兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

明治スリの親分「仕立屋銀次」

2024年10月03日 | 歴史
盗人と言えば石川五右衛門など犯罪史に名を残した盗賊は少なくない。明治でスリで言えば仕立屋銀次だろう。スリは小手先の職人仕事で大向こうをうならすような犯罪ではない。でも銀次にもなると「警視庁史」に名を残し、多くの書籍に書かれて小説にもなっている。しかし引退後の晩年は不明であり、没年もまったくわからない。

銀次は1866年(慶應2年)3月17日東京駒込動坂町(現・文京区千駄木)で生まれ、本名・富田銀蔵。父・金太郎は紙くず問屋、銭湯を営む。明治16年頃、商売に失敗したのか、浅草猿橋警察署で小使いのような仕事をしている。銀次は13歳のとき、日本橋の仕立屋・井阪浜太郎へ年季奉公に出た。21歳頃、年季奉公も終わり、浅草小島町で独立した。腕を良い職人だったらしい。ここから店に通ううちに、裁縫を習いに来ていた広瀬くにと恋仲になり、銀次28歳、くに20歳のとき、下谷御徒町に世帯を持った。当時、銀次には妻子がいたが、離れて一緒になったという。

くにはスリの親分・清水熊(本名・清水文蔵)が妾の泉しんに生ませた子。姓が違うのはどこかに養女に出したのだろう。泉しんは芸者あがりのしたたか者。くには美人の上、相当のやり手。母親のしんに質屋を営業させながら、盗品の処分を一手に引き受けていた。清水熊は別名清水熊太郎とも呼ばれ、関西方面まで縄張りを持つスリの親分である。

1887年(明治20年)頃、東京のスリ界は「清水熊」と「巾着豊」二大親分が仕切っていた。巾着豊は本名・小西豊吉。清水熊より7歳年上、裕福な家庭に育ち、母親が心配して巾着屋の店を持たしたことから巾着屋と呼ばれた。巾着豊は逮捕され、1896年(明治29年)巣鴨監獄で病死した。1897年(明治30年)巾着豊の跡目を「湯島の吉」本名・伊藤由太郎が継ぎ、1901年(明治34年)清水熊の跡目を銀次が継いだ。銀次35歳のときである。湯島の吉は銀次より10歳年上、子分80人を抱える。銀次は年下だが、子分100人を抱え、その統率力は一歩、勝っていた。

銀次の全盛時代は1902年(明治35年)から逮捕される1909年(明治42年)まで7年余り。当時東京市内のスリは1,500人、銀次の専門は汽車の中で稼ぐ「箱師」東海道本線から奥州線まで縄張りとして、地元東京では仕事をしない。子分は全盛時250人を数えた。一方で警察とは懇意な関係を結び、申し出あれば盗品を返却する「浮かし」を行った。警察も銀次の仲間なら、逮捕しても釈放する特殊な関係にあった。

自宅は日暮里村金杉に構え、二重門構えの大邸宅で、他に貸長屋を50~60軒持ち、家賃収入だけでも月に100円以上(当時1円は現在の2万円程度今なら2百万円以上)、資産は50,000円を超えていた。逮捕の3年ほど前には跡目を手下の仙吉に譲り、銀次は監督に当たった。赤十字に寄付をする、日暮里村の村会議員になる一方で、関西地方のスリとも盗品をさばき合うような互助会的な一大闇ルートを開発、仲間の交流のための待合を開いて芸妓出張所を営業するなど、巨大な犯罪組織を形成していた。

明治42年、新潟県知事が伊藤博文より贈られた懐中時計をすられた。当時、若くして赤坂警察署長に赴任した本堂平四郎は盗品を提出させるため、銀次に出頭を命じた。銀次は新任署長に恩義はなく、出頭しなかった。しかも実際にすったのは湯島の吉の子分であった。本堂署長は銀次宅を包囲踏み込み逮捕した。銀次は盗品故買・収受の罪で懲役10年、罰金200円、湯島の吉は懲役13年、罰金300円の刑を受けた。

その後、湯島の吉は甲府監獄で病死。銀次は1918年(大正7年)仮出獄した。数えの53歳だった。出獄後は仕立屋と雑貨屋を営む。しかし翌年、銀次は置き引き師事件に関連して再び逮捕され、懲役8年、罰金200円の刑に処せられる。

最後に銀次の消息を記すのは1930年(昭和5年)3月25日の都新聞の記事である。記事によると、「新宿三越呉服売り場で老人が反物1反を万引き、警戒中の刑事が取り押さえた。老人は富田銀次郎(67歳)、息子の仕送りで余生を暮らすも、市内見物の折、雑踏の出来心で万引きしたと供述、往年の仕立屋銀次と判明した」とある。これが本当の銀次か不明。本当の銀次なら64歳、数えでも65歳である。以降消息はわかっていない。

銀次の跡目を継いだ「大仙」本名・小林仙吉は親分の器ではなく、銀次より9歳若く、子分の統制も乱れた。銀次の再度入獄と警察の検挙体制強化でスリ界も徐々に衰退した。銀次のスリ組織の残党は、1980年代中頃までスリ師としての活動を行っていたことが確認されている。

ブログ内に下記の関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
「熊坂長庵と藤田組贋札事件」

写真は仕立屋銀次


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