兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

清水一家の平井亀吉・黒駒勝蔵襲撃事件

2024年12月03日 | 歴史
元治元年(文久3年という説もある。)6月、黒駒の勝蔵が平井村(豊川市平井町)の亀吉のところに逗留しているとの情報を得た次郎長は、急遽、平井襲撃を思い立った。次郎長一家に、寺津間之助、吉良の仁吉、形原の斧八一家の者を加えた、総勢34名が平井に最も近い形原の斧八一家に集結した。戦闘用の長さ2丈(6メートル)の竹をわざわざ西尾まで出向いて20余本も買い集める周到さである。

宝飯郡平井村に生まれた亀吉は、かつて三河ゆかりの江戸大相撲清見潟部屋に入門、雲風の藤八の四股名で、東の序二段十九枚目までいった元力士である。弟の常吉も「下路ノ常」と異名のあった渡世人である。弟の常吉はもともと次郎長とは深い因縁で結ばれていた。次郎長とは、三河放浪時に賭場荒らしの仲間同士であった。次郎長が赤坂出張陣屋(豊川市赤坂町)から探索されていた安政2年(1855年)に運悪く、新居関所に発砲した罪で捕えられて、常吉は3年後、伊豆新島に遠島になってしまう。

江戸に送られる途中の江尻の宿(静岡県清水市)で、次郎長は護送役人を買収して、唐丸駕籠の常吉と密かに面会して、「遠島になったら再び生きて故郷には帰れないぞ。今夜襲うから駕籠を破れ。」と強く逃亡を勧めたが、江戸相撲の年寄りの嘆願で、なんとか罪を軽くするとの兄亀吉の言葉を信じて、ここは暴挙を慎むと涙ながら謝絶した。次郎長は、「後悔するぞ」と言って匕首を駕籠に投げ入れたが、常吉は、「俺のためにおまえさんを巻き込むことはできねえ」と、匕首を返してよこした。次郎長は「せっかく算段したのに怖気ついたか」と匕首を拾い、別れたという。

もともと亀吉は、弟の常吉の縁もあって、次郎長との仲は悪くなかった。しかし、弟分となった勝蔵のたっての頼みとなれば、亀吉は、次郎長と敵対すること覚悟のうえで、勝蔵を匿ったのだ。これが博徒の義理というものであった。逃亡の途中で追われる勝蔵は、甲州に戻れず、中泉代官(静岡県磐田市)の御用を盾にする次郎長の居る東海道筋の駿河、遠江は避けて、ここは博徒の金城湯池の三河に一時の安住の隠れ家を求めた。それが弟分の平井村、雲風の亀吉の自宅であった。

元治元年(文久3年という説もある。)6月5日、夜が白々と明けるころ朝飯をかけ込んだ一団は、舟に乗り込み前芝海岸(豊橋市前芝町豊川河口付近)を目指した。清水一家勢のいでたちは、派手な飛白の単衣に、独鈷の博多帯、白股引きに紺の脚絆を着け、頭にはそろいの府中笠をかぶり、種子島銃4挺、槍16筋を先頭に立てた物々しい陣構えであった。

午前11時頃前芝海岸に到着。そこから平井村へ徒歩で向かい、亀吉の屋敷を取り囲んだ。銃声を合図に一斉になだれ込んでいった。お昼どき、亀吉と勝蔵は、2階の座敷の障子を開け放しにして、初夏の田んぼを見ながら、亀吉が御油の遊女屋から連れてきた若い妾の酌で小宴の最中であった。護衛の子分たちもわずか6人だけであった。明らかに油断していた。

勝蔵の大岩ら子分たちは、ここは自分たちに任せて、親分は一刻も早く逃げてほしいと二人を屋外に出した。残った子分6人は死に物狂いに闘い、なます状態に切り刻まれて、憤死した。逃げた二人は水田の稲穂に隠れ、農作業の農民のなかに紛れ込み、なんとか逃げることが出来た。しかし、子分が皆殺しにされ、屋敷も滅茶苦茶に破壊されるのを目の前で傍観せざるを得なかったのだ。この以降、亀吉と勝蔵は怨念を燃えたぎらせ、清水の次郎長、形原の斧八に対する復讐に向かって燃え上っていく。

ひとつ後日談がある。次郎長は、殺した勝蔵の子分たちをさらし首にして、さらに勝蔵の股肱の子分、大岩らの髪を切断して、これをかつての黒駒一党に殺害された遺族に贈った。そして父親を亡くした7歳の子供が、お父ちゃんの仇と言ってこれを打ったという。かくしてし、清水一家は勝どきをあげて、引き挙げていった。

後の亀吉側の資料では、この襲撃事件で、次郎長自らは出陣せず、形原の斧八の自宅に留まり、大政が陣頭指揮にあたった。また、襲撃のあった年を元治元年とするが、近隣威宝寺住職の記録では元治元年でなく、一年前の文久3年としている。次郎長側は総勢34人、清水一家で殺された子分は5人とある。
(参考)「侠客・原田常吉」中尾霞山著


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平井一家、雪の中の復讐(博徒史 その4)

亀吉側の被害は、勝蔵の子分で、大岩、治郎吉、亀吉の子分で、勘重、松太郎、種吉の5名が殺された。子分5名の供養塔は豊川市平井町小野田の共同墓地にある。その墓には殺された子分達の名前が彫られている。供養塔は原田常吉が新島から平井に戻った後に建立した。

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三河博徒 雲風の亀吉

2024年11月03日 | 歴史
三河博徒・雲風の亀吉と尾張博徒・近藤実左衛門

尾張博徒・近藤実左衛門は、戊辰戦争において尾張藩が官軍支援のため博徒中心に編成された戦闘集団「集義隊」の指導者であった、実左衛門は「集義隊」解散と同時に郷里の熊張村(現在の名古屋市中村区)に帰って博徒稼業にもどる。

この「集義隊」は、尾張藩は親藩として幕軍側に立つべきも、藩の上層部は、官軍側にも恩を売るため、両方に二股をかけた。その犠牲者が藩とは関係のない地元博徒を中心に組織された集義隊である。

尾張藩は、慶応4年(1968年)2月、博徒を士族とすることを条件に集義隊を編成した。この集義隊に参加したのが、雲風の亀吉と近藤実左衛門である。しかし北越戦争の戦いから戻ると、尾張藩は彼らを士族から平民に戻した。ここに博徒らの「士籍返還運動」が発生する。

近藤実左衛門は戊辰戦争に従軍する際に縄張りを弟分の伊三に預けたが、身内の瀬戸の愛吉が不在中に瀬戸一家を立て、縄張り争いが始まっていた。実左衛門もそれに巻き込まれてゆく。彼は血なまぐさい縄張り争いをおこないながら、士族籍挽回運動の黒幕でもあった。

この点では雲風の亀吉こと平井亀吉も同じだった。彼は名古屋に滞在中、草莽隊である「集義隊」に引き抜かれた。故郷は三州平井村である。(豊川市平井町豊川沿い、東海道線本線、西小坂井駅付近にある)

平井亀吉は甲州の博徒黒駒の勝蔵と兄弟分であり、二人は清水の次郎長と何度も激闘を繰り返す三河随一の博徒だった。主な縄張りは旧東海道の宿場、御油宿、赤坂宿である。明治になって、平井一家と清水一家は川又五郎一家を継いだ斎藤平三が仲介に入り、和解した。明治13年6月15日、清水一家と平井一家は遠州浜松宿の料亭島屋で盛大に手打ち式をした。この話は『東海遊侠伝』に語られている。講談や映画などでも有名だ。

この頃の三河地方の特徴を述べておきたい。現在の愛知県は当時では尾張と三河に分かれていた。尾張は尾張藩という大藩が唯一全域を支配していたのに対し、三河は八つの小藩がある。その上、尾張藩や福島藩など他国に本領のある六つの大名の飛地や幕府の直轄領があった。なおその上に、六十余家に及ぶ旗本の知行地があって、それらが錯綜して細切れ状態だった。どうしてそうなったのか?

幕府が尾張藩をもって西方に対する備えにした上で、三河より東を安全地帯として譜代の小藩をここに集中させたことが一つの理由。もう一つは徳川発祥の地である三河は多くの大名や旗本にとって先祖の土地であり、彼らがここに飛地を求めたことにある。

こういう土地では警察権力の及ばない地域が出てくる。そこに根を張って、入り組んだ土地を移動すれば、博徒を追捕することは容易ではない。一種の無法地帯となる。

そのような土地に有力な博徒が出てくる理由がそこにあった。実際、幕末に有力な博徒を生んだ地域は関東上州、甲州、駿州など幕府の直轄領が多い。幕末になると、財政難のために代官や役人が減らされ、その代わりに、土地の博徒に十手を持たせて、警察の代行をやらせた。ますます博徒は力を持った。

駿州清水の次郎長、三河吉良の仁吉、甲州黒駒の勝蔵、上州国定忠治など時代劇に出てくるような博徒が実際にいた。清水の次郎長の弟分である吉良の仁吉の縄張りは忠臣蔵で有名な旗本吉良上野介の知行地にあった。

平民に戻された平井亀吉は結局、故郷の平井村には帰らなかった。名古屋の一角に住み、金魚の養殖をやった。しかし、これは表向きのことで、尾張藩に反故にされた士族籍挽回運動の黒幕としての役割があったと思われる。名古屋に定着して、そこで勢力を築こうと考えていたのかもしれない。

亀吉は、名古屋の町に廓建設の話が出ると「集義隊」の手下を使って土地の買収や利権の交渉に介入して郭一帯の顔役になっている。やがて自らも廓の楼主おさまる。

三州平井村の縄張りはどうなったか?出征中は弟分の善六に任せていた。ところがどんどん縄張りを荒らされたうえ、弟分善六は清水の次郎長につながる形の原の斧八一家の食客に殺された。伊豆新島に流罪になっていた亀吉の次弟・常吉が戻ってきて、善六を殺した下手人を刺し殺し、復讐を遂げて、一家の再興を図った。

この事件が渡世人仲間に評判となり、子分が多く集まり平井一家は見事に立ち直った。清水の次郎長とも和解して、平井一家の縄張りは安定した。亀吉は常吉に跡を譲って、隠居の形になったため、清水の次郎長との手打ちにも出てこなかった。

こうして実左衛門も亀吉も表舞台に登場しなくなったが、隠然たる影響力を発揮していた。その後、近藤実左衛門はいわゆる不平士族や草莽の剣客を集めた「撃剣会」の世話役のような役割を果たす。

平井亀吉は博徒になる前、江戸で清見潟部屋に所属する相撲取りだった。しこ名は「雲風の藤八」、最高位は十両まで上がった。しかし序二段19枚目で廃業、博徒になった。明治に入り、博徒らの士籍返還運動の効あって、明治11年彼らの士族が復活した。現在、豊川市御津町下佐脇是願の川沿いの墓地に、平井亀吉の墓が妻の墓と並んで残っている。その墓石には「士族・平井亀吉」と誇らしげに彫られている。

役場に保存されていた戸籍簿を見ると
「愛知県宝飯郡下佐脇村三拾五番戸、士族、戸主平井亀吉、文政11年9月7日生、慶応4年5月朔日、当郡平井村平民大林市作二男、一戸新立につき、苗字取設、明治11年7月27日士族へ編入」と記載される。

一方、近藤実左衛門は東春日井郡水野村で「北熊一家」を名乗り、尾張から美濃まで勢力を広げ、地元博徒の大物として名を挙げた。しかし、二代目を継いだ実左衛門の甥は博徒としての才能がなかったのか、途中で行方不明となり、抗争を続けていた地元の「瀬戸一家」の傘下となり吸収された。

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会津藩に味方した越後の博徒・観音寺久左衛門

平井一家3代目博徒・原田常吉


写真は平井亀吉の墓。右となりは妻の墓。戒名「要義院大乗法雲居士」明治26年3月24日歿、享年65歳。亀吉の妻は名を「モト」と言い、弘化2年生まれ、亀吉より17歳年下。名古屋の古渡町の内田安兵衛の長女である。二人に実子なく、豊橋松葉町の皆次門先に棄てられた乳飲み女児を引き取り「イチ」と名付け、養女とした。

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明治スリの親分「仕立屋銀次」

2024年10月03日 | 歴史
盗人と言えば石川五右衛門など犯罪史に名を残した盗賊は少なくない。明治でスリと言えば仕立屋銀次だろう。スリは小手先の職人仕事で大向こうをうならすような犯罪ではない。でも銀次にもなると「警視庁史」に名を残し、多くの書籍に書かれて小説にもなっている。しかし引退後の晩年は不明であり、没年もまったくわからない。

銀次は1866年(慶應2年)3月17日東京駒込動坂町(現・文京区千駄木)で生まれ、本名・富田銀蔵。父・金太郎は紙くず問屋、銭湯を営む。明治16年頃、商売に失敗したのか、浅草猿橋警察署で小使いのような仕事をしている。銀次は13歳のとき、日本橋の仕立屋・井阪浜太郎へ年季奉公に出た。21歳頃、年季奉公も終わり、浅草小島町で独立した。腕を良い職人だったらしい。ここから店に通ううちに、裁縫を習いに来ていた広瀬くにと恋仲になり、銀次28歳、くに20歳のとき、下谷御徒町に世帯を持った。当時、銀次には妻子がいたが、離れて一緒になったという。

くにはスリの親分・清水熊(本名・清水文蔵)が妾の泉しんに生ませた子。姓が違うのはどこかに養女に出したのだろう。泉しんは芸者あがりのしたたか者。くには美人の上、相当のやり手。母親のしんに質屋を営業させながら、盗品の処分を一手に引き受けていた。清水熊は別名清水熊太郎とも呼ばれ、関西方面まで縄張りを持つスリの親分である。

1887年(明治20年)頃、東京のスリ界は「清水熊」と「巾着豊」二大親分が仕切っていた。巾着豊は本名・小西豊吉。清水熊より7歳年上、裕福な家庭に育ち、母親が心配して巾着屋の店を持たしたことから巾着屋と呼ばれた。巾着豊は逮捕され、1896年(明治29年)巣鴨監獄で病死した。1897年(明治30年)巾着豊の跡目を「湯島の吉」本名・伊藤由太郎が継ぎ、1901年(明治34年)清水熊の跡目を銀次が継いだ。銀次35歳のときである。湯島の吉は銀次より10歳年上、子分80人を抱える。銀次は年下だが、子分100人を抱え、その統率力は一歩、勝っていた。

銀次の全盛時代は1902年(明治35年)から逮捕される1909年(明治42年)まで7年余り。当時東京市内のスリは1,500人、銀次の専門は汽車の中で稼ぐ「箱師」東海道本線から奥州線まで縄張りとして、地元東京では仕事をしない。子分は全盛時250人を数えた。一方で警察とは懇意な関係を結び、申し出あれば盗品を返却する「浮かし」を行った。警察も銀次の仲間なら、逮捕しても釈放する特殊な関係にあった。

自宅は日暮里村金杉に構え、二重門構えの大邸宅で、他に貸長屋を50~60軒持ち、家賃収入だけでも月に100円以上(当時1円は現在の2万円程度今なら2百万円以上)、資産は50,000円を超えていた。逮捕の3年ほど前には跡目を手下の仙吉に譲り、銀次は監督に当たった。赤十字に寄付をする、日暮里村の村会議員になる一方で、関西地方のスリとも盗品をさばき合うような互助会的な一大闇ルートを開発、仲間の交流のための待合を開いて芸妓出張所を営業するなど、巨大な犯罪組織を形成していた。

明治42年、新潟県知事が伊藤博文より贈られた懐中時計をすられた。当時、若くして赤坂警察署長に赴任した本堂平四郎は盗品を提出させるため、銀次に出頭を命じた。銀次は新任署長に恩義はなく、出頭しなかった。しかも実際にすったのは湯島の吉の子分であった。本堂署長は銀次宅を包囲踏み込み逮捕した。銀次は盗品故買・収受の罪で懲役10年、罰金200円、湯島の吉は懲役13年、罰金300円の刑を受けた。

その後、湯島の吉は甲府監獄で病死。銀次は1918年(大正7年)仮出獄した。数えの53歳だった。出獄後は仕立屋と雑貨屋を営む。しかし翌年、銀次は置き引き師事件に関連して再び逮捕され、懲役8年、罰金200円の刑に処せられる。

最後に銀次の消息を記すのは1930年(昭和5年)3月25日の都新聞の記事である。記事によると、「新宿三越呉服売り場で老人が反物1反を万引き、警戒中の刑事が取り押さえた。老人は富田銀次郎(67歳)、息子の仕送りで余生を暮らすも、市内見物の折、雑踏の出来心で万引きしたと供述、往年の仕立屋銀次と判明した」とある。これが本当の銀次か不明。本当の銀次なら64歳、数えでも65歳である。以降消息はわかっていない。

銀次の跡目を継いだ「大仙」本名・小林仙吉は親分の器ではなく、銀次より9歳若く、子分の統制も乱れた。銀次の再度入獄と警察の検挙体制強化でスリ界も徐々に衰退した。銀次のスリ組織の残党は、1980年代中頃までスリ師としての活動を行っていたことが確認されている。

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「熊坂長庵と藤田組贋札事件」

写真は仕立屋銀次

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首切り浅右衛門

2024年09月03日 | 歴史
山田浅(朝)右衛門は代々、徳川将軍家の御試し御用役を務めた。御試しとは、刀剣の切れ味を実際に試すもの。この本業とは別に、頼まれて斬首刑の執行役も務めた。それゆえに旗本でも御家人でもなく、単に浪人の立場にいた。死人を扱うので、それを忌み嫌ったのであろう。

山田家の遠祖は遠州金谷(現・静岡県島田市金谷町)の山田八右衛門吉長と言われる。初代貞武は江戸麹町平河町1丁目に屋敷を構え、据物斬りを学び、刀剣類の鑑定にも長じていた。以後、2代目吉時、3代目吉継、4代目吉寛、5代目吉勝、6代目吉昌、7代目吉利、8代目吉豊、9代目吉亮と続いた。

御試し御用は初代貞武から始まった。お試し御用は技術が必要なため、多くの弟子を取り、男子の実子が居ても世襲ではなく、弟子の中から腕の立つ者を養子縁組して跡継ぎに選んだ。技術もさることながら、首を斬る仕事を実子に継がせるのを嫌った面もある。御試し御用は幕府崩壊して明治政府になり、斬首刑が廃止されるまで、200年間余り続いた。

将軍家の御試し斬りは、小伝馬町の牢屋敷で死罪に処された死体に対して行われる。但し、対象は一般庶民に限られ、武士や出家、山伏、女性は除かれた。前もって御腰物奉行から町奉行に連絡があり、日時が決まると、二つの土壇が築かれ、検分役として、御腰物奉行、鑑定家、御徒目付が列席する。裃姿の浅右衛門が登場して両肌を脱いで死骸を斬る。終わると次に刀に代えて再び斬る。何度も刀を代えて一刀ごとに斬りつける。最後に浅右衛門が結果を書き付けに書き、御腰物奉行に提出して終了する。

浅右衛門の名声は高く、諸大名、旗本から、罪人の首打ちや刀の試し斬りの依頼も多く、そのたびに罪人の首を斬り、刀の試し斬りをした。首打ちには刀の研ぎ代として奉行から金二分が支給され、依頼人からも謝礼が入る。首を斬った罪人の死骸処分はすべて任されたので、取り出した肝臓、胆嚢、胆汁などを原料に丸薬を作り、労咳の妙薬として販売した。その効用が評判となり、浅右衛門は莫大な財をなし、4万石の大名に匹敵するとさえ言われた。

浅右衛門が「首切り」と呼ばれるようになったのは5代以降である。特に7代吉利は、安政の大獄の吉田松陰、橋本左内らの首を斬って、その名が鳴り響いている。明治維新以後、明治44年に斬首刑は廃止となる。記録に残る最後の斬首刑は、9代吉亮が明治12年1月31日、市ヶ谷監獄で「毒婦お伝」と呼ばれた高橋お伝である。暴れるお伝に手こずり、三度目でねじ切るように首を斬った。当時の吉亮は浅右衛門を名乗らなかったという。

写真は東京都新宿区須賀町勝興寺にある6代山田浅右衛門吉昌、7代山田朝右衛門吉利の墓。


写真は東京都豊島区池袋祥雲寺にある山田浅右衛門之碑。浅右衛門研究者が昭和13年に7代吉利の孫娘の援助を受けて建立された。
ここには8代目までの氏名が刻まれている。7代目が「朝右衛門」と名乗っており、浅右衛門の二つの名が用いられた。

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一揆鎮圧に協力した博徒・小川幸蔵

2024年08月06日 | 歴史
幕末から明治にかけ、武蔵国多摩郡の博徒に、小金井小次郎と小川幸蔵の二人がいた。だが、小川幸蔵は世間によく知られた博徒ではない。北島正元長の著書「幕藩制の苦悩」には当時の博徒について次のような記述がある。

「博徒の本場と言われた上州には、国定忠治、大前田英五郎(勢多郡大前田村)・栄次(勢多郡月田村)・三木文蔵(新田郡世良多村)・高瀬仙右衛門(邑楽郡上高島村)などの貸元がおり、下総の飯岡助五郎・笹岡繁蔵、武州の小金井小次郎、府中の田中屋万吉、高萩の鶴屋万次郎、小川幸蔵などの親分連中が全国に名を響かしていた。」と名前が出る。

しかしこの中で名は出るが、小川構幸蔵は所詮、小悪党である。とても、全国に名を響かせる程の博徒ではない。唯、資料に名前だけはよく出てくる博徒である。

小川幸蔵は、慶応2年(1866年)6月武蔵国秩父郡名栗村(現・埼玉県飯能市)で発生した大規模な百姓一揆の鎮圧に参加して、幕府に恩を売った。しかし一方では、地元百姓から金銭を無理借りするなどあまり評判の良くない博徒であった。

(博徒名)小川幸蔵  (本名)小山幸蔵
(生没年)天保2年(1831年)~明治17年(1884年)  享年54歳
     八王子警察署に服役中、病気で牢死。

小川幸蔵が住んでいた武蔵国多摩郡小川村は、江戸近郊の新宿と青梅を結ぶ青梅街道の中間に位置し、江戸時代初期に新田開拓された村である。青梅街道は、以前、江戸への石灰需要を支える動脈である。その後は、江戸向けの野菜や薪炭を運ぶ街道として、幕末には上州、甲州と並ぶ養蚕地として多摩地方から横浜への生糸運送の動脈として発展していった。生糸による貨幣経済成長とともに、同時に博徒の根拠地ともなった。

小川幸蔵はもともとは土地持ち本百姓の出身である。しかし、父親の小川幸八が無宿博徒となってから、その子供の幸蔵も父親同様に無宿の博徒となった。

天保15年(1844年)、小川幸蔵の父親・小川幸八は、小金井小次郎との抗争で、小次郎は江戸佃送りに、幸八は八丈島送りとなった。幸八は、八丈島で17年、流人として暮らす。幸八は万延元年(1860年)仲間30人とともに島抜けを図るが、失敗する。その際、八丈島樫立村の名主兵吉を殺害し、追い詰められ自殺している。

小川幸蔵は26歳のとき、近くの村の神社の祭りで仲間とともに百姓らに対して傷害事件を起こす。韮山の役人の追及を逃れるため、幸蔵は小川村から脱走し、無宿となる。しかし、姿を隠したのは表面上で、現実は村内で茶屋渡世を営みながら、博徒の勢力を維持していた。

その当時、秩父郡名栗村から始まり、関東一円に拡大した百姓一揆(武州世直し一揆)が発生した。一揆の鎮圧部隊として編成されたのが、秩父郡田無村名主下田半兵衛が率いる田無農兵隊である。幸蔵一党は、この田無農兵隊と連携協力して、一揆鎮圧に成功する。一揆鎮圧での幸蔵の行動は、名主らに高く評価され、幸蔵の帰村が許された。

明治2年(1869年)、新政府の警察権力の空洞を埋めるため、幸蔵は、韮山県から一揆における功績もあって、治安維持の役目を受ける。しかし、幸蔵は、自分自身は直接悪事を実行しないが、配下の50人程の子分を使って相変わらず、無法行為を行っていた。

地元の百姓も遂に我慢できず、県に訴えた。明治4年(1871年)4月、品川県に捕縛され、5年間の流刑を受ける。その後、賭博の罪で懲役4年の刑を受けた小川幸蔵は、八王子警察署服役中の明治17年6月、肋膜炎兼肺炎で死去する。享年54歳であった。
(参考)「アウトロー・近世遊侠列伝」高橋敏著・敬文社


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関東取締出役を翻弄した博徒・石原村幸次郎



写真は多摩の小金井小次郎と小川村幸蔵が大喧嘩した現場である二ツ塚稲荷(東京都小平市玉川上水近くにある)
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会津小鉄という人

2024年07月18日 | 歴史
京都の会津小鉄会が山口組の抗争で話題となった。会津の小鉄は関東の大前田英五郎、東海の清水次郎長に対して関西の小鉄と並べられる博徒である。生まれはどこかわからない。秩父、坂東、西国、四国巡礼を母親とともに放浪旅をしながら育ったと言われている。

大坂に流れ着いたとき、母親が四天王寺の雪駄直し職人の内妻となり、小鉄である鉄五郎も養父の職人に引き取られた。鉄五郎が15歳の時に、父親の家を飛び出し、江戸に下り、大名の中間部屋の食客となった。

17歳の時、小鉄は、いろいろな悪事で江戸におられなくなり、京都に戻り、公家の屋敷で開かれている賭場へ団子、餅、煎餅などを売り歩く商売をして生活をしていた。その後、会津藩の鳶部屋賭場の元締めである専吉の子分となり、野天の賭場荒らしや大坂城番の中間部屋の賭場を荒らし回っていた。

明治になってからは政商の藤田伝三郎と知り合い、藤田伝三郎が西南の役で募集した雇い人夫の賃金支払い問題で、人夫が騒ぎ出し、人夫側がストライキを敢行した。小鉄は藤田の依頼を受けて、人夫たちを押さえつけて、涙金程度の支払いで解決させた。この頃から、小鉄は南高津の上坂音吉の子分となって、上坂仙吉と改名している。

この頃の小鉄は、顔面から全身にかけてあちこちに刀傷があり、左手の指は3本とも失い、人差し指と親指を残すのみの姿であった。当時、小鉄は博徒同士の賭博のもめ事の仲裁や、自由党政治家後藤象二郎らの後ろ盾として政府の密偵的な仕事にも手を出していた。

明治16年3月の東京日日新聞の記事に、「小鉄は本名上坂仙之助と称し、京都府下京区第二十六組三ノ宮町に居住して、京都、大阪、神戸、滋賀に子分2千余人あり、その子分を合すれば、1万人余になる。知事県令が何を言おうとも従わず、諸国の博打場よりの収入、平均一日三百五十円となる。」とその勢力の大なることが記事となっている。

小鉄について講釈師は、小鉄の出身は会津藩松平肥後守容保の足軽というがそのような史実は全くない。また、文字を知らなかった小鉄は、賭博罪で入獄中に初めて読み書きを習ったという。そして小鉄は明治18年に洛外白川で歿した。


  (写真は会津小鉄の墓である。)

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悪者博徒の代表・飯岡助五郎

2024年06月05日 | 歴史
飯岡助五郎は天保水滸伝では悪者博徒の代表である。子供の頃、見た映画では、配役は笹川繁蔵を高田浩吉、平手造酒が鶴田浩二で、非常に恰好良く、飯岡助五郎は近衛十四郎であり、いかにも憎たらしかったことを覚えている。助五郎は関東取締出役の目明しの二足草鞋の博徒であり、繁蔵の縄張りを狙い、お上を後ろ盾としたため、判官びいきの世間に嫌われる博徒だったのだろう。

(博徒名) 飯岡助五郎   (本名) 石渡助五郎
(生没年) 寛政4年(1792年)~安政6年(1859年)4月14日 享年67歳 病死。

飯岡助五郎は、寛政4年、相模国公郷村山崎(現・神奈川県横須賀市三春町)で半農半漁の石渡助右衛門の長男として生まれる。15歳のとき、江戸相撲の友綱部屋の親方に見いだされて、名主・永島庄兵衛と相談の上、村の人別帖から抹消、無宿となって相撲部屋に入門する。

しかし、入門後1年も経たずに親方・友綱良助の急死により、力士になることを断念した。すでに無宿身分であったため、九十九里浜に流れて、上総国作田浜の網元・文五郎の漁夫となる。

網元・文五郎の死亡後は、下総国飯岡(現・千葉県旭市飯岡)へ地引網の出稼ぎに出る。そこで相撲時代の大力で地元ヤクザを叩きのめして名前を売り、銚子から飯岡まで勢力を張る地元博徒・五郎蔵の代貸となる。助五郎30歳のとき、五郎蔵から飯岡一帯の縄張りを譲り受け、正業である飯岡の網元の事業も成功して、名実とも房総半島での博徒の大親分になった。

その頃、利根川流域の笹川では、助五郎より15歳年下の笹川繁蔵が勢力を拡大していた。当初、助五郎と繁蔵は同じ相撲出身でもあり、関係は良好だった。しかし、助五郎が関東取締出役の道案内の岡っ引きとなり、二足草鞋を履くと、両者間の関係は険悪になり、子分同志の抗争も頻発した。

天保15年(1844年)、助五郎に関東取締出役から繁蔵捕縛の命令が下る。同年8月6日、助五郎は50数名で繁蔵襲撃に向かったが、事前に察知した繁蔵側の奇襲反撃に会い、笹川側の死者は用心棒平手造酒の唯ひとりに対して、飯岡側は半数を失う大敗北となり、助五郎は、面目を失った幕府から入牢という屈辱を味わう。

一方、繁蔵は、捕縛を逃れるため、奥州へ逃亡していたが、3年後の弘化4年7月4日に故郷に戻ったところを、助五郎の子分・堺屋与助、三浦屋孫次郎、成田甚蔵の3名に闇討ち、殺害された。親分を殺された繁蔵の子分の勢力富五郎は、飯岡一家に復讐を図る。

しかし、嘉永2年(1849年)、勢力富五郎は、助五郎一家の後ろ盾でもある関東取締出役に追い詰められて、東庄の金毘羅山で52日間、役人たちと抗争したのち、自殺した。翌年に一連の騒動が、江戸で宝井琴凌によって嘉永版「天保水滸伝」として評判になった。丁度そのとき、飯岡助五郎が58歳の時である。

それから9年後の67歳で、飯岡助五郎は病死する。晩年の助五郎は、近所の子供たちから「川端のおじいさん」と呼ばれ、慕われる好々爺だったという。助五郎が後世まで悪者博徒の汚名を着るのは笹川繁蔵を闇討ちしたことにある。

1995年発行、「飯岡助五郎正伝」の著者・伊藤實氏によれば、暗殺事件については助五郎は知らぬことであり、子分たちが、勝手に実行した後に繁蔵の首級を助五郎に届けた。驚いた助五郎は、繁蔵一家の報復を恐れ、飯岡の定慶寺に繁蔵の首を、秘密裏に葬り、死ぬまで香華を絶やさなかったという。
(参考)「アウトロー・近世遊侠列伝」高橋敏著・敬文社

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悲劇の博徒・笹川繁蔵

無宿浪人・平手造酒

写真は飯岡助五郎の墓。戒名「発信院釈断流居士」現在の千葉県旭市飯岡 光台寺にある

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新門辰五郎の弟分 博徒・小金井小次郎

2024年05月03日 | 歴史
小金井小次郎は、武州多摩郡下小金井村(現・東京都小金井市中町・本町付近)を縄張りとして、数千人の子分を擁したと言われ、明治に刊行された戯作「落花清風慶応水滸伝」で有名になった博徒である。また、小次郎は、博打で島流しにもなったにも関わらず、明治のご赦免で帰還し、畳の上で生涯を終えた、世渡り上手な、幸運な博徒である。

(博徒名)小金井小次郎  (本名)関小次郎
(生没年)文政元年(1818年)~明治14年(1881年)6月9日 享年64歳

小金井小次郎の先祖「関家」は地元で代々名主、村役人を務め、村屈指の名家の出身である。小次郎も、子供の頃より相応の教育を受けていた。しかし、大人になるといつの間にか、府中の博徒「藤屋万吉」の子分となり、博徒の道を進む。

府中の万吉・小次郎の一派は、以前より対立関係にあった現在の東京都小平市付近を縄張りとする博徒小川幸八一派と、小平市の鈴木稲荷神社(通称・二塚稲荷)で一戦を交える。この喧嘩は万吉・小次郎側150人、幸八側80人と230人の博徒が参加した大喧嘩である。

この喧嘩によって、両方の博徒は、関東取締出役に目をつけられ、その後、藤屋万吉は三宅島、小川幸八は八丈島に遠島、小金井小次郎は「江戸石川島人足寄場」送りの処罰を受ける。

小次郎は、石川島人足寄場で、その後の人生に影響を与えた江戸町火消十番組頭である新門辰五郎と出会う。辰五郎は小次郎より18歳年上だが、小次郎は辰五郎の信頼を得て、二人は義兄弟の契りを結ぶ。

ある日、二人が数年を暮らした人足寄場が、江戸本郷から出火した大火事で、寄場の囚人も、一時解き放ちの扱いとなった。小次郎と辰五郎は、寄場に残って消火にあたり、種油が収納されている油蔵に火が及ぶのを食い止めた。2か月後、この大火での活躍が評価され、二人はご赦免となる。

ご赦免により小次郎は帰郷したが、親分の万吉は三宅島に遠島中で、藤屋万吉の縄張りを引き継ぎ、一家を構える。それから10年の間に、府中甲州街道から多摩川沿いの一帯まで、関東の大親分として、急速に勢力を拡大していく。一気に勢力を伸ばした要因には、後ろ盾としての、義兄弟・新門辰五郎の後ろ盾があったことは言うまでもない。

小次郎は、表面上は府中宿で煮売屋商売(飯盛旅籠)を経営していたが、実質は博打貸元を営む博徒である。しかし、安政2年(1855年)、急速に勢力を広げた賭博で目をつけられ、小次郎は、関東取締出役に捕縛される。江戸伝馬町牢屋敷入牢になった後、三宅島へ遠島の刑が決定する。

三宅島遠島になった小次郎は、生家や子分たちよりの仕送りがあったため、島の生活に苦労せず、流人にも関わらず、立派な屋敷まで借り、数人の博徒を子分に持ち、島の顔役的存在として、約12年間の島生活を送る。島流し中、小次郎が出した手紙によると、天草、炭、木綿の反物、絹糸など島の物産を扱う商売で、200両を動かす売買を行っていたという。

小次郎は、慶応4年(1868年)5月、ご赦免により品川に戻る。遠島中に、外部環境は大きく変化し、徳川の時代は終わりに、明治の時代が直前に迫っていた。しかし、三宅島から帰ってきた小次郎は、以前と変わらず多摩地域の大親分として明治を迎え、地元の発展とともに、飯盛旅籠商売から貸座敷へと商売を広げ、商売は順調に発展していく。晩年には、小次郎は、地元の神社に多額の寄付、奉納を行った記録が残っている。

多くの博徒が喧嘩や支配権力の手により命を落とすなか、小次郎は、明治14年、娘と子分たちに囲まれて、行年(満年齢)63歳の生涯を畳の上で終えている。国定忠治、清水次郎長のような派手な逸話はないが、江戸末期から明治を生き抜いた関東一の博徒である。

美談で作られた火消の頭・新門辰五郎

下の写真は小金井小次郎の墓。東京都小金井市中町 西念寺 鴨下家と関家の墓所となっている。
中央は小金井小次郎の追悼碑。碑に向かって右側が小次郎の墓である。


下の写真は小金井小次郎の墓。戒名は「大雄院致允徳居士」である。

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悪者にされた勤皇博徒・黒駒勝蔵

2024年04月03日 | 歴史
黒駒勝蔵は、清水次郎長の敵役として有名で、その生涯は喧嘩に明け暮れ、最後には官軍の兵士でありながら、博徒の罪で処刑された謎多き運命をたどった博徒である。

(博徒名)黒駒勝蔵  (本名)小池勝蔵
(生没年)天保3年(1832年)~明治4年(1871年) 享年40歳
     斬罪により処刑される。

黒駒勝蔵は、天保3年、上黒駒村(現・山梨県笛吹市)で村役人を務めた家である小池嘉兵衛の息子として生まれた。安政3年25歳のとき、勝蔵は親元を飛び出し、中村甚兵衛(竹居安五郎通称「吃安」の兄)の子分となり、博徒となる。勝蔵が博徒になった2年前に、竹居安五郎吃安は、新島からの島抜けに成功して、甲州に戻り、潜んでいた。安政5年、石和代官森田岡太郎が他国に異動となり、吃安の追及の手が緩んだ頃、勝蔵は吃安と手を組んで勢力を伸ばし始めた。

当時の甲州の有力博徒は、甲府柳町の三井卯吉を頭とする甲府元柳町の祐天仙之助・甲斐国八代郡国分村の国分三蔵一派、駿河国御殿場村の御殿伝蔵・上野国館林藩浪人の犬上郡次郎らがいた。彼らは代官目明し等の二足草鞋を履く博徒であった。吃安と勝蔵は、これらの有力博徒と抗争する形で勢力を伸ばしていった。

その後、仙之助、三蔵、郡次郎らの計略により、竹居吃安が捕縛され獄死したことを聞いた勝蔵は、三蔵ら一派に襲撃を企て、郡次郎の殺害に成功する。その後、兇状持ちとなった勝蔵は甲州を逃亡し、三州、尾張各地を転々としながら、国分三蔵と同盟関係にある清水次郎長との対立を深めていった。

荒神山の喧嘩以後、勝蔵は大坂に潜伏し、途中の経過は不明ながら、慶応4年1月に勝蔵は、元々勤皇思想の上黒駒村の檜峰神社神主・武藤藤太と親交があり、美濃博徒・水野弥太郎の案内により、小宮山勝蔵の名で赤報隊に入隊する。加納宿に現れた勝蔵らの赤報隊は、悪い評判により、官軍から帰京命令が発せられ、解隊を命じられる。

京に戻った勝蔵は、駿府鎮撫総督となった四条隆謌に預けられ、四条隆謌に随行する徴兵七番隊に編入され、明治元年5月、京都を出発、東海道を下った。彼ら部隊が清水を通過するとき、勝蔵は、駿府町を統治した伏谷如水に対し、次郎長をさらし首にすることを要求した。次郎長は、旧幕府の勝蔵探索書を根拠に、勝蔵の捕縛を訴え出た。ここでも形を変えて双方は敵対したのである。

徴兵七番隊に属した勝蔵は、池田勝馬と名を変え、戊辰戦争に従軍、東北地方を転戦する。戊辰戦争終了後、東京に凱旋した同隊は、第一遊軍隊と改称。引き続き同隊に所属する勝蔵は、甲州黒川金山開発を明治政府に願い出、休暇許可も取得して甲斐国に戻る。だが、休暇期限を切れても、彼はそのまま甲州に滞在し、伊豆蓮台寺温泉へ湯冶に行く。これが無断脱退の嫌疑を受ける理由となる。

明治4年1月25日、勝蔵は、「池田勝馬」としてでなく、「無宿黒駒勝蔵」として、伊豆国畑毛村(現・静岡県田方郡)で捕縛され、2月3日、連行され甲府で入牢、同年10月14日、山崎の仕置き場で斬刑に処される。戒名は「松岳院安阿決楽居士」大分後になって、縁故者が寺に頼んでつけてもらったという。

黒駒勝蔵は、講談や芝居で、次郎長の悪者敵役のイメージが強く、勤皇博徒の名は知られていない。しかし、勝蔵は根からの勤皇主義者でもなく、反幕府思想の持ち主でもない。権力に対しての反逆に共鳴する侠客ではなかったか?

その意味で、黒駒党と名指しされた博徒三州雲風亀吉や美濃博徒水野弥三郎が草莽の志士として、波乱の生涯を終えた博徒らと共通するものがある。それに対して時代を泳ぎ切った次郎長との違いは十分確認しておく必要があるだろう。


ブログ内に下記の関連記事があります。よろしければ、閲覧ください。
偽官軍の名で殺された美濃博徒・水野弥三郎という人


写真は黒駒勝蔵の墓と言われている石地蔵。お地蔵さんの形をしている。罪人として処刑されたため、正式な墓を建てることは憚られた。


写真は黒駒勝蔵生家前で果物販売する店舗・御坂路農場、四代目であると言う。


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次郎長お目付け役博徒・安東の文吉

2024年03月03日 | 歴史
安東文吉は駿河国府中(現・静岡市駿河区)に一家を構えた二足草鞋の博徒である。別名「暗闇の代官」「日本一の首つなぎ親分」と呼ばれ、その評価はさまざまである。

(博徒名) 安東文吉 (本名) 西谷文吉
(生没年) 文化5年(1808年)~明治4年(1871年)4月8日 享年64歳 府中の自宅で病死

安東文吉は駿河国安倍郡安東村(現・静岡市葵区)の豪農である西谷甲右衛門の子として生まれる。大柄で力もあるため、弟の辰五郎とともに江戸相撲の清見潟部屋に入門したが、途中で力士を弟辰五郎ともにあきらめ故郷に戻った。故郷に戻った兄弟はそろって博打打ちの仲間に入り、自ら無宿となった。

その後、問屋場人足相手に博打を打つ間に、博徒仲間の借金のもつれから、地元博徒の炭彦親分と斬り合い事件を起こす。この事件以降、度胸の良さから、子分も集まり、勢力を拡大し、地元博徒の顔役となっていった。

当時の甲州、遠州博徒の勢力拡大から、治安維持に苦慮した駿河代官は、文吉、辰五郎兄弟に十手縄を預け、代官の手引きの二足の草鞋を履かせ、博徒の騒乱を抑え、治安維持安定を図った。同時に文吉は、箱根関所と新居関所の公用手形の交付権限を与えられ、富士川と大井川の間の区域で大きな権力を持つようになる。文吉は二足草鞋を履くようになってからは、賭場はすべて子分に任し、自らは博打をしなかったという。

文吉は次郎長より12歳年上で、次郎長が若い頃、サイコロ博打でイカサマをしたとき、文吉の子分に捕まったが、次郎長は文吉に命を助けられている。以後、次郎長は事件を起こし、三州、尾張方面へ逃亡する際も、文吉に迷惑をかけないように、常に清水港から久能山街道の海岸を通り、府中内の東海道を避け、掛川宿から東海道に戻るコースを使用したと言われている。

次郎長が保下田久六を殺害して、大場久八と敵対した際も次郎長を庇い、上州一派との和解に努めている。それゆえに「博徒は木綿を着て絹を着るな。素人衆には道を譲れ。街中では駕籠に乗るな」等の清水一家の規律は文吉ゆずりといわれる。

文吉は、「好んで兇状持ちになる者はいない」と言って、兇状持ちの博徒に関所通行手形を交付し、その逃亡を助けたことも多々あった。そのため博徒仲間では、「日本一首つなぎ親分」の別名がある。

一方で、遠州の国領屋亀吉は、幕末のやくざ社会の様子を尋ねられた際に、「清水次郎長、長楽寺清兵衛、堀越藤左ヱ門、大和田友蔵、雲風亀吉・・・・みんないい顔だったよ」と名を挙げているが、「文吉さんはどうでしたか?」と聞かれたとき、土地の方言を使って、「あの人はオッカネエー(恐ろしい)人だ。ただのやくざではねぇ」と死んだ文吉を恐れたという。別名「暗闇の代官」と呼ばれた意味もわかるような気がする。明治4年4月8日、府中の自宅で死去。64歳。
(参考)「アウトロー・近世遊侠列伝」高橋敏著・敬文社


当ブロクに関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
次郎長の兄貴分博徒・津向文吉

写真は安東文吉の墓。法名は「心善院法山日櫻信士」静岡市駿河区池田 本覚寺にある。
台石の正面に「安文吉」とある。この字は相良の富吉の軍師で、元加賀藩前田家剣道指南役・小泉勝三郎の筆による。彼は文吉に命を助けられ、文吉一家に寄宿した。相良の富吉は、関東岩五郎が相良に殴り込みがあった時、「田沼候定紋入り陣幕使用事件」を起こし、江戸で文吉に捕縛され、牢死した。
左右に長谷村の勇吉、安西五丁目の吉五郎、柳新田の政蔵、瀬名村の権次郎、安西一丁目の石音など主だった一家の名が刻んである。

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悲劇の博徒・笹川繁蔵

2024年02月13日 | 歴史
「利根の川風、袂に入れて、月に棹さす高瀬舟」講談、映画で有名な大利根月夜の舞台であり、天保水滸伝として、笹川繁蔵、用心棒・平田深喜(別名・平手造酒)と飯岡助五郎との大利根川の決闘は良く知られている。

笹川繁蔵の生家岩瀬家は、須賀山村の東南にある羽斗村で代々醤油と酢を醸造した旧家で、地元の富豪である。繁蔵は岩瀬家七左衛門の三男として生まれた。母親は地元で有名な美人で、繁蔵も色白の美男子であった。

若い頃から力が強く、相撲好きで一時、江戸の千賀ノ浦部屋に入門した。1年余りで故郷に戻り、常州芝宿の親分文吉の賭場に出入りし、博徒渡世に入る。繁蔵は、もともと実家に金があり、度胸、金離れ良く、次第に子分も増え、親分の文吉の跡目を譲り受けた。

(博徒名) 笹川繁蔵 (本名) 岩瀬繁蔵
(生没年) 文化7年(1810年)~弘化4年(1847年) 享年38歳。飯岡助五郎子分3人によりビャク橋で闇討ち殺害。

(通称)  平手造酒 (本名) 平田深喜
(生没年) 生年不詳 ~天保15年(1844年) 享年37歳前後、繁蔵、助五郎の大利根河原の抗争で闘死。

当初、笹川繁蔵と飯岡助五郎は友好関係にあった。二人の年齢は18歳も違い、繁蔵は、「飯岡のとっさん」と助五郎に従い、助五郎の妾の子堺屋与助の妻は繁蔵の紹介によるもので、裕福な実家を持つ繁蔵は二足草鞋の助五郎に何度も資金の融通をしていた。しかし、縄張りを拡大する繁蔵に危機感を持った助五郎は関東取締出役道案内の役目を利用して、繁蔵襲撃を計画した。

事前に計画を察知した繁蔵は毎晩、朝まで待機して、襲撃に備えた。天保15年8月6日早朝、飯岡一家は船三艘に約30人、陸路20人、合計50人で笹川を襲撃した。一方、事前準備万端の繁蔵側は人数では半分に満たないが、一気に反撃した。繁蔵の反撃の激しさで、助五郎側は4人の死者を出し、その死者を置き去りにしたまま、船で逃走せざるを得なかった。

一方、繁蔵側の死者は用心棒の平田深喜ひとりだけである。平田は紀州藩または仙台藩の元藩士と言われ、下総郡香取の鈴木何某との名前の道場に居候して、繁蔵と知り合い、繁蔵の用心棒として7年を過ごした。平田は江戸千葉道場の俊英と言われるが、それほど腕の立つ剣士ではなかったようだ。

約2時間程の襲撃が終了した時はまだ息があり、治療を受けながら、子分たちに酒で一杯やってくれと気を使いながら、翌日7日午前零時に絶命した。平田は、頭に十文字に切り傷、刺し傷3か所、右肩、左肩、腕に各2か所、わき腹、ひざ等、全部で11か所に切り傷、刺し傷があった。

襲撃後、繁蔵は役人の追手を避けるため、奥州に逃亡の旅に出る。それから2年後にひそかに笹川に戻った。飯岡助五郎の子、堺屋与助は虚無僧の身なりで隠密裏に繁蔵を動きを探り、弘化4年(1847年)7月の夜、与助ら3人によって、笹川のビャク橋のたもとで闇討ちで殺害される。二、三日後に首のない死体が利根川から発見された。

この暗殺が助五郎の指示によるものか、子分の独断によるものかはっきりしない。しかし、助五郎は繁蔵の首を、自分の菩提寺光台寺にひそかに葬むり、わざと戒名も付けず、土饅頭の上に石を一つ置いて供養した。助五郎はさすがに良心に責めがあったのか、「俺が死んだら、この首塚の傍へ埋めろ」と言ったという。

繁蔵の愛妾のお豊は絶世の美人と言われ、繁蔵の死後は、まだ若く、子分の羽斗の勇吉に身を任せた。そのため、勇吉は一家から爪はじきにされ、二人は笹川を脱して、江戸わび住まいをした。勇吉は、江戸でも身辺が危なくなり、お豊を捨てて大坂に高飛びの途中、沼津で目明しに捕縛された。

勇吉は、その後嘉永2年、江戸小塚ツ原で断首されたという。勇吉に捨てられたお豊は、故郷を忘れ難く笹川に戻り、繁蔵の身内がほとんど居なくなってからビャク橋のたもとに、繁蔵のために高さ3尺ほどの石碑を建てたという。
(参考)「アウトロー・近世遊侠列伝」高橋敏著・敬文社


当ブログに関連の記事があります。よろしければ閲覧ください。
悪者博徒の代表・飯岡助五郎

無宿浪人・平田造酒

写真は笹川繁蔵の碑。千葉県香取郡東庄町延命寺内にある。

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三州博徒・形ノ原斧八

2024年01月06日 | 歴史
清水次郎長の弟分として義理を尽くした博徒として形原一家の初代親分である「形ノ原斧八」がいた。

博徒名 形ノ原斧八 (本名・市川斧八)
生没年 天保1年(1830年)~明治23年(1890年)1月26日 享年60歳

斧八の生まれは、三州宝飯郡形ノ原(現在の愛知県蒲郡市形原町)で、本名・市川斧八。両親は一町歩の畑と一艘の持ち船を保有する自作農である。しかし、斧八は親の家業を捨て、地元で10人余りの子分を持つ博徒となっていた。

嘉永1年ごろ、斧八は子分の喧嘩の不始末を、当時では珍しく、親分の斧八がかぶり、甲州に逃亡、国分三蔵の兄弟分の祐天仙之助一家に客人として草鞋を脱いでいた。斧八は一宿一飯の渡世の義理で次郎長の子分「森の八五郎」を祐天仙之助一家が捕縛するのを手助けをする。一方、次郎長一家は、子分の森の八五郎奪還のため、甲州石和の勘太郎という博徒のところに宿をとっていた。

その宿に、祐天仙之助一家に愛想をつき、旅に出た斧八が次郎長を訪ね、森の八五郎を生け捕りした本人であることを次郎長に報告する。それを聞いた次郎長一家の法印大五郎ら子分は、「この場で斧八を叩き殺せ。」と大騒ぎした。斧八は「許せねえと仰るのでしたら、ご存分に願います。」と啖呵を切った。

次郎長は斧八の侠客としての潔い良さに感心し、子分たちを説得した。これが斧八と次郎長との最初の出会いである。その後、次郎長一家は祐天仙之助一家へ真夜中の襲撃をして、無事、森の八五郎を助け出した。

その事件のち、清水に戻った次郎長は妻のお蝶を連れて、甲州代官の手配追手を逃れ、尾張方面に逃亡の旅に出る。その途中、次郎長は、妻のお蝶の体調が悪くなり、旅の金も不足し、瀬戸の岡市の家に留まり、金策に四苦八苦をしていた。

そこに斧八が姿を見せた。斧八は、「あらましの様子は伺いましてござんす。以前、命を助けていただいたお礼に、少しでもお役に立ちとうござんす。二日ほどのちにまた伺います。」と言って、急ぎ、自宅の三州宝飯郡形ノ原に戻った。戻ると、女房の「おきた」に無理を言い、女房のへそくりの三両を受け取り、瀬戸まで20里走り続け、次郎長に渡し、義理を果たした。

その後、お蝶は薬石効なく、尾張、巾下の長兵衛の家で息を引き取った。お蝶の葬儀でも、斧八は次郎長一家の子分同様こまめに働き、次郎長に尽くした。

葬儀後、斧八は、次郎長に「子分の盃を頂きたい。」と願い出た。次郎長は、「見たところお前さんは、親分の器を備えているお人だ。俺の子分になっては、子分の中からはみ出してしまう。清水一家に大政は二人はいらねえ。兄弟の盃なら、お互いに力になろう。」と答えた。その後、「黒駒勝蔵・平井一家襲撃事件」においても、吉良の仁吉と同様、清水一家の喧嘩に応援手助けをすることとなる。

ブログに関連の記事があります。よろしければ閲覧ください。
清水一家の平井亀吉、黒駒勝蔵壮絶な襲撃事件


写真は近くの林光寺には尾崎士郎書による形原一家の石碑。初代・市川斧八、2代目・市川与四郎、3代目・市川弥一、4代目・中瀬徳一、5代目・清水橋一郎、昭和34年6月初日・小林金次建立とある。




写真は形ノ原(市川)斧八の墓 現・愛知県蒲郡市形原町南淀尻にある。法名「釋顕曜」である。

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次郎長より有名な博徒・森の石松

2023年12月26日 | 歴史
森石松というと東映映画30石船の「寿司食いねえ」の中村錦之助を思い出す。片目でドモリのおっちょこちょいのやくざという印象である。清水一家では一番有名な子分である。だがその実像は謎が多い。その存在そのものが空想という人もいる。

清水一家での活動期間は短いが、存在したことは間違いない。明治になって次郎長が監獄出所後の晩年、次郎長に面談した人が石松のことを聞いた時、次郎長は涙したと語っている。しかし、石松に関する資料は少なく、実像は謎のままである。

(博徒名) 森の石松
(生没年) 生年月日不詳~万延元年(1860年)6月1日
      都田吉兵衛、常吉、留吉の三兄弟により殺害された。

森石松は三州半原村(現・愛知県新城市富岡)の百姓の子として生まれた。母が死亡後、自宅が火災となったため、父親は石松を連れて、遠州森町村(現・静岡県周智郡森町)に炭焼きの出稼ぎに移住した。

石松はその森町で地元博徒・森五郎と知り合い、博徒の道に入る。その後、上州を流れて、喧嘩で常五郎なる博徒を殺害したため、清水に逃亡。ここで次郎長の子分になったと言われている。

石松は次郎長一家としては初期の子分である。大きな喧嘩は、安政6年(1859年)、次郎長、大政、石松、八五郎の4人で、知多大野・乙川で保下田久六を待ち伏せ、襲撃した抗争のみである。

次郎長は、保下田久六を斬った刀を四国金刀比羅宮に奉納代参の役目を石松に託した。無事奉納代参の役目を果たした帰途、近江草津の博徒・幸山謙太郎親分に名古屋で客死した次郎長女房お蝶への香典銀25両を託される。銀25両は金12両に当たる。

石松は遠州中郡の常吉を訪れたところで、長兄吉兵衛、常吉、留吉の三兄弟に銀25両を狙われ、気の良い石松は金を融通し、だまし討ちにあう。

長兄の吉兵衛は、次郎長の久六殺害を怨みとする丹波屋伝兵衛に繋がる博徒。石松は久六を殺害した4人のひとりである。石松を殺して次郎長に一矢報いようと、久六の子分浜松在布橋の兼吉に連絡して、石松を待ち伏せ、惨殺する。

吉兵衛は石松の首を斬りおとし、兼吉に久六親分の墓に供えるように言ったところ、「切歯針張目」怨みを含んで今にも食ってかかりそうな石松の形相に恐れを生じ、石松の髪を断ってこれに代えたという。万延元年6月1日のことである。

石松の横死は博徒間の力関係を微妙に変えた。次郎長の盟友江尻の大熊は吉兵衛との兄弟分の杯を返上した。思わぬ反発に吉兵衛は遠州の博徒・巳之助を介して石塔料50両で手を打ってほしいと持ち掛けた。しかし、次郎長は、俺を子分の命を金で売る親分にするつもりかと烈火のごとく怒って、巳之助を追い返した。

次郎長一家の吉兵衛追及が強まる中、吉兵衛は大場久八の子分の武闘派の赤鬼の金平に窮状を訴えた。9月16日の夜、金平・吉兵衛連合軍は先手を打って、次郎長の本拠地を襲撃する。当日、次郎長は病気で実父宅で療養中で、本宅はもぬけのカラ、策略と勘違いした吉兵衛らは引き揚げた。

その後、吉兵衛は、次郎長一家が河豚にあたり、戦力が低下した噂を聞きつけ、再度、次郎長襲撃のため江尻宿に子分9人で集結。事前に察知した次郎長は逆に大政、小政ら7人で酒盛りの吉兵衛を逆襲して殺害、両腕を切り取り、石松の墓に供えた。これが「東海遊侠伝」が語る「石松仇討ちの顛末」である。しかしこれが本当かどうかは疑わしい。

駿府の親分安東の文吉が次郎長と吉兵衛の仲裁に入り、次郎長も文吉の仲裁には逆らえず、いやいやながら承諾した。文吉の忠告もあって、吉兵衛が次郎長に詫びを入れに清水へ行ったところ、行き違いがあって次郎長一家に殺されたというのが真実らしい。

石松の墓は、静岡県周智郡森町にある大洞院の墓が有名だ。石松の死体は一度、浜松に運ばれ供養された。その後、森町の茶畑に長脇差と一緒に埋葬され、更に大洞院に改葬された。しかしもう一つ石松の生家(愛知県新城市富岡)の近くの墓もある。石松が斬殺されたとき、石松の弟・久吉が密かに石松の首を持ち帰り、ここに埋めたと言われている。墓は刻字もなく、石が置かれているだけである。

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義理と人情に生きた博徒・吉良仁吉という人

悪玉博徒・保下田の久六

遠州はんか打ち渡世人・小松村の七五郎

(参考)東三河を歩こう  石松の生家跡
 
写真は森石松の墓。真ん中の大きな石でなく、大きな岩の左隣にある小石が積み重なった小さな石の墓が石松の墓と言われる。弟が人知れず、密かに作った墓のため、目立たない墓にしたと言う。愛知県新城市富岡 洞雲寺にある。



写真は石松が隠れた閻魔堂。
石松は、小松村の博徒・七五郎の家で吉兵衛が金を返しにくるのを待った。金を返すと言われ、七五郎が「夜だからよせ」というのを振り切って出かけ、この閻魔堂前で斬られたという。



写真は「石松の祠」と地元では言われている。祠の中に石塔が祀られている。場所は浜松市浜北区道本、すぐ近くが昔の小松村である。


写真は小松村の七五郎の墓。七五郎は松本家の養子。浜北市紹隆寺過去帳に七五郎は「戒名・秀岸良苗居士・明治5年5月24日歿、享年55歳」女房の俗名「その」は「蓮宝貞香大姉・明治38年8月22日歿、享年81歳」とある。
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喧嘩しない大親分博徒・蕎麦亀と丹波屋伝兵衛

2023年11月20日 | 歴史
博徒というと国定忠治、黒駒勝蔵、清水次郎長などの名しか思いつかない人がほとんどだろう。しかし、世間に名を知られていないが、博徒としては歴史に名を残しても良い博徒がいる。歴史的有名人だけが優れているのではない。無名でも優れた博徒がいる。特に博徒は喧嘩を華とするため、抗争、喧嘩をしない博徒は歴史に残らず、忘れ去られることが多い。

そんな博徒の一人として、喧嘩を一切しないことを信条とし、大親分となった博徒・伊野亀吉がいる。この博徒については、増田知哉氏著書「侠客・博奕打ち物語」に記載されている。亀吉は八王子、三多摩地区一帯を縄張りとする博徒で、当時、江戸、甲州、伊豆、上州まで名を知られた親分である。

(博徒名) 通称・蕎麦亀   (本名) 伊野亀吉
(生没年) 天保7年(1836年)~明治32年(1899年)7月18日
      享年64歳で病死。

伊野亀吉は初め、甲州の一の宮万兵平の子分となり、博徒の道に入る。亀吉25歳のとき、親分万平が死亡してからは、伊豆の大場久八の身内となった。明治になって大場久八も博徒から足を洗ったため、故郷の八王子に戻り、蕎麦屋を営む傍ら博徒稼業を始め、徐々に子分たちも増えた。亀吉は腰の低い温和な親分で、いつもニコニコし、乞食が来ても「旦那」と呼んだという。

亀吉が言うには、「喧嘩などするとはどうしたことか、喧嘩して勝ったところで、殺してみたところで、それでどうなるわけではない。甲州近くのこの辺りは気の荒い所で、喧嘩が多いが、喧嘩にならぬように捌いてゆく。喧嘩すれば、逃亡とか、土地を離さなければならない。喧嘩すれば仇にされるが、仇は博奕場にされる。なんの得にもならず、そんなことではいけない。」と言っていた。その証拠に亀吉の身体には喧嘩傷一つとしてなかったという。

亀吉も60歳近くになり、跡目を「曲七」に譲った。「曲七」の本名は内田七太郎と言い、本業が曲物屋だったところから曲七と呼ばれた。一方、亀吉は蕎麦屋を営み、晩年は「蕎麦屋の爺さん」と呼ばれた。「うちは儲けるつもりはないから」と言って、ここの蕎麦の盛り一杯はよその二杯分あり、繁盛し、職人の給料もよそより高かった。

この爺さんがあるとき、曲七のところに立ち寄った。親分の曲七は留守で子分だけしか居なかった。子分たちが仲間内で博奕をやっていたので、久しぶりにやってみたいと言うと、子分たちが「どうぞ爺さん胴を取ってください。」言われ、少し眼が悪いがやってみようとサイコロを振った。筒の外にサイコロが出ている。子分たちは「眼が悪いので気が付かないのだ」と思い、出た目に張る。

これなら誰でも儲かると平気で続けた。そのうち爺さんが博奕で張った金を掻き集めて、ネンネコにくるんだ。子分たちが、「勝負しないで持って行かれては困ります。」と言うと、爺さんは、「この馬鹿野郎、俺が眼が見えないと思っているのか、そんな根性でどうなる。金は俺が持って行く。曲七が帰ったら、早速、盃を返せと言っておけ。」といって帰った。

驚いた子分たちは平岡という親分の兄貴分に、親分に知れないように爺さんに詫びを入れるように頼んだ。平岡の兄貴分が爺さんのところに行って、「あいつらが心違いしたそうです。このことを曲七に言っておやりになれば、大変なことになります。今度だけは勘弁してやっておくんなさい。」と言った。

爺さんは、「それはぜひ止して貰いたい。あんな性根のない奴らなら、商売をするなり、かえって真人間になれる見込みがある。今、そういう手紙を書かして、曲七の所に出したところだ。」と言う。

「侠客・博奕打ちの物語」を書いた増田氏は、蕎麦屋の爺さんと言われた博徒・亀吉のことを、「遊侠の世界での残照の中で、博奕打ちの親分として、貴重な存在であり、博徒として相当な人物だった。」と記している。

亀吉が居た三多摩地区には、幕末・明治期にかけて名を残した博徒がいた。最も有名なのは小金井小次郎である。スケールは小次郎に及ばないが、もう一人は小川村(現・小平市)にいた小川幸蔵である。二人とも歴史に名が残る博徒である。他方、亀吉は名は知られていないが、この二人の博徒に勝るとも劣らない博徒と言える。

伊勢の古市で有名な博徒に「丹波屋伝兵衛」がいる。伝兵衛は荒神山騒動の穴太徳次郎の親分である。伊勢(三重県)きっての大親分。次郎長は、吉良の仁吉の弔い合戦で、千石船2艘で伊勢湾を渡り、伝兵衛相手に喧嘩を挑んだ。伝兵衛に戦意は無く、穴太徳とともに謝罪し、和議が成立した。

伝兵衛は、伊豆韮山(静岡県伊豆の国市)の出身、五尺そこそこの小男で、20歳頃博徒になった。妻は次郎長の子分・増川仙右衛門の叔母である。仙右衛門の父・佐治郎も博徒で、赤鬼の金平の子分に殺された。佐治郎の妹の「おとめ」が伝兵衛の妻である。仙右衛門は後に次郎長の手助けで父の仇を討ち、それが縁で次郎長の子分となった。

伝兵衛は明治になって、半田竹之助と名を改めた。丹波屋の跡目も人に譲り、古市を離れた。明治23年(1890年)12月16日、蕎麦亀こと伊野亀吉の別宅で、心臓麻痺を起こし急死した。年齢は65歳前後と言われ、八王子市興林寺に葬られた。蕎麦亀は全国の博徒に名が売れ、人望もある博徒であった。

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新門辰五郎の弟分博徒・小金井小次郎という人

一揆鎮圧に協力した博徒・小川幸蔵という人



下の写真は「蕎麦亀」こと伊野亀吉の墓。八王子市子安町「興林寺」にある。戒名は「壱誉宮量亀信士」である。正面戒名の右側は「量誉智明久信女」左側は「照誉貞孝妙散信女」とある。亀吉の妻女であろう。


下の写真は伊野亀吉が明治26年に建てた「三侠の墓」・丹波屋伝兵衛の墓である。三侠とは杉本万平、井上勘五郎、丹波屋伝兵衛である。
万平とは甲州街道一帯に勢力を張った博徒一ノ宮一家の初代・一ノ宮万平、勘五郎とは二代目・井上勘五郎、三代目が伊野亀吉である。
正面に三つ戒名がある。「沢泉道量信士」「本誉覚道常念信士」「西向了盛信士」中央の「本誉覚道常念信士」が丹波屋伝兵衛である。
右側面「香花料金弐拾円・施主亀吉」「性誉覚念妙操信女」明治26年2月12日俗名夕子」とある。
左側面に慶応三卯年「本念妙覚貞性信女」9月6日、明治16年「念誉自性貞操信女」3月31日
背面に「文久3年6月9日・俗名万平」「明治23年12月16日・俗名竹之助」「慶応2年8月27日・俗名勘五郎」とある。「竹之助」が丹波屋伝兵衛である。


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幕末志士と芸者「維新侠艶録」志士の素顔

2023年10月20日 | 歴史
「維新侠艶録(いしんきょうえんろく)」井筒月翁著・中公文庫2007年11月発行

本書初刊は昭和3年12月、萬里閣書房から発行された本の文庫本化である。

著者の井筒月翁の経歴は明らかではないが、著者自身が京都祇園新地の芸者中西君尾、大阪南地宮田屋の芸者お雄、下関遊郭の芸者津山太夫、横浜富貴楼の芸者お倉からの話を聞き書きしたものである。それなりの脚色もあり、どこまで本当か判然としない。

高杉晋作は下関(当時は馬関と言った)の廓芸者・おそのと相思相愛の仲になった。高杉は24歳、おそのは5歳下の19歳。高杉は絶えず幕吏に追われ、変装して西、東へと隠れ歩いた。その間、おそのは常に短刀を懐中に入れ、高杉の身の回りを警戒していたと言う。

高杉が肺病で死去したのは28歳、おそのは23歳、連れ添ったのは4年間あまりである。高杉死後は長州吉田村に引き込み、髪を下ろし梅匠尼と名乗り、明治42年8月、出家したまま、死去した。

長州藩維新の志士は多くが当時下関で知り合った芸者を妻とした。伊藤博文の妻・梅子などがいる。井上馨は馬関の芸者力松を落籍した。しかし力松との世帯は3か月で終わり、その後、お照という舞妓を男装させ、小姓侍に変装、いつも若侍として連れていた。

後に参議、枢密院議長、内務大臣となった副島種臣は若い頃、女嫌いで有名だった。その副島が江戸築地の遊郭梁山泊の美人芸者小浜を見初めた。
その頃の副島は着るものに無頓着、風呂にも入らず、汚くて人が避けて歩くほどだった。小浜も一度は断ろうとしたが副島の真面目さに負けて、遊郭の女将に副島を小浜の家に一週間預かりたいと申し出た。

小浜は居候の副島に命令して、湯屋で毎日、三助に垢を落とさせ、床屋で散髪、日本橋の大丸呉服店で着物を仕立て着させた。馬子にも衣装どころか、根が立派な美男子のため、隆々とした男丈夫に変身した。

小浜は今から井上馨、伊藤博文に挨拶に行くから、ついて来なさいと言われる。井上、伊藤は副島を見ても別人、「お前が副島か?」と驚いた。一週間後、井上らが祝宴を開き、二人の契りを結んだと言う。

久坂玄瑞は小柄な男、いつも頭は坊主だった。なかなか粋な男で詩歌にも通じていた。中西君尾が記憶している都都逸を下記に並べる。

「咲いて牡丹と言われるよりも、散りて桜と言われたい」
立田川無理に渡れば紅葉が散るし、渡らにゃ聞こえぬ鹿の声」
「鴨川の浅き心と人に見せ、夜は千鳥で鳴きあかす」

久坂は京都島原角屋の芸者(本名は竹内辰)お辰(辰路とも言う)と馴染だった。お辰と一緒に外出のとき、久坂と桂小五郎が路上の易者に占ってもらった。桂はさほど悪くはないが、久坂は不時の死をすると出た。「どうせ国のため死ぬ。早いも遅いもない」と笑った。

中西君尾の話によると、西郷隆盛は太った、肥えた女が好きで、ゾウのように肥満した女性を愛した。京都祇園の奈良屋のお虎という仲居を可愛がったみた

西郷が倒幕のため、京都を出発するときに、お虎は別れを惜しんで、京都から大津まで駕籠に乗って見送った。西郷は「戦の門出に虎が送ってくるちゅうは縁起がよか」と上機嫌で、褒美に30両を出したという。

お虎は西南戦争で西郷が死んだと聞いて、ひどく悲しみ、それから3年後にお虎も死んだ。君尾は「女で西郷さんからお金を貰ったのはお虎さんだけでしょう」と言う。

西郷は酒席では、無邪気に遊ぶだけ。偉いのか、馬鹿なのか得体のわからない人だった。酒を飲んでも大声を出すのでもなく、芸者と遊ぶわけでもない。ただ静かに邪気なく遊ぶだけだった。

祇園の川端井末の女将のお末も豚のように太っており、西郷はお末を追っかけた。お末は逃げてばかりで、西郷も諦めて、相撲甚句を踊って帰って行った。

お末は後にあの西郷吉之助が偉い人と聞いて「へえ、あの人が・・」と驚いたと言う。大西郷の面目躍如たるものがある。
維新志士の普通の一般人と変わらない素顔が見える。貴重な本である。


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女性から見た維新史「勤皇芸者」

下の写真は山口県萩にある高杉晋作の墓。吉田松陰の墓と並んでいる。

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