『花鳥風月』雑記

素朴に質素に優しくいきたいね

雨の日は・・・

2009年04月25日 | 


山の中で咲くヤマツツジやシャクナゲを愛でに、友4名で奥多摩ハイク
を計画していたのだが、90%の降水確率のため取り止めた。                                                                          
新緑の眩しくなった頃revengeとしよう。

一昨日の皇居東御苑、雑木林ゾーンで清楚で可憐に咲いていた花です。
何時か何処かの山中で見た「稚児ゆり」は、頭を垂れていなかった様だが。



「ヒトリシズカ」という茶色茎の先に花穂を一本立てる山野草に対して
2,3本の花穂を立てているから「二人静?」、静御前に由来ありかな

最初に花の和名をつけた人、夢とロマン溢れた仕事だったでしょうな~

  

この3種はラン科の仲間です。特に「金蘭」「銀蘭」は栽培が難しいとか。

山間の落葉樹林で半日陰を好む気難しい山野草を、都会の真ん中で育てて
行く事は“丹精の賜物”と言えるでしょう。

周りの雑草?と共にひっそり咲いている小さな山野草、ともすれば咲いて
いる事にも気付かず、通り過ぎてしまう事も。

予定が流れた雨の休日、怠惰な一日で終わろうとしています。




                          

皇居のツツジ

2009年04月24日 | 公園


“目病み女に風邪引き男” 近頃あまり耳にしませんが、こんな言葉が
ありましたですよね。目を病んでいる女の潤んだ瞳が艶かしく、風邪を
引いた男の、しわがれ声と首の湿布包帯の様子が粋であったのか
今時の風邪引き爺は、惨めで薄ら汚いだけで周りに嫌悪感さえ与える



風邪を引いたら一週間、大事に辛抱すれば完治が常だったが、今は違う。
回復力が弱って来たのだろう、クリニックにも行くようになった。
「薬で風邪は治らない、、、」と思いながら。



養生のためと言っても足は健全なのに家に居るだけでは思考上良くない。
気分転換をかねて、ツツジの時季を狙っていた 皇居東御苑を訪れた。

相変わらず苑内は、皇居奉仕団の方々の御尽力があってか行き届いている。
ツツジの花は9分咲きと言ったところか?整った美しさであった。



東御苑庭園の中央に雑木林zoneがある、郊外の雑木林の中を散策する気分だ、
その所々にひっそりと咲いている「ヤマツツジ」が、きちっと整列したツツジと
対照的か?何ともほっとした気分にさせてくれた、自由に自然に咲いている。
その地面には春の可憐な花も見られた。

小生の風邪も多少回復気味かな?
自然の中には「自然治癒力」がありますね、確かに
東京近郊の山では今ミツバツツジが山を装っている事だろう。







恨み言

2009年04月19日 | 公園


今朝、仕事に就いて声がうまく出ない事に気が付いた。原因は一昨日、
止む無い用件で已む無く乗った朝の通勤ラッシュの地下鉄の中だった。

身動きとれない車内で右斜め後の人がマスクもせずにグズグズ・コンコン・・
嫌な予感 暫くして大クシャミ 瞬間周りに隙間が出来た

小生、もろにクシャミを浴びた顔右半分をハンカチで拭いたが、、、
あの切ない怒りはどうすればよかったのだろう



不吉な予感が的中。昨日は喉に変調。今朝は声が・・・完全風邪感染だ
55歳前後・小太り・めがね・・・のオヤジ何とかしろ

先週は満員電車内での痴漢行為で問われた大学教授の裁判で、一審二審の
有罪を最高裁では証明不十分で無罪となり、車内での犯罪が注目された。

風邪保菌者が満員車内でマスクもせずハンカチも当てずクシャミする事は
故意でなくても犯罪にしたらよいと思う。証明には事欠かない。



『災難』と思うにしても、あの不快感はぬぐえない

「俺だけは大丈夫」と思っていた悪癖も加齢と共に体力・抵抗力の
落ちて来たわが身を思い、人込みに出る時は防御態勢が必要だ






ちゅうりっぷ

2009年04月16日 | 


昭島市に住む一歳半の孫が熱を出して保育園に行けず、仕事の親に
代わって急遽、爺婆の出番となった。
近くには「国営昭和記念公園」がある。



お爺さんは近くの「昭和記念公園」へ花の写真をとりに、、、
お婆さんは風邪ひきで体調悪いだろう?孫の機嫌とりに、、、



この公園は、立川基地の跡地で比較的平坦で広々としている。
今はチュウリップや大原っぱのポピーが美しい。



チュウリップの咲いている渓流広場では、水と緑をモチーフにしたのか
心やすまる造形美は、まるで絵画の中に居るようである。



チュウリップをテーマにした造園でも、先日の「あけぼの山公園」が
写実画であるとすれば「昭和記念公園」は抽象画と言えないだろうか

広い公園の花壇は大きなカンバスである。
四季折々どんな絵を描いてくれるか楽しみである。




清水山憩いの森

2009年04月12日 | 


ひと際美しく耀いた桜に、うつつを抜かしていた間に桜と時を同じくする様に
カタクリの花も咲いていた。落葉広葉樹の林に群生するカタクリは発芽から
花を咲かすまで8年程かかり、一度咲いたら翌年は咲かないはかない命だ。

その花の群生地が練馬区大泉に、同区が管理している『清水山憩いの森』に
あった、4/8では終盤のカタクリだったが30万株の中の元気な株を探した。

 

20年ほど昔、佐野市の山中に群生地があると聞き出掛けたが、昼まで待てど
花が開かず退散の羽目をみた事があったが、この花、気温が上がり陽が射さ
なければ咲かない、と言う気難しい孤高(?)の花であるのか、写欲をそそる。

うつむく様に咲く背丈10センチ程の花姿、花芯と花弁下部の模様を捉えるには
かなりのローアングルが要求される、花撮影では当然の必須条件 

 

『清水山憩いの森』は名水の“湧き水”もある。野鳥の水浴びも見られる。
スミレやニリンソウなどもカタクリと混ざって咲いていた。
関東近郊の低山登山口のような森閑さがあり都内とは思えぬ森だった。
 【清水山憩いの森カタクリの見頃は3下旬~4月初旬です】

 湧く水の 音にカタクリ 咲き初めぬ     詠人不知




チュウリップ

2009年04月11日 | 


柏市布施に1200年の歴史を持つ『布施弁天』があります
平安時代初期、弘法大師空海が建立した、紅竜山東海寺です
裏手には土手をはさんで坂東太郎こと利根川が流れています。

その寺の前方にある「あけぼの山公園」は桜をはじめ四季折々の
花が楽しめますが、今の時季のチュウリップは特に見事です。

過去3度ほどチュウリップの時季に訪れた事がありましたが何れの
時もジャストタイミングを逃しておりました。

 
 

私は子供の頃から絵心は全く無く、情けない限りでしたが、ヒマワリとチュウリップだけは
何とか描けたように思います。
でも今のチュウリップだったら困ったでしょう、形も色も様々です。

真っ赤で下膨れ気味だった、オーソドックスなチュウリップはどうしちゃったのか

品種改良によって色々なチュウリップが見られるようになりましたが、そのために思わぬ
模様などが突然現れたりするのでしょう。

15万個の球根が植えられているそうですが、その中に突然変異(?)で出来たと 思われる                                 花を探して見ました。世界に『この一輪』だけかも知れません



今日は5月なみの気温になったとか、汗かきながら大方見て廻りました。

そんな時、白いチュウリップの花芯に蜜を摂りに入ったのか、花粉まみれ
になり登って来れない虫を、草の葉を差し入れ助け出しました。

“霊験あらたか”な布施弁天の威光によるものか
ひとつの命を救いました、今日の空のように気分晴朗です





散る桜

2009年04月09日 | さくら


眩しい程に華やかに咲き誇った今年の桜も 昨日夜半までの風で
散りかけただろうかと、今朝早々に近くの仙台堀川辺りを散策してみた。

水路一面が花びらに覆われ、「花筏」の風情より「花運河」の趣か



満開までの頃は賑やかだったベンチ付近も、今朝は鳩が餌を啄ばんでいた。
周りは桜色の絨毯が敷かれたようだ、こんな佇まいが私は好きです



どうしてあんなに、思い切って散れるのだろう。

良寛が辞世の句として詠んだ「散る桜 残る桜も 散る桜」
人生の機微に触れる名句だろうが、、、

散る桜と言えば、大戦時、国のために命を捧げた若き特攻兵士の事が
思い出されて切なくなる。



(花吹雪の模様を写しこめたが縮小加工で消えちゃいました)

満開までの桜は嬉々として待ち眺められていたのに、盛りを過ぎると
振り向く人さえ居なくなる、落ちた花びらは迷惑そうに掃き纏められ
処理されていく。人の一生に似ているのかな~桜も。

盛りを過ぎたものには、情緒や風格や思慮の深さがあるのに。



仙台堀川の川本となる箇所では花びらが友禅模様(?)のような
瞬時変化する絵柄を描いていた。

  散り初めし 桜見ている 旅心     穂坂日出子










黄昏桜

2009年04月08日 | さくら


今年、東京の桜は開花宣言から花冷えが続いたせいか長持ちだったし
花の色も例年に比べ濃かったのではないだろうか。

一昨日あたりの頂点から花は潔く散っていく。
そんな盛りを過ぎた桜の風情を求めて夕刻、隅田公園に出掛けてみた。



隅田川に架かる桜橋から眺める黄昏時の大川と両岸の桜並木には
満開時の華やかな喧騒ぶりはなかったが散り行く花の情緒を味わい
惜しむように、行き交う落ち着いた夜桜見物の雰囲気だった。



“花疲れ”という言葉もあるらしい。
 「人出が多く、何処となく埃っぽい中を歩き回り、我が家に帰り
  着いたころは、すっかりくたびれていた」

  花に暮れて 我が家遠き 野道かな       蕪村






末期の眼

2009年04月05日 | さくら


最近、小生のブログも閲覧者数に、じり貧症状が見られ出しました。
当然の事だと覚悟いたして居りました。 覗いて見たとて、、、

何の得になる訳でもなく、新ネタが増える訳でもなく、増して艶気等
ある訳もない。でも昨日goo mail に一昨日の投稿に関してのmailを
長文にて頂きました。〈かの子〉さま有難うございました。

ブログに付いてのアドレスshimo_october@mail.goo.ne.jp です。



〈かの子〉様曰く、『川端康成の随筆に「末期の眼」と言うのがある。
人間、生の終焉が近ずくと、この世の自然が目が洗われるほど美しく
しみじみと映ってくるものである、それを「末期の眼」という。
でもshimo_octoberさんの場合は推測するに、少し時間に余裕が出来て
花や自然とゆっくり対峙できる、ゆとりが出来たからでしょう』と
慰めとも思えるフォローも添えられていた。感謝

ちょっと小生、背筋が寒くなるものを感じた。
残り少ない人生、毎日を大切に真剣勝負で行けという事だろう



桜が満開になると小松川千本桜ダ!隅田公園ダ!大横川ダ!・・・と
貪欲に目移り気味に廻ったが、足元の「猿江恩賜公園」の桜が愛おしく
落ち着いて居り安心して満開の桜を味わう事が出来た。

 この世は美しい 人の心は甘美である      釈尊





じらす桜

2009年04月03日 | さくら


昨日は起床一番!外を見ると雲は厚く低く、公園の樹木は強い北風に
揺らされていた。満開近い桜を撮りにちょっと出掛けようと思っていたが
あの北風で、、、計画も途端にいじけずいてしまった。



今年の桜には、じらされる。過去になく今年は桜の満開が待ち遠しい
焦りもあってか昼頃、2日前は5分咲きにも満たなかった千鳥が淵へ
行ってみたが7~8分咲きほどだったろうか?

あの華やかな満開の桜を、あと何回眺める事が出来るだろうか
ふと、そんな事を思ってしまった。今年の桜が最後でない保証は無い

先日、同郷の友とのメールでもそれらしき事があり、一日一日を大切に
して行かなくちゃ~と。



お花見と意識して眺める桜もいいが、出先などで偶然出合った桜も
強く印象に残っている。

ここ皇居の周りの桜には、どの辺りにあっても風格が備わっている
ように感じるが、気のせいだろうか

【投稿画像には技法が未熟のため、その風格の片鱗も
  お伝え出来ませぬ事、陳謝申し上げます】



 桜ばな 命いっぱい さくからに
         命かけて わが眺めたり     岡本かの子