しらほぶろぐ

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日記代わりに身の回りの出来事を綴ります。

山形県出身アスリート5

2007-02-12 08:11:12 | 08.山形探訪

2007.02.12(月)(祝)

佐渡ヶ嶽親方…元関脇「琴の若」…山形県尾花沢市出身…昭和43年5月15日生まれ(私の誕生日の12日後)…身長192cm,体重181kg(現役時)…生涯成績は,785勝764敗100休…殊勲賞2回,敢闘賞5回…初土俵は,昭和59年5月場所で,平成2年11月場所新入幕…得意手は突っ張り,左四つ,寄り切り…将来の横綱,大関候補として期待がかかったが,膝の故障が多く実現できなかった…


中学生時代に元横綱琴櫻の佐渡ヶ嶽親方に勧誘され,最初は周囲が反対し本人も断わろうとしたが熱心な勧誘に折れて入門した…
「もともと相撲は好きじゃなかった…むしろ嫌いだったくらい…親方が何度もスカウトに来られたが,そのたびにお断りしていた…それが13歳か14歳の頃…ところが,家族会議で自分以外の全員が賛成となったものだから,多数決で入門せざるを得なくなった(笑)…せめて高校には行かせてくれと…と言ったら,親方に『その3年間が大事なんだ』と言われ,結局15歳で入門することになった」…と本人が語っている…

新関脇となった1999年1月場所も8勝7敗と勝ち越して飛躍を期待されたが,左膝の負傷で三役を明け渡し低迷…それでも実力のあるところを示し,横綱や大関を得意の上手投げで何度か倒すなど,その甘いマスクと伴って人気は衰えなかった…
膝の故障にはその後も苦しまされ,2003年11月には勝越目前で膝を壊すなどの不運もあった…4本ある膝の靱帯のうち3本が切れて,1本しかない中で相撲を取っていたこともあった…しかし本人は,「もう1回三役に」を目標に相撲を取り続けた…
攻めが遅く,「ミスター1分」のあだ名を持っていた…この特徴は速攻相撲には弱点になるが,一旦相手の速攻を止め,「水入り」に近い大相撲になると「攻められ強く,しぶとい」という長所とも言えよう…実際,「水入り」も4度経験している…

1996年4月に師匠の長女と婿入りの形で結婚…この時点で佐渡ヶ嶽部屋を継承することが決まった…2005年11月場所13日目の「駿傑」戦に敗れ,5勝8敗と負け越し,この取組を最後に現役を引退し,年寄・13代「佐渡ヶ嶽」を襲名した…

佐渡ヶ嶽親方の人柄がわかる一番があった…歴史に残る一番と言っても過言ではない…

【佐渡ヶ嶽親方の人柄がわかるエピソード】

2004年7月場所中日の結びの一番は,歴史に残る一番となった…全勝の横綱「朝青龍」が,それまで1勝しかしていなかった幕内最年長「琴ノ若」の上手投げで裏返しにされた…このとき朝青龍は,ブリッジの体勢でこらえながら,琴ノ若の「まわし」を最後まで放さなかった・・・一方,すでに朝青龍は「死に体」と判断した琴ノ若は,横綱の上に倒れては危ないので,と判断し自らの手を着いた…その手が,朝青龍が落ちるより一瞬早く地面に着いた…「かばい手」と見た木村庄之助の軍配は「琴ノ若」に上がったが,すぐに物言いが付いた…3分15秒にわたる審判団の協議の結果,朝青龍の体が落ちるのと,「琴ノ若」の左手がつくのが同時と見て取り直しとなった…

左ひざに“爆弾”を抱えた「琴ノ若」にとって,取り直しは「負け」と同義…取り直しの一番では,朝青龍が豪快な切り返しで8連勝を飾った…この一番で死に体の解釈をめぐり審判団の解釈は紛糾した…琴ノ若の手は明らかに早くついており,体があるなら朝青龍,「死に体」ならば琴ノ若の勝ちになる…結局,審判団の意見が分かれ「取り直しにするしかなかった」という同体判定…
取組後のインタビューで琴ノ若は「あれは『かばい手』だった…はっきり勝負がついていたから手をついたまで…あのまま横綱の上に倒れこんでいってもよかったのだ…こんなことなら『死に体』なんて制度は無くしたほうがいい」と語った…中継後,NHKには数十件以上の電話があり,ほとんどが「朝青龍は負けていた」との抗議だったという…

それから3日後の11日目,「琴ノ若」は玉乃島と対戦…琴ノ若に左上手を取られた玉乃島は,浴びせ倒しで敗れた…玉乃島が崩れていくとき,琴ノ若は朝青龍戦と同じように手を着いて玉乃島の体をかばった…玉乃島は取組後,「琴ノ若関が手をついてくれなかったら大ケガをしていただろう」と,その気づかいに感謝していた…「琴ノ若」の人柄が伝わってくる取組であった…

【本日の体重】 : 85.5kg(ダイエット開始から1年と12日目:-19.2kg)

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