兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

伊豆流刑地・新島の流人たち

2021年09月11日 | 歴史
以前にこのブログで、伊豆新島の流人「甲州博徒・竹居安五郎」「蝙蝠安」について書いた。今回は、新島に送られたその他の流人について書いてみたい。

新島は江戸から157キロ、下田からは70キロの島である。島の両端に二つの山を持つ細長い島で、東西に長い砂浜があり、その浜が白かったので、新島と呼ばれたと言う。新島は「本村」という村が一つだけで、漁業中心の島である。島には流人船が運んできた独特の江戸文化が根づき、「中江戸」と呼ばれた。

新島が流刑の島となったのは、江戸幕府四代将軍家綱の時代、寛文8年(1668年)から、流刑地が北海道に替わる明治4年(1871年)までの約170年余りの期間である。その間、1,333人の流人が送られている。このうち赦免された者605人(死後赦免112人を含む)、島抜けを企てた者61人、島で犯罪を犯し処刑された者11人、ただし実際は90人以上と言われている。

身分別では無宿者が486人で最も多く、女流人が26人を数える。主な流人には、ブログに掲載済の島抜けに成功した甲州博徒・吃安こと竹居安五郎、切られ与三の相棒・蝙蝠安のほか、「羽黒山中興の祖と言われる僧侶・天宥法印」、「飛騨の義民・上木甚兵衛」、「新選組最後の隊長・相馬主計」などがいる。今回は、天宥法印、上木甚兵衛、相馬主計の3名の流人物語である。

一人目の僧侶・天宥法印は「新島流人帳」に記された最初の流刑者で、いわば新島流人の第一号である。天宥法印は、25歳で第50代羽黒山別当に就任した僧侶で、羽黒山の中興の祖と言われている。

天台宗の高僧・天海僧正の弟子となり、真言宗の出羽三山全山を天台宗へ改宗を図るとともに、財政苦境にあった羽黒山の改革を実施した。具体的には、羽黒山本堂の造営、参道の改修、植林開田、治水などの大改革の断行である。しかし結果的には、反対派宗徒や庄内藩主酒井氏と争うことになった。

当時、黒衣の宰相と言われ、師でもある上野寛永寺天海僧正が死去したことから、後ろ盾を失い、一方反対派の工作もあって、天領の領地争いに巻き込まれ、75歳の高齢で新島に流刑となった。流刑後、新島の地役人前田家の出入りも許され、流人としては破格の扱いを受けたが、島に来て7年後の延宝2年(1674年)に81歳で死去した。

二人目は飛騨の義民・上木甚兵衛である。飛騨は昔から幕府直轄地で、代官の支配地である。ここに派遣された代官大原彦四郎は、着任後年貢増率に加え、新規に開墾された田畑の再検地を実施、強引な年貢増税策を実施した。

これに対して飛騨農民の反対運動が発生、江戸での駕籠訴、代官所への強訴が起こった。代官所は隣国に出兵を要請し、武力で鎮圧した。いわゆる「安永の大原騒動」である。

この騒動では、水無神社神主4名が磔。百姓7名が獄門、遠島17名の処分があった。飛騨高山町の町人で造酒業・上木屋甚兵衛は、多くの小作地を持つ大地主でもあったが、終始百姓の味方となり、代官との交渉でも農民側の代弁をした。そのため安永3年(1774年)12月、町人としては唯一遠島の罪に処された。新島に流刑となったとき、62歳の高齢であった。

新島に流された甚兵衛は、島の子供たちに読み書きを教えたり、島の教養人と俳句連座の交流をした。上木家から送金される年10両のお金から、寺の本堂改築に寄付したりしたため、島の人々から「飛騨んじい」と呼ばれ、敬愛された。在島15年、中風発作の後遺症で半身不随となり、それを知った息子の勘左衛門は奉行所の許可を得て新島に渡り、父の介護をした。

それから8年後、寛政10年(1798年)甚兵衛は在島23年、享年85歳で死去した。息子の勘左衛門は、甚兵衛死後なお1年間、島に留まり、念仏を唱えながら、父の墓を刻み、さらに自分の姿の石像を彫り、自刻像の胎内に法華経を収めた。

三人目は新選組の最期の隊長・相馬主計である。相馬主計は常陸国笠間藩士の子として生まれ、慶応元年(1865年)笠間藩を脱藩、幕府の歩兵隊募集に応募する。応募後は第二次長州征伐に参加、長州征討軍の解散後、新選組に入隊した。入隊時期は不明だが、慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いに参加した記録がある。その後甲陽鎮撫隊に参加、近藤勇が捕縛され処刑されると笠間藩預かり謹慎の処分を受ける。

しかし笠間藩を脱走して上野彰義隊の戦いに参加する。敗北後、福島磐城方面に転戦し、仙台で新選組上司・土方歳三と再会する。土方歳三と合流してから、函館五稜郭の市中取締の任にあたる。函館戦争で土方歳三が戦死すると、残った新選組隊士を引き連れ、函館弁天台場の守備隊長となり、明治2年(1869年)5月、新選組隊長に就任した。

五稜郭の榎本旧幕府軍敗北後、明治3年10月、伊東甲子太郎暗殺の嫌疑で伊豆新島に流罪となる。新島では大工棟梁・植村甚兵衛宅に身柄を預けられ、甚兵衛の次女マツと結婚し、甚兵衛宅で寺小屋を開いた。明治5年(1872年)赦免され、東京蔵前に居住した。翌年の明治6年、豊岡県の司法関係の役人15等出仕を勤めるも、明治8年、役人を免官され、東京に戻った。その後に死亡した。

死亡した時期は不明だが、自殺と噂され、妻マツが自宅に帰宅した際、すでに割腹をしていたという。相馬は死に際、妻マツに「他言無用」と厳命し、マツもそれを守り通したため、相馬の死に関する詳細、菩提寺、墓の所在地等は不明である。

ブログ内に下記の関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
新島を島抜けした博徒・竹居の安五郎という人


下の写真は新島にある天宥法印の墓である。


下の写真は写真は新島にある上木甚兵衛の墓。墓の右隣にあるのは息子の勘左衛門が作成した石像である


下の写真は新島の処刑された流人たちの墓である。
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