興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

こころのびょうき #1

2022-03-27 | 戯言(たわごと、ざれごと)

今から半年ほど前、地元にある県内最大規模の精神病院の周りを、息子と一緒に散歩していた。実はここは、彼が会うことのなかった彼の祖父がかつて院長をしていたところだ。

その病院の正面玄関の前を通り過ぎた時、息子が言った。

「ここはなんのびょういん?」

刹那の逡巡。何て答えようか。一秒ぐらい間を置いて、

「うん、そうだね、ここはいろんな人が来る病院だよ」

と答えた。なんとなくこの会話を早く終わらせたいと思っている自分に気づいた。どうしてだろう。すると息子は、

「ここは◯◯もくるの?」

と、とても素朴に言うので自分はますます困りつつ、

「いや、◯◯は来ないよ」

と答えた。

いつか息子にゆっくりとメンタルヘルスや臨床心理学について教えていこうと思っていたけど、その心の準備がまだできていなかった自分に気づいた。

しかし息子の好奇心は強まるばかりで、

「どういうひとがくるの?」

と、より具体的に尋ねてきた。

ここで再び刹那の逡巡。3歳になったばかりの息子に適切で誠実な回答はなんだろう?しっくりいく結論が出ないまま、

「うん、ここは心の病気になってしまった人が来るんだよ」

と答えた。「心の病気」という表現はあまり好きではないけれど、3歳児には分かりやすいかなと思った。すると彼は、

「◯◯もこころがおれることがあるの?」

と、再びとても素朴に言った。

ここでまたはっとする思いがした。3歳の息子は既に私の話をよく理解している。そして、ずっと先だと思っていたメンタルヘルスについての彼との対話のタイミングが突然訪れたのだ。

それにしても「こころが折れる」という言い回しはどこで覚えたのか。

「そうだね。◯◯も心が折れる事はあるかもしれない。でもね、◯◯にはいつでもパパとママがついているから大丈夫だよ。すぐに元気になるよ」

と答えた。すると彼は安心した様子を見せた。

(続く)


2022-03-25 | 戯言(たわごと、ざれごと)
昼下がりに息子と散歩をしていたら、道端に鮮やかなピンク色の草花が咲いているのを見つけた。

「見て見て!綺麗なお花!」

と彼の注意を喚起すると、

「ほんとうだ!きれいなおはな!これ、さくらだよ!」

と言うので、「え、これ桜なの?」

と聞くと、彼は自信たっぷりに、

「うん、さくらだよ!」

と答えた。

息子は花の種類は結構知っていて、梅と桜の違いも分かるので、地面に生えている草花を桜と言ったのがちょっと意外だった。

「桜かなあ。ちょっと調べてみよう」

と、すかさずグーグルレンズを使って調べてみたら、『シバザクラ』と出てきた。

「あ、確かに!『シバザクラ』、桜といえば桜なんだね」、

と言ったら、彼は、

「でしょう!◯◯、しってた!」と得意げに言って、目的地の和菓子屋に向かって走っていった。






桃の節句とクリスマスツリー

2022-03-06 | 戯言(たわごと、ざれごと)

 我が家は息子の強い要望で、3月に入ってもクリスマスツリーが飾られていた。

 先月の頭ぐらいだったか、妻が息子と「春になったらクリスマスツリー片付けようね」と約束していた。

 確か桃の節句の夕暮れ時、リビングルームのシャッターを閉めるときに、薄暗がりの窓にはイルミネーションの灯ったクリスマスツリーが映っていて、一瞬今が何月か分からなくなるような不思議な感覚がした。

 いっそ、一年中クリスマスツリーが飾ってあるのも悪くないんじゃないかと自分を説得し始めている頃だった。クリスマスは好きな季節だし、毎日がクリスマスの家庭があったっていいのではないかと。しかしそれでは5月人形も出せないし、どうしたものかなと、考えあぐねていた。

 ところが一昨日、3月4日、在宅の仕事が終わって一階に降りると、クリスマスツリーからイルミネーションやオーナメントが外されてかごの中に仕舞われていた。遂にふたりの間に春が来たのだなと思った。クリスマスツリー、あとで解体してしまっておいてね、と妻に言われて同意した。

 その夜、家族で義母とビデオ通話で話している時、義母の後ろに雛段があるのを見つけた息子がすかさず言った。

「ばあば!ひなまつりおわったのに、なんでおひなさまがかざってあるの?」と。

「あら、〇〇ちゃん、よく見つけたわね。お雛様はね、ひな祭りが終わってなるべく早い吉日にしまうのよ。明日が大安だから、明日しまおうと思ってるのよ」と。

 今から思うと、息子自身、季節外れのクリスマスツリーを片付ける心の準備ができたから、桃の節句を過ぎた雛段が気になったのだろう。

 自分はその時、義母のそんなたたずまいになんだか感銘を受けた。彼女はそうやってこれまでもずっと伝統行事や風習に敏感に、いろいろなことを考えながら丁寧な暮らしをしてきたのだろう。

 なんだか自分も大安の日にクリスマスツリーを片付けたくなって、昨日はクリスマスツリーの解体を見送って、本日息子と一緒に片付けた。

 なんだかすごい満足感。


Happy Valentine’s Day!

2022-02-15 | 戯言(たわごと、ざれごと)


皆さんにとって、バレンタインはどんな日ですか?


私はバレンタインは結構好きな日ですが、元々好きだったわけではありません。


私がバレンタインを好きになったのは、アメリカに行ってからでした。それまで正直どうにも日本のバレンタインには馴染めず、バレンタイン、それからホワイトデーは、違和感のある苦手な日でした。


渡米してまもなく、日本のバレンタインがとても独特なものであったと気づいて驚きました。さらには、ホワイトデーが諸外国には存在しないのだと知って驚愕しました。ある日韓国系アメリカ人の友人とカフェで話をしていて、ホワイトデーと言ったら周りの人たちが怪訝そうに見てきて、これは後ほど気づきましたが、英語圏の人たちにはwhite dayは「白人の日」と聞こえますね。


いずれにしても、アメリカ人たちのバレンタインは自分にとってとてもしっくりいくもので、バレンタインに対する違和感はなくなりました。


帰国してちょうど1年後の1月に今の妻と出会い、ふたりで過ごす最初のバレンタインの日。横浜元町のお店でディナーの約束をして、彼女にはお店で待っていてもらって、サプライズで、お店の近くのお花屋さんで、奮発して1万円ぐらいの真っ赤な薔薇だけのブーケを作ってもらって持っていったらすごく喜んでくれました。彼女も素敵なプレゼントを用意して待っていてくれました。


もともと2人ともアメリカ好きというところで意気投合したところがあったので、ホワイトデーはこの最初の年を最後に廃止して、以来私たちの間では、バレンタインは毎年私が花束とスパークリングワインなどを買って帰り、妻はチョコレートをくれる日となり、今日に至ります。


今ではバレンタインがとても好きな日になっていますが、私がバレンタインを好きなのは妻がいてくれるからであり、そんな妻に感謝です。


昨日ネットで見かけたアメリカの4コマ漫画に、こんなものがありました。


ある男性が、ある女性に、”Be my Valentine.”(僕のバレンタイン/恋人/特別な人になって)というカードを手渡します。女性はカードを受け取ると、なにやらそのカードに書き込んでいます。そしてそのカードを男性に返しますが、見るとそこには、”Be my Valentine”Valentineが横線で消され、代わりに”everyday”と書かれていました。”Be my everyday” 、私の毎日になって、と。


いちご味の歯磨き粉

2022-02-14 | 戯言(たわごと、ざれごと)

夜。


妻と歯を磨きに洗面所へ行った息子がひとりでリビングのドアを開けてツカツカと珍しい足取りで歩いてきて、私の前まで来ると、


「ねえ、たかさん?」


と、どこか毅然とした様子で尋ねてきた。どこかで見覚えのある表情だった。


息子は状況に応じて、私の事を「パパ」とも「たかさん」とも言う。通常は「パパ」で、恐らく意識をして使い分けているわけではなさそうだが、そこには一定の法則があり、決してランダムではないのが面白い。


「ん? どうしたの、◯◯?」、


と応じると、


「◯◯のいちごのスースーするはみがきこ、たかさんつかった?」、


と言うので、ああなるほどと思い、


「ああ、うん。使ってるよ。だってほら、◯◯、あの歯磨き粉スースーして嫌いって言ってたじゃん。それで今の歯磨き粉使ってるでしょ?」


「つかっちゃダメ」


「え、ダメだったの? 嫌いって言ってたから、誰も使わないし、捨てるのももったいないと思って」


「こんどつかうからだめ」


「そっか、わかった。ごめんね。必要だったんだね」


「うん」


といったやり取りが繰り広げられたところに妻が笑いながら入ってきて、


「◯◯、私の言い方にそっくりだね」


と言うので、確かにそっくりだなと思い、私も笑った。そういえば表情も妻のものだった。ちなみに息子は妻の事も、通常は「ママ」と呼ぶけれど、彼女のファーストネームに「ちゃん」を付けて呼ぶ事がある。私が妻に話しかける時の呼び方だ。


今夜息子はなんらかの理由で、「スースーするいちご味の歯磨き粉」に久しぶりに注意が向いたようだった。


息子に使われなくなったいちご味の歯磨き粉を私はいつしか使い始め、「この歳になってまさかいちご味の歯磨き粉を使うことになるとは思わなかった。人生何が起こるか分からない」などと思い、それは懐かしくも新鮮な感覚で、最近は夜の密かな楽しみとなっていた。しかしその終わりも突然やってきた。残念。人生本当に何が起こるか分からない。


ミラーボール

2022-02-05 | 戯言(たわごと、ざれごと)


朝。


冷蔵庫の上に置いてあるバスケットに入っていたミラーボールの箱を息子がたまたま見つけて、


「ミラーボールやりたい!ミラーボールとる。パパだっこ!」


と言った。それは1年ぐらい前に彼と一緒に出かけた時にAwesome Storeで買ったもので、1000円ぐらいだったのであまり期待しないで買ったら電池式ではなくまさかの電源式で、結構本格的なものだった。


妻がすかさず


「箱だけだよ。中身はないよ」


と言ったら、


「なかみ たしかめてみる。パパだっこして」


と言うので、抱っこして自分で箱を取らせた。なんでも自分でやりたがる。


箱は確かに空っぽだったけど、その奥にミラーボールの本体があったのを彼は目敏く見つけてしまった。


「あったあった!ミラーボールあったよ!」


とはしゃぐので、


「本当だ。あったね。でも、○○これからA(一時保育に)出かけるし、Aから帰ってきたらやろうよ」、妻も、「そうだよ。帰ってきてからやろう」


と言うと、彼は、


「かえってきてからはやだ!いまやりたい!」


と言ってきかないので、こちらも少し考えて、


「そうだねえ。今やりたいよねえ。でもね、○○、見て!部屋の中、こんなに明るい。これが朝なんだよ。こんなに明るいとミラーボールやってもあんまり楽しくないよ」


と伝えてみた。


まだシャッターは1箇所しか開けていなかったがそこから入ってくる朝日がリビング全体を明るくしていた。


息子は無言で部屋を見渡して、なるほどいう表情をしたので、よかった、納得した、と思っていたら。


彼はおもむろに金属の踏み台を「よいしょよいしょ」と運んできて、そのリビングの大きなガラス戸の前に置いた。結構重い踏み台だが、いつしかこれは我が家では彼の手足の一部のようになっている。


不思議なところに踏み台を置くものだな、と思い、次の瞬間にハッとした。


もしかして、と思い、とりあえず彼を静観してみることにした。


すると彼はまずレースのカーテンを開け、ガラス戸の鍵を開け、その引き戸を開けると、用意しておいた踏み台に乗り、床から150センチぐらいの高さに垂れているシャッターの紐をしっかり掴んで、ゆっくりとシャッターを下ろしてしまった。


部屋は再び真っ暗になった。


私は彼の知恵と諦めない姿勢に感動してしまい、


「やれやれ、パパの負けだ。○○の勝ちだよ」


と言った。妻もやはり感心していた。


彼は嬉々として、


「パパのまけ?○○のかち?」


と言うので、「うん、そうだよ。○○の勝ち。シャッターを閉めたら部屋は暗くなってミラーボールが楽しいね。すごいアイディアだよ。じゃあ、ちょっとだけだよ。これから出かけるんだし」


と言うと、彼は「やった!やったぁ!ミラーボール!ミラーボール!」


と大はしゃぎになり、ミラーボールを自分で電源に繋いだ。


晴れた朝なのに部屋は真っ暗で、カラフルなミラーボールの光は確かにきれいだった。


昨夜の節分で部屋中まだ豆だらけだし、2月に入ったのに大きなクリスマスツリーも健在で、朝なのに80年台のディスコのようなミラーボールがくるくる回っていて、そこにはハイテンションの3歳児がいて、なんとも不思議な異空間だった。


アカウンタビリティ?

2022-01-31 | 戯言(たわごと、ざれごと)

先週末の日曜日の夜の事です。

2泊ほど家族で妻の実家で過ごし、その帰り、車で自宅に到着しようとしている時、お隣に警察のバイクが停まっている事に気付きました。

ちょうど制服の警察官がお隣の玄関口に立っていて、玄関のドアが開いて家の中に入って行くのが見えました。

「何だろうね」、「大丈夫かね」などと妻と話をしながら、熟睡している息子を抱っこして暗い庭をスマートフォンの懐中電灯で照らしながら玄関の鍵を開けて家に入り、息子をベットに横たえてから、私はリビングルームの駐車場に近いガラス戸を開けて、そこから、車に残っている荷物をどんどん部屋の中に入れていきました。

全部荷物を下ろし終えて、再び玄関から家に入ろうとした時、ふと、玄関の扉の横に小包があるのを見つけました。

身に覚えがないので手に取って宛先を見ると、お隣の荷物が間違って届けられたものである事に気付きました。時々あることです。

それを持ってお隣に行きましたが、警察が来ていてお取り込み中失礼かなと思い、少し迷いましたが呼び鈴を鳴らすのはやめて、玄関の扉にそっと置いていこうと思いました。雨の日に回覧板を回す感覚です。

その荷物をお隣の玄関の扉の横にそっと置いたその瞬間、その扉がガチャっと開き、先ほどの警察官が出てきました。

私はびっくりして、とっさに、

「あ、この荷物、持ってきました」

と言いました。

なんか嫌な間(ま)です。

すると、その警察官は、鋭い視線で、

「その荷物はどこにあったのですか?」

と聞いてきました。その時、お隣の奥様も玄関から出てきました。

(何か喋れ、落ち着け、とにかく何か言え!)と、私のこころの無意識が何か必死で訴えていることに気づきました。

その瞬間私は今何が起きているのか理解しました。

「あ、もしかして、この荷物ですか?(警察官の訪問の理由は)」

とすかさず言うと、

警察官は、少し硬い表情を崩して、

「そうです、その荷物です」、と言い、お隣の奥様の表情はどこかほっとしているようでした。

「ああ、なるほど!そういうことか。これですね、この荷物、私たち2日ほど、妻の実家で過ごしていて、たった今帰ってきたら、玄関にこの荷物があったので、あて先を確かめたら〇〇さんだったので、フツーに持ってきたんですよ、多分アマ〇ンだと思うんだけど」

というと、奥様が、

「そうです!ア〇ゾンです!良かったあ!」と言い、警察官が、

「紛失していた荷物はこれですか」、奥様、「そうです、これです!ありがとうございます!」 というやり取りが始まったので、

「もう大丈夫ですか?」と聞いたら、警察官が、「はい、もう大丈夫です」というので、

お疲れ様です、とか言って私は家に戻りました。後ろから、「一応中身を確認してください」とか聞こえてきます。

 

私は家に戻り、運び入れた荷物の整理を再開していると、妻が2階から降りてきたので、事の次第について話しました。

うちもちょうどたまたま2日空けていたし、きっとお隣はしばらく待っていて、耐えられなくなって警察に電話したのだろうし、気の毒だったね、などとふたりで話しました。

誰も悪くありません。

どこか笑い話のように話していましたが、私の心の中に、この件がなんだか引っかかり続けました。

ちょっと珍しい出来事だったので、後日このブログに書こうと思いましたが、思ったように考えがまとまらずに、一週間遅れで今書いています。

私はたまたまお隣さんと良好な関係にあります。うちの子と同世代のお子様がいるので、タイミングが合うと子供同士で一緒に遊んだりしますし、私もこの奥様とよく小話をします。

我が家は引っ越してきてまだ一年半ぐらいなので、そんなに深い関係ではないけれど、私がおおよそどんな人間なのか、感覚的にご理解があると思います。

 

翌日、朝日がまぶしく入ってくる静かな畳の部屋で、息子と一緒に遊んでいたら、昨晩の出来事に関連する空想が始まりました。

たとえば私が独り身で、一人暮らしで、窃盗の前科があり、今は完全に更生して、一生懸命会社員生活をしているところで、出社の必要がなく、在宅で仕事ができて、軽度の鬱で家に引きこもりがちで、寡黙で、近所付き合いが全くなく、遠方の実家に珍しく出かけて二晩泊まって帰ってきたところで、間違った小包を玄関で発見し、良かれと思って同じことをしていたら、結構厄介なことになっていたのではないかと思いました。

警察官の対応も、奥様のリアクションも、全く異なったものだったでしょう。

その可能性について考えていたらなんだか背筋がぞっとしてきました。

 

ここでさらに、あるアメリカ社会での悲しい事件を思い出しました。

 

恐らく20年以上前の話だと思います。ある中国系の移民の家庭の小さな女の子が、保育園に通っていました。

アメリカの保育園は、場所にもよるでしょうけれど、子供たちが親から虐待などに遭っていないか定期的に確認したりします。

その保育園のクラスで、ある先生が、

「みんなのおうちで、おうちのひとのだれかが、あなたのプライベートパート(陰部など)をさわってきたりしていない? おうちのひとにプライベートパートをさわられたことがあるこはてをあげて」

というと、その中国人の移民の女の子が手を挙げました。

お父さんに触られていると言いました。移民の子で、まだ英語があまり話せませんし、先生も中国語が話せませんでした。

アメリカ社会は子供の人権をとても大事にする社会で、幼児虐待にも非常に敏感であり、こうした場合、職員は警察や児童保護機関(Child Protective Service, CPS)に通報する義務があります。CPSは常に警察や裁判所と連動しています。CPSの職員は警察と連動して動きます。

当然、警察がこの女の子の家を訪ねてきました。

警察官たちはこの家の父親が加害者であると疑っているので、英語の話せないお父さんはパニックになって抵抗して、銃殺されてしまいました。

後日分かったのは、この女の子の性器には当時吹き出物があり、このお父さんは、この女の子に軟膏を塗ってあげていたという事実でした。

 

超多文化社会のアメリカは、本当に素晴らしいところですが、決してパラダイスなどではなく、民族的少数派を含む、あらゆるマイノリティに対する差別や偏見は遍在していて、このように、全く罪のない市民が命を落とす事例が多々あります。警察官が民家を訪問して殺されることも少なくないアメリカ社会で、この警察官たちを責める気にもなりませんが、同じアジア人ということもあり、当時の私はなんともやりきれない気持ちになりました。今こうして書いていても、やはりやりきれない気持ちになります。

 

今回の私の経験した珍事から、何が学べるかな、と考えていたら、私の頭の中で、こんな風にいろいろな連想が起こりました。

 

今回私はたまたまいろいろな幸運な条件が重なっていて、不幸中の幸いというか、その場で説得力を持って相手に説明することができました。

しかし、いつもそうとは限らないでしょうし、逆に、様々な不利な条件が重なって、深刻なトラブルになる事例は世の中に溢れています。

 

「説明責任」(accountability、アカウンタビリティ)などという語彙をよく耳にする昨今ですが、いつでも誰でも雄弁に話せるわけではないですし、理路整然と話せない人がいけないのだ、という価値観や考え方もまた問題があると思います。

相手の事情を聴く、相手の心の声を聴くことが私の仕事ですが、前提とか予断とか仮定とか、完全に捨てることはできないし、そうするべきでもないですが、それでも、さらに意識して、そうしたものを傍らに除けて、相手の話に耳を傾けていかなければ、と思いました。

 


better late than never

2022-01-10 | 戯言(たわごと、ざれごと)
アメリカ人が時々口にする、私の好きな言い回しに、”better late than never”というものがあります。何もしないよりは遅れてでもしたほうが良い、何もないよりは遅れてでもあった方が良い、というところでしょうか。

彼らはまた、”sooner is better”とも言います。早ければ早いほど良い、ですね。

こんなことを書いていると自由連想法的に思い出したセンテンス、”a late marriage is better than a bad marriage,”これも共感できます。遅い結婚は悪い結婚より良い。

もうひとつ、自由連想で思い浮かんだのは、日本語の言い回し、「遅きに失する」です。これは冒頭の “better late than never”とは対照的ですね。

こうして徒然なるままに書き出していくと、これらはいずれもタイミングに関する概念であることに気づきます。

遅い事が必ずしも悪いことではない、という考え方は、迅速さや時間厳守が美徳とされるアメリカ社会の価値観に対するひとつのアンチテーゼ的なものだと思います。

やはり基本的には物事早いに越したことはないですが、そこに質が伴わなければ意味がありません。物事はある程度しっかりと熟考してから行動に移す必要があります。しかし完璧を求めすぎたり、うまくいかなかった場合や失敗を恐れたりして、決断できずに機を逸する、という事もあります。

世の中、長年お付き合いしている恋人と、結婚願望はあり、2人の間に大きな問題はないけれど、「本当にこの人で良いの?」、「本当に自分は結婚した方が良いの?」という漠然とした疑念によっていつまで経っても結婚に踏み切れないうちに相手の方が愛想を尽かしてしまう、という悲しいケースも多いです。

何かで相手のことを深く傷つけてしまって、罪悪感はあるのに、プライドなどが邪魔してうまく謝れず、うまく償えないうちに相手の気持ちが不可逆的に冷めてしまう、という事例も多いですね。

なんか新年早々暗いお話になってきましたが、今回私は何を言いたかったかというと、やはり私たちは心の中にあるものをきちんと大切な相手に伝える事、意識化して行動に移していくことが大事だということです。特に自分の中で大事なことは、どんなに遅くなっても形にしていった方が良いと思います。

遅すぎる償いは、相手の心にはもはや届かないかもしれない。遅きに失するかもしれない。それでも、その人がきちんと自分と向き合って、心から自分の非を認めて、今できる形で償いをすることは、決して無意味ではないと思うのです。

それでも遅きに失したものは、決定的なもの、根本的なものが不可逆的に損なわれた状態で、得られるもの、取り返せるものは限られています。本当に悲しくて残念な事です。

そういうわけで、やはり自分ときちんと向き合う事は大事だと思います。相手ありきの事ならば、自分と向き合うのと同時進行で相手ときちんと向き合う必要があります。相手と向き合えていない人が自分と向き合えている事はないですし、その逆もまた然りです。

一方、相手ありきではない事で、自分の中で、ずっとやりたかった事、ずっと手に入れたかった事があって、それがこれからの努力で実現可能であれば、やはり今からでも、どんなに遅くても、行動に移していったほうが良いと思います。例えば還暦を過ぎた方が進学したり新しく資格を取るお話はよく聞きますが、本当に素敵だなと思います。

アルフレッド・アドラーがかつて言っていたように、恐怖と勇気は本当に常に連動しています。恐怖心がなければ勇気を出す必要もないですし、恐怖心に負けずに勇気を出して自分が正しいと信じる事ができた時、人は成長しますし、その時の喜びは計り知れません。

HAPPY NEW YEAR!!

2022-01-05 | 戯言(たわごと、ざれごと)
新年あけましておめでとうございます!

今年も宜しくお願い致します。

皆さん、いかがお過ごしですか?
何だかあっという間に年が開けましたね。

昨年も皆さんと、本当に様々な交流がありました。

今年も皆さんとの「今、ここ」、here and nowの交流を心待ちにしております。

皆さんと、嬉しい事も悲しい事も、楽しみな事も不安な事も、希望も失望も、どんな悩みも一緒にとことん話し合い取り組んで参りたいと思います。いつでもお気軽にご連絡ください。

皆さんお一人おひとりのこれから始まる1年が、充実した素敵なものでありますように。

令和4年1月吉日

臨床心理学博士
黒川隆徳



バルタン星人のバリスタ

2021-11-12 | 戯言(たわごと、ざれごと)
息子はとにかく親がやっている事をなんでもやりたがるので、我々夫婦の方針として、基本的に、できるだけなんでも、危険を取り除きながらやらせる事にしている。

この辺りは妻の方が熱心で、彼女の子供の能力を信じる力はすごいと思う。

例えば彼は2歳の頃から包丁を使える。

子供ができるまで知らなかったけれど、ちゃんと子供用の包丁というものがこの世にはあって、それは普通に切れるけれど、切先が丸い安全設計になっているのだ。彼の包丁は、ピンク色だ。

もちろん彼に包丁を使わせる時は、親は彼のすぐ近くに立ち、一瞬足りとも目を離さずに、いつでも手を出せるように待機し、注意深く危険を取り除きながら使わせている。

こういう感じで彼は朝のコーヒーも淹れられるようになりつつある。

彼はとてもやんちゃで意思が強いので、これまでなかなかうまくいかない事が多かった。

例えば、コーヒー豆の粉はスプーンすり切り3杯だよと伝えても、「このくらいがいい」と頑として2杯しか入れなかったり、ケトルのお湯をゆっくりと注ぐように言ってもドバッと一気に注いでしまって、「一気に入れないよ。ゆっくりだよ」と伝えると、いたずらっぽく、「いっきにいれるのがいい」と言い、それで薄い薄いコーヒーができたり。

それで彼の隙をついて大人がコーヒーを淹れてしまうと、「〇〇がやりたかった〜!」と号泣したり。

こんな感じで今朝はどうかなと思いつつ、彼と一緒にコーヒーの準備を始めた。

まず彼が、キッチンの棚の引き出しを開けて、その小さな手にはとても大きなミトンを2つ取り出す。

次に紙フィルターを別の引き出しから取り出し、踏み台をキッチン台にくっつけて上り、ドリッパーに器用に紙フィルターを敷いて、サーバーにセットして、コーヒー豆の粉を入れる。

「3杯だよ」と、まあダメだろうと思いながら伝えたら、今日はちゃんと3杯入れてくれて驚いた。

次に彼は先程引き出しから取り出した2つのミトンを両手に装着する。

両手に大きなミトンを装着した彼はウルトラマンのバルタン星人みたいなのだ。

その小さなバルタン星人は、おもむろに、熱湯の入ったケトルを両手で持つ。右手はグリップを、左手は細長いノズルに添えて、いざドリップを始める。

「ゆっくりお湯を入れて、一回止めて、蒸らすの」、と、これも今日までの経歴から、ダメ元でいつものように伝えると、今日はなぜかそのようにしてくれた。

そうそう!いいねいいね!と言いながら、これはもしかすると、と思い、「次はね、ゆっくり、『の』の字みたいにくるくる回しながら、溢れないように、ゆっくりお湯を入れていくの」と、手を回す真似をしながら伝えると、彼は「くるくる」と言いながら、楽しそうに、でもすごく集中して、ケトルの注ぎ口から細いお湯を出してゆっくり入れ続けた。

私は嬉しくなって、彼を褒めた。彼は得意げだった。後ほど気づいたけれど、彼は腕の筋力が上がって、お湯を注ぐ量の微調整が上手くなったようだ。これまでドバッと一気に入れていたのにも訳があったのかもしれない。

こういうわけで今朝の彼のコーヒーは、豆の量も淹れ方も完璧で、飲んだら本当に美味しくて、夫婦でありがとうと礼を言って褒めたら彼はまた嬉しそうにしていた。

コーヒーを飲んだ事のない3歳児がとても美味しいコーヒーを淹れられるという事実がなんだか新鮮な朝だった。