兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

八丈島 女流人お豊

2015年05月13日 | 歴史
伊豆七島でも女流人の占める割合は結構高い。いつの時代にも1人や2人の女流人は必ず存在した。とくに吉原出身の女流人の多さが目立つ。その中に八丈島の三根村に送られた女流人に吉原遊女の「お豊」がいた。

お豊は新吉原京町2丁目伊八店遊女屋「もせ後見仙右衛門」の抱え遊女で花名を「豊菊」といった。罪科は殺人、客を平打のかんざしで刺殺した。本来ならば獄門だが、殺された客にも落ち度があって、死一等を減ぜられ、遠島となった。文政4年(1821年)お豊がまだ15才の若さであった。

流されたお豊が八丈島で食べていくには、今まで同様、男流人どもに体を売って暮らすしか道はなかった。彼女の小屋には昼間から入れ替わり立ち替わり客が来た。小屋の戸口に先客がいる場合、それを外の客に知らせるために四季の花が竹筒に差されていたという。女の武器は強く、そのうち彼女は荒くれ男どもを顎で指図するようになった。

そのお豊より7年遅れて、文政11年、同じ吉原の遊女の花鳥が放火の罪で、お豊と同じく15才で八丈島に送られてきた。2人は同じ三根村に住むようになった。そして女流人の花鳥もお豊と同じような商売を始めた。

そのときお豊はもう22才、荒淫の体はとうに若さを失っていた。それに比べて花鳥は15才、若さが体に満ち溢れていた。男どもは若い方の花鳥に色目を使う。しかしお豊は姉御肌の余裕で、新人の花鳥をいじめるようなことはしなかった。また花鳥もお豊のご機嫌を取り、ふたりは仲良く暮らした。若い花鳥に客は流れても、お豊にも、それなりに暮らしていくには十分の客の需要があった。

こんな生活の中、天保7年(1836年)下総佐原出身の博徒・喜三郎が島に流されてきた。豊菊が流されて15年後、花鳥から8年後である。喜三郎は遊び人だけに要領がよく、若い花鳥に通いながら、お豊にもちゃんと礼を尽くす。お豊が「さすが親分だね」と感心しているうちに、島に来て、わずか2年で、喜三郎は若い花鳥と一緒に島抜けをした。それがまんまと成功した。

お豊は腹が立った。自分に内緒で、若い花鳥と一緒ということが無性に腹が立ったのだ。「よし、それなら私もやってみせるよ」と、彼女は自分の家に通ってくる男の中から、女犯坊主の宝禅、御家人崩れの坂本茂三郎、ほかに4人、合計6人の流人を口説き、島の漁船を盗み、島抜けを実行した。

弘化2年(1854年)6月11日の静かな夜だった。岸を離れると黒潮の急流である。7人全員ずぶ濡れになって舟を漕いだ。一晩漕ぎ続け、空も白すみ、近くに黒い島影が見えた。男たちが御蔵島だ、三宅島だと喜び、必死で漕いで行くと船尾で舵を握っていたお豊が叫んだ。「馬鹿、三宅でも御蔵でもないよ。八丈だよ。」彼らは一晩、潮に弄ばれ、八丈島の沖をぐるぐる回っていたのだ。

夜が明けると、島からはそれとばかりに追手の舟が追いかけて来た。7人のうち男3人は舟の上で、鉄砲で狙い撃ちに射殺された。4人は捕えられ島牢に入れられた。島牢に入り、生きて出たものはないと言われる通り、男3人は牢内で責め殺された。

お豊には銃殺刑が決まった。彼女は処刑場に引き出されたとき、死出の晴れ着に黄の八丈をまとい、薄化粧さえしていた。処刑柱に縛り付けられると、急に暴れだし、「死んだら毒虫になって、島の作物をみんな食い荒らしてやるぞ。覚えておけ。」と叫びながら、撃ち殺された。

その後、不思議に秋になると、八丈に害虫が大発生して、作物の収穫が半減した。島民はお豊のタタリだと恐れ、その害虫のてんとうむしを「お豊虫」と呼んで恐れたという。

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(参照)八丈島を島抜けした博徒・佐原喜三郎という人


写真は「八丈島お豊虫」と言われるてんとう虫
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