「泣くな よしよし ねんねしな」で始まる東海林太郎の「赤城の子守唄」は、板割の浅太郎(本名・浅次郎)が忠治の命令で殺した伯父・勘助の子勘太郎(本名・太良吉)を背負って赤城の山に登るところを歌ったものである。しかし事実は勘助と太良吉は同じ日に殺されている。殺害された関東取締出役道案内・三室(中嶋)勘助は忠治伝説では悪役博徒とされる。その原因は羽倉外記「赤城録」である。
天保13年8月19日、忠治の縄張り田部井村の賭場に突如、関東取締出役の捕り手が襲ってきた。忠治は日光円蔵とともに長どすを振るって何とか逃げ出したが、多くの子分が捕らえられた。暫くして八寸村小斉(現・伊勢崎市豊城町)の親分・勘助の密告によるものと判明した。
勘助は子分・浅次郎の伯父。賭場に浅次郎は居なかった。勘助としめし合わせて俺をはめたと忠治は浅次郎を捕らえて斬ろうとした。横にいた円蔵は、「浅次郎が裏切った証拠はない。ここは浅次郎に勘助を殺させ、二心ないことを証明させるしか方法はない。」忠治は円蔵の忠告に従った。
天保13年(1841年)9月8日、浅次郎は子分8人を伴って夜遅く今の午後11時頃、小斉の勘助の自宅に着いた。勘助は泥酔して2歳の幼児・太良吉を抱いて寝ていた。浅次郎は得意の槍で勘助の胸を突いた。勘助は枕元の火鉢をわしづかみして投げつける。灰は飛び散り、行燈の火は消え、あたりは真っ暗。浅次郎たちはいったん外に飛び出し、再度侵入して勘助の首を斬り落とした。立ち回りの中で太良吉まで殺してしまい、下女の清も負傷させ、現場を立ち去った。妻のみきは実家へ出かけており、難を逃れた。
翌朝、浅次郎は赤城山の忠治のもとに戻り、勘助の首を差し出した。これで浅次郎の無実が証明された。忠治は浅次郎にほうびとして金2両、助っ人の子分8人には各自金1両ずつを与えた。忠治は天保13年正月に忠治に反抗する玉村宿の博徒・主馬を殺害し、今回、勘助を殺害したことで上州全体の博徒が忠治の勢力下に入った。
中嶋勘助とはどういう人だろうか?詳しい経歴は不明である。勘助の実像に迫った本がある。それは高橋敏著「国定忠治」岩波新書である。高橋氏は言う。勘助は確かに関東取締出役道案内の二足草鞋を履く博徒だが、決して悪者道案内ではなく、東小保方村(現・伊勢崎市東町)出身の名主で近隣村の百姓惣代まで務めた地元の信望も厚い、名士であったと。
(博徒名) 三室勘助 (本名) 中嶋勘助
(生没年) 寛政12年(1800年)~天保13年(1841年)9月8日 行年43歳
忠治の子分で甥の浅次郎らの襲撃を受け、2歳の子・勘太郎(太良吉)とともに殺害される。
高橋敏氏の研究によれば、地元民のために三つの訴訟を起こした。一つは西小保方村の長安寺住職・憲海の横暴、非法に対して、檀家代表として寺社奉行へ訴えを起こす。憲海は勝手に寺の資産を売却、横領、高額寄付の強制、更には村の娘を寺に連れ込み子供を産ます、無宿浪人を寺に呼び込むなどである。最終的に住職は罷免、流罪となった。
あと二つは東小保方村領主の旗本・久永源兵衛に対する訴えである。領主・久永氏は天保4年から天保10年まで続いた天保大飢饉の際、村民救済も行わず、年貢減免も実施しなかった。そのうえ30年以上に渡って年貢以外の負担金、年貢の先取りである「先納金」を徴収するなど悪政が続いた。当時、旗本領主の家計は苦しく、どこも領民にそのしわ寄せが行った。勘助は農民の苦境を見て、百姓惣代として領主・久永氏に対し年貢減免、先納金返還の訴えを起こした。
そのほか、久永氏の陣屋役人が勝手に村に架かる橋に「下馬札」を立て、乗馬の通行を禁止した。下馬札は幕府奉行の権限で陣屋役人には越権行為となる。勘助は下馬札を引き抜き、江戸の幕府に下馬札を持ち込み訴訟しようとした。しかし江戸への旅の途中に陣屋役人に見つけられ、札を奪還され、失敗した。一方、領主・久永氏への年貢減免、先納金返還の訴えは天保12年に敗訴が決定した。
これらのことから勘助は領主・久永氏から敵対する不埒者として処罰され、東小保方村を追放された。仕方なく隣村の八寸村小斉に家を借り、天保12年末、引っ越した。勘助の正義感に燃えた人望と指導力は忠治に悪戦苦闘している関東取締出役には魅力であった。羽倉外記の手代から関東取締出役に就任した中山誠一郎の誘いもあって、勘助は関東取締出役道案内となった。
道案内だから二足草鞋の悪徳博徒と決めつけてはならない。村落指導者の豪農層が就任し、治安活動に活躍した例もある。同じ時期、常陸国土浦の問屋・内田佐左衛門も勘助に類似している。彼は城下の町奉行と争い隠居させられた。その後、道案内となり、嘉永2年(1849年)「勢力富五郎騒動」の鎮圧に一役を買った。侠客・忠治も講談の世界で創られた一人の博徒であろう。
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関東取締出役との抗争で自決した博徒・勢力富五郎
忠治に殺された博徒・島村伊三郎
左が中嶋勘助の墓。正面・法名「教外了訓居士」側面「天保十三寅九月八日・三室村中嶋勘助・行年四十三歳」とある。
真ん中の墓は勘太郎の墓。正面・法名「覚然童子」側面に「三室村中嶋太良吉」とある。
右の墓は勘助の妻・みきの墓。法名「玉室智泉大姉」側面「文久葵亥年十二月十九日武州足立郡内野本郷村(現・大宮市)神山氏娘」とある。
従って、勘助の妻・みきは事件から21年後の文久3年12月19日死亡した。
建立者はみきの娘・木村ふさである。ふさは勘助支援者名主の息子と結婚。墓は伊勢崎市上諏訪町(現・日出町)の木村家の墓地にある。
写真は墓の近くにある勘助・勘太郎親子の延命地蔵尊。
天保13年8月19日、忠治の縄張り田部井村の賭場に突如、関東取締出役の捕り手が襲ってきた。忠治は日光円蔵とともに長どすを振るって何とか逃げ出したが、多くの子分が捕らえられた。暫くして八寸村小斉(現・伊勢崎市豊城町)の親分・勘助の密告によるものと判明した。
勘助は子分・浅次郎の伯父。賭場に浅次郎は居なかった。勘助としめし合わせて俺をはめたと忠治は浅次郎を捕らえて斬ろうとした。横にいた円蔵は、「浅次郎が裏切った証拠はない。ここは浅次郎に勘助を殺させ、二心ないことを証明させるしか方法はない。」忠治は円蔵の忠告に従った。
天保13年(1841年)9月8日、浅次郎は子分8人を伴って夜遅く今の午後11時頃、小斉の勘助の自宅に着いた。勘助は泥酔して2歳の幼児・太良吉を抱いて寝ていた。浅次郎は得意の槍で勘助の胸を突いた。勘助は枕元の火鉢をわしづかみして投げつける。灰は飛び散り、行燈の火は消え、あたりは真っ暗。浅次郎たちはいったん外に飛び出し、再度侵入して勘助の首を斬り落とした。立ち回りの中で太良吉まで殺してしまい、下女の清も負傷させ、現場を立ち去った。妻のみきは実家へ出かけており、難を逃れた。
翌朝、浅次郎は赤城山の忠治のもとに戻り、勘助の首を差し出した。これで浅次郎の無実が証明された。忠治は浅次郎にほうびとして金2両、助っ人の子分8人には各自金1両ずつを与えた。忠治は天保13年正月に忠治に反抗する玉村宿の博徒・主馬を殺害し、今回、勘助を殺害したことで上州全体の博徒が忠治の勢力下に入った。
中嶋勘助とはどういう人だろうか?詳しい経歴は不明である。勘助の実像に迫った本がある。それは高橋敏著「国定忠治」岩波新書である。高橋氏は言う。勘助は確かに関東取締出役道案内の二足草鞋を履く博徒だが、決して悪者道案内ではなく、東小保方村(現・伊勢崎市東町)出身の名主で近隣村の百姓惣代まで務めた地元の信望も厚い、名士であったと。
(博徒名) 三室勘助 (本名) 中嶋勘助
(生没年) 寛政12年(1800年)~天保13年(1841年)9月8日 行年43歳
忠治の子分で甥の浅次郎らの襲撃を受け、2歳の子・勘太郎(太良吉)とともに殺害される。
高橋敏氏の研究によれば、地元民のために三つの訴訟を起こした。一つは西小保方村の長安寺住職・憲海の横暴、非法に対して、檀家代表として寺社奉行へ訴えを起こす。憲海は勝手に寺の資産を売却、横領、高額寄付の強制、更には村の娘を寺に連れ込み子供を産ます、無宿浪人を寺に呼び込むなどである。最終的に住職は罷免、流罪となった。
あと二つは東小保方村領主の旗本・久永源兵衛に対する訴えである。領主・久永氏は天保4年から天保10年まで続いた天保大飢饉の際、村民救済も行わず、年貢減免も実施しなかった。そのうえ30年以上に渡って年貢以外の負担金、年貢の先取りである「先納金」を徴収するなど悪政が続いた。当時、旗本領主の家計は苦しく、どこも領民にそのしわ寄せが行った。勘助は農民の苦境を見て、百姓惣代として領主・久永氏に対し年貢減免、先納金返還の訴えを起こした。
そのほか、久永氏の陣屋役人が勝手に村に架かる橋に「下馬札」を立て、乗馬の通行を禁止した。下馬札は幕府奉行の権限で陣屋役人には越権行為となる。勘助は下馬札を引き抜き、江戸の幕府に下馬札を持ち込み訴訟しようとした。しかし江戸への旅の途中に陣屋役人に見つけられ、札を奪還され、失敗した。一方、領主・久永氏への年貢減免、先納金返還の訴えは天保12年に敗訴が決定した。
これらのことから勘助は領主・久永氏から敵対する不埒者として処罰され、東小保方村を追放された。仕方なく隣村の八寸村小斉に家を借り、天保12年末、引っ越した。勘助の正義感に燃えた人望と指導力は忠治に悪戦苦闘している関東取締出役には魅力であった。羽倉外記の手代から関東取締出役に就任した中山誠一郎の誘いもあって、勘助は関東取締出役道案内となった。
道案内だから二足草鞋の悪徳博徒と決めつけてはならない。村落指導者の豪農層が就任し、治安活動に活躍した例もある。同じ時期、常陸国土浦の問屋・内田佐左衛門も勘助に類似している。彼は城下の町奉行と争い隠居させられた。その後、道案内となり、嘉永2年(1849年)「勢力富五郎騒動」の鎮圧に一役を買った。侠客・忠治も講談の世界で創られた一人の博徒であろう。
ブログ内に下記の関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
関東取締出役との抗争で自決した博徒・勢力富五郎
忠治に殺された博徒・島村伊三郎
左が中嶋勘助の墓。正面・法名「教外了訓居士」側面「天保十三寅九月八日・三室村中嶋勘助・行年四十三歳」とある。
真ん中の墓は勘太郎の墓。正面・法名「覚然童子」側面に「三室村中嶋太良吉」とある。
右の墓は勘助の妻・みきの墓。法名「玉室智泉大姉」側面「文久葵亥年十二月十九日武州足立郡内野本郷村(現・大宮市)神山氏娘」とある。
従って、勘助の妻・みきは事件から21年後の文久3年12月19日死亡した。
建立者はみきの娘・木村ふさである。ふさは勘助支援者名主の息子と結婚。墓は伊勢崎市上諏訪町(現・日出町)の木村家の墓地にある。
写真は墓の近くにある勘助・勘太郎親子の延命地蔵尊。