昼下がり。
小雨の中、自宅から1キロほど先の一時預かりに徒歩で息子を迎えに行った。
息子を引き取ったらそのまま電車で出かける予定で、傘を持っていくと嵩張って息子を抱っこするのが大変なので、少し迷ったが、傘を持たずに家を出た。
園に着くと、息子はいつものように目敏く私を見つけて大喜びで走ってきた。
息子はお気に入りのピンク色のユニコーンの傘を差して、上機嫌で歩いていたが、不意に立ち止まり、
「あれ、パパかささしてないよ。かさもってこなかったの?なんで?ぬれてるよ」
というので、
「大丈夫だよ。大した雨じゃないし、傘を持っていたら、パパ◯◯を抱っこできないから。傘よりも◯◯を抱っこできる事の方がパパは大事なんだ」
と答えると、
「だめだよ。パパだっこして」
というので、「え〜?いきなり抱っこ?」と言いつつ抱っこすると、彼は手に持っていた小さなユニコーンの傘を私の頭の上にかざしてくれた。
「こうすればふたりともぬれないでしょ」
息子の中で確かに育まれつつある思いやりの心や共感性が嬉しい。駅までの道は、重くて寒くて歩きにくかったけれど、楽しくて、心の中は暖かった。
昨日の夕方、息子とふたりで近所の水田の小道を散歩していると、少し離れたところに網を持った初老の農家の女性が何かをしているのが見えました。
すると息子は、
「じゃんぼたにしのたまごをとってるのかなぁ?」
と言ったかと思うと、その女性のところに向かってだーっと走っていきました。急いで私も彼を追いかけました。
「じゃんぼたにしのたまごとってるの?」
「あら、良く知ってるわね。そう、ジャンボタニシの卵取ってるの」
そう答えながら、その女性はジャンポタニシの鮮やかな赤い卵を潰しています。さらに、網でジャンボタニシをすくい上げたので、嫌な予感がしましたが、案の定、彼女はジャンボタニシを地面に落として、長靴で踏みつぶしました。バリバリ、バリバリ、生々しい音です。
これは見せたくなかったなあ、と思いましたが、仕方ありません。この場から一刻も早く立ち去りたい気持ちもありましたがもう遅いです。息子は驚嘆と好奇心の入り混じった様子で農家の女性にロックオンです。もはや回収不能です。
「どうしてつぶすの?」
「ジャンボタニシが稲を全部食べちゃうからだよ」
「つぶしちゃったらそだたないよ」
「育ってほしくないんだよ」
育って欲しくない。確かにそうだけれど、すごい響きです。「育って欲しくない」という考えは彼を混乱させるかもしれません。当然ですが「育って欲しくない」という考えは彼の日常には存在しません。
そこで私は、これまでジャンボタニシについて彼に説明してきたことを繰り返して、農家さんの行為の正当性と必要性を伝えました。
息子は恐れる事もなく、単純に好奇心を持ってその農家さんの行動を観察しながら話し続けていました。
農家さんと別れて帰路につき、息子と再び対話を始めました。
「〇〇、じゃんぼたにしにいきていてほしかったの」
「うん、そうだよね、分かる。パパもジャンボタニシに生きていてほしかった。でもね、ジャンボタニシが生きていると、〇〇が大好きな白いご飯、食べられなくなっちゃうんだ。あの青い葉っぱは稲っていって、白いご飯の赤ちゃんだけれど、白いご飯の赤ちゃんをジャンボタニシが全部食べちゃうんだ。かわいそうだけどね、ジャンボタニシは潰すしかないんだよ」
「たにしはいいの?」
「うん、タニシは稲を食べないからいいんだ。〇〇がザリガニと一緒に飼っているタニシは田んぼの水を綺麗にしてくれる。ジャンボタニシとタニシ、名前は似ているけど、全然違う生き物なんだ」
「じゃんぼたにしがごはんをたべちゃうの?」
「うん、そうなんだ」
「〇〇、じゃんぼたにしにそだってほしかった」
「そうだよね、本当だよね、ジャンボタニシが悪いわけじゃないんだし。でも農家さんにはそうする必要があるんだ」
こんな感じで繰り返し話し合い続けている中で、彼は少しずつ心の中に何かを落とし込んでいっている感じがしました。
しかし私は、自分自身がこの問題について葛藤を抱えていることを再認識しました。
たとえベジタリアンとして生きても、実は数えきれないほどのジャンボタニシの犠牲がそこには存在します。『鬼滅の刃』の「鬼のいない世界」は則、人間以外のほとんどの生物たちにとっては、「人間のいない世界」に該当します。人間以外の生物にとって、人間は鬼以外の何者でもありません。それでも我々人間はこうした矛盾や葛藤を抱えて生きていかなくてはなりませんし、せめて、命をいただくことに感謝して、食べ物を大切にしなくてはならない、という結論に私は毎回たどり着くのですが、少なくとも私の中ではいつまでも完全には決着のつかないテーマです。いつか息子もこうした経験や対話の中で、彼なりの答えを見つけてくれたらいいなと思います。
先日息子と地元の小道を歩いていると、車が走ってきました。
いつものように、2人で路肩に移動し、彼が飛び出さないように私はしゃがんで彼の体に軽く両手を回そうとすると、
「だめだよ。おさえないで。じぶんでとまってられるから」、
と彼は心外そうに言いました。
その時は咄嗟に、うん、そうだね、でも危ないから、と、彼を抑えたまま車が通り過ぎるのをやり過ごしてしまいましたが、直後に息子と話し合いました。
確かに彼は最近ひとりで速やかに路肩に移動しますし、立ち止まっていられるようになってきましたが、まだ2歳ですし、できない時もありますし、何かあったら取り返しがつかないけれど、彼の主体性や自主性は尊重したいですし、どうしたものか悩みました。
「◯◯がちゃんと止まってられるようになってきた事、パパ知ってるけど、◯◯時々車と一緒に走り出すし、やっぱり危ないし、車が来たらぎゅーしてたいんだ」
「あぶなくないよ。ぎゅーしないよ。◯◯じぶんでとまってられるから」
「うーん。確かにそうなんだよね。道の端にもちゃんと寄ってくれるしね。ママと一緒の時はどうしてるの?」
「◯◯がママをぎゅーしてる」
「そうなの?なるほど、それはいい考えだね。それじゃあ、次から車が来たら◯◯がパパをぎゅーしててくれる?」
「うん、いいよ、そうする。パパがうごかないように」
こういうわけで、実際次に車が来た時から、通り過ぎるまで彼が私をぎゅーし続けてくれるようになりました。
これは良いなと思いました。
彼のプライドは守られますし、私としても安心です。それから息子がぎゅーしてくれる幸福感。お互いハッピーです。こんなふうにお互いのハッピーミドルを見つける試みの毎日です。
誰かに何かをどうしても伝えたいとき、どうしてもわかってほしい時、私たちが陥りがちなのは、その相手と戦ってしまうことです。
戦ってしまって、相手を傷つけてしまったり、相手から深く傷つけられてしまったり。
そんなつもりはなかったけど成り行きでそうなってしまった、というケースはありますけど、始めからそのつもりの人はそんなにいないと思います。
始めはただ単に、どうしても伝えたいこと、わかってほしいことがあった、というところだと思います。
伝えたい、わかってほしい、という気持ちが強すぎるとき、私たちはこうした悲しい結果に陥りがちです。
何としても伝えたい、と切に思っている時、人はいわゆる戦闘モードに入っています。
そして、人間関係って鏡のようなものなので、こういう時、相手の方も戦闘モードに入っています。
鶏が先か、卵か先かは分かりませんし、これはきっとそんなに重要なことじゃない。
どちらから始まったにせよ、お互いが戦闘モードに入っている状況が良くないです。これではそもそもの始めから勝算は低いです。
こういう時、その相手と話し合いを始める前に、少し冷静になる必要があります。頭を冷やす必要があります。
言いたい、伝えたい、という強い衝動を何とか抑制するんです。その思いは相手に伝える必要がありますが、その態勢じゃありません。
こういうとき、「どうやったら自分の気持ちが相手に伝わるか」ばかり考えがちですが、一度この思考パターンから脱却する必要があります。
完全な脱却は現実的じゃないかもしれないですが、少なくとも部分的に脱却はできるかもしれません。
「どうやったら確実に伝わるか」という視点はとりあえず傍らにおいて、「どうしたら相手のこころと自分のこころが繋がれるのか」について考えます。
自分が伝えたいのと恐らく同じくらいの熱量で相手もそう感じている可能性が少なくないので、まずは相手を安心させ落ち着かせる必要があります。
相手が安心して落ち着いてくれたら、こちらの言い分を聞いてくれる可能性もぐんと上がります。
まずは相手の方に先に話してもらって、その後であなたの気持ちを伝えるというやり方です。
こうすると、「相手はこう思っているのだろう」という前提や決めつけが意外と多かったことにも気づくかもしれません。
この前提や決めつけが、分かりあえる可能性を低くしているので、こうしてことを取り除ければ、お互いが責めることなくそれぞれの気持ちを伝えあうことがしやすくなります。
戦闘モードから銭湯モードへのシフトです。いや、これが言いたくてこの記事を書いたわけではありません。
でも、相手と心地の良い銭湯の湯船に一緒に浸かっているように繋がれたら良いですね。