幕末の戊辰戦争では多くの博徒が参加している。三州の平井亀吉、甲州の黒駒勝蔵などである。彼らの戦争参加の理由の多くは利害関係、人間関係の繋がりによるものである。しかし思想とまでといかなくとも、個人の信念でこの戦争に参加した博徒が二人いる。一人は官軍側の四国讃岐の勤皇博徒・日柳燕石であり、もう一人は会津藩に味方した越後の博徒・観音寺久左衛門である。
観音寺久左衛門は代々越後の観音寺一家を名乗り、子分1,000人を集める大親分として有名である。観音寺久左衛門の祖父の時代には、若き頃の上州大前田英五郎が逃亡の旅の途中、観音寺一家の世話になり、後日、命の恩人として感謝している。
国定忠治が信州に逃亡した時も、途中、越後に向かい、観音寺一家の世話になっている。さらに上州の博徒で信州の権堂で「上総屋」という妓楼を経営していた合の川政五郎(高瀬仙右衛門)が足を洗って故郷に帰るとき、政五郎が300人の子分の身の振り方を頼みに行ったのも、この越後の観音寺一家の観音寺久左衛門だったと言われている。
(本名) 松宮 雄次郎
(博徒名)観音寺 久左衛門
(生没年)文政8年(1825年)~明治6年(1873年)6月10日
戊辰戦争で降伏、故郷に戻り病死。享年49歳
観音寺久左衛門(松宮雄次郎)は与板藩西蒲原郡弥彦村観音寺で博徒・観音寺一家9代目久左衛門の長男として生まれた。弟に竜太郎がいた。竜太郎は、戊辰戦争で故郷の弥彦村に官軍が攻めてきた時、官軍方義隊に捕まり、斬殺され、その首は路傍に晒された。
地元の観音寺地区は与板藩領である。与板藩は2万石の小藩で所領も狭く、地元で博奕をするのも気が引けたのだろう観音寺一家は越後の出雲崎を縄張りとして、博奕場も出雲崎の町が本拠地であった。
松宮雄次郎のもとには二人の参謀がいた。一人は水戸浪人斉藤新之助、もう一人は元村上藩士遠藤改蔵である。ともに剣の達人であるが、素行に問題があり、故郷から流れて、観音寺一家の下で用心棒として世話になっていた。
当時、観音寺一家は上州、越後一円に数百人の勢力を有する博徒である。当時の藩の戦闘員の動員力は1万石で100人程度であり、2万石の与板藩では観音寺久左衛門の力を借りなくば、藩の治安が守れず、久左衛門は与板藩用人の任を受けていた。当時の観音寺一家の勢力は数万石の藩に相当する戦闘員の動員力を持っていた。
その観音寺一家の力を借りたくて、会津藩側は観音寺久左衛門に会津藩に味方するよう依頼が来た。当時、与板藩は小藩で、既に勢いのある官軍側に付く方針が決まっていた。しかし観音寺久左衛門は古い体制への恩義か、会津藩の誠意に動かされたのか会津藩に依頼を受けた。配下の子分ら50人余りで聚義隊を結成して、古屋作左衛門の率いる衝鋒隊とともに戊辰戦争、北越戦争を高田藩、加賀藩相手に戦うことになる。
北越戦争において長岡藩河井継之助の長岡の戦いと並んで、越後島崎、与板、指出の戦いは激戦であった。この戦いで観音寺一家は命知らずの博徒らしく、ゲリラ戦を展開、官軍を苦しめた。その戦い方は百姓姿に変装し、官軍の道案内をしながら伏兵のいる場所まで導き、待ち伏せ斬りかかるなど、博徒兵ならの奇襲戦法である。
圧倒的な勢力を持つ官軍の前で、長岡藩家老河井継之助の死亡、会津若松城の落城の知らせを聞き、ついに官軍に降伏した。投降した先が直前までともに戦って先に降伏した米沢藩の勢力下であったため、観音寺久左衛門の命は助けられ、故郷に戻ることができた。
戻った故郷の観音寺の屋敷は官軍に燃やされ、弟の竜太郎も殺されていた。地元民の信頼厚い久左衛門は故郷の人の支援で余生を過ごす。地元に戻った観音寺久左衛門に元与板藩参事の久住秋策から新潟県への出仕の誘いがあった。
しかし久左衛門は「ありがたいことではござんすが、あっしは会津の殿様にお味方して官軍と戦った罪人。首が飛んでもあたりめえの男でござんす。しかも会津の殿様は、今なお謹慎中でござんす。あっしは新しい世の中に出る気は、毛頭ございません」と断ったと言う。故郷に戻って4年後の明治6年、観音寺久左衛門は病死した。享年49歳であった。
なぜ観音寺久左衛門(松宮雄次郎)は会津藩に味方したのか?戊辰戦争の末期、観音寺久左衛門の命を助けるため、地元与板藩の執政・松下源左衛門が観音寺に早く降伏せよと持ち掛けた。
その時の観音寺久左衛門の返答の歌が残っている。「天の事知らぬわが身にあらねども、義理の綱、断つ剣持たねば」渡世人らしく、義理の世界に命を懸けたのである。
下記に参考記事があります。よろしければ閲覧ください。
博徒・合の川政五郎という人
三河博徒・雲風の亀吉
写真は松宮一族の墓である。真ん中が観音寺久左衛門(松宮雄次郎)の墓。法名は「真証閣釈静阿」である。
観音寺久左衛門は代々越後の観音寺一家を名乗り、子分1,000人を集める大親分として有名である。観音寺久左衛門の祖父の時代には、若き頃の上州大前田英五郎が逃亡の旅の途中、観音寺一家の世話になり、後日、命の恩人として感謝している。
国定忠治が信州に逃亡した時も、途中、越後に向かい、観音寺一家の世話になっている。さらに上州の博徒で信州の権堂で「上総屋」という妓楼を経営していた合の川政五郎(高瀬仙右衛門)が足を洗って故郷に帰るとき、政五郎が300人の子分の身の振り方を頼みに行ったのも、この越後の観音寺一家の観音寺久左衛門だったと言われている。
(本名) 松宮 雄次郎
(博徒名)観音寺 久左衛門
(生没年)文政8年(1825年)~明治6年(1873年)6月10日
戊辰戦争で降伏、故郷に戻り病死。享年49歳
観音寺久左衛門(松宮雄次郎)は与板藩西蒲原郡弥彦村観音寺で博徒・観音寺一家9代目久左衛門の長男として生まれた。弟に竜太郎がいた。竜太郎は、戊辰戦争で故郷の弥彦村に官軍が攻めてきた時、官軍方義隊に捕まり、斬殺され、その首は路傍に晒された。
地元の観音寺地区は与板藩領である。与板藩は2万石の小藩で所領も狭く、地元で博奕をするのも気が引けたのだろう観音寺一家は越後の出雲崎を縄張りとして、博奕場も出雲崎の町が本拠地であった。
松宮雄次郎のもとには二人の参謀がいた。一人は水戸浪人斉藤新之助、もう一人は元村上藩士遠藤改蔵である。ともに剣の達人であるが、素行に問題があり、故郷から流れて、観音寺一家の下で用心棒として世話になっていた。
当時、観音寺一家は上州、越後一円に数百人の勢力を有する博徒である。当時の藩の戦闘員の動員力は1万石で100人程度であり、2万石の与板藩では観音寺久左衛門の力を借りなくば、藩の治安が守れず、久左衛門は与板藩用人の任を受けていた。当時の観音寺一家の勢力は数万石の藩に相当する戦闘員の動員力を持っていた。
その観音寺一家の力を借りたくて、会津藩側は観音寺久左衛門に会津藩に味方するよう依頼が来た。当時、与板藩は小藩で、既に勢いのある官軍側に付く方針が決まっていた。しかし観音寺久左衛門は古い体制への恩義か、会津藩の誠意に動かされたのか会津藩に依頼を受けた。配下の子分ら50人余りで聚義隊を結成して、古屋作左衛門の率いる衝鋒隊とともに戊辰戦争、北越戦争を高田藩、加賀藩相手に戦うことになる。
北越戦争において長岡藩河井継之助の長岡の戦いと並んで、越後島崎、与板、指出の戦いは激戦であった。この戦いで観音寺一家は命知らずの博徒らしく、ゲリラ戦を展開、官軍を苦しめた。その戦い方は百姓姿に変装し、官軍の道案内をしながら伏兵のいる場所まで導き、待ち伏せ斬りかかるなど、博徒兵ならの奇襲戦法である。
圧倒的な勢力を持つ官軍の前で、長岡藩家老河井継之助の死亡、会津若松城の落城の知らせを聞き、ついに官軍に降伏した。投降した先が直前までともに戦って先に降伏した米沢藩の勢力下であったため、観音寺久左衛門の命は助けられ、故郷に戻ることができた。
戻った故郷の観音寺の屋敷は官軍に燃やされ、弟の竜太郎も殺されていた。地元民の信頼厚い久左衛門は故郷の人の支援で余生を過ごす。地元に戻った観音寺久左衛門に元与板藩参事の久住秋策から新潟県への出仕の誘いがあった。
しかし久左衛門は「ありがたいことではござんすが、あっしは会津の殿様にお味方して官軍と戦った罪人。首が飛んでもあたりめえの男でござんす。しかも会津の殿様は、今なお謹慎中でござんす。あっしは新しい世の中に出る気は、毛頭ございません」と断ったと言う。故郷に戻って4年後の明治6年、観音寺久左衛門は病死した。享年49歳であった。
なぜ観音寺久左衛門(松宮雄次郎)は会津藩に味方したのか?戊辰戦争の末期、観音寺久左衛門の命を助けるため、地元与板藩の執政・松下源左衛門が観音寺に早く降伏せよと持ち掛けた。
その時の観音寺久左衛門の返答の歌が残っている。「天の事知らぬわが身にあらねども、義理の綱、断つ剣持たねば」渡世人らしく、義理の世界に命を懸けたのである。
下記に参考記事があります。よろしければ閲覧ください。
博徒・合の川政五郎という人
三河博徒・雲風の亀吉
写真は松宮一族の墓である。真ん中が観音寺久左衛門(松宮雄次郎)の墓。法名は「真証閣釈静阿」である。