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入内の石神神社

2011-05-09 | 名所 旧跡
仏教と神道を区分けする以前は、日本的とも言える混沌の信仰があったはずで、教義経典を抜きにして畏れ多いものを祭り上げる、そんな精神風土があったのだろうと思っています。
青森には仏教でも神道でも、修験道でもないと思われる信仰形態があって、形式的に他の宗教との融合を明治期以降も続けている民間信仰が数多く残っています。

青森市の入内から山に向かった場所には、人の顔の形をした石を祭る石神神社があって、本尊はその石になっています。
目の形の窪みに溜った水に、眼病・難病治癒の霊験があると云われたようで、案内板には以下のように書かれています。

藩政時代、「石神様」としてその霊験が広く喧伝された。<中略> 草創年月は不詳であるが、霊泉の発見者は、眼病を煩っていた小館村(現青森市)の弥十郎という人であると伝えられている。
明治初年、神佛混淆禁止のとき、神社の形体が未整備の理由から信仰を禁止させられた。
しかし、霊泉を求める人が多く祈祷所を願い出たが、明治五年、県庁から「愚民を惑わす妖言」として不許可になった。その後、自然石の破壊も試みられたという。


明治初年から、明治政府は神道を国の宗教とするため、神仏判然令・神祗事務総督・神仏分離令と矢継ぎ早の太政官達が出され、神官は神祗省の職員となって一定の住宅戸数ごとに郷社と祠官(しかん)が決められました。
国による宗教の管理には、当然ながら反発もあったはずで、案内板に書かれた過激な表現は上からの命令に対する「じょっぱり」精神の発露と、神道・仏教とは違う自分達の信仰が認められない憤りも感じられます。

現在では祭神はアマテラス、ツクヨミ、オオヤマツミとなっていますが、後からの合祀なのでしょう。
青森の精神風土から生まれ出る信仰形態は、イタコや赤倉信仰、恐山や賽の河原など、今でもそこここに残っていて、そんな青森の原信仰の香りがとても興味のあるところです。


本尊である人面の形をした岩 


神社の少し手前には御鈴大滝神の鳥居があって、沢に下りると滝壺にも岩の御神体が 



場所は地図上で探せなかったのですが、入内の集会所を過ぎると小さな案内板があります。未舗装の林道を5kmほど登った先になります。



友人との会話 全力で死なないようにしている

2011-05-08 | 思うこと
震災以後会っていなかった友人と、久し振りに食事をしました。
お互いに学校へ行かない子供を抱えながら、励ましあったり感じたことを話し合ったりする友人です。
お互いの近況を報告しあった後、友人は現在の仕事から感じた事を語りだしました。

死は自然な事だ。昔の人は死期を悟ると食事を取らず自分から死への準備を始めていた。
でも今はそうではなくて、病院で栄養点滴をして死期を先送りしている。
介護施設では死なないようにする事が仕事で、全力で死なない様に努力しているけど、死期を逃したら人は中々死ねない。
人は死ぬことにも意味がある。
残る人に悲しみと世代の交代を教えてくれる。
昨年急死した自分の母親の死も、そう思えば受け入れられるようになった。

そんな話でした。
昨年は私も、この友人も、状況は違えど親の死を迎えています。
私よりもシビアな状況で親の死を迎えた友人は、苦しい中からなんとか答えを探そうとしていたのだと思います。
そんな答えを見つけられた事と、精神的に落ち着いてきた今の友人の在り様を見て、一緒に納得するしか私にはできませんでした。
「そうだねぇ」と。

震災以後、色々な事が大きく変わったと感じます。
人が生きて死ぬ、そんな事に対する受け入れ方が大きく変わってきた。
歴史上かつてない贅沢な暮らしができる世の中で、昔も今も変わらない何かが実はある。
そんな事を思い出す何かが。



お山のおもしえ学校

2011-05-07 | 青森の味
孫内あつしのクレヨン画を、偶然見てからファンになっています。
黒石市にある『お山のおもしえ学校』は孫内あつし氏のアトリエにもなっていて、間近に作品を鑑賞できる美術館でもあります。
黒板に描かれた大作は、孫内作品に流れる「切なくなるような懐かしさ」を一杯に表現していて、ガラス無しの自然光で見られる贅沢さ。
館内には昭和の香りに溢れた懐かしの生活用品も展示されていて、電化製品などを眺めていると小さい頃の自宅に戻ってきたような不思議な錯覚を覚えます。
まだ骨董ではないけれども、もう使われることもなくなったそんな製品は、どんなジャンルになるのでしょうか。

土日限定で手打ち蕎麦も食べられます。
あちこちで蕎麦を食べ歩いていますが、こちらの蕎麦は有名店にも負けない美味しさでした。
蕎麦だけを目当てにしてもいいのではと思えるくらいで、古い職員室であったらしい食堂も、懐かしさを感じる雰囲気でした。




お山のおもしえ学校


巨木の花見

2011-05-06 | 巨木
二戸市は巨木が多く、花の咲く木も多いことから巨木花見が楽しめます。
どの木も素晴らしくて見ごたえのある木ばかりですが、個人的にこれはと思う巨木は、小中沢のキタコブシ、夏間木の大梅、奥山賽の神のエドヒガン。
今年は春の花の時期が遅くて、先日も空振りに終わってしまいましたが、やっと花と対面できました。
この季節は春の山野草の季節でもあって、カタクリの時期は過ぎてしまいましたが、ちょうどエンゴサクが見ごろになっていました。
春が遅いと、桜も梅もコブシまでもが同時に咲き出します。
こんな春もまた素敵です。





二戸 四季の里

2011-05-05 | 蕎麦
二戸には花の咲く巨木が多く、先日もそんな巨木を見てきたのですが、残念なことに花の時期には少し早すぎて、そろそろ再挑戦に出かけようかと考えています。
今年は春の寒さが続いていたためですが、二戸といえば蕎麦が美味しいので、蕎麦を食べに行くのが秘密の目標でもあるのです。

「四季の里」は、古い民家を店舗にした蕎麦と郷土料理のお店です。
入り口を入ると石臼で蕎麦を引く小部屋があって、経営母体の南部せんべい巌手屋も、同じ粉を扱うみせですから粉物にかける熱意が伝わってくるようです。
腰も香りもある蕎麦は中々のもの。
建物や庭も楽しめて、隣のせんべい店でお土産も買える、ちょっとした遠出ドライブにはぴったりのお店です。




自助工房 四季の里


津軽三味線日本一決定戦

2011-05-04 | 青森文化芸術
毎年恒例の津軽三味線日本一決定戦を、今年も観戦してきました。
震災もあって、新幹線で参加した方や東北を盛り上げるために参加した方もいて、そんなインタビューを聞いていると嬉しくなります。
毎年見ていて、それなりの結果になるので納得していますが、今年はちょっとクエスチョンマークのつく結果でした。

音楽には好みがあります。
技術だけではなくて、一つの音の響きの集まりの中に音楽の美しさを感じるかというのが、技量を超えた感性の中にあって、美しい音の集合体が美しい音楽だと私は思います。
演奏には技術も必要であって、その技術の上下も当然ながらあるのですが、では技術だけが音楽の美しさを作り出すのかといえば、それは違います。
一つの曲の中に感動があるのか。
曲の流れの中で物語が表現できるのかどうか、そんな観点と、一音ごとに美しい音を奏でる技術が相まって聞く者を感動に導くと思います。

今年は違和感を感じる結果でしたが、それでも感じ方は人それぞれなので、あくまで自分の感想でした。
演奏の途中で撥を折ってしまった女性奏者も、昨年の演奏を聴いて今年も期待していました。技術・感性共に来年の演奏を期待しています。