兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

忠臣蔵の手本・浄瑠璃坂の仇討ち

2018年10月17日 | 歴史
武士の仇討ち事件は忠臣蔵の赤穂事件が有名である。しかし、赤穂事件の31年前に起きた「浄瑠璃坂の仇討ち」事件を知っている人は少ない。浄瑠璃坂の仇討ちは寛文12年(1672年)2月3日未明、宇都宮藩を追放、脱藩した奥平源八ら同志42名が父の仇の同藩の元藩士奥平隼人を討った仇討ち事件である。原因は、宇都宮藩の前藩主奥平忠昌の法要における、同藩の重臣間での口論である。

宇都宮藩の奥平家はもともと上野国甘楽郡奥平村(群馬県高崎市)に出目をもつと言われる。奥平家は三河設楽郡を拠点とし、天正3年(1575年)忠昌の祖父である奥平定昌が、長篠城を死守して、織田・徳川連合軍が武田勝頼を破るのに大いに貢献した。その後、信長から「信」の字をもらい「信昌」となり、家康の娘、亀姫を正室にして、徳川家の外戚となった名門である。この時から、一族の者と重臣の12の家が家康から永代拝謁を許され、これらの家が交代で家老職を勤めた。7族5老の重臣名家と言われている。奥平信昌の子、家昌は宇都宮の城主になり、その子、忠昌が後を継いで宇都宮藩11万石城主となった。

事件の発端となったのは、寛文8年(1668年)3月2日下野興禅寺(宇都宮市)で行われる忠昌の葬式の前日3月1日に起こった。7族5老のうち母同士が姉妹のいとこ同士の2家の一つである奥平隼人は亡君の位牌を目にして、「玄光院殿海印」まで読んだ所で言葉に詰まってしまった。これを見たいとこの奥平内蔵允が「道湛大居士」でござると助け船を出したが、この声が大きく、結果的に隼人が無学の恥を藩士の前で晒すこととなってしまった。この恥を消すため、隼人が「内蔵允殿は僧の方が似合ってござる、流石は坊主勝り」と言ったことから、普段より犬猿の仲で、今までの不満が爆発、堪忍袋の緒が切れた内蔵允が隼人に脇差を抜いて斬りかかった。しかし、隼人は武断派、内蔵允は文治派で、隼人の方が武道に勝り、反対に内蔵允が返り討ちにあい、内蔵允は傷を負った。

亡君の大切な法要で怪我人を出すことは藩の重大な不祥事である。しかし、前藩主忠昌の後を継いだ昌能は、前藩主忠昌がなくなった時、藩内で殉死者を出し、幕府禁令に違反、蟄居中で、藩の存続が危ぶまれる状況であったため、不祥事の沙汰が先延ばしとなった。その沙汰が下る前に内蔵允は、事件の際に受けた傷がもとで破傷風となり、死亡してしまった。やがて忠昌の子の昌能は、幕府より宇都宮藩は召し上げで、代わりに山形へ転封との形で跡目相続が認められた。

事件から半年後の9月2日、藩主昌能より不祥事について「奥平隼人は改易、奥平内蔵允の息子・源八(12歳)と内蔵允のいとこの奥平伝蔵の両名は家禄没収のうえ藩より追放」の沙汰が下りた。納得がいかないのは源八である。父は死亡しているのに、相手の隼人はのうのうと生きている。この判定は喧嘩両成敗からはずれ本来なら、隼人は切腹となるべきであり、不公平であると主張して、隼人を敵として狙うこととした。この仇討ちに賛成したのが奥平伝蔵と源八の叔父・夏目外記ら一族郎党40余名である。源八方は即日、藩を追放されたのに対して、隼人親子は藩より物々しい護衛をつけて送り出されて、江戸旗本の屋敷に身を寄せた。源八の仇討ち行動を知った隼人の方も父・奥平半斎、弟・主馬允と一族の九兵衛らが徒党を組んだ。

源八ら一党は手始めに、追放処分を受けず、山形の奥平昌能藩に留まっていた隼人の弟・奥平主馬允を山形上山で待ち伏せ、襲撃して、討ち取った。事件から1年後、寛文9年(1669年)7月3日である。主馬允方は16名、源八方は15名双方で30名余りの戦いであった。待ち伏せして攻撃する方が有利であり、源八側は怪我人は6名出たものの、死亡者はいなかった。一方、主馬允側の死亡者は主馬允を始め、家来含めて7名であり、残りは逃げ去っている。一方的な源八側の勝利である。この襲撃事件は「思川の決闘」と呼ばれ、山形県上山市に思川歴史保存会によって「史跡・思川決闘の場」として現在も残っている。

この襲撃事件の後、隼人親子は源八一党からの襲撃を不安視し、隼人親子は江戸市内の居所を転々として変更した。源八一党が探索するも一向に居所を探し出すことができなかった。寛文11年秋になって、やっと2年かがりで隼人親子の居所を見つけた。それが江戸市ヶ谷浄瑠璃坂の上にある鷹匠頭・戸田七之助の屋敷である。当時、源八一党は下野黒羽の深沢村を本拠地を定めて、江戸にいる隼人親子襲撃の準備をしていた。江戸には仲間を潜入させ、戸田七之助屋敷内に必ず隼人親子二人がいる日時を探らせ、屋敷近くで商いをしながら監視する態勢を取っていた。

寛文12年(1672年)1月29日江戸の仲間よりの知らせが深川村に来て、討ち入りの日時が決定した。深川村にいた28名は直ちに船で鬼怒川経由で利根川を下り、江戸へ出発した。当時、利根川から江戸川を経由して隅田川の日本橋近くまで水路があった。陸路よりずっと早く江戸に到着することができる。寛文12年2月3日の未明、浅草駒形に船をつけた源八一党は江戸の仲間たちと合流した。総勢42名である。武器、道具は江戸の仲間が準備し、馬、乗り物で市ヶ谷の戸田七之助の屋敷に向かった。途中、水道橋の水戸藩屋敷前で長持ちから門を破る道具、ガンドウ提灯を用意し、浄瑠璃坂の隼人屋敷に到着したのは午前5時頃の明け方、まだ暗かった。

源八ら一党は屋敷の門を破り、松明をかかげて戸田七之助屋敷に討ち入った。屋敷内の相手方10数人を斬り、終始優勢に攻撃をして、隼人の父・半斎を討ち果たしたが、隼人は見つけることができなかった。已む得ず仇討ちを断念して、一党が、屋敷を引き上げて牛込御門前牛込土橋まで来たところ、隼人らが手勢を連れて追ってきた。源八らは取って返し、隼人らと対決、隼人を討ちとった。隼人側の死亡者は隼人を含め3人であった。源八側は、重傷者のうち2名が討ち入り後に死亡している。これが世に言う浄瑠璃坂の仇討ちである。

源八ら一党は、幕府目付に出頭して裁きを委ねた。徳川家綱幕府は武士の私闘を許さず、奥平源八、夏目外記、奥平伝蔵の3名に死罪を求めた。しかし、大老・井伊直澄の支援、口添えにより、死一等を減じ、伊豆大島への流罪に決定した。そして流罪から6年後、千姫13回忌追善法要による恩赦によって赦免された源八ら3名は、こののち彦根藩井伊家に召し抱えられた。

この仇討ちは、30年後に起こる赤穂浪士の事件にも影響し、火事装束に身を包む方法など大いに参考にされたと言われる。鎌倉時代より喧嘩両成敗は武士の不文律である。不合理かもしれないが、仇討ちを止め、最も合理的な判定とされていた。戦国時代分国法の「今川かな目録」にも次のように規定されている。
1.喧嘩した者は善悪を問わず、両者とも死罪。
2.相手が攻撃しても応戦せず負傷した場合は、被害者に原因があっても被害者の勝訴とする。
戦国時代から名誉、怨みは個人のものでなく、所属する組織に対するものとの考え方が強かった。個人主義の現代では理解しにくいかもしれない。


写真は隼人と内蔵允の斬り合い騒動のあった興禅寺本堂(宇都宮市)である。

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