、いろいろな悪事で江戸におられなくなり、京都に戻り、公家の屋敷で開かれている賭場へ団子、餅、煎餅などを売り歩く商売をして生活をしていた。その後、会津藩の鳶部屋賭場の元締めである専吉の子分となり、野天の賭場荒らしや大坂城番の中間部屋の賭場を荒らし回っていた。

明治になってからは政商の藤田伝三郎と知り合い、藤田伝三郎が西南の役で募集した雇い人夫の賃金支払い問題で、人夫が騒ぎ出し、人夫側がストライキを敢行した。小鉄は藤田の依頼を受けて、人夫たちを押さえつけて、涙金程度の支払いで解決させた。この頃から、小鉄は南高津の上坂音吉の子分となって、上坂仙吉と改名している。

この頃の小鉄は、顔面から全身にかけてあちこちに刀傷があり、左手の指は3本とも失い、人差し指と親指を残すのみの姿であった。当時、小鉄は博徒同士の賭博のもめ事の仲裁や、自由党政治家後藤象二郎らの後ろ盾として政府の密偵的な仕事にも手を出していた。

明治16年3月の東京日日新聞の記事に、「小鉄は本名上坂仙之助と称し、京都府下京区第二十六組三ノ宮町に居住して、京都、大阪、神戸、滋賀に子分2千余人あり、その子分を合すれば、1万人余になる。知事県令が何を言おうとも従わず、諸国の博打場よりの収入、平均一日三百五十円となる。」とその勢力の大なることが記事となっている。

小鉄について講釈師は、小鉄の出身は会津藩松平肥後守容保の足軽というがそのような史実は全くない。また、文字を知らなかった小鉄は、賭博罪で入獄中に初めて読み書きを習ったという。そして小鉄は明治18年に洛外白川で歿した。


  (写真は会津小鉄の墓である。)


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