元治元年(文久3年という説もある。)6月、黒駒の勝蔵が平井村(豊川市平井町)の亀吉のところに逗留しているとの情報を得た次郎長は、急遽、平井襲撃を思い立った。次郎長一家に、寺津間之助、吉良の仁吉、形原の斧八一家の者を加えた、総勢34名が平井に最も近い形原の斧八一家に集結した。戦闘用の長さ2丈(6メートル)の竹をわざわざ西尾まで出向いて20余本も買い集める周到さである。
宝飯郡平井村に生まれた亀吉は、かつて三河ゆかりの江戸大相撲清見潟部屋に入門、雲風の藤八の四股名で、東の序二段十九枚目までいった元力士である。弟の常吉も「下路ノ常」と異名のあった渡世人である。弟の常吉はもともと次郎長とは深い因縁で結ばれていた。次郎長とは、三河放浪時に賭場荒らしの仲間同士であった。次郎長が赤坂出張陣屋(豊川市赤坂町)から探索されていた安政2年(1855年)に運悪く、新居関所に発砲した罪で捕えられて、常吉は3年後、伊豆新島に遠島になってしまう。
江戸に送られる途中の江尻の宿(静岡県清水市)で、次郎長は護送役人を買収して、唐丸駕籠の常吉と密かに面会して、「遠島になったら再び生きて故郷には帰れないぞ。今夜襲うから駕籠を破れ。」と強く逃亡を勧めたが、江戸相撲の年寄りの嘆願で、なんとか罪を軽くするとの兄亀吉の言葉を信じて、ここは暴挙を慎むと涙ながら謝絶した。次郎長は、「後悔するぞ」と言って匕首を駕籠に投げ入れたが、常吉は、「俺のためにおまえさんを巻き込むことはできねえ」と、匕首を返してよこした。次郎長は「せっかく算段したのに怖気ついたか」と匕首を拾い、別れたという。
もともと亀吉は、弟の常吉の縁もあって、次郎長との仲は悪くなかった。しかし、弟分となった勝蔵のたっての頼みとなれば、亀吉は、次郎長と敵対すること覚悟のうえで、勝蔵を匿ったのだ。これが博徒の義理というものであった。逃亡の途中で追われる勝蔵は、甲州に戻れず、中泉代官(静岡県磐田市)の御用を盾にする次郎長の居る東海道筋の駿河、遠江は避けて、ここは博徒の金城湯池の三河に一時の安住の隠れ家を求めた。それが弟分の平井村、雲風の亀吉の自宅であった。
元治元年(文久3年という説もある。)6月5日、夜が白々と明けるころ朝飯をかけ込んだ一団は、舟に乗り込み前芝海岸(豊橋市前芝町豊川河口付近)を目指した。清水一家勢のいでたちは、派手な飛白の単衣に、独鈷の博多帯、白股引きに紺の脚絆を着け、頭にはそろいの府中笠をかぶり、種子島銃4挺、槍16筋を先頭に立てた物々しい陣構えであった。
午前11時頃前芝海岸に到着。そこから平井村へ徒歩で向かい、亀吉の屋敷を取り囲んだ。銃声を合図に一斉になだれ込んでいった。お昼どき、亀吉と勝蔵は、2階の座敷の障子を開け放しにして、初夏の田んぼを見ながら、亀吉が御油の遊女屋から連れてきた若い妾の酌で小宴の最中であった。護衛の子分たちもわずか6人だけであった。明らかに油断していた。
勝蔵の大岩ら子分たちは、ここは自分たちに任せて、親分は一刻も早く逃げてほしいと二人を屋外に出した。残った子分6人は死に物狂いに闘い、なます状態に切り刻まれて、憤死した。逃げた二人は水田の稲穂に隠れ、農作業の農民のなかに紛れ込み、なんとか逃げることが出来た。しかし、子分が皆殺しにされ、屋敷も滅茶苦茶に破壊されるのを目の前で傍観せざるを得なかったのだ。この以降、亀吉と勝蔵は怨念を燃えたぎらせ、清水の次郎長、形原の斧八に対する復讐に向かって燃え上っていく。
ひとつ後日談がある。次郎長は、殺した勝蔵の子分たちをさらし首にして、さらに勝蔵の股肱の子分、大岩らの髪を切断して、これをかつての黒駒一党に殺害された遺族に贈った。そして父親を亡くした7歳の子供が、お父ちゃんの仇と言ってこれを打ったという。かくしてし、清水一家は勝どきをあげて、引き挙げていった。
後の亀吉側の資料では、この襲撃事件で、次郎長自らは出陣せず、形原の斧八の自宅に留まり、大政が陣頭指揮にあたった。また、襲撃のあった年を元治元年とするが、近隣威宝寺住職の記録では元治元年でなく、一年前の文久3年としている。次郎長側は総勢34人、清水一家で殺された子分は5人とある。
(参考)「侠客・原田常吉」中尾霞山著
ブログ内に下記の関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
平井一家、雪の中の復讐(博徒史 その4)
亀吉側の被害は、勝蔵の子分で、大岩、治郎吉、亀吉の子分で、勘重、松太郎、種吉の5名が殺された。子分5名の供養塔は豊川市平井町小野田の共同墓地にある。その墓には殺された子分達の名前が彫られている。供養塔は原田常吉が新島から平井に戻った後に建立した。
宝飯郡平井村に生まれた亀吉は、かつて三河ゆかりの江戸大相撲清見潟部屋に入門、雲風の藤八の四股名で、東の序二段十九枚目までいった元力士である。弟の常吉も「下路ノ常」と異名のあった渡世人である。弟の常吉はもともと次郎長とは深い因縁で結ばれていた。次郎長とは、三河放浪時に賭場荒らしの仲間同士であった。次郎長が赤坂出張陣屋(豊川市赤坂町)から探索されていた安政2年(1855年)に運悪く、新居関所に発砲した罪で捕えられて、常吉は3年後、伊豆新島に遠島になってしまう。
江戸に送られる途中の江尻の宿(静岡県清水市)で、次郎長は護送役人を買収して、唐丸駕籠の常吉と密かに面会して、「遠島になったら再び生きて故郷には帰れないぞ。今夜襲うから駕籠を破れ。」と強く逃亡を勧めたが、江戸相撲の年寄りの嘆願で、なんとか罪を軽くするとの兄亀吉の言葉を信じて、ここは暴挙を慎むと涙ながら謝絶した。次郎長は、「後悔するぞ」と言って匕首を駕籠に投げ入れたが、常吉は、「俺のためにおまえさんを巻き込むことはできねえ」と、匕首を返してよこした。次郎長は「せっかく算段したのに怖気ついたか」と匕首を拾い、別れたという。
もともと亀吉は、弟の常吉の縁もあって、次郎長との仲は悪くなかった。しかし、弟分となった勝蔵のたっての頼みとなれば、亀吉は、次郎長と敵対すること覚悟のうえで、勝蔵を匿ったのだ。これが博徒の義理というものであった。逃亡の途中で追われる勝蔵は、甲州に戻れず、中泉代官(静岡県磐田市)の御用を盾にする次郎長の居る東海道筋の駿河、遠江は避けて、ここは博徒の金城湯池の三河に一時の安住の隠れ家を求めた。それが弟分の平井村、雲風の亀吉の自宅であった。
元治元年(文久3年という説もある。)6月5日、夜が白々と明けるころ朝飯をかけ込んだ一団は、舟に乗り込み前芝海岸(豊橋市前芝町豊川河口付近)を目指した。清水一家勢のいでたちは、派手な飛白の単衣に、独鈷の博多帯、白股引きに紺の脚絆を着け、頭にはそろいの府中笠をかぶり、種子島銃4挺、槍16筋を先頭に立てた物々しい陣構えであった。
午前11時頃前芝海岸に到着。そこから平井村へ徒歩で向かい、亀吉の屋敷を取り囲んだ。銃声を合図に一斉になだれ込んでいった。お昼どき、亀吉と勝蔵は、2階の座敷の障子を開け放しにして、初夏の田んぼを見ながら、亀吉が御油の遊女屋から連れてきた若い妾の酌で小宴の最中であった。護衛の子分たちもわずか6人だけであった。明らかに油断していた。
勝蔵の大岩ら子分たちは、ここは自分たちに任せて、親分は一刻も早く逃げてほしいと二人を屋外に出した。残った子分6人は死に物狂いに闘い、なます状態に切り刻まれて、憤死した。逃げた二人は水田の稲穂に隠れ、農作業の農民のなかに紛れ込み、なんとか逃げることが出来た。しかし、子分が皆殺しにされ、屋敷も滅茶苦茶に破壊されるのを目の前で傍観せざるを得なかったのだ。この以降、亀吉と勝蔵は怨念を燃えたぎらせ、清水の次郎長、形原の斧八に対する復讐に向かって燃え上っていく。
ひとつ後日談がある。次郎長は、殺した勝蔵の子分たちをさらし首にして、さらに勝蔵の股肱の子分、大岩らの髪を切断して、これをかつての黒駒一党に殺害された遺族に贈った。そして父親を亡くした7歳の子供が、お父ちゃんの仇と言ってこれを打ったという。かくしてし、清水一家は勝どきをあげて、引き挙げていった。
後の亀吉側の資料では、この襲撃事件で、次郎長自らは出陣せず、形原の斧八の自宅に留まり、大政が陣頭指揮にあたった。また、襲撃のあった年を元治元年とするが、近隣威宝寺住職の記録では元治元年でなく、一年前の文久3年としている。次郎長側は総勢34人、清水一家で殺された子分は5人とある。
(参考)「侠客・原田常吉」中尾霞山著
ブログ内に下記の関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
平井一家、雪の中の復讐(博徒史 その4)
亀吉側の被害は、勝蔵の子分で、大岩、治郎吉、亀吉の子分で、勘重、松太郎、種吉の5名が殺された。子分5名の供養塔は豊川市平井町小野田の共同墓地にある。その墓には殺された子分達の名前が彫られている。供養塔は原田常吉が新島から平井に戻った後に建立した。
でもヤクザの世界は所詮、縄張り争いから喧嘩出入りの繰り返ししかなかったんでしょうね。
ありがとうございます。博徒もいろいろです。
よろしければ、下記の記事もご覧ください。
函館の博徒・柳川熊吉
賊軍幕府兵を埋葬した博徒たち
越後博徒・観音寺久左衛門