兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

小政の女房「おかと」と大庭の平太郎

2023年03月21日 | 歴史
清水一家の小政の女房であった「おかと」は「お加登」とも書く。小政と同じ浜松の出身である。弘化4年(1847年)生まれ、掛川に移ってから、小政と知り合った。所帯を持ったのは、おかとが18歳の頃と言われる。鉄火肌の女性で、芸事が達者、読み書きもしっかりでき、その上、掛け値なしの美人である。

当時の女性で、町家住まいの者は、生活に困らぬ限り、女の身だしなみとして芸事を仕込まれた。三味線を弾き、小唄も歌い、家に人が集まったとき、披露して座を取り持った。おかともそういった女性だった。しかし小政と一緒になったばかりに苦労を重ね、小政が手配を受けて留守中は、浜松に戻り、芸事で生活を立てたという。

おかと     生歿年 弘化4年(1847年)~大正10年(1921年21年)8月24日 享年75歳 病死
大庭の平太郎  生歿年 嘉永元年(1848年)~明治45年(1912年)4月23日 享年65歳 病死
清水の小政   生歿年 天保13年(1842年)~明治7年(1874年)5月29日 享年32歳 浜松監獄で獄死

小政が浜松の監獄に捕らえられている間に、おかとは大庭の平太郎という博徒に一目ぼれされた。見附の大和田友蔵は地元では名の知られた親分だった。その子分に中泉の五郎という博徒が居た。中泉村は見附宿(現・静岡県磐田市)の隣村で、中泉代官所があり、中泉の五郎も、大和田友蔵と同様に代官所の道案内人を務める博徒である。この中泉の五郎の子分が大庭の平太郎である。

大庭の平太郎は嘉永元年(1848年)生まれ、船大工あがりで大柄の、温厚な人物で、おかとに対する思いは真剣だった。おかとは天下の小政の女房、平太郎は博徒としての格が違っていた。その小政が獄中で死亡した。その後、平太郎はおかとと夫婦になった。平太郎は28歳、おかとは29歳、一つ年上の姉さん女房だった。

大庭の平太郎は、中泉の五郎の跡目を継ぎ、一本立ちの親分となった。その後、中泉の太郎と呼ばれた大和田友蔵の跡目を継いだ。平太郎を立派な親分にしたのは、おかとが男まさりの女房で、しっかり者だったためと言われる。

平太郎は子分のしつけの厳しさで有名な親分である。平太郎に由という子分がいた。由が博奕で勝ち、女郎買いに行った。平太郎は博奕で生きる人間が勝った金で女郎買いとはその根性が許せないと、子分を裸にし、天井から吊して折檻をしたと言う。それから子分は褌を見るたびに折檻を思い出し、身震いしたという。

平太郎は、甲州の吃安の二代目・中村宗太郎とは気心が知れ合った仲だった。宗太郎は吃安の実姉の孫で、吃安一家が途絶えたのち、周囲から勧めで、跡目を継いだ。平太郎とおかとは甲州の中村宗太郎の所に寄ったとき、宗太郎の子分が、平太郎を博奕に誘った。平太郎は素っ裸になるまで負けた。親分という者は、他人の賭場では決して勝つものではない。親分の礼儀、仁義である。

この時、おかとは生理が始まっており、紙を買う金もなく、平太郎の下帯を裂いて使ったと言う。平太郎が甲州を去ってから、宗太郎がこのことを知って、誘った子分たちを呼びつけ、叱り飛ばし、一家から追い出した。遠州中泉に帰った平太郎は、この話を聞いて、その子分たちを引き取り、2年ほど手元に置いて、改めて甲州に連れて行き、謝ってやり、宗太郎の元の子分に戻させたと言う。

明治になっての話である。遠州に「日坂の権太郎」という渡世人がいた。権太郎は大庭の平太郎の弟分だったが、平太郎の賭場で多額のホシ(博奕の借金)を作った。「博奕の借金返済は速やかに、きれいに」が博徒の不文律。しかしどうしても金の工面ができない。すぐさま家屋敷を売って返済した。権太郎は百姓家の納屋に引っ越した。

大庭平太郎はこれを聞いて驚いた。「あの男のことだから、いったん出した金は持って行っても受け取らない」と思い、その家屋敷を買い戻し、「日坂の、俺の顔を立てて、何も言わずに、元の家に帰ってくれ」と頼んだ。権太郎は、「ご厚意は涙が出るほど有り難いが、これに甘ったれては、家を売った、俺の気持ちが無駄になる」と平太郎の申出を断った。地元博徒仲間で今でも語り草になっている。

平太郎は、明治18年頃、中泉で「迎陽館」という大きな旅館を経営し、当時の桂内閣の仲小路廉農商務大臣に近づき、親密な関係となった。皇室の小松宮彰仁親王にも気に入れられ、三島の別荘に呼ばれ、別荘の庭石を天竜川から運ばせている。死ぬ少し前、中泉と天竜との間の鉄道工事を請け負った。しかし見込み違いで巨額な借金を背負い、裸同然となった。

赤字の穴埋めで心労がたたったのか、明治45年(1912年)4月23日、行年65歳で病死した。平太郎の葬儀は、跡目相続も絡み、一家内で揉め事が発生し、葬儀が三日も延びたという。女房のおかとは、このゴタゴタで、人間の醜さを見せつけられ、嫌気がさし、静岡へ移った。静岡では近所の娘たちに芸事を教えながら、静かな余生を送った。大正10年(1921年)8月24日、75歳でおかとは亡くなった。

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次郎長一家 小政の獄死

次郎長と連携した遠州博徒・大和田の友蔵

写真は磐田市中泉寺の大庭平太郎の墓。正面に法名「瑞龍院東海頷珠居士」左側に「明治45年4月23日歿・俗名大庭平太郎行年65歳」とある。




写真は浜松の大聖寺にある小政の墓。


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次郎長一家の重鎮・増川の仙右衛門

2023年03月02日 | 歴史
富士山のふもとの増川村(現・富士市)に佐太郎(佐治郎とも言う)という親分が居た。子分は少ないが、この地方では親分で通っている。アコギなこともせず、60歳を超すまで生き延びていた。ある時、佐太郎の子分が隣村の遊び人と博奕をして、借りを作った。博奕の貸し借りはこの世界では厳しい。

隣村の遊び人の力蔵は、下田の安太郎一家の用心棒をしていた流れ者浪人の竹次郎を交えて、佐太郎の子分に催促したが、佐太郎の子分は払わない。そこでいっそのこと殺してしまえと、押しかけたが本人は居ない。ならば、親分の佐太郎をやっつけろと、佐太郎が近くの妙蓮寺に居るところを急襲して、佐太郎を殺害した。文久2年6月13日のことである。

(博徒名) 増川仙右衛門   (本名) 宮下仙右衛門
(生歿年) 天保7年(1836年)~明治25年(1892年)8月6日 病死 享年56歳

佐太郎には仙右衛門という息子が居た。渡世の修行に下田の安太郎のもとに出されて、その時26歳、安太郎の身内の者を女房に貰っていた。安太郎は伊豆の赤鬼の金平の身内である。金平は黒駒勝蔵と組んで次郎長と敵対している。

仙右衛門は父の悲報を知ると、安太郎身内の女房を離縁し、父の仇を討とうと清水次郎長を頼った。その時、次郎長は43歳、直ちに承諾した。次郎長の子分にしてくれと言う仙右衛門に敵討ちが先だと答えた。その足で増川村の力蔵を探した。力蔵は御殿場と裾野の中間にある村、神山の芝居小屋に居ることがわかった。村はずれ待ち伏せし、仙右衛門は一刀で力蔵を切り倒した。次郎長は助太刀しようと木の陰で様子を見ていたが、その必要は無かった。

仙右衛門は15歳の時から伊豆に修行に出されて、韮山代官所下役の松下又右衛門の道場に通い、やくざながら相当な腕前だった。力蔵を斬った仙右衛門は清水に戻り、次郎長の盃を貰い、子分となった。もう一人の相手、竹次郎は行方をくらましたが、次郎長が人の手を使って探すと、遠州小松村の祭りに来ていると知らせが入った。

仙右衛門は、父・佐太郎の子分の辻勝と二人で小松村に駆け付けた。竹次郎は観音堂の盆芝居の見物をしていた。二人は後たすき掛けで襲った。竹次郎は観音堂の階段に置いてあったドスを取ろうと駆け上がったところを、仙右衛門に下から槍で突きあげられ、殺害された。

丁度この時、一緒に来ていた竹次郎の女房・お鶴が駆けつけて来た。殺された竹次郎を眺めたあと、「うちの人のドスがその辺にありませんか」と探し回ったという。この女房は遊女あがりで妾奉公しているうちに、竹次郎と駈け落ち、同棲していたという。かなりの男勝り、気の強い女だった。

仙右衛門は次郎長生家近くの波止場のまえの家に住み、大政亡き後は次郎長一家の束ねをした。賭博犯狩りのときは次郎長と一緒に静岡の井宮監獄に入った。出るときも一緒である。仙右衛門は、明治25年8月6日、死亡した。56歳であった。次郎長の死ぬ前年である。

墓は梅蔭寺にもあるが、後に清水の妙慶寺にある宮下家の墓にも合祀されている。宮下家の没年は明治15年となっている。明治25年の間違いだろう。

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次郎長の秘書役・律儀な博徒・当目の岩吉

写真は静岡市清水区の梅蔭禅寺にある増川仙右衛門の墓である。

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