兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

吉原遊女の哀しい川柳

2019年10月01日 | 歴史
吉原遊郭には遊女が二千数百人、江戸末期に多いときは五千人いたという。遊女の人集めには「女衒」(ぜげん)という仲介業者がいた。幕府は元和2年(1616年)「身売り、人身売買の禁制」のお触を出した。それでも遊女の供給は止まらない。

それは「身売り」でなく「雇用契約」の形式を取り、給与の前払い、更には「人身を売るのでなく質に入れる」、借金の担保とする方法が取られたためである。親には金が入り、娘には「毎日、白いおまんまが食べられるよ。」が女衒の殺し文句。

吉原を詠んだ有名な川柳が三句ある。ひとつは「孝行に売られ、不孝に受け出され」

意味は「親を助けるために吉原に売られてきた娘が、今度は親不孝な放蕩息子に身請けされた」ということである。一種の吉原らしいペーソスを含みながらも、一方、遊女の哀しみがにじみ出た川柳だ。

二つ目は、ドラマ、物語となる句。「西の内、をくんなはいと、泣いてくる」

「西の内」とは上質な和紙の名前。通常の売買証文などは厚手の美濃紙が使われる。身売りの証文はさらに厚手の「西の内」という和紙に書いた。年季が10年、20年と長いから、しっかりした紙に書いておく必要がある。さらに転売されるなど、一か所に留まらない哀しい証文である。

ある貧しい村に娘を迎えに女衒が来た。奉公に出ることはすでに決まっている。今日はその出立の日。通り一編の挨拶をを済ませた女衒は「約束の金を渡すから証文を書いてくれ」と親に言う。「普通の紙ではいけません。西の内はありませんか?」そんな上等な紙が貧乏百姓にあるはずがない。すると女衒は娘に「娘さん、ひとっ走り小間物屋へ行って、西の内を一枚買って来てくんな。」と小銭を渡す。

実は女衒の荷物の中に西の内が何枚もある。だが出さない。それには訳がある。娘に席を外させて、親と内々に雇用契約、裏約束をさせるためだ。裏約束は、娘が廓から逃げたら、その代償として今度は妹を無償で出す、表に出せない無法な約束である。真面目一途な百姓はそれが規則と思い込んで疑わない。

娘は西の内を買いに小間物に行く。「おじさん、西の内を一枚、をくんなはい。」小間物屋の主人は西の内が何を意味しているか理解している。奥から店の女房が飛び出してくる。「お迎えの人が来ているんだね。〇ちゃん!」「うん・・・」娘は言葉にならない声を出して泣き始めた。店の女房は黙って娘の肩を抱きしめる。まさにノンフィクションドラマ。それが「西の内、をくんなはいと、泣いてくる」の意味。

三つ目は、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」

遊女投げ込み寺として有名な浄閑寺の遊女の墓所・吉原総霊塔に刻まれた句。ここには安政の大地震で死亡した遊女五百人余りが運ばれ、供養された。その数は吉原開業から廃業まで、380年余りの間に、総勢二万五千人に及ぶ。句は当時有名な川柳作家・花又花酔が大正3年に詠んだ作。

遊女の一生を詠んだもの。「生まれた家は赤貧の土間。苦労を重ね、懸命に生きたが、死んでも行き場はなく、投げ込み寺浄閑寺に眠る」という意味。「花又花酔」は、人気小説家・吉川英治の友人で、川柳の世界に吉川英治を誘ったと言う。吉川英治は小説家であると同時に「雉子郎」という号を持つ川柳作家でもある。
(参考)「吉原はこうしてつくられた」西まさる著・新葉館出版


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吉原遊郭の遊女

相対死した二川宿の飯盛女


写真は吉原総霊塔に刻まれた「生まれては苦界、死しては浄閑寺」の石板。

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