兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

飯盛女・東海道藤沢宿小松屋源蔵

2022年03月22日 | 歴史
江戸時代、世の中が安定すると庶民も伊勢参りなど旅に出かける機会が増えた。街道の宿場も旅籠が整備された。そこに生まれたのが「飯盛女」である。歌川広重東海道五十三次「御油宿留女」も飯盛女の一形態である。

「飯盛女」の語源は次のように言われる。飯盛女の常食は粥飯、いつも空腹だった。翌朝、一夜泊まり客の夕食の残り飯を食べるのが楽しみだった。そのため客の食べ残しがあるように山盛りに飯を盛ったためという。哀しい身の上を現す話である。

飯盛女を置く旅籠を「飯盛旅籠」という。1616年(元和2年)幕府は人身売買禁止令を出す。子女を勾引して売った者は斬罪となった。抜け道があり、年季奉公は別、最長10年以内の借金の質物としての年季奉公は公認された。質証文には「盗み、駈け落ち仕り候共、急度、尋ね出し返上仕り候」と記載される。

1718年(享保3年)旅籠屋1軒に飯盛女2人まで、新宿内藤、板橋、千住は上限150人、品川は上限500人と定められた。現実はその倍の飯盛女を抱えるのが普通だった。飯盛女が置かれない宿場は箱根、江尻、鞠子、掛川、舞阪、新居。関所などがあって治安が厳しい宿場である。反対に遊里がある宿場は、府中、吉田、岡崎、両者の競争もあって、賑やかである。

「遊女、飯盛女の稼ぎはどれくらいだろうか?」
吉原遊女は太夫、格子、散茶、局のランクがある。太夫となると揚げ代は居留守役、大商人なら10両、旗本、番頭クラスで3両必要と言われる。「散茶」とは袋に入れてないお茶の葉のこと。「振らない」即ち、客を断らない遊女の意味である。

飯盛女の玉代は、上玉700文(10,500円)、普通500文(7,500円)、昼400文、一晩2朱(12,500円)と言われる。1朱は1両の1/16。飯盛女は10両前後の借金の質物として年季奉公する。10両前借で10年年季なら1年1両あたり、単純に約半月間の稼ぎで返済できる。いかに抱え主の利益が大きいかわかる。また途中、病死すれば、全額返済、または代わりの子女を出さなければならない。過酷な契約である。

「飯盛女の出身地はどこか?」
中山道・安中宿飯盛女55人の生国は、越後20人、尾張10人、江戸8人、信濃5人、武蔵4人、美濃4人、上野2人、三河、相模各1人である。地元は知人に会う可能性があるので遠国出身が多い。更に抱え主の資金繰りの都合から他の宿場の旅籠に転売される「住替え」という制度もあった。
曲亭馬琴が著した「羇旅漫録」に「東海道吉田宿の飯盛女は伊勢訛りの者が多い。伊勢出身が多いのだろう」との記述がある。吉田宿と伊勢とは海路一本で昔からつながっている。

「飯盛女の平均寿命はどれくらいか?」
「加賀のなんだい節」にこんな文句がある。「7つの歳に身を売られ、14の春から勤めをすれど、いまだ受け出す人もない。身は高山の石灯篭、今宵はあなたととぼされて、明日の晩はどなたにトコなんだい」・・飯盛女の身の上を歌ったものだ。

彼女らの生活環境は過労と非衛生、過酷な労働条件のため、平均寿命は22~23歳と言われる。ある宿場の統計によれば、21.3歳の数字がある。死亡原因には自殺もあるが、病死がほとんど。死因は梅毒、脚気衝心が多い。脚気衝心とはビタミンB1の欠乏による心不全である。過酷な職業病と食生活がその原因である。

江戸時代、飢饉は21回発生した。大飢饉は享保、天明、天保の3回である。ともに7年ほどの長期に渡った。農村は困窮、宿場助郷負担等、宿場の財政も厳しい。それを救ったのが旅籠の飯盛女一人当たり月200文負担金徴収制である。飯盛女は二重の意味で搾取されていた。

(参考)「飯盛女・宿場の娼婦たち」五十嵐富夫著・新人物往来社昭和56年1月発行。
     著者は1916年生まれ、群馬県立高校長経て、群馬女子短大教授、伊勢崎市、太田市史編さん委員歴任する。


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吉原遊郭の遊女

吉原遊女の哀しい川柳

相対死(心中)した二川宿の飯盛女


下の写真は神奈川県藤沢市永勝寺にある飯盛女の墓。藤沢宿旅籠小松屋源蔵お抱えの飯盛女である。
1761年(宝暦11年)~1801年(享和元年)41年間に死亡した飯盛女、下女の墓、39基。うち34基が飯盛女である。
1年で1人弱が死亡した勘定になる。当時、藤沢宿には本陣、脇本陣が各1軒、旅籠は49軒、うち飯盛旅籠が27軒あった。




「安永4年正月28日・釋尼妙教不退位・伊豆国・俗名キヨ」
「宝暦10年11月7日・釋妙喜不退位・豆州・俗名コマツ」
「寛政7年5月14日・釋妙元信女・豆州・俗名ハツ」と刻まれている。出身は伊豆国8人、遠江5人、駿河1人、25基は未記入。




下の写真は小松屋源蔵の墓。飯盛女の墓は源蔵の墓を囲むように建てられている。源蔵の人柄が解かる。


写真は墓の前にある案内板である。

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白波五人男の盗賊・日本左衛門

2022年03月04日 | 歴史
白波五人男『問われて名乗るもおこがましいが、生まれは遠州浜松在、十四の年から親に放たれ、身の生業も白波の、沖を超えたる夜働き、盗みはすれども非道はせじ、人に情けを掛川から、金谷をかけて宿々で、義賊の噂、高札に・・・』と大見えを切った大泥棒「日本駄衛門」は実在の盗賊「日本左衛門」がモデルである。

日本左衛門は尾張藩遠州地区の七里役(藩専用の飛脚で、7里を走る)足軽・濱島富右衛門の子として生まれた。若い頃から放蕩を繰り返し、20歳のとき、親に勘当された。七里役は業務の邪魔たてする者は3人まで切り捨て御免の許しがあるほどの暴れん坊でもあった。

23歳頃から盗人稼業に入り、200名ほどの盗賊団の頭目になる。近隣諸国の裕福な商人、大地主に狙いを定めて荒らし回った。その被害は14件、2,622両余りと言われている。

容貌は、175cmほどの長身、鼻筋がとおり色白で、顔に5cmほどの切り傷があった。盗みに入るときには、周辺の家に見張りをたて、道筋には番人を手配して押し入り、支配者の異なる旗本知行地を転々と逃亡するという用心深さであったという。

押し込むときは、手下20~40人を使い、提灯30帳を灯し、押し入った家族全員を縛り上げ、金の置き場所へ案内させ、強奪した。時には嫁や下女たちまで狼藉したとあり、かなり荒っぽい盗賊団であった。

日本左衛門本人は直接に手を下さず、時には金箱を砕いて包みから、難儀ある者に施した。盗みはすれど非道はせずと手下に説いたとも言われている。

(本名)  濱島 庄兵衛
(生没年) 享保4年(1719年)月日不詳~延享4年(1747年)3月11日
      盗賊で全国指名手配、京都町奉行に自首、獄門。享年29歳

延享3年(1746年)9月、被害にあった遠州の庄屋が江戸北町奉行能勢頼一に訴訟する。老中堀田正亮の命により幕府から火付盗賊改方頭の徳山秀栄が派遣された。これにより盗賊団の幹部数名は捕縛されたが、頭目の日本左衛門は逃亡した。

被害者の庄屋は遠州大池町(現・掛川市)大百姓・宗右衛門。盗みだけならまだよかった。運のつきは当家の息子の若嫁を家人の前で強姦したこと。あまりの仕打ちに宗衛門は地元の役人に届け出る。地元役人は普請調達金の寄付を渋ったのを根に持ち取り上げない。覚悟を決めて、江戸の奉行所に直接訴え出た。

この騒動で、地元掛川藩城主の小笠原長恭は城下治安の責任を問われ、福島県の棚倉へ転封、近隣の相楽藩の本多忠如も福島県の泉に移された。

日本左衛門は、伊勢国古市で自分の手配書が出回っている噂を聞き、さらに遠国の安芸国宮島まで逃亡を図る。しかし宮島でも自分の手配書を目にして、もう逃げ切れないと観念した。当時、手配書は親殺し、主殺しの重罪に限られ、盗賊としては日本初の手配書であった。

自首を決意すると、伊勢に戻り、馴染の遊女「奴の小万」に別れを告げる。女に金の包みを渡し、自分の亡き後の弔いを頼んだ。その後、内宮、外宮を詣で、京都に向かった。

日本左衛門は延享4年(1747年)1月7日、京都町奉行永井丹波守尚方(大坂町奉行牧野信貞の説もある)に自首した。その時の装束は、三条の床屋で月代をあたらせ、上着は繻子の小袖、下着は羽二重の白無垢、印籠は金蒔絵、脇差は銀細工と言う。

大坂町奉行牧野に自首したとき、今日は休日だから明日来いと言われ、翌日、自首したとも言われている。捕縛後、江戸に送られ、北町奉行によって小伝馬町の牢に繫がれた。

お裁きは市中引き回しの上、獄門とされ、仲間の中村左膳(左膳は京都の公家に仕える元武士であった。)6名とともに処刑された。処刑は同年3月11日、遠州鈴ケ森(三本松)刑場で、その首は遠江国見附(現・磐田市付近)に晒された。

その首を愛人「お万」が盗み出し、金谷宿、川会所跡の南にある宅円庵に葬った。今も宅円庵には日本左衛門の首塚がある。その地には「月の出るあたりは弥陀の浄土かな」の句碑が残っている。

日本左衛門が盗賊を働いたときは八代将軍吉宗の時代。当時は享保の改革が進められ、庶民に倹約と重税が求められ、息苦しい生活が余儀なくされていた。そのため、表立って権力に反する日本左衛門が義賊として庶民に持て囃されたのであろう。

辞世の句 「押し取りの人の思いは重なりて、身に首縄かかる悲しさ」

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義賊・鼠小僧次郎吉


下の写真は島田市金谷の大井川鉄道・新金谷駅近く「宅円庵」にある日本左衛門の首塚。
大井鉄道新金谷駅の横に立派な藤棚がある。4月下旬から見頃を迎える。


下の写真は磐田市内の見性寺にある日本左衛門の墓。さらし首が盗まれた後の身体、衣服が埋められた。



写真は日本左衛門が処刑され、首が晒された刑場。「三本松の仕置き場」である。江戸の鈴ケ森にならい「遠州鈴ケ森刑場」と呼ばれた。
現在は横を通る国道1号線拡張工事で道路の下に埋まってしまった。



下の写真は刑場の案内看板。見附宿は東海道の浜松宿の一つ江戸寄りの宿場。番所、国分寺があり、行政の中心だった。
京からきて最初に富士山が見えたため「見附」と呼ばれた。

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