まんまるログ

融通性か?和・洋・中・無国籍・ジャンクとなんでも食べる胃袋と脳みそ。

異常気象と楢山節考

2021年09月23日 | 日記&映画
異常気象という言葉が言われ初めて、また使われ初めてもうどのくらい立つだろう。
十年や二十年ではきかない。
今朝早く雷が鳴って、バケツをひっくり返したような大雨が降った。
夜明け、姿だけは勇ましく、頭にタオルを巻いて作業着に着替え鎌を手に萱を刈りに裏山へ行きかけたら大雨だ。
去年春はカメムシが大群でいたが、今年は少ないと思ったら代わりに蚋(ぶよ)がシャワーのようにたかってくる秋。
メッシュの虫よけなぞと洒落たものはない。
大雨で助かった。
言い訳ができるし、ぶよも引っ込んで出てこない。
作業着を脱ぐと、雨は束の間でやんで太陽が出てきた。
ま、いいか。明日があるわ。
明日刈ろ。
万事この調子でいいのかなと考えるのも束の間、天気といい勝負の脳だ。

Y子ちゃんとAちゃんから通信と葉書が送られてきた。
どちらも❝楢山節考❞に触れている。

深沢一郎原作。
今村昌平監督(1983年)の映画だ。
代表作だと思う。
山暮らしの貧しさは人減らしに直結するという、姥捨ての話だ。
坂本スミコさんと緒方拳さんが親子だったと記憶している。
坂本さんは、役作りの為に歯を抜いてしまったという。
燐家の爺様は名優、辰巳柳太郎さんで、山に行くのは嫌だと息子を困らせる。
結果、縄で縛られて谷底に落とされてしまうのだ。
何回も見たい映画ではない。
若さゆえに見たが、多分今は心が痛くて重たいと思う。
自分の親を捨てるというのはどんな気持ちだろう…経験したくもない。
母親を背負い子に担いで(母に促されながら)、山に登る。
山奥に母親を置いて、雪の降る中振り返り、振り返り、泣きながら山を下りる息子。
緒方さんの演技に泣けた。
Y子さん…「ウーン…ソフトではあるけれど現代の老人ホームが姥捨て山かもしれない」
Aちゃん「身につまされる。重い。濃ゆい…今村節」
子沢山の家族が備蓄した食べ物を盗む。
村中では計ってその一家全員を生き埋めにする場面がある。
目を覆う。
酷い。
土地が瘦せていて作れる物も取れる物も限りがある。
今の日本は飽食で、食品ロスが膨大だ。
私も仕事では、泣く泣く食品廃棄をしている身である。
人間を間引く時代、口減らしの話は、一昔前の日本で身近にあったのだ。
生きているという事は因果なことだ。
人の世の巡りあわせで現代に生まれてきただけ。

山の中の一日が暮れて行く。

自然のサイクルの中で、生かされている。
明日も無事につつがなく過ごせます様に。
皆様も又。
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ご無沙汰しております…。

2021年08月24日 | 日記&映画
コロナで我が家に来てくれる友人たちが激変した。

もちろんのこと、付き合いがなくなるわけではない。
只 葉書やメールや☎でこれぞソーシャル ディスタンス。

しかし人と人のふれあいはやはり顔見てなんぼですわ。

あぁぁ、つまらない…と言いながら冷めやらぬコロナ禍に流されて予防接種を受けている。

身体が思うように動かない。

朝のゴミ出しに行く。
畑の唐辛子の苗三本の内一本が枯れている。
日照りのせいばかりではなく、土竜の道になっています。
根っこが下に伸ばせない。(畑神M氏)語る。

田舎暮らし…山暮らしは長いだけで、解らないことだらけ。
妙に感動する。

所で映画だが、北斎を見て、るろうにを見て日本映画もなかなかと思って六月が過ぎ、ノマドランドは時間帯があわず見ずじまい。

人生は良い人と歩けば祭り。悪い人と一緒は修行。
人間国宝の小林ハルさん(越後瞽女)が言っている。

国宝はさすがに人間の出来が違うし言葉も違う。
重たい。
 
悪い人と一緒は地獄めぐり…私ならそう言う。

そんな感じです。

残暑お見舞い申し上げます。
皆様 お元気で。

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ライバル

2019年07月06日 | 日記&映画
人生の上でライバルに巡り合えるという事は、どんな心持ちがするのだろうか。

経験が無い私には解らない。

ライバルと言う存在などとは無縁で、生きてきた。
目標とする相手は常にいた。

「競争相手のことを言う「ライバル」の語源がラテン語の「小川(rivus)」なのはよく知られている。
元は「川の水をめぐって争う者」の意味という。古来、水がいかに貴重だったのかの証しだろう」
 
赤字は研究社の『英語語源辞典』
「ラテン語が使われていた古代ヨーロッパでは、小川の使用権などは認められておらず、農耕・炊事・風呂・洗濯などで同じ小川を使う人々は、自分たちの小さな共同社会の中で、ある種のルールを作って、その範囲のなかで仲良く同じ小川を使っていたのではないだろうか。
日本の地域社会にまだ「共同水道源から水を引いた炊事場・洗濯場」などがあるのは、その名残りで、rival(ライバル)には「仲間」という意味があったのである」
「しかし、ヨーロッパが中世に入って土地の所有権が明確化されて来ると、川の水をめぐって争う者」という厳しい社会状況が生まれて来た。
そこから、英語の初出は「対抗者」という「仲間」と反対の意味合いが出て来たということなのだ」

「」は天声人語からの引用 



マッケンローにとっては好適手(ライバル)であったボルグ。
ボルグにとってはただの挑戦相手であったろう。

激闘の後、空港のロビーで二人が会う。

ボルグが手を差し伸べて握手をする。

『ここはハグだろう』と、はにかんで言うマッケンロー。
マッケンロー役のシャイア・ラブーフがとても魅力的だ。

ボルグも少し照れた様子で微笑んで二人が抱き合う。

いい場面だった。

映画では画かれなかったが、翌年、ウィンブルドン決勝で二人は邂逅する。

敗れたボルグは26歳の若さで引退を決める。

後に親友同士となる二人。

出会いは物語だと思う。

脚光を浴びることがなく、目立つこともなく、広い地球の片隅の日本のまた隅ででも明日を照らせる出会いがある。

昨日はそんな一日だった。

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毎日食べても大丈夫

2019年06月25日 | 日記&映画


お寿司です。

タコが美味しいお寿司屋は、全ネタが最高。
‥ここ数年嗜好の変化がおきている‥毎日食べてもあきない。

毎日は食べられないのが現実‥写真を見ながらタコの味を反芻する。

友人にスポーツファン(特にテニス)がいて、テニスとなれば夜中でも衛星中継をみる。
専門チャンネルで見ている。
徹夜ができる年ではないのに‥。
ジョコビッチ・・ナダル・・フェデラーの世界三強は動かない。

熱狂はのりうつる‥とめどなく はてしなく とどまらない。

1980年‥衛星放送はもとより、スマホもゲームもネットもない時代‥
テニスの聖地ウィンブルドンで歴史に残る伝説の試合があった。

ビヨン・ボルグ‥20歳の若さでウィンブルドン初優勝。
端正な顔と神がかりのプレイで大スターだった。
冷静沈着な氷の男。

対するジョン・マッケンロー。
感情を剥き出しにする悪童、炎の男。


最後は20分に亘るタイブレイクで、マッチポイントが5回。
凌ぎきったのはビヨン・ボルグ。

5回目の制覇をなしとげた。

映画『ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男』

タイブレイクの映像は痛いほどせまる。
精神と精神、心と心、天才に対する完全なる愛情。

凡人には喪失という言葉しかない。
そして羨望と尊敬。


ボルグを演じた俳優(スベリル・グドナソン)は外見がそっくりで本人と錯覚するほどだ。

ボルグの少年時代はレオ・ボルグが演じている。

実の息子だそうで‥天才の遺伝子が彼の中に眠っている事を願う。

いい映画だった。

タコの寿司がうまいと言うてる場合ではない。

私も頑張る。

何を?
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スーパースターの孤独

2019年05月20日 | 日記&映画
アマデウスを見たのは何十年前なのか?
秀才と天才の違いを思い知らされた映画ではあった。

俳優トム・ハルスはアマデウス・モーツァルト役で、同じく名優マーリン・エイブラハムがサリエリを演じた。

サリエリ役はお見事(表情筋から台詞まで嫉妬と軽蔑‥その上での羨望)その年の賞を総なめだった。
トム・ハルスも茶目っ気があり、才気があり、神の器を持っている事にも気が付いてないアホ丸出しの天才を演じて見事。
不作法で天衣無縫と言う所が孤立につながる。

見事な演技同志がぶつかり合って最高の映画になっている。
加えてミロス・ホォアマンがメガフォンを握った訳で‥映画史上に残るのはもちろん観客の心の襞には深く刻まれた作品だろうというか私の心には深く刻まれた。

音楽も、映画も、絵画も、陶器もその他酒つくり、野菜、米‥に至るまで創造できる人々は幸せだ。

作品が出来ると、魂の燃焼という結果がでる。

魂などと大袈裟な表現はいらない。

身体の一部が剥がれるばかりではなく、新しい表皮が生まれていく感覚が確かにあると思う。

その後で世間の評価がついてくるのだろうが、それ、結果は、神様におまかせするしかない。

神様がいてもいなくても構わない。
自分が自分を自分している。(W老師の言葉)

フレディ・マーキュリーがかっこいいと思える事と、筍に足を取られる私が、かっこ悪い事は多分同次元である。

淋しい、侘しい、胸が痛いという事と、素敵だ、踊りたい、胸が高鳴る事、とは裏表であるように。

マーキュリーの孤独の深さは知り得ようもない。
私の身の丈で感知するだけだ。
アマデウスの心の闇も又。
神の器は、紙の器の私なのだから‥わかりようもない。

それでも変わりゆく物と、変わらぬ普遍があるように、その時その時で懸命に想像する‥そして感じる。

出逢える事、出逢える人、に正直に向かい合って生きて行く。

喜びで笑う。
恨みで怒る。

異なっていると思っても‥言葉も思いもつながっている。

今朝は、家の周りの草刈り。
裏山の筍堀り‥筍狩り‥汗が流れる。

なにも創造している訳ではない。
それでも身体が動いている。



(大名巻)

毎日の生活の中身が無意味ではなく、生きている事その物が有難いと思える時。

その事こそが燃焼と言えるのではないだろうか。

真実そう思う。

しかし腹の脂肪がなかなかに燃焼してくれない。

辛い。


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