兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

博徒・板割の浅太郎

2022年02月19日 | 歴史
東海林太郎の「赤城の子守唄」板割の浅太郎(本名・大谷浅次郎)は国定忠治の子分として有名である。関東取締出役道案内・中嶋(三室)勘助は浅次郎の伯父である。忠治は、田部井の賭場への関東取締役出役の襲撃を勘助の密告と判断した。

その証拠にその賭場には浅次郎が居なかったことを挙げる。しかしそれは誤解だった。浅太郎は、忠治の誤解を解くため、伯父・勘助・勘太郎親子を殺害する。勘助の死で忠治は結果的に上州全体を勢力範囲に治めた。

関東取締役にとって、支配下の道案内勘助の殺害は敵対行為であり、面子は丸つぶれだった。上州全勢力を集め、忠治の捕縛に全力を挙げた。勘助殺害と大戸関所破りの罪で忠治は全国指名手配となる。

天保13年(1842年)事件発生後、忠治とその子分たちは一斉に赤城から各地へ逃走した。忠治は会津へ逃亡。逃亡生活は弘化3年(1846年)まで4年間に及んだ。

高橋敏氏によれば、逃亡期間中に浅次郎と日光円蔵は捕縛された。浅次郎は斬首、日光円蔵は牢死したと言われる。正式な公文書があるわけでなく、確実な資料はない。当時は本人確認の方法も杜撰である。たとえ捕縛されても、別人の可能性も捨てきれない。

時宗総本山・遊行寺の資料によると、浅次郎は、信濃国佐久で時宗・金台寺(現・長野県佐久市)の住職「列外和尚」の弟子になる。そして出家して「列成」に名を改めたと言う。

遊行上人の導きで、相模藤沢(現・神奈川県藤沢市)へ移り、時宗総本山遊行寺の「堂守」になる。真面目に参拝者接待のお茶出し、鐘つき、境内清掃の仕事を務めつつ、勘助親子の菩提を弔ったと言う。

その後、遊行寺の塔頭の貞松院の住職となる。明治13年(1880年)の藤沢宿の大火の際には、勧進僧となり、各地を回り、浄財を集めたと言う。

明治26年(1893年)12月30日、列成は74歳で死去した。遊行寺境内真徳寺に墓がある。墓には「当院42世・洞雲院弥阿列成和尚」側面に「明治26年12月30日死去」と刻まれている。

この間の流れは山本周五郎短編小説・夜明けの辻」新潮文庫のなかで「遊行寺の浅」として小説化された。小説は遊行寺四ケ院代・吉川清氏の資料に拠るものである。


ブログ内に下記の関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
「赤城の子守唄」関東取締出役道案内・中嶋(三室)勘助

博徒・国定忠治の最期

ヒーロー博徒・国定忠治という人


藤沢市の遊行寺境内真徳寺にある板割の浅太郎の墓。遊行寺は箱根駅伝の難所・遊行坂沿いにある。







墓の隣にある説明看板である。


遊行寺の大イチョウ・小説では忠治の身内で、忠治から縁を切られた「隠坊の辰」が盗人仲間とともに遊行寺宝庫に盗みに入る際、浅太郎がイチョウの木の陰で待ち伏せた。


遊行寺の本堂である。
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