兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

博徒・鬼神喜之助と小天狗亀吉

2020年10月10日 | 歴史
鬼神喜之助と小天狗亀吉は甲州市川大門の博徒で実の兄弟である。喜之助らは甲州の大親分である三井卯吉の子分・祐天仙之助と敵対した。祐天殺害のため、卯吉の山田町の隠居宅を襲撃。祐天が不在だったので、代わりに親分の卯吉を殺した事件は有名である。

鬼神喜之助は、富士川沿い甲州市川大門の橘田恒右衛門の4男として、文政5年(1822年)に生まれた。男5人、女2人、7人兄弟の下から二番目である。末弟が小天狗亀吉である。

橘田家は屋号を松坂屋という。長男・喜右衛門が店を継ぎ、父・恒右衛門と一緒に、鮮魚、食品類、地酒も製造、販売して手広く商売を行っていた。店の間口も12間からあり、土蔵も数多く有する地元の老舗商家である。商品の鮮魚は夜通しで沼津から運び、それを朝から待ち受け、販売する。夜、松明を灯しながら峠を越して魚を運ぶ人足たち、毎日祭日のような賑わいだったという。

喜之助、亀吉は一家を張った博徒ではなく、博奕好きで博徒との付き合いが始まった。いわば旦那博奕打ちである。金には困らないので、博奕の負けなどは、店の番頭が全部払い歩いたという。

三井卯吉の子分・祐天吉松(後の仙之助)の誘いもあり、富士川を渡り、鰍沢の賭場通いをした。鰍沢の賭場では津向の文吉とも博奕仲間となる。金ばなれの良い、旦那博奕打ちだったから、三井卯吉も目を付け、市川の縄張りを任せる腹づもりで、祐天と義兄弟にしようとした。それによって博徒吃安一家の勢力を抑え込む考えだったと今川徳三氏はいう。

実家の松坂屋は何かあると、この吃安に相談した。喜之助は吃安と盃を交わした仲ではないが、兄弟同様の付き合いだった。喜之助は、祐天との義兄弟の話については、牢番風情の卯吉が「何をしゃらくせえ」と無視し、山伏あがりの祐天を小馬鹿にした。喜之助は家柄の良い坊ちゃん育ち、素気なく断られた祐天はヘソを曲げた。これ以降、お互いの関係は悪化した。

弘化3年(1846年)4月鰍沢で、吃安の食客・用心棒の浪人・桑原来助(雷助)が祐天と津村の文吉に殺害された。この事件以降、三井卯吉一家と吃安一家の対立も激化し、喜之助、亀吉兄弟も祐天との敵対関係も激しくなった。

その後、喜之助は身延の賭場の帰り、祐天とばったり顔を合わせた。祐天は子分4人を連れていた。喜之助の連れは松坂屋の番頭一人だけ。父の恒右衛門は太っ腹で、博奕の金払いのことで間違いがあってはいけないと、必ず金を持たせた番頭を一人付けて歩かせた。それだけ可愛がったのだろう。

祐天らは喜之助を取り囲み、斬りかけてきた。番頭の語りによると、そこに一軒の空き家があり、喜之助は空き家を背に斬り合いが始まった。斬り合いで喜之助の髪の元結いがほどけ、ザンバラ髪になった。祐天の子分の一人が空き家に火を放った。火の手を背後に立ちはだかる喜之助の姿は、鬼神のようだった。村の番人が火事に気が付き、駆け付けたため、喜之助は事なきを得た。ここから鬼神喜之助の異名が付いたという。

一方、弟の亀吉は文政10年(1827年)生まれ、兄の喜之助とは5歳の開きがある。身長150cm足らずの小男だが、気性は荒く、敏捷なところから、小天狗の異名が付いた。実家の松坂屋は沼津の河岸の者を相手にする商売。店の者が喧嘩でケガをしないよう、護身目的で屋敷内に道場を作り、旅の浪人に剣術、柔道の手ほどきをしてもらっていた。喜之助、亀吉兄弟も剣術は相当の腕前という。

嘉永3年(1850年)吃安が捕縛され、新島へ遠島となると吃安一家の勢力も衰退した。松坂屋の得意先は吃安の縄張り内の村にあり、店の者や魚の行商人などが、祐天手先の岡っ引きから嫌がらせを受け、商売もやりにくくなった。そこで祐天を殺害しようと相談がまとまり、祐天を突け狙う。祐天もそれを知って警戒し、逃げ回る。

安政4年(1857年)1月4日夜、祐天が甲府山田町の卯吉の隠居宅に泊まるという情報が入った。喜之助、亀吉は吃安子分の応援を得て、11人で隠居宅を襲った。目指す祐天の姿はなく、卯吉と妾が寝ているのを、祐天の身替りとして、二人を殺害。卯吉の首を斬り落とし、市川に持ち帰った。卯吉の手足、胴体は隠居宅の松門に隠した。

事の次第を知った長兄の喜右衛門は、兄弟を集め相談、二人をそれぞれ逃がすことに決定した。二人の落ちのびる先々に金を送り続けた。喜之助は武州から上州を転々とし、宇都宮で病死した。宇都宮宿の菓子屋の世話になり、死ぬまで美人の女性が身近で面倒をみたという。

一方、亀吉は子分3人を連れて東海道筋に逃亡した。喜右衛門から金が届くので旅の生活に苦労は無かった。亀吉死亡の経緯は不明だが、亀吉も旅の途中に若死したという。一説には、亀吉は伊勢の古市丹波屋伝兵衛を頼り、食客でいた所を、祐天の子分が嗅ぎつけ、押しかけて殺したという説もある。真偽は不明である。二人の逃亡資金調達で一時、松坂屋・橘田家の資産を大分減らしたという。


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写真は鬼神喜之助の墓。「松坂屋・鬼神喜之助・慶蔵の墓」大正2年3月21日建立とある。墓の周囲を赤い彼岸花が囲み、火の中に立つ「鬼神」の異名のようだ。「慶蔵」とは何者か?卯吉の別名という人もいるが不明である。
墓は西八代郡市川三郷町市川大門にある。墓の所在はある人に教えられて初めて知った。感謝!あまり知られていない博徒の墓である。

コメント (4)
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