Tokyo Walker

諸事探訪

さくら

2021年03月26日 23時12分16秒 | カメラ

TOPCON RE. Auto-TOPCOR 5.8cmF1.8」で「さくら」を撮ってみる。
気温は20~21度くらいか、空は薄曇りで紺碧とはいかないが、撮影条件としては並みのレベル。

RE. Auto-TOPCOR 5.8cmF1.8」は非常に解像力が高く優秀なレンズで、ピント面は非常に繊細でありながら、とろけるようなボケへと移行するというが、開放ボケはあまりきれいな方ではないらしい。若干二線ボケ傾向があり、せっかく絞りを開け気味にしても、背景によってはかえって煩わしい感を与えることがあるらしい。「強い歪曲と中距離でボケきらない背景のざわざわした描写」というやつである。色特性は冷色系になるが、基本的には素朴な色合いであり、発色は地味目と言われている。同シリーズのF1.4と違って、ゴースト、フレアが出やすいことも無い。ただ、開放では収差が多いことはあるかもしれない。丸ボケは輪郭が強く二線ボケになる傾向があるというのが一般的な評価だ。

さくらではないが、絞り開放で最初の一枚。

背景の花が玉ボケになっており、確かに「輪郭が強く二線ボケ」になっている。しかし、そんなに気にする程の事はない。開放ながら、ピント面はしっかり決まっていることの方が大事。
 開放は(感度100~200で)シャッター速度で無理矢理対応している。そのような撮り方は正しくないかもしれないが、開放時の収差を見たかった。

 この写真だけを見たらそんなものかと思ってしまうが、確かに、さくらの花がベタッと滲んだような感じになる。開放時の被写界深度が狭いということだけではないらしい。このような場合、さくらがソフトな描写、軟らかい描写になっているように見える。

 今度はF4まで絞って撮ってみる。同様にシャッター速度だけで対応する。画像を縮小してしまうと違いが判らなくなるが、等倍(画面いっぱい)で見ると画像が引き締まるというかクッキリするのがよく判る。拡大するまでもない。

と、いうことで凡その見当は付いたが、風景を開放で撮ること自体あまり無い。更にレンズは開放から2~3段絞った所で、そのレンズの性能を最大限に発揮するというのが一般的だ。そう考えると、やたら癖のある個性的なレンズというほどでもないように思う。
 色特性は冷色系ということだが、さくらは色特性を見るには不向きで、それを顕著に見ることは出来ない。「基本的には素朴な色合いであり、発色は地味目」というのはあるかもしれない。

以下、絞りF4で撮影。

フェンスに書かれているようにここは恩田川の両岸に咲く約400本のさくら並木。

 金曜日であるにも関わらず、結構な人出でした。地面を見ても分かるように散った花がありません。川面には花筏も見られません。さくらは今日が満開で、明日から散り始めると思います。(花粉症の方には申し訳ないが)豪快な花吹雪の中を散歩するのもいいものです。

元々さくらは淡い色合いだが「基本的には素朴な色合いであり、発色は地味目」というのもうなずけるように思う。背景のボケかたも悪くない。

さくらの森の中に忽然とあるのはUFOではなく、「成瀬体育館(町田市立総合体育館)」の屋根です。川にはいろいろな生き物がおります。亀は甲羅を温めてのんびりしておりましたが、鳥達は餌探しに忙しそうでした。

まるで団子のように咲いております。

 

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AR Mount Adapter For SONY α7Ⅱ

2021年03月21日 13時50分30秒 | カメラ

Beschoi製 Konica-NEX(αNEX対 Rayqual製 KAR-SαE

 両方ともSONY α7Ⅱ用で、HEXANON AR Mountのレンズを使用するためのアダプタである。最初に購入したのはBeschoi製Konica-NEX(αNEX)で、amazonの通販だった。
かなり安いもので、何かしら不都合はあるかもしれないと思っていたが、見掛けは悪くないものだった。
手元には、古い順から、

KONICA HEXANON 52mmF1.8(No.4526774)
KONICA HEXANON AR 52mmF1.8(No.7823814)
KONICA HEXANON AR 40mmF1.8(No.7584422) の三本のレンズがある。

 最も古い52mmF1.8からアダプタに着装してみた。
最初の、スタート位置から静かに回すと、何か引っかかるような感じがする。裏から様子を見ると、どうもロックレバーの爪がレンズのバヨネット・フランジの隙間に嵌り込んでしまうようで、無理に回すとロックレバーやバヨネット・フランジが変形しそうである。最初の立ち上がりに問題があるようだ。アダプタのロック解除ボタンを押したまま回転させると、この挟み込みを避けることが出来る。更に、回転の最後にロックされるはずだが、これがどうやっても出来なかった。

 これまた、裏から様子を見ると、ほんの0.2~0.3mmほど回転不足でロックの爪が掛らない状態であった。(ロックの爪を少し加工すればいいような気もするが)ここまでの操作性も決して滑らかとは言えない。加工精度が悪いのか、金属を擦るような感じがする。

 「AR」の名前が付く二番目のレンズも、レンズのMountの形状は少しずつ違っているが同様だった。この状況だと、ついうっかり力を入れてレンズを回してしまうと、とんでもないことになるだろう。ロックも同様に出来なかった。金属を擦るような感じも相変わらずである。

 最後に「KONICA HEXANON AR 40mmF1.8」を装着してみた。すると、立ち上がりも引っ掛かり無く、ロックも出来る。よく見ると、レンズ側Mountのフランジ立ち上がりの切削加工形状が異なっている。しかし、回転時の金属を擦るような感じは相変わらずであった。これだと、Mountの何処かにキズが付き、金属屑も出るのだろうなと不安がよぎった。

 ネットであれこれ見ていると、カメラ本体の方では、どのレンズでも問題なく実装できるような話を見掛けた。どうやらMount Adapterに何某かの問題があるらしいということだ。

 その後機会があって、別のMount Adapterを購入するときに、ちょっと相談してみた。というのは、そのメーカーにもAR Mount Adapterがあり、レンズの選択は必要なのか聞いてみた。しかし、そのような情報は無いということだった。更には「貸し出し用」のAR Mount Adapterがあるので、納品時に同梱してもよいとのことだった。それで、お借りすることにしたのがRayqual製KAR-SαEである。

 結論として、「KAR-SαE」は新旧どのレンズも問題なく装着でき、ロックも出来るというものだった。しかも、装着時の回転も滑らかで、安心できるものだった。「出来が違う」と言ってしまえばそれまでだが、見た目では判らない加工や精度があり、それが顕著に出たということなのだろう。

 確かに「Konica-NEX」が五個も買えるほどの値段なのだが、一度使ってみると、再び「Konica-NEX」を使う気にはなれない。しかも、新旧どのレンズを調達しても同等に使える、というのはHEXANONファンにとってはやはり朗報だろう。

 「Konica-NEX」は多少不都合があっても、装着不能という訳ではない。使用中にレンズが脱落する訳でもない。細かいことに拘らず、気にせず、これで充分という方もおられよう。その選択はあくまでも自由である。しかし、コストパフォーマンスは最悪だが、この「しっくり感」はどうしても捨て難い。入手したレンズよりはるかに高価なアダプタである。本末転倒も甚だしいと思いながらも、いつか入手しようと目論むのは私だけだろうか。



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写真論

2021年03月09日 11時35分20秒 | 写真論

(Susan Sontag)
近藤耕人訳/晶文社/1979年4月10日初版、1979年5月20日第二刷。
 著者は、まだTVが無かった時代、図書館で見た「写真」で衝撃を受け、いままで認識してきた「美しい自然」が崩壊した。文字よる長い説明や解説ではなく、一枚の「写真」によって「自然には悪がある」のを知った瞬間である。これを期に「写真」に対する興味、憧憬を持ち続け、「アメリカの社会と文化」を見ながら、考察してきたのが「写真論」である。

 この写真論は著者が時々思い付き書き留めたものをまとめたものらしい。随分辛口ではあるが、そこには写真に魅了された著者の思いがある。カメラの発明以降、その時代を代表する写真家の視点を分析する。しかし、原書がそうなのか翻訳がそうなのか、やたら観念的で難解な解釈が多く、哲学的な考察が頻繁に出て来る。しかしそのことは、写真の本質を捉えることに役に立っているのかどうかは、判らないが、読み進むにつれ(慣れもあって)判って来ることもある。

 「写真はこうあるべき」ということを言っている訳ではない。もっぱら当時の「写真」と写真家の視点の評論(批評)に尽きるわけだが、結論は最終章の「映像世界」で語られることに尽きるだろう。
最初の「プラトンの洞窟で」の結論であるともいえる。

 現代人にとってはあまりにも無自覚に受け入れており、珍しくもないことだが、写真がもたらした奇妙な世界観を余すことなく説明し切る。そこには「無自覚に受け入れる」ことの根底にある、カメラの持つ魔力、憑りつく魅力がある。

 160pに「周知のように未開人たちはカメラが自分たちの存在の何某かを奪い去ることを恐れる」という話がある。そう言えば子供の頃、三人で写真を撮ると真中の人は禍に遭うなどという、まことしやかな話しがあったのを思い出す。漠然とした不安=現代人が無意識のうちにある「写真の力」である。

 全ては視覚という人間に具わった機能と、カメラの諸特性(性質)が結び付いたことにより、そこに無限の可能性が出てきたことによる。それは自由であり、どんな根拠によるものでもなく、どんな仕切りや制限もない。それが故に写真自体は、善でもなく悪でもない、日常でもあり非日常でもある。何処にでも在りそうなありふれたものであり、それはその時にしかないものでもあった。「写真」が持つ無限の可能性であった。

 嵌り込んだら難儀な「レンズ沼」などという言葉もあるが、クラシックなカメラやオールドレンズもまた、カメラが持つ諸特性(性質)の断片なのかもしれないと気が付いた。



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