興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

相合傘

2021-10-22 | 戯言(たわごと、ざれごと)

昼下がり。


小雨の中、自宅から1キロほど先の一時預かりに徒歩で息子を迎えに行った。


息子を引き取ったらそのまま電車で出かける予定で、傘を持っていくと嵩張って息子を抱っこするのが大変なので、少し迷ったが、傘を持たずに家を出た。


園に着くと、息子はいつものように目敏く私を見つけて大喜びで走ってきた。


息子はお気に入りのピンク色のユニコーンの傘を差して、上機嫌で歩いていたが、不意に立ち止まり、


「あれ、パパかささしてないよ。かさもってこなかったの?なんで?ぬれてるよ」


というので、


「大丈夫だよ。大した雨じゃないし、傘を持っていたら、パパ◯◯を抱っこできないから。傘よりも◯◯を抱っこできる事の方がパパは大事なんだ」


と答えると、


「だめだよ。パパだっこして」


というので、「え〜?いきなり抱っこ?」と言いつつ抱っこすると、彼は手に持っていた小さなユニコーンの傘を私の頭の上にかざしてくれた。


「こうすればふたりともぬれないでしょ」


息子の中で確かに育まれつつある思いやりの心や共感性が嬉しい。駅までの道は、重くて寒くて歩きにくかったけれど、楽しくて、心の中は暖かった。


コロナ禍のシンデレラ城

2021-09-08 | 戯言(たわごと、ざれごと)
朝、珍しくリビングのテレビがついていて、妻と息子が2人でソファーに座って、さらに珍しく、民放のニュース番組を見ていた。2人はいつもものすごく早起きだ。

不意に息子が、

「あ!シンデレラじょう!」

と叫んだ。なんだろうと思ってテレビの画面を見ると、それは日本の新型コロナウイルスの第3波と第4波と第5波のカラフルな棒グラフで、確かにそれはシンデレラ城のようだった。

自分は一瞬泣きたいような感動に襲われた。

この薄暗くて不確かでまったく見通しのつかないコロナ禍の不吉な折れ線グラフの中に、彼はHappiest Place on Earthのシンデレラ城を見出す事ができたのだ。3歳児ってすごい。何かがとても象徴的な気がした。

息子のこの幸せな世界をなんとしても守りたいと思った。先のことは分からないけど、大変な事も多いけれど、いろいろ工夫して、それなりに楽しく生活できたらと思う。


夜のシャボン玉

2021-09-06 | 戯言(たわごと、ざれごと)
日が暮れてしばらくしてから、息子が「しゃぼんだま、やりたい」と言った。

もうすぐお風呂だったし、暗闇のシャボン玉というアイデアもあまり乗り気になれず、「シャボン玉は光のある昼間にやるから綺麗なんだよ。昼間にやろうよ」、と伝えても、「いまやりたい!いまやろうよ!」、と言ってきかないので、それならちょっとだけやってみようかと、リビングの縁側のウッドデッキに立ってやることにした。

風のない夜で、雨上がりでひんやりと肌寒く、辺りはコオロギの声だけが賑やかに聞こえている。

不思議なものだなと思った。

このコオロギの何匹かは昨夜まで我が家の室内で飼っていたものだ。夏の初めに息子と一緒に庭で捕まえてリビングルームで育てていたのが成体になり、彼らの鳴き声はテレビの音声を干渉する程に大きくなり、風情どころではなくなってきたので、昨夜息子が寝た後で夫婦で話し合って数匹を元いた庭に逃す事にしたのだ。ちなみに息子は個体数の減少に気づいていない。

息子がシャボン玉で遊び始めてすぐに気づいたけれど、夜のシャボン玉も、光が入る薄暗がりだとその光たちが反射してはっとするほどきれいだった。無風のため、シャボン玉が1箇所に長くとどまるのも良かったのだろう。やはりなんでも試してみるものだ。夜のシャボン玉、よくよく考えると素敵な感性だ。つくづく自分の固定観念は邪魔なものだと思う。

夜空には久々に星も見えて、空気はひんやりと肌に気持ちよく、コオロギたちは元気で、息子は無邪気に大はしゃぎしていて、それはなんだか思いがけずとても贅沢なひとときだった。


イルミネーション

2021-08-20 | 戯言(たわごと、ざれごと)
夜の始まり。

帰りの車の中から外の景色を見ていた息子が突然興奮気味に言った。

「きらきら うちでもやりたい!」

外に目をやると、国道1号線沿いのレストランなどのいくつかのお店がイルミネーションライトを灯していた。

ちょっとした感想だと思ったら、結構な食いつきで、

「きらきらやりたい!うちでもやろうよ!」

と、声はどんどん大きくなっていく。

ちょっと注意してみると、結構いろいろなところでイルミネーションライトが見られた。

今日はできないけど、やってみようね、などと妻がなだめても、彼の中でやりたい気持ちは強まるばかりだった。

我が家は郊外にあるのでイルミネーションライトを扱っていそうでこの時間に開いているお店はダイソーぐらいだったし、これからダイソーに行ったらまた寝る時間が遅くなってしまう。

今日はお店は閉まっちゃってるけど近いうちにやろうね、などと言うほどに、

「ちかいうちはいやだ!きょうやりたい!クリスマスのライトつかおうよ」

と、返答も冴えてくる。

「クリスマスのライトは外用じゃないからおそとでは使えないんだ」

と妻が言うと、

彼は、

「ちがうよ。つかえるよ」

と負けずに返した。

300円ショップで以前買ったものは程よいサイズだが買ってきた当日に彼が壊してしまったままだ。どうしたものか。

こんな感じで家に着いた後も彼はイルミネーションの話で持ちきりだ。

妻と息子はリビングの外のウッドデッキに出て話し続けている。

「買うのはいいんだけどね、その前に、まずはどういう風に飾るか考えようね。どういう風にしたいの?」

「(ここにかけてある)パパのエアプランツをぜんぶはずしてここにかけるの」などと話はおかしな方に。

何かいい代案はないかと考えていて、ふと思いついて彼に提案してみた。

「ねえ、〇〇。今日はイルミネーションライト買えないんだけどね、代わりに外にろうそくたくさん飾るのはどうかな?イルミネーションみたいにきらきらしてきれいだと思うんだ」

すると息子は目を輝かせ、

「それはいいかんがえだ。そうすることにしよう!」

と、絵本の台詞で答えてはしゃぎ出した。

使っていないティーキャンドルがいくつかあったのを思い出したのだ。10個ぐらいあったので、ウッドデッキに息子と2人でそれを並べていき、火を灯していったら思いのほか綺麗だった。

彼は興奮気味に、「光る靴持ってくるね!」と言って、歩くと小さなライトが点滅するスニーカーを履いてデッキの周りで踊り始めた。

風呂に入らないといけない時間だったので、適当なところで家の中に入ろうというと、うちのかなでもやりたい、というので、ちょっとだけだよと同意した。

ダイニングテーブルに先程のティーキャンドルを置いて、再び火を灯すと、早速息を吹きかけて消してしまう。彼はキャンドルの火を吹き消すのが大好きなのだ。

火をつけては消され、つけては消されと戯れていたが、そろそろ本当にお風呂の時間だ。浴室から妻がコールしている。

「最後の一回だよ」

というと、彼は同意こそしなかったものの、今度は灯した火をすぐには吹き消さずに、じっと火を見ていた。麦茶をゆっくり飲みながら。ふいに、

「おちゃとろうそく、たのしいね!」

とかいうので、彼のその感性になんだか嬉しくなった。再び浴室からコールがあったけれど、なんとなく2人で真っ暗なリビングのダイニングテーブルのキャンドルの灯を黙って見つめていた。

やがて彼がその火を吹き消し、

「ことしのクリスマスきらきらやろうね」

というので、もちろんだよ。クリスマスもやるけど、クリスマスの前に、もっと近いうちに、ライト買ってこよう、と答えたら、彼はまた嬉しそうに、「うん、そうしようね!」と言った。

こんな風にして少し遅いお盆休みは過ぎていった。



ザリガニとカブトムシ

2021-07-19 | 戯言(たわごと、ざれごと)
夜。

息子がベットルームに行く直前、ふと、リビングにあるカブトムシの飼育ケースを見て、

「あ、カブトムシでてきたね。よるになったらかつどうするの?」

と聞いてきた。

嫌な予感がした。今夜はもう遅いし、せっかくお風呂に入って清潔になって寝る直前にまずいタイミングだなあ、と思いつつ、そうだね、夜になったから出てきたんだね、と答えた。すると案の定、

「カブトムシさわりたい」

というので、どうしたものかと考えあぐねた。

触らせてあげたい,特に、彼のカブトムシはそろそろ寿命が近づいてきている。まだ元気だけれど、体力の衰えを感じる。

生きているうちに触らせてあげたい、でも始まったらまた時間が掛かりそうだ、寝るのがさらに遅くなる、しかもその後の手洗いでまた一悶着、でも仕方ない、触らせてあげよう、と決断すると、彼は今度は隣接するザリガニの水槽に目をやって、

「ザリガニはながくいきていけるの?」

というのでドキっとした。まるでこちらの葛藤が見透かされているような気がしたのだ。

「そうだね、ちゃんと育てれば、ザリガニは長く生きていけるよ」

と、我が家にやってきて1年になるザリガニを自分も見つめながら答えた。すると彼は、

「カブトムシもちゃんとそだてればながくいきていけるの?」

と言うのでその論理づけにハッとする思いがして,感心しつつもなんだか悲しくなった。

このカブトムシは我が家では幼虫から育ててきたのだけれど、成虫になった時点で、カブトムシの短命について何度か彼に説明していたのだ。

「カブトムシはね…ちゃんと育てても、長くは生きられないんだ」

「どうして?」

「うん、ザリガニもカブトムシも,それぞれどのくらい長く生きられるか、だいたい決まっているんだ」

「カブトムシは、みじかいいのちなの?」

「うん,そうなんだ」

息子は私の膝の上に乗って、私の胸にもたれながら、何かを考えるようにじっとザリガニを見つめていた。

ザリガニはマイペースで相変わらず面白い動きをしている。しばらく2人で無言でザリガニを見つめていて、妙に静かだなあ、と思ったところ、妻がドアを開けて入ってきて、小声で、

「寝てるよ」

と言うので、またハッとして息子の顔を覗き込んだら確かにスヤスヤと寝ていた。

息子を抱き抱えると、熱くなった小さな体でギュッとしがみついてきた。短期間ですごい深い眠りに入ったようだ。首にかかる温かい寝息がなんとも愛おしい。カブトムシさっさと触らせてあげれば良かったと罪悪感を感じながら,リビングを出て、ずいぶん重くなった彼を抱いて蒸せるように暑い階段を上った。

先日は父の13年目の命日で、今日は遠方から訪ねてきてくださった叔父叔母と一緒にみんなでお墓前りに行ってきたのだ。ちなみに息子は父のちょうど10年目の命日に生まれてきて皆を驚かせた。

お墓参りだったので、息子が会った事のない祖父について彼にいろいろ聞かせたものの、そのやりとりから、まだちょっと理解に難しいかな、と思った。でも実は彼なりにいろいろ感じているのかもしれないと、今宵のやり取りからふと思った。

ジャンボタニシ

2021-06-25 | 戯言(たわごと、ざれごと)

昨日の夕方、息子とふたりで近所の水田の小道を散歩していると、少し離れたところに網を持った初老の農家の女性が何かをしているのが見えました。

すると息子は、

「じゃんぼたにしのたまごをとってるのかなぁ?」

と言ったかと思うと、その女性のところに向かってだーっと走っていきました。急いで私も彼を追いかけました。

「じゃんぼたにしのたまごとってるの?」

「あら、良く知ってるわね。そう、ジャンボタニシの卵取ってるの」

そう答えながら、その女性はジャンポタニシの鮮やかな赤い卵を潰しています。さらに、網でジャンボタニシをすくい上げたので、嫌な予感がしましたが、案の定、彼女はジャンボタニシを地面に落として、長靴で踏みつぶしました。バリバリ、バリバリ、生々しい音です。

これは見せたくなかったなあ、と思いましたが、仕方ありません。この場から一刻も早く立ち去りたい気持ちもありましたがもう遅いです。息子は驚嘆と好奇心の入り混じった様子で農家の女性にロックオンです。もはや回収不能です。

「どうしてつぶすの?」

「ジャンボタニシが稲を全部食べちゃうからだよ」

「つぶしちゃったらそだたないよ」

「育ってほしくないんだよ」

育って欲しくない。確かにそうだけれど、すごい響きです。「育って欲しくない」という考えは彼を混乱させるかもしれません。当然ですが「育って欲しくない」という考えは彼の日常には存在しません。

そこで私は、これまでジャンボタニシについて彼に説明してきたことを繰り返して、農家さんの行為の正当性と必要性を伝えました。

息子は恐れる事もなく、単純に好奇心を持ってその農家さんの行動を観察しながら話し続けていました。

農家さんと別れて帰路につき、息子と再び対話を始めました。

「〇〇、じゃんぼたにしにいきていてほしかったの」

「うん、そうだよね、分かる。パパもジャンボタニシに生きていてほしかった。でもね、ジャンボタニシが生きていると、〇〇が大好きな白いご飯、食べられなくなっちゃうんだ。あの青い葉っぱは稲っていって、白いご飯の赤ちゃんだけれど、白いご飯の赤ちゃんをジャンボタニシが全部食べちゃうんだ。かわいそうだけどね、ジャンボタニシは潰すしかないんだよ」

「たにしはいいの?」

「うん、タニシは稲を食べないからいいんだ。〇〇がザリガニと一緒に飼っているタニシは田んぼの水を綺麗にしてくれる。ジャンボタニシとタニシ、名前は似ているけど、全然違う生き物なんだ」

「じゃんぼたにしがごはんをたべちゃうの?」

「うん、そうなんだ」

「〇〇、じゃんぼたにしにそだってほしかった」

「そうだよね、本当だよね、ジャンボタニシが悪いわけじゃないんだし。でも農家さんにはそうする必要があるんだ」

こんな感じで繰り返し話し合い続けている中で、彼は少しずつ心の中に何かを落とし込んでいっている感じがしました。

しかし私は、自分自身がこの問題について葛藤を抱えていることを再認識しました。

たとえベジタリアンとして生きても、実は数えきれないほどのジャンボタニシの犠牲がそこには存在します。『鬼滅の刃』の「鬼のいない世界」は則、人間以外のほとんどの生物たちにとっては、「人間のいない世界」に該当します。人間以外の生物にとって、人間は鬼以外の何者でもありません。それでも我々人間はこうした矛盾や葛藤を抱えて生きていかなくてはなりませんし、せめて、命をいただくことに感謝して、食べ物を大切にしなくてはならない、という結論に私は毎回たどり着くのですが、少なくとも私の中ではいつまでも完全には決着のつかないテーマです。いつか息子もこうした経験や対話の中で、彼なりの答えを見つけてくれたらいいなと思います。

 

 


happy middle

2021-06-14 | 戯言(たわごと、ざれごと)

先日息子と地元の小道を歩いていると、車が走ってきました。

いつものように、2人で路肩に移動し、彼が飛び出さないように私はしゃがんで彼の体に軽く両手を回そうとすると、

「だめだよ。おさえないで。じぶんでとまってられるから」、

と彼は心外そうに言いました。

その時は咄嗟に、うん、そうだね、でも危ないから、と、彼を抑えたまま車が通り過ぎるのをやり過ごしてしまいましたが、直後に息子と話し合いました。

確かに彼は最近ひとりで速やかに路肩に移動しますし、立ち止まっていられるようになってきましたが、まだ2歳ですし、できない時もありますし、何かあったら取り返しがつかないけれど、彼の主体性や自主性は尊重したいですし、どうしたものか悩みました。

「◯◯がちゃんと止まってられるようになってきた事、パパ知ってるけど、◯◯時々車と一緒に走り出すし、やっぱり危ないし、車が来たらぎゅーしてたいんだ」

「あぶなくないよ。ぎゅーしないよ。◯◯じぶんでとまってられるから」

「うーん。確かにそうなんだよね。道の端にもちゃんと寄ってくれるしね。ママと一緒の時はどうしてるの?」

「◯◯がママをぎゅーしてる」

「そうなの?なるほど、それはいい考えだね。それじゃあ、次から車が来たら◯◯がパパをぎゅーしててくれる?」

「うん、いいよ、そうする。パパがうごかないように」

こういうわけで、実際次に車が来た時から、通り過ぎるまで彼が私をぎゅーし続けてくれるようになりました。

これは良いなと思いました。

彼のプライドは守られますし、私としても安心です。それから息子がぎゅーしてくれる幸福感。お互いハッピーです。こんなふうにお互いのハッピーミドルを見つける試みの毎日です。


losing battle

2021-04-16 | 戯言(たわごと、ざれごと)
英語の表現で、”fight a losing battle” という言い回しがあります。

ケンブリッジ英英辞典の定義では、”to try hard to do something when there is no chance that you will succeed”、とあります。

つまり、成功する可能性がゼロである事に一生懸命取り組む事です。

私はこのlosing battle という語彙について考える事がよくあります。日本語でいう「負け戦」、「勝ち目のない戦い」と近いですが、微妙に意味合いが異なるように思います。

以前、ある3人のティーネージャーの親である聡明な女性とスマートフォンについて話している時に、彼女は子供達とスマートフォンの関係について悩みながら試行錯誤しているという文脈で、「これは本質的にlosing battle ですよね」と言いました。

社会的にとても成功していて、育児もかなりうまくいっていて、大抵の欲しいものは努力して手に入れてきた、敗北主義を憎悪するスーパーウーマン、いわば「人生の勝ち組」である彼女の口から出てきただけに、なんだか含むものの大きさを感じました。

詭弁や合理化でこじつけたら、losing battleなどは存在しないかもしれませんが、こうしたreframing (意味の作り替え)や外在化なしでこの言葉の意味について考える事に意味があると思います。

世の中、実のところ、losing battleな事物で溢れています。

私は母の若年性アルツハイマーとの取り組みにこれを感じています。

そして私はこの概念に随分と助けられています。

本質的に勝ち目のない戦い。

進行をある程度遅らせる事はできても、止める事も治す事もできない。

けれど、勝算がないという事をきちんと認識する事で、却ってしてあげられる事が増えたり、それ以外の多くの点での可能性が広がったりします。

負け戦だからと早々に諦めるのは間違っていますし、かと言って勝算のないものに悪あがきするのもまた違うと思います。

私が意識しているのはこの弁証法的な答えです。

負け戦には戦い方があります。

コールド負けにならないように、きちんと最後まで戦う事に意味があります。

手を抜いてはいけません。エネルギーを使う方向性です。

負けから何か大事なものを得るプロセスが大切だと思います。

それは絆だったり、それぞれの成長だったり、経験的知識だったり、人生に対するより深い理解だったり、本当に様々です。

例えば、なんとか治そうとして、勝てないものに勝とうとして、エビデンスのない民間療法に明け暮れたり、厳しい食事制限や運動や生活習慣を強いるような事は避けられます。

アルツハイマーの進行を早めるのはストレスです。

それならば、もちろん健康面や安全面は配慮しながら、なるべく本人が今まで通りの生活ができるように環境を整えてあげたり、なるべくたくさん家族での楽しい時間を持つように心掛けていくことの方がずっと良いと私は思います。

勝ち負けという物差しでは負け戦に違いないですが、それ以上の大事なのは、やっぱりその過程であり、試合内容だと思うのです。


大切なのは戦うことではなくて繋がること

2021-04-15 | 戯言(たわごと、ざれごと)

誰かに何かをどうしても伝えたいとき、どうしてもわかってほしい時、私たちが陥りがちなのは、その相手と戦ってしまうことです。

戦ってしまって、相手を傷つけてしまったり、相手から深く傷つけられてしまったり。

そんなつもりはなかったけど成り行きでそうなってしまった、というケースはありますけど、始めからそのつもりの人はそんなにいないと思います。

始めはただ単に、どうしても伝えたいこと、わかってほしいことがあった、というところだと思います。

伝えたい、わかってほしい、という気持ちが強すぎるとき、私たちはこうした悲しい結果に陥りがちです。

何としても伝えたい、と切に思っている時、人はいわゆる戦闘モードに入っています。

そして、人間関係って鏡のようなものなので、こういう時、相手の方も戦闘モードに入っています。

鶏が先か、卵か先かは分かりませんし、これはきっとそんなに重要なことじゃない。

どちらから始まったにせよ、お互いが戦闘モードに入っている状況が良くないです。これではそもそもの始めから勝算は低いです。

こういう時、その相手と話し合いを始める前に、少し冷静になる必要があります。頭を冷やす必要があります。

言いたい、伝えたい、という強い衝動を何とか抑制するんです。その思いは相手に伝える必要がありますが、その態勢じゃありません。

こういうとき、「どうやったら自分の気持ちが相手に伝わるか」ばかり考えがちですが、一度この思考パターンから脱却する必要があります。

完全な脱却は現実的じゃないかもしれないですが、少なくとも部分的に脱却はできるかもしれません。

「どうやったら確実に伝わるか」という視点はとりあえず傍らにおいて、「どうしたら相手のこころと自分のこころが繋がれるのか」について考えます。

自分が伝えたいのと恐らく同じくらいの熱量で相手もそう感じている可能性が少なくないので、まずは相手を安心させ落ち着かせる必要があります。

相手が安心して落ち着いてくれたら、こちらの言い分を聞いてくれる可能性もぐんと上がります。

まずは相手の方に先に話してもらって、その後であなたの気持ちを伝えるというやり方です。

こうすると、「相手はこう思っているのだろう」という前提や決めつけが意外と多かったことにも気づくかもしれません。

この前提や決めつけが、分かりあえる可能性を低くしているので、こうしてことを取り除ければ、お互いが責めることなくそれぞれの気持ちを伝えあうことがしやすくなります。

戦闘モードから銭湯モードへのシフトです。いや、これが言いたくてこの記事を書いたわけではありません。

でも、相手と心地の良い銭湯の湯船に一緒に浸かっているように繋がれたら良いですね。

 


恋愛が長続きしない人

2021-03-30 | 戯言(たわごと、ざれごと)

恋愛において、誰かと恋人としてお付き合いを始められる能力と、その恋愛を中長期的に深めて発展していける能力は別物であると以前このブログでお話しました。

「恋多き人生」と言えば響きが良いですが、恋愛が長続きしない、結婚願望があるのに恋愛が結婚に結びつかない、結婚しても離婚、再婚を繰り返している、という人生を送っている人達は、当事者にしか分からない生きづらさや葛藤、精神的苦痛を抱えて生きているものです。

例えば「恋の百戦錬磨」の人達というのは、ひとりの人と中長期的に恋愛関係や夫婦関係を維持する事のできない人たちでもあるからです。

カップルセラピーの世界的権威であるヘンドリックス氏が著書で書いておられた「結婚とは2人で花を育てるようなもの」というメタファーには共感します。さらに付け加えるならば、「正しく」花を育てる事だと思います。

私はエアプランツが好きで我が家にはかなりの数のエアプランツが棲息しておりますが、エアプランツを育てる事と恋愛や結婚生活はよく似ているとよく思います。

エアプランツのお話など興味がない方もいらっしゃると思いますが、ちょっとだけお付き合いくださいね。

エアプランツ は、もともと南米産の植物で、高温多湿の空気中の水分を葉から吸収して生きているので、土も根も必要ありませんが、気候が大きく異なる日本で育てる場合、名前に反して結構なコツや手間隙が掛かります。

私がエラプランツに興味を持ち始めた頃は、とにかくよく枯らしていました。しばらく試行錯誤をしていると、生き長らえる期間が伸びていきました。当時の自分にとっては、一年草をなるべく長持ちさせるような感覚でした。

しかしいろいろ調べたり試したりしているうちに、いくつかの個体から新芽が出始めました。

「衰えていくものをなるべく長持ちさせる」というメンタリティから、「発展、繁栄させる」へのパラダイムシフトでした。

今では枯れるものもなくなり、何年も元気に生きているエアプランツ 達でリビングが賑やかです。

恋愛やロマンスにも同じことが言えると思うのです。

ある種の人たちは、恋愛が中長期的に続いたり、発展、繁栄していくという感覚を持っていません。ある種の愛着障害が関与しているケースが多いですが、半年未満の恋を繰り返す人もいれば、1年は続く人、3年ぐらい続くのに入籍や事実婚、パートナーシップに結びつかない人、結婚しても数年しか持たずに離婚と再婚を繰り返す人など、様々です。

結婚生活とは、二人で花を育てること。

エアプランツ には実に様々な種類があり、個体差もあるので、まず、その手元の個体の性質について把握する必要があります。

まず水やりは絶対に必要ですが、問題はこの頻度とやり方です。

あげなさ過ぎてはもちろん枯れますが、実際に多い間違いは、むしろ水のやり過ぎだったり、水やり後の処理をしない事です。

エアプランツ は蒸れに弱く、葉の根本に水が溜まると湿度の高い夏場など蒸れやすく、蒸れて一度痛むとそこから一気にダメージが広がってダメになってしまいます。そういうわけで、水やりの後は逆さまに吊るしたり、扇風機などで空調を作ってやる必要があります。

日光が必要ですが、直射日光はダメで、直射日光の当たらない明るい場所が良いです。

もうひとつ、流木などなくても育ちますが、流木にくっつけて固定すると、根が生えてきて流木に着生し、より丈夫で元気になります。

こんな感じでエアプランツの育成は意外と手間ひまが掛かります。

恋愛関係も同じで、光も水もただ必要なだけでなく、頻度やタイミングや方法などの知識や配慮も必要です。

一度正式にお付き合いするようになるとなぜか水やりがずさんになる人もいれば、水はあげるけれど頻度やタイミングや方法についての知識や考慮が足りない人、水やりは正しく行っているけれど光や湿度などの視点を欠いている人は、どうしても恋愛が長続きしません。

愛情だけでは足りないんです。愛情をどう正しく表現していくか、表現し続けていくかです。

ここでもう一つの問題が出てきます。恐らく実は一番大きな問題ですが、エアプランツ を手に入れて、しばらくは正しく育てていたけれど、途中で興味を失ってしまった理、他に優先順位が出てきてお世話が疎かになってしまうというケースです。

愛着障害などのため、一人の人間という対象に精神エネルギーを注入し続ける事ができない人たちです。

そこまで極端ではなく、後者の、他に優先順位の高いものが出てきて、関係性の維持や発展への注力が弱まったり、潰えてしまうケースです。

こうした人たちは、必ずしも対象に対する興味を失ったわけではありません。

仕事や育児や個人的なクライシスなどで忙殺されたり没頭している生活を続けているうちに関係性が深刻に悪化していくケースです。

急激な悪化は却って対応がしやすい場合もあります。両者が直ちに気付ける程に大きく急な悪化は、両者が危機感を持って真剣に対応しやすいからです。

より厄介なのは、2人あるいはどちらかが知らず知らずのうちに徐々に進んでいく悪化です。知らぬ間に進行していて気づいたら手遅れになっていた、というケースです。

やはり、2人で花に水をやり続けるためには、双方の絶え間ない愛情と努力が必要なようです。互いによく見ている事です。