Tokyo Walker

諸事探訪

新写真論-スマホと顔-

2021年11月23日 11時12分12秒 | 写真論

大山 顕/ゲンロン叢書/2020年3月20日初版。

 久々の写真に対する「論」である。これだけPhotographyが文字データと同等に氾濫する現代において、なかなか真っ当にその姿を論じるものは少ない。今迄も「写真について」多々論じられてきたけれども、その後安定期に入ったのか、或いは新しい切り口が見つからなかったのか、ここしばらくお目に掛からなかった。現代社会の中における写真の姿かたちは過去の写真論には無いものである。それは至極当然の事であるようにも思うが、それをいち早く具体的に指摘し比較し説明し認識することはこの写真が氾濫する情報社会の中にあっても、やはり簡単ではない。

 「自分が写ることのない写真」「撮る者と撮られる者の対立」という古典的な写真概念は、常に「上書きされる認識」と共に、「写真は「撮るものの特権」から「見る者の影響下」へ」、その軸足を移していく。「新写真論」を一言で言えば、「スマホとSNSの登場による変化が「写真」を劇的に変えた」ということである。

 写真論は「写真論(「撮る」ことから写真を眺めて)/滝澤 学」や「写真に帰れ(伊奈信男写真論集)/伊奈信男」「写真論/スーザン・ソンタグ」など、既読してきたが、確かに今回の写真論は「新」写真論だった。過去の写真論の著者たちも納得してくれるに違いないと思う。長い間、功罪含めて論じられてきた「写真論」だったのだが、ここに来て「スマホとSNSの登場による変化」によって、新しい視点が開けたというか、別の次元(認識)にシフトしたかのような衝撃的なことであると言ってもよいのかもしれない。

 未だガラケーを使い、付いているカメラ機能も使ったことはない。勿論自撮りもしたことはない。使用するカメラはバリバリのデジタルでありながら、古いレンズばかりに思いを馳せる。
 カメラはファインダーから覗いて撮らなければ気が済まず、絞りやシャッター速度は自分で決めることに密かに自立を感じる。ピントを合わせ、フレーミングし、露出とシャッター速度のバランスを取り、感度を確認し、そしてシャッターを押す ・・今やこれは、まったくの古典的な行為。勿論プリントする時は、白い「フチ有り」写真に拘る。

 クラカメファン、オールドレンズファン、銀塩ファン、これらは皆人間国宝か。これはもう完全に時代に取り残された保守的な人間の典型ではないかと振り返った。いや、あくまでも趣味なのだから、それが悪いということではないのだが、か、と言って、これからスマホに切り替えようなどとは少しも思わない。それはそれ、これはこれである。

 この先、再び「カンブリア大爆発」が起きるのか、或いは「新しい智恵を開く」ことになるのか、それを横目で見ながら、「以前の写真の正体」そのままに、これからも撮り続けていきたいと私は密かに思っている。建築写真家の著者が「顔認識」を論じながらも、「顔」を撮らないのと同じように。

 著者は建築写真家である。写真論とは別に、収録されている著者の作品群を見て建築写真家の視点(何処に魅力を感じて写真を撮っているのか)が興味深かった。あくまでも歪みの無い水平垂直の世界、シンメトリックな曲線と直線の集合体である。そこには誰もが想像する人口密集地、単なる大都会とは異なる、人口建造物の原風景があった。



写真論

2021年03月09日 11時35分20秒 | 写真論

(Susan Sontag)
近藤耕人訳/晶文社/1979年4月10日初版、1979年5月20日第二刷。
 著者は、まだTVが無かった時代、図書館で見た「写真」で衝撃を受け、いままで認識してきた「美しい自然」が崩壊した。文字よる長い説明や解説ではなく、一枚の「写真」によって「自然には悪がある」のを知った瞬間である。これを期に「写真」に対する興味、憧憬を持ち続け、「アメリカの社会と文化」を見ながら、考察してきたのが「写真論」である。

 この写真論は著者が時々思い付き書き留めたものをまとめたものらしい。随分辛口ではあるが、そこには写真に魅了された著者の思いがある。カメラの発明以降、その時代を代表する写真家の視点を分析する。しかし、原書がそうなのか翻訳がそうなのか、やたら観念的で難解な解釈が多く、哲学的な考察が頻繁に出て来る。しかしそのことは、写真の本質を捉えることに役に立っているのかどうかは、判らないが、読み進むにつれ(慣れもあって)判って来ることもある。

 「写真はこうあるべき」ということを言っている訳ではない。もっぱら当時の「写真」と写真家の視点の評論(批評)に尽きるわけだが、結論は最終章の「映像世界」で語られることに尽きるだろう。
最初の「プラトンの洞窟で」の結論であるともいえる。

 現代人にとってはあまりにも無自覚に受け入れており、珍しくもないことだが、写真がもたらした奇妙な世界観を余すことなく説明し切る。そこには「無自覚に受け入れる」ことの根底にある、カメラの持つ魔力、憑りつく魅力がある。

 160pに「周知のように未開人たちはカメラが自分たちの存在の何某かを奪い去ることを恐れる」という話がある。そう言えば子供の頃、三人で写真を撮ると真中の人は禍に遭うなどという、まことしやかな話しがあったのを思い出す。漠然とした不安=現代人が無意識のうちにある「写真の力」である。

 全ては視覚という人間に具わった機能と、カメラの諸特性(性質)が結び付いたことにより、そこに無限の可能性が出てきたことによる。それは自由であり、どんな根拠によるものでもなく、どんな仕切りや制限もない。それが故に写真自体は、善でもなく悪でもない、日常でもあり非日常でもある。何処にでも在りそうなありふれたものであり、それはその時にしかないものでもあった。「写真」が持つ無限の可能性であった。

 嵌り込んだら難儀な「レンズ沼」などという言葉もあるが、クラシックなカメラやオールドレンズもまた、カメラが持つ諸特性(性質)の断片なのかもしれないと気が付いた。




写真に帰れ

2020年01月26日 15時47分34秒 | 写真論

―伊奈信男写真論集―
伊奈信男/ニコンサロンブックス

 2005年9月15日初版。著者が長年見て来た「写真」というものの変遷を、「芸術」に高めるための努力を、或いは独自性の確保をこの一冊で理解することが出来る。勿論、更に詳しい話もあるであろうが、そのような場合にも、手引きとして充分役に立つものである。写真はここ100年余りのことであるが、以外にその全体的な流れ、歴史的変遷は知られていないように思う。個別の自伝的な、伝記的な話しはたくさんあるのだが、そのつながり、関連が見えてこない。それを明確にするのが本書である。

 夫々の時代にあって、多くの洗礼された写真家が紹介されている。それぞれの考え方や残された作品の評価を試みながら、「写真」というものの価値を追求する著者の立ち位置がとても客観的で好感の持てるものであった。初めて目にする写真家もいて、多少知っていても、知らない側面があったり、とても面白く興味深い話が多々あった。

 写真の迅速性(速写性)、精密性、グラデーション、といった独自性(特質)について、改めて考えるきっかけになったように思う。アマチュアではあっても「写真を撮る人」として、物事をよく見ることの大切さ、社会的人間としての自覚、そして新たに発見すること創造することの重要性を教えられた。

 比較して、自分の写真に対する態度が何ともだらしなく、情けないように感じてしまうのだが、その「芸術性や独自性」を追求するまでも無く、もう少し写真の特質を生かした撮り方、模倣性、偏向性、付和雷同性を排除し、事実に即した真実を伝えることができるような、訴求力のある写真を目指そうと改めて思うのである。そして「自分に忠実に」。

 日本では、このようにまとまった写真論はほとんど見かけない。「写真・昭和五十年史」に並んで本書「写真に帰れ」くらいのものだと言われている。その意味では貴重であり、写真を愛する者にとっては重要な一冊である。だからといって傑作が撮れるという訳ではないが、少なくとも、これによって自分の立ち位置がどこにあり、自分にとって「写真」はどうあるべきなのかが見えてくるように思う。




花のある風景写真

2014年07月23日 21時18分16秒 | 写真論

―作画と撮影ポイント―
岩間倶久/金園社
 1990年10月10日発行の版数なしの本。これにはシリーズがあるようで、「花のある風景写真/1983.3」、「海のある風景写真/1987.4」、「石仏道祖神のある風景/1987.10」と続くらしい。いずれも「作画と撮影ポイント」のSub Titleが付くムック本。「花のある風景写真」はシリーズの最初の本となる。発行当初から24年ほどになるが、この間に世の中随分変わった。今やほとんどデジカメが主流である。この世界では激変といってもいいかもしれない。ほんのふた昔ほど前のことなのに。しかし、写真そのものの撮り方(或いは写真についての考え方)はデジタル化されることは無いから読んでもなかなか楽しい。

 この「花のある風景写真」は初心者向けに作られたようだが、全体として何か精神論的でもあるし、我田引水的でもある。言いたい事は解らないでもないが、もう少し理論的な説明に力を入れて欲しかった。逆に「良い写真」というものが、いかに説明し難いものなのかよく解る。ともすれば独善的、自画自賛だったりする訳だが、結局のところ自分が「良い」と、「すばらしい写真だ」と評価できればよいわけで、それ以外のことは二次的、三次的要素になるのかも知れないと思ったりもする。

 しかし、一点だけ納得するとしたら、写真を撮るということは「被写体の中に撮りたいと思う点を探し出して、それを最大限引き出す努力をすること」であるということになる。色であれ形であれ、その魅力を最大限に引き出すために、フィルム、カメラ、レンズは勿論、天候や風の動きにも気を配り、絞り、シャッター速度、ピントといった条件を決め込むということに他ならない。最後は「被写体からの光を、いかに最大限魅力的に取り込むか」だけである。背景や構図も含めて、すべては主題を引き出すための工夫に他ならない。

・花芯(おしべ、めしべ)にピントを決める。
・花の顔はこちらに向けて、花びらの脈、葉脈が最も濃く鮮やかに見える所から撮る。
 群像の中の一人の例え(米粒のような花でも、こちらを向いてさえいれば)
・光の反射を避ける。
 上下左右に移動して、光の反射を避ける。(光の照りは点描写になり葉の片隅に白く残る)
・曇天のときは空を入れない。
 曇天は散乱光=近接撮影なら確実に花の色が演出できる。
・画面は遠景1/3。
・平面的な背景(壁、蔵など)は天地左右いずれかに空間を作る(立体感、存在感を生む)。

 心得九個条なんてのもあったりするが、ちょっと飛躍が過ぎるようで、今ひとつ具体性に欠ける。5月の花(あやめ、かきつばた、菖蒲など)の話は初めて聞く。早朝に咲く男花なんだとか。5月5日の端午の節句で使う菖蒲湯もこの辺が由来なのかも。

・標準Lens・・・・片目で90mm、両眼で50mmが人の見る風景で、ここから50mmは標準Lensと言われる。これを境に広角と望遠に分けている。標準Lens50mmはメーカーの本流。最高の技術を結集した主力のLensである。
・広角・・・・山は低くなる。
       広角で遠景を写しても主題にはならない。(接写してこそ効果あり)
・望遠・・・・山を引き寄せ、高く見せる。

 三脚のことについて、ちょっと解説があったが、結論としては「先ず1~2年は三脚なしで撮影に専念」、「画面や写し方のことも解らないで三脚を求めるのは無謀」ということであった。耳が痛いなぁ。


花の撮り方完全攻略ガイド

2014年07月13日 17時11分11秒 | 写真論

-花の基礎知識から撮影テクニックの詳細まで-
 吉森 信哉/CAPAレベルアップムック

 ムック(Magazine+Book)本などと呼ばれているハウツウモノ(実用的な方法や技術を教える案内書)。今まであまり読む機会はなかったが、ひょんなことから読んでみた。既に知っていること、知らなかったこと織り交ぜて楽しく読んだ。

 私は「風景写真」に興味があり、自然風景、いわゆる絶景などと呼ばれているものも勿論だが、そうでもなく、どこにでもあるような街角風景もかなり興味がある。今回は「花」が主題なのだが、共通することも多い。

 「写真を撮る」ということは、勿論被写体(花)が中心であることに変わりはないが、被写体の最も美しい所を探し出し、周囲の光、造形、バランス、配置(構図)、色彩を総動員して主役を盛り上げる作業である。テクニックはそのための手段(技術)である。ターゲットの被写体だけでなく、その背景の色や形が重要で、ターゲットと相乗するようにもって行く。

〇色を見たとき、画像の美しさ、色彩の豊かさ、艶やかさ、色とコクが重要だ。
〇造形を見たとき、ボケの形、空間の広さ、全体のバランスが重要だ。

 「写真を撮る」ということは、被写体の持つ存在感、美しさ、生命力、躍動感、造形の魅力、繊細さ、色あい、階調・・何かしらの魅力を、引き出し、強調し、演出することに他ならない。カメラは勿論、フィルム、レンズや三脚、その他機材や道具は勿論あるに越したことはない。しかし、最も重要なことは被写体の魅力を引き出すためにあらゆる光を活用する方法(テクニック)である。そのためなら手段を選ばない。全ては被写体の魅力を最大限に演出するためである。

 150mm級(35mm換算で92mmくらい)の明るいレンズ+テレコンの効用(接写能力、圧縮効果)は以外だった。また多重露光のピント移動も、絞り開放の点光源の利用方法も認識不足であった。まだまだ詰めが甘いな、と反省しきりである。