兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

鳥島21年漂着・遠州新居船・鹿丸

2020年06月30日 | 歴史
江戸時代、江戸と大坂間の菱垣廻船が発達すると、熊野灘、駿河湾沖で多くの海難事故が発生した。当時の船は二形船などと言われ、一枚帆の沿岸沿い輸送専用である。大型化して千石船と呼ばれても、基本構造は変わらず、嵐、暴風雨に合い、湊に避難できなければ遭難して漂流するしか道はない。基本的には奈良時代の遣唐使船と大きな変化はない。

西洋船と違って、船底に竜骨の骨組み構造がなく、大波によって船が壊れやすい構造だ。簡単に言えばたらい船を想像すればよい。西洋船は三枚帆が基本で、ヨット同様に逆風でも進むことができる。和船は大型帆一枚だけ、微風でも進むが逆風は航行が難しい。嵐に合えば、船の安定のため、帆柱を切り倒すしか方法はない。そのため江戸時代は多くの海難事故が発生した。なぜこのような和船が利用されたのか?鎖国政策で大型船建造禁止もあるが、製造コストが安く、千石船で1,000両で建造できた。一回の航海で元が取れたためである。

江戸時代の漂流には大きく二つのパターンがある。一つは暴風雨で遭難、外国にたどり着く、または外国船に助けられ外国に滞在して送還されるパターン。もう一つは漂流して無人島に漂着、ロビンソンクルーソー的生活をした後、自力で、または他の船に助けられ、帰還するパターンである。

その中でも遠州新居湊、筒山五兵衛所有の鹿丸(1,000石積)の遭難は有名である。享保4年(1719年)11月30日、奥州宮古から木材を運び江戸に向かう途中、九十九里浜沖で遭難、漂流した。乗組員は船頭・左太夫他水主計12人。ひと月以上漂流して、享保5年(1720年)1月、小笠原諸島近くの鳥島に漂着した。

鳥島への漂着は「私のジョン万次郎」の著者・中浜博氏によれば、江戸時代、全部で14件あるという。天保12年(1841年)1月、土佐漁船中浜万次郎ら5名も鳥島に漂着、米国捕鯨船に救助され、ハワイに送還された。中浜万次郎は13番目の漂着である。

鳥島滞在期間では筒山五兵衛船鹿丸が最も長く20年近く滞在した。次に長いのは10番目に当たる天明5年(1785年)に漂着した土佐・松屋儀七船の水主・長平の12年である。長七は鳥島漂着後、11番目漂着の大坂・備前屋亀次郎船、12番目の日向・中山屋三右衛門船と合流した。彼等14名は手造りの船で鳥島を脱出、寛政9年(1797年)青ケ島、八丈島経由で江戸に戻った。

筒山五兵衛船鹿丸はその中で五番目の漂着船となる。ただし、生きて生還した者に限る。漂着しても生き永らえて生還しなければ記録に残らない。全員が死亡した漂着船はそれ以外にも数多くあっただろう。筒井五兵衛船の水主3人は鳥島に20年近く島で暮らし、21年ぶりに帰国、漂流期間は史上最長である。

当時の鳥島は無人島でアホウドリしか居なく、水源もない島である。彼らは島内にある洞窟に住み、雨水を貯め、アホウドリを捕らえその肉を食べ、魚を取りながら暮らした。鹿丸が見つけた洞窟には漂着の先住民の暮した痕跡があった。

鳥島が最初に日本の文献の載ったのは延宝3年(1675年)である。幕府の命令で八丈島南方の無人島調査を命じられた「富国寿丸」500石積み、船頭・島谷市左衛門の報告だ。富国寿丸は下田を出て、八丈島、青ケ島を経て、南に丸島(現・鳥島)を発見した。その後更に南下し、本来の目的である小笠原諸島を調査して本土に戻っている。

当初、島に到着後3年間は全員生存していた。しかし3年経過後、過酷な生活で体力も徐々に落ち、3名が死亡した。漂着から9年後には更に3名死亡して、残ったのは船頭・左太夫、楫取り・甚八郎(乗船当時46歳)、水主・仁三郎(同40歳)、善三郎、権五郎、そして最も若い平三郎(同21歳)の6名だった。それから2年経過、漂流到着から11年後には船頭左太夫、善三郎、権五郎の3名も死亡した。残ったのは甚八郎、仁三郎、平三郎の3名のみ。死亡した者の年齢は不明である

島の生活は壮絶で、助かる希望もなく、絶望して自殺した者も3名居た。一人は海に飛び込み水死、一人は崖から飛び降り岩に頭をぶつけて死亡した。最後の一人は洞窟の中に閉じこもり、餓死した。餓死したのは伊豆岩地(現・賀茂郡松崎町岩地)出身の権次郎と言われている。権次郎は奥州八戸で故郷に帰る途中、この船に便乗した者である。この運命の哀しさのあまり自殺したのだろう。生き残った3名の精神力の強さは並大抵のものではない。

鹿丸が鳥島漂着して19年経過、元文4年(1739年)3月25日、江戸堀江町宮本善八所有船(1,200石積17人乗り)の伝馬船が鳥島に漂着した。宮本善八船は前年12月、房州館山沖で遭難し、母島、父島に漂着後、本船は破壊された。残った伝馬船に乗り換えて、鳥島にたどり着いた。宮本善八船17人は鳥島で鹿丸の水主3人を発見した。鹿丸水主平三郎の協力を得て伝馬船を補修した後、4月27日、鹿丸の3人を乗せて鳥島を出発した。

宮本善八船水主一部には小型の伝馬船に3人の乗船を嫌がる者もいたが、船頭・富蔵の説得で20名全員が乗船した。順風に乗って、5月1日八丈島に到着した。島役人の取り調べ受けたのち、運よく流人輸送の御用船に同乗が許され、江戸に向かう。5月21日無事、江戸に到着した。21年振りの漂流民帰還の噂を聞いて興味を持った将軍徳川吉宗との拝謁が許された。吉宗は3人の漂流民に生涯三人扶持の扶持米を与えた。

当時、外国に漂流して帰還した者は二度と船に乗ることは許されない規定があった。しかし無人島に漂着して帰還した者にはその規定は除外される。漂流民の3人は6月、故郷・遠州新居に帰還を許された。江戸から道中は駕籠が用意されて新居に戻った。

帰国当時、甚八郎は68歳、妻と子5人、仁三郎は62歳、兄と妹、平三郎は43歳、母と妹が故郷に居た。平三郎は帰国してすぐに、漂流中に安全を祈願した伊勢神宮へお礼の参拝を申し出た。ほかの2名は高齢のため、三郎が代表して参拝した。

故郷へ帰国して翌年の元文5年(1740年)11月には甚八郎は死亡した。享年68歳。さらに翌年には寛保元年(1741年)8月、仁三郎が死亡した。享年63歳。平三郎は多少長生きした。帰国して11年後、寛延3年(1750年)死亡した。享年53歳であった。


ブログ内に下記関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
漂流記 池田寛親「船長日記」


写真は「新居無人島漂流者顕彰碑」 旧東海道新居の関所近くにある。「無人島漂流者不屈の精神を伝える」と書かれている。
生存者3人・甚八郎、仁三郎、平三郎、死亡者9人・船頭・左太夫、善三郎、権五郎、喜三郎、善右衛門、八兵衛、善太郎、八太夫全員の名が刻まれている。



写真は小笠原父島の威臨丸墓地にある遠州新居筒山五兵衛船鹿丸の水主たちの碑「冥福碑」、明治になって建立された。小笠原諸島で命を落とした阿州船勘左衛門ら17名の名が刻まれている。当時は彼等鳥島漂着が小笠原諸島漂着と思われていたためである。
威臨丸墓地は小笠原島開拓を命じられ、この島で亡くなった威臨丸軍艦方・西川培太郎の墓があることからそう呼ばれている。

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