老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

憲法に思う。

2016年01月06日 22時00分16秒 | 政治・経済・環境・核兵器など
年明けと共に、新聞やTVなどで、今年の話題として夏の参議院選挙と「憲法改訂」への動きが大きく取り上げられています。
現総理は就任当初から、“現憲法は外から与えられたもの”として見直しを公言し、政界の自民党というよりは内閣の1強を反映して、その方向はますます強まっています。

私は、昭和16年生まれですから、小学校に入ったのが昭和23年、そして現日本国憲法が公布されたのがその少し前の昭和22年5月です。
確か、2年生か3年生の頃だったと思いますが、社会の授業で憲法についての話があり「あたらしい憲法のはなし」という教本が使われました。
文部省の編集ですが、この授業時間の先生の熱気を帯び希望に満ちた話と、それを聞く回りの生徒たちの高揚した顔は今でもはっきりと覚えています。

私達も、この教本に記載してある、民主主義、主権在民、三権分立などと共に、国際平和主義として“日本は軍隊を一切持たない平和国家として、世界平和に貢献する”ということを幼いままにしっかりと学びました。
まさしく、私たち世代の国や憲法との関わりの始まりは、この教本にあったと言っても良いでしょうし、そういう意味では私たち世代はこの世界に誇るべき憲法の申し子のような気がします。

このお正月の間、時間が出来たので、この懐かしい教本をインターネットで見つけて、読んでみました。(http://www.aozora.gr.jp/cards/001128/files/43037_15804.html)
抜粋ですが、この教本では憲法の精神は次の様に述べられています。
憲法:
・憲法をいちばん大事な規則として、これをたいせつに守ってゆくのです
・昭和二十一年四月十日に総選挙が行われ、あたらしい國民の代表がえらばれて、その人々がこの憲法をつくったのです。それで、あたらしい憲法は、國民ぜんたいでつくったということになるのです
戦争の放棄:これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戰力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません
司法:裁判所は、國会でつくった法律が、憲法に合っているかどうかをしらべることができるようになったことです。もし法律が、憲法にきめてあることにちがっていると考えたときは、その法律にしたがわないことができるのです
財政:國の財政が、國民と國会とで監督されてゆくのです
最高法規:憲法は、國の最高法規ですから、この憲法できめられてあることにあわないものは、法律でも、命令でも、なんでも、いっさい規則としての力がありません。これも憲法がはっきりきめています

本当に久しぶりにこの教本を読んで改めて感じるのは、その後この憲法が如何にないがしろにされ、時々の内閣に自由勝手に解釈・運用されてきたかということです。
確かに、憲法制定時と比べて、世界/社会状況が大きく変わったという理由はあるでしょうが、少なくとも国の憲法たるものがこれだけ軽んじられるのは、その時々の三権の責任者が無責任(或いは恣意的?)であったとしか言えないのではないでしょうか?
特に昨年度の安全保障関係の一連の法案(通称:戦争法)を成立させた事態には、流石の有権者もビックリでした。
その為か、今年いただいた年賀状の中でも、同世代の方で普段は政治に対して余り不満を現わさない方からも、現在の政治の在り方に対する大きな不安の言葉が多かったです。

現在の学校での憲法の教育がどのようになっているかは知りませんが、今までの三権の責任者が、これだけ憲法を疎んじてきた以上は、少なくとも私達世代の様に日本国憲法を誇りにするような教育は残念ながら無い様に思えます。

また、このような話になると私が必ず思い出すのは、私の恩師だった人の言葉「憲法や法律など、何も難しく考える必要はない。日本国の義務教育は中学迄なのだから、中学卒の理解力で素直に納得できる解釈がその精神である」です。(まさ)