かつて、アメリカの著名な精神科医、スコット・ペック(Morgan Scott Peck (May 22, 1936 ~ September 25, 2005) は言いました。
"Until you value yourself, you won't value your time. Until you value your time, you will not do anything with it."
かつて、アメリカの著名な精神科医、スコット・ペック(Morgan Scott Peck (May 22, 1936 ~ September 25, 2005) は言いました。
"Until you value yourself, you won't value your time. Until you value your time, you will not do anything with it."
今回は、具体的に、共感性はどのようにして抱き、使えるようになるのかについて、少し考えてみたいと思います。
ここでまず大事なのは、常に、こころにある程度の余裕をもつことです。なぜなら、他者に共感するには、客観性がどうしても必要ですし、客観性を保つには、こころにそれなりのゆとりが必要だからです。実際、こころにゆとりがないとき、人は自己中心的になりやすいですし、自分の問題を相手に投影しやすいですし、気持ちも不安定で、なかなか客観性が保てません。
共感は、しばしば投影と混同されがちですが、自分の中にあるものを相手の中に見出すことは、投影であり、必ずしも共感ではありません。たとえば、パーマが掛かったヘアスタイルの人に、それが寝癖だと思って寝癖直しのスプレーを差し出すことは、共感ではありません。
それから、誰かに共感するには、「自分が何をしているのか」、きちんと認識できている必要がありますし、また、今この瞬間の、自分の気持ちを正確に認識できている必要があります。これは本当に大切なことで、自分の気持ちをきちんと理解できていない人が、他者に正確に共感することはできません。常に、自分の気持ちと向き合い、自分の気持ちに正直であることが大切です。自分の気持ちを手放してはいけません。これは特に、子供や、後輩、部下など、自分より立場の弱い人たちを相手にしているときに気を付けるべきことです。
さらには、自分のこころのニュートラルな状態、ベースラインについて、知っている必要があります。そうすると、何らかのできごとを経験したことによって、そのベースラインがプラスであれ、マイナスであれ、ニュートラルな状態でなくなっているときにも、客観性を保ちやすくなります。どうして自分が今良い気分なのか、幸せなのか、或いは、イライラしているのか、怒っているのか、悲しいのか、きちんと把握している必要があります。そうすることで、たとえば、ちょっとイライラしているとき、そのイライラとは関係のない人と交流するときに、そのイライラをその人にぶつけてしまうことも防げます。また、自分が楽しいときに、何らかの理由で落ち込んでいる人に、その楽しい勢いで無神経な発言をしてしまうことも防げます。
さて、このような基盤に加えて、大切なのは、やはり、相手の話にきちんと耳を傾けることです。このシリーズの#2の、由香里さんたちの会話を思い出してください。相手が話している内容に、あなたが賛同できなかったり、意見があったり、批判したい気持ちになっても、とりあえず、そうしたあなたの主観は傍らに置いて、相手の話に耳を傾けます。主観は捨てるわけではありません。この時点では、主観から抜け出して、相手の話に集中する、ということです。安心してください。あなたが、あなたの意見を相手に伝える機会はあります。ただ、その前に、相手の話をとことん聞くことが大切です。
主観から抜け出すとはどういうことかといえば、たとえば、経験則に基づいて話すことを保留します。「私だったらこう思う」、「俺はそう思わない」、といったスタンスから一時的に抜け出すことです。
誰かが「仕事に行きたくない」と言ったら、「気合だよ、気合」とか、「もうすぐ週末だよ、頑張れ」とか、「わがままいうな」とか、「もっと大変な人だってたくさんいるんだよ」、などと言った発言は保留して、その代わりに、相手の気持ちを理解することに集中します。
今の時点では、相手の気持ちを理解するにしても、情報が足りません。そういうときは、質問をしてみます。質問をする前に、相手が言った言葉を、繰り返してみます。
「仕事に行きたくないんだね。もう少し詳しく聞かせてくれる?」とか、「仕事に行きたくないんだ。何かあったのかな」、と言う感じに、質問します。
ここでなるべく避けたいのは、Why、「なぜ」、「どうして」です。「なんで仕事に行きたくないの」?と言われると、あなたにその気がなくても、相手は責められているような気になって、防衛的になってしまったりします。「なぜ」と言うときの、声のトーンや感じ、あなたの表情などで、そうした誤解を防ぐこともできますが、とりあえず、避けられるのならば避けましょう。
それで相手が、「会社の人間関係がしんどいんだ」、と言ったら、「俺だって会社の人間関係はしんどいよ」、と言うのではなくて、「どういう風にしんどいの?」などと、聴いてみます。このように、自分の主観から抜け出して、相手の話に興味を持って、相手の気持ちに寄り添うことで、相手がどんどんこころを開いて話してくれるので、相手の立場を正確に理解することが容易になります。
このように、相手の気持ちをしっかりと理解したうえで、あなたの考えや意見、助言をするのは良いでしょう。ただ、矛盾するようだけれど、相手に正確に共感できた時に、その前にあなたの頭の中にあった意見などを、あなたは依然として相手に伝える必要はないかもしれません。また、そうした意見が相手にとってあまり有益でないことに気づいて、言いたくなくなったり、言う必要がなくなっている可能性もあります。
というのも、多くの場合、人は本当のところ、アドバイスや叱咤激励よりも、他者に深く理解してもらったり、共感してもらうことを必要としているからです。あなたが彼らに寄り添ってあげることで、彼らはあなたと一緒に話を深めることができて、その対話の中で、彼らは自ずと新しい考えや、自分の本心などに出会えることも多いです。また、一人で考えていてはできなかった心の整理ができたりします。それで、アドバイスを求めてやってきた人でも、あなたとの対話で、アドバイス以上のものをあなたから受け取ることになります。
サイコセラピーをしていてしばしば出会うのは、長年に渡って、日々、いろいろなところで罪悪感に苛まれて生きている方です。彼らは決まって自分のことよりも他人のことを優先していて、いわゆる「良い人」なのですが、慢性的な鬱感情を抱いていて、イライラしたり、ストレスを感じたりして生きています。そして彼らには決まって、その身の回りに、彼らの罪悪感を刺激することで、彼らを支配する人がいます。
それは彼らの親であったり、配偶者やパートナーであったり、きょうだいや親戚であったり、近しい友人であったり、職場の人であったりします。彼らはしばしば、そうした人たちから、「自己中心的」、「自分のことしか考えてない」などと、批判にあい、傷つき、再びそのように言われることを恐れながら生活しています。
しかし、彼らの話によく耳を傾けて聴いていると、更なる共通点が見えてきます。
彼らはそれほど自己中心的でもなければ、他人のことを考えています。むしろ、考えすぎて鬱々しています。そして、彼らを自己中心的であると批判する人たちにも共通点がみられます。そうした批判者は往々にして、タイトルにある、二つの異なることを混同しています。自分の人生を生きている人と、自己中心的に生きている人の違いです。
そうした批判者は、彼らが自分自身の人生を生きようとすると、「自己中心的過ぎる」などという言葉を浴びせ、彼らの足をひっぱります。彼らにとって、自分のことを大切にすること、自分のことに集中することが、受け入れられないことであり、しかし、無意識的には、その必要性を感じていて、また、そうしたくても自身の罪悪感によってそれができないため、そのように振る舞おうとしている他者を自分の身近に見ると、攻撃してしまいます。こうした批判者は、彼らのなかに、自分自身の受け入れがたい願望を見ています。受け入れがたく、否定している自分のニーズを見せてくる彼らに苛立ちや怒りを感じるのです。
こうした批判者に、幸せな人はいません。自分はこれだけのことをやっているのだから、あなたもこれだけのことをして欲しい。私はこれだけ自分を犠牲にしているのだから、あなたももう少し自分のことを犠牲にしてほしい。こういう考えが基盤にあります。
こういう批判には、十分に気を付けてください。
なぜなら、私たちは、自分の人生をきちんと生きながら、他人のことを思いやることは十分に可能であり、それは決して二律背反するものではないからです。
それから、自分の人生をきちんと生きていない人は、他人のことに意識を集中することで、自分自身と向き合うことから無意識に回避している傾向があります。こういう人たちがあなたに、「あなたも自分の人生を生きずに他人のことに集中しなさい」というメッセージを発信してきても、それを呑み込んではいけません。なぜなら、真に自己中心的であるのは、あなたではなくて、彼らだからです。たとえば彼らは、自分の持っているモラルの基準をもとにして、そこから離れることなく相手を裁いているわけで、常に自分のモラル基準が正しいと信じている自己中心性があります。
ふたりの人間が親しくなっていく過程において非常に大きな役割を占めている要素に、自己開示というものがあります。
自己開示という言葉について聞いたことのある方は多いと思いますが、それでは自己開示とはいったい何なのか、普段から意識して考えている方はあまりいないのではないでしょうか。なぜならそれは、あなたがそのときに置かれている状況、これまでの人生経験や、大きくなる過程におけるあなたの親との関係性、また、そのなかで形成されるあなたの性格などに基づいて、自然に行われているものだからです。
このようにして、あまり意識せずに起きている自己開示ですが、これは人間関係において非常に重要です。また、あなたや他者のこころの在り方についての理解においても大切な概念です。そういうわけで、これは深くて複雑な概念ですが、今回はこの自己開示について考えてみたいと思います。
さて、自己開示とは何かといいますと、平たく言えば、読んで字の如く、自分のことについて相手に開いて示すことです。良く分かりませんね。これはつまり、あなたが、あなたにおける情報を、他者に対してオープンにすることです。この「あなたにおける情報」とは、あらゆるレベルの情報が考えれますが、今回は言葉による自己開示に絞って考えてみたいと思います。
人間関係において、ある人ともう少し親しくなりたいけれどなかなかうまくいかない、良い方法が見つからない、という悩みを持っている人は意外と多いですが、この自己開示は、そうした問題を改善する鍵であることが知られています。
たとえば、あるそれほど親しくはないけれど仲が悪いわけでもない、ニュートラルな関係の人と話していて、ちょっとしたきっかけで、「もしかしたら批判されるかも知れない、軽蔑されるかもしれない、笑われるかもしれない」、などの恐怖やネガティブな可能性を覚悟して何かの打ち明け話をしたら、相手は思いのほかあなたの経験に共感して、似たような個人的体験を話してくれて、それを機に一気に打ち解けた、という経験を今までの人生において何度となく経験している方は多いと思います。これは心理学では「自己開示の交換 (Self-disclosure exchange)」と呼ばれるもので、この「自己開示の交換」による親しみの効果は実際に実験などで証明されています。
ただ、自己開示には適切な量と質、そしてタイミングがあり、ランダムに自己開示することで見ず知らずの人と仲良くなれるわけではありません。場の雰囲気には関係なくなんでも開けっ広げに自分のことを話す人は組織やグループのなかであまり信頼されていなかったり、尊敬されていなかったりすることが多いです。
なぜならこれは、その人の他者や社会との境界線、Boundaries(バンダリー)が不適切である表れであり、つまり、自分と他者とのあいだのこころの線引きがきちんとされていません。ただ、こういうタイプの人は、透明性が強いので、「この人はいったい何を考えているのかわからない」と周りから警戒されることもありません(Boundariesについての記事もご覧ください)。
逆に、世の中には、自分の話をほとんど、或いはまったくしない、という問題を持っている人がいます。無口なタイプの人が多いですが、逆に、口数はものすごく多いけれど、よく聞いていると、自分の個人的なことについてはまったく話さない、という人もいます。こういう人は、「マシンガントーク」という煙幕を張って無意識のうちに自分という存在をつかみどころのないものにしています。また、彼らは自分自身の本心について無自覚であることが多いです。こういう人は、話が面白かったり、冗談がおかしかったりするので「面白い人」という印象を受けていたりしますが、よく見ると、常にある一定以上の距離を他者との間に保っていて、決して近づけない、という性質が見えてきたりします。感じは良いけれど、実際にどういう人なのかは良く分かりません。よってその人の友好関係は広く浅いもので、周りから好かれてはいるものの、本当に親しい人はあまりいません。
と、ここまで、どちらかというと極端な例を挙げましたが、これらの例からもお分かりのように、自己開示には、量(ここでは口数の絶対数)と、質(情報がどれだけ意味のあるものか、個人的であるか、など)の問題があり、このどちらが不適切であっても、他者と親しい関係を築くのは難しいということです。なんでも開けっ広げの人は、周りの人がその人のことをいまいち尊敬できないことで、自己開示が一方的になってしまうことが多く、無口な人、やたらと口数ばかり多い人は、いずれも本当の意味での自己開示はしていないため、他者がその人のこころに近づけません。人と人が親しくなるための「自己開示の交換」がうまく起こらないのです。
また、自己開示には適切な「場」やタイミングがあることについても触れました。たとえばあなたが初対面の人と、あまり時間もないときに、突然あなたの個人的な話をしたら、相手は当惑し、あなたに警戒し、なんとなく気まずい空気が流れたりして、そこに自己開示の交換は起きない、という可能性は高いです。どこかでたまたま居合わせた赤の他人がいきなりすごい個人的な話をしてきて、どう反応して良いか、そのリアクションに困った、という経験がある方は多いでしょう。この状況で開示の交換が起きないことも社会心理学の実験で証明されています。
そういうわけで、あなたが誰かともっと親しくなりたいけれどなかなか人間関係が発展しない、というときは、まずはその人と比較的ゆっくり話せるような場を探してみましょう。注意してみると、意外とあるものだと思います。また、少し工夫して、そういう場をあなたが作ることもできるかもしれません。
そういう場ができたら、始めはいつものように当たり障りのない話をしながら、ちょっとしたタイミングを探してみましょう。ここでのポイントは、あなたが少し勇気をだして、ちょっとしたリスクを冒す、ということです。当たり障りのない、害のない話には、そのところどころに、自己開示のきっかけが隠れています。普段はそれに注意を向けていないために、なんとなくそういうとっかかりを見逃している可能性があります。まずは、そういうとっかかりがあるかどうか、話しながら観察してみてください。
それで、とっかかりが見つかったら、いよいよ自己開示ですが、ここで注意すべきは、あまりすごい自己開示をしない、ということです。相手が知らない自分のことで、今話している話題に関係があり、いつもよりちょっと個人的なこと開示してみましょう。相手の人に問題がない限り、向こうはあなたの開示を歓迎してくれることでしょう。それで向こうもいつもよりも少しだけ個人的なことを話してくれるかもしれません。自己開示の交換です。
このような場を何度か意識して持つようにして、上手に自己開示をしながら、徐々に人間関係を深めていきましょう。「話し過ぎたかな」と思っても、あまり気にしないようにしてください。自己開示はその練習のなかで徐々に新しい習慣となっていきます。もし話したことで何かふたりの間に気まずい空気ができてしまった、と思うときは、その「気まずい空気」そのものについて、後ほど開示してみるのもいいでしょう。自分の気持ち(二人の間になんだか気まずい空気ができてはいないか。話したことで相手に何か嫌な思いをさせてしまったか)について、早い段階で開示するのです。そのようにあなたが自分の気持ちを相手に伝えることで、さらに人間関係が深まることもあります。相手には、あなたが勇気を出して少し言いにくいことを伝えてくれている、信用してくれている、ということが伝わります。
以上が自己開示の導入編となりますが、次回は、なぜあなたが自己開示に難しさを感じているのかなどに焦点を当てて考えてみたいと思います。また、今回は言語による自己開示について話しましたが、言語以外の自己開示についても考えてみたいと思っています。
生きていると、人それぞれ、本当にいろいろな悩みがあります。今の自分の人生の大半は満足しているけれど、どうしても治したいことがあって困っているという人もいれば、今の人生のあらゆる面においてうんざりしている人もいます。それは仕事のことであったり、パートナーとの婚姻関係、恋愛関係であったり、家族のことであったり、友人との人間関係であったり、依存症など、自分自身における問題であったり、様々です。
そして、問題の種類は何であれ、それを治すために何とかしなくてはならないとはわかっているものの、それを行動に移せなかったり、始めた行動を続けることができなかったり、また、実際に何をしたらいいのかわからない、という人もいます。
昨今本屋に行くと、『5分で変われる~』とか、『1分で変わる~』とかいった、分単位、時間単位、1週間以内、といった、非常に短期間のうちにあなたの人生が変わることをほのめかすとっても魅力的なタイトルの自己啓発本がずらりと並んでいるのを見受けます。思わず飛びつきそうになります。実際に手に取って、前書きや各章のサブタイトルなどを見て「これは!」と思って買ってみた方も多いのではないでしょうか。
それで、そうした本を買ってみて、あなたの人生は実際に変わりましたか。人生とまではいかなくても、日々の生活に新しい良いものが始まって、それが続いていたり、問題になっていたことが著しく改善した、という方はどのくらいいることでしょう。これを読んでいる方の中には、実際にすごい名著に出会って人生が明るくなった、という方もいるかもしれません。しかし残念ながら、そういうあなたは、むしろ少数派ではないかと思われます。まず、もしそうしたごく短時間の時間単位がタイトルに入っている自己啓発本で「本当に効く」本があるのであれば、矛盾するようですが、あのように多くの同様のタイトルの啓発本が店頭に並ぶはずがないのです。そういう本が数冊存在していたら、後発で書いても売れませんから。
そして、先に述べた、「実際にすごい名著に出会って人生が明るくなった方」は、実のところ、その本というよりも、あなたの本当に変わりたいという気持ちとそのモチベーションの強さのほうに理由があった可能性が高いかもしれません。別の言い方をすると、その本をあなたのお友達に勧めたところで、そのお友達があなたのように変われるかといえば、それは疑問であるということです。
このように書いていると、世の中にはろくな自己啓発本がない、と言っていると思われる方もいるかもしれませんが、決してそういうわけではありません。私も本屋に行った際に気が向くと、そうした本を手に取って読んでみることがありますが、中には優れた本もあります。ただ、読んでいて感じるのは、タイトルはどちらかというと「言葉のあや」であり、潜在的な読者の購買意欲をそそるためのタイトルであり、実際に変わるためには、その1分なり5分なり1時間なりを、相当に長いこと続けていかなくてはならず、つまり、実際にはタイトルが示唆するような気軽さ、簡単さとはかけ離れた根気と努力が必要であるということです。
最近の自己啓発本は、そうした努力や根気といった精神力や心の負荷などを現代人が避けたがる心理をうまくついてきているものが多い印象があります。まず、お気づきの方も多いと思いますが、文字のフォントが大きいです。そして、行間が広い。とても易しい言葉遣いで漢字も少ない。つまり、「本当の読書」に伴う心の負荷すら億劫に思う人たちでもすぐに読了できるように書かれています。スラスラ読めるので、普段読書が嫌いであったり苦手であったりする人も読了できて、それだけでも達成感があります。読んですっきり爽快感、なんかポジティブなこと書いてあってにわかに希望がでてきた。でも実際に何がポイントだったのか思い出せない、2週間もすればその本のことなどすっかり忘れてしまい、3週間目には知らずのうちに今までの気持ちに戻っている、ということが少なくありません。読んでみてなんとなく気持ちよくなった、しかしその本の内容に実態はなかった。恐ろしい話です。
ここでもしかしたらあなたが聞きたくないかもしれない事実をいえば、No pain, No gain、痛みを全く伴わずに何かを本当に得ることはあまりありません。変わりたければ、やはりそれなりに精神力の必要な、こころの負荷のある行動をとらなくてはなりません。そのためには、あなたは変わることを決断しなければいけませんし、そこにコミットメントがないといけません。
これを書き始めたときは宣伝する気は毛頭なかったのですが、それではどうして良質の(脚注1)サイコセラピーを受ける人が大きく変われるのかといえば、(それには様々な理由がありますが、ここでは)サイコセラピーには、こうした世の中に溢れる多くの自己啓発本の根本的な弱点をいくつかカバーしてることが挙げられます。
まず、サイコセラピーには、そのモティベーションがあるに越したことはないものの、必須ではありません。実際、変わりたいけれどそのためのモティベーションが出てこなくて困っている、という方もたくさんやってきます。それでいいのです。一人では出てこなかったモティベーションも、秘密厳守の安心、安全な環境で、セラピストにこころを開いて話を深めていく中で、ゆっくりかもしれませんが、着実に出てきます。これはサイコセラピーにおける、クライアントとセラピストの「良い人間関係」のなせる業です。
さらに、自己啓発本は、その大衆を相手にしなくてはならない性質上、どうしても「フリーサイズのTシャツ」的な、つまり「誰にでも多かれ少なかれ当てはまるけれどピッタリ合う人はごく少数」であるアプローチに依存しなくてはならないのですが、サイコセラピーは、あなただけのためにオーダーメードで仕立てられたあなただけの幸せのためのレシピです。そしてこのレシピには、自己啓発本では決して到達できない深みがあります。実際、10人のうつ病に苦しむ方が私のところに来ると、10通りのユニークな方法で彼らは良くなっていきます。そこには10通りのユニークな人間関係があるからです。それから、これも自己啓発本では見落とされがちですが、10人鬱に苦しむ人がいれば、そこには10通りの独特な問題もあります。酷い精神科の5分以内の面接の投薬治療がどうして効きにくいのかといえば、彼らはこの「患者ひとりひとりのユニークな部分」を取り扱えていないからです。
ここまで書いてみて、どうもやはり宣伝的な響きがあるので、サイコセラピーとは少し離れてもう少し書いてみます。
今あなたが抱えている恐怖には、大きく分けて2種類の恐怖があります。ひとつは、変わることの恐怖であり、もうひとつは、今の不幸せな現実が続いていくことの恐怖です。変わることの恐怖にはいろいろな要素が考えられます。たとえば、変わることに伴う苦痛、変わるために傷つくこと、また、もし努力しても変われなかったらという不安などがあるでしょう。
もう一つの恐怖、今の不幸せな現実が続いていくことの恐怖。これにはあまり説明は要らないでしょう。あなたを不幸せにしていることに対して何の行動もとらなければ、その現実は続いていくことでしょう。
かつてある人が私のところに来て言いました。「母が死んだあとに、私のための人生が始まります。今は地獄だけど、母が死んだら私はずっと楽になります。自由になります」と。「でもあなたのお母さんはぴんぴんしていますね」。「そうです。でも私にはどうすることもできません。母は私が幸せになれないように何でもします。彼女が生きているうちは駄目なんです。待つしかないんです」。「分かりました。それでお母さんはあと何年ぐらい生きるんでしょう」。「分かりません。あと10年は生きるでしょう」。「10年経ったらあなたは50代も半ばになっています」。「・・・・・!!」。この方は、重度の自己愛性人格障害を持つ母親に人生を滅茶苦茶にされて苦しんでいて、このときは変わることの恐怖と変わらないことの恐怖の狭間で揺れ動いていましたが、これからしばらくして、変わることを決意しました。今までやられっぱなしになっていたこの方が勇気をもって自己主張をするようになり、母親も態度を変えることを余儀なくされ、「子供がろくでもないセラピストに会ってしまった」と文句を言いながら変わり始めました(これはこの母親の人生にとっても実際のところ良かったと思います)。もちろんこの過程は大変なもので、うまくいかないときもありましたが、ひとりでは出来ないことも、いつも応援して一緒に考えてサポートしてくれるセラピストがいると、出来るようになります(これも自己啓発本とサイコセラピーの違いです・・・)。
この方のなかで、変わらないことでいつまでも続いていく現実とそれで失われてゆく時間という恐怖が、変わることで傷つくかもしれないことやうまく変われないかもしれないという恐怖をはるかに上回り、変わる決意をした訳ですが、これはあなたにも言えることだと思います。
変わるための行動の過程で、あなたは傷つくかもしれないし、失敗して辛い思いをすることもあるかもしれません。でも、そのように、自分の人生に前向きに進むことに伴う痛みと、今の不幸せなことが続いていく痛みを比べたら、前者の方がましではないでしょうか。その痛みには大きな価値があります。あなたを成長させる、あなたを強くする、こころの筋肉痛です。前者は最悪の場合でも、うまく変われなかった、というぐらいです。今の現実で感じている痛みとその度合いは変わらないでしょう。しかし後者は致命的です。あなたの人生を損なわせるものです。
危険であるかもしれないことと、致命的であることと、どちらがいいのか、という話です。
今回私が書いたブログがあなたを変えられるとは思いませんが、これについてじっくりと考えることで、これがあなたの決断のきっかけになってくれたら幸いです。応援しています。
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(脚注1)なぜ私が「良質の」サイコセラピーと書いたかといいますと、非常に残念なことですが、近年は、こうした文字のフォントのでかい楽に読める自己啓発本と何ら変わりのない、クライアントのこころに何の影響もない、よって敷居は低いけれどもサイコセラピー本来の要素を欠いた、数回で終わるようなサービスが出回っているからです。受けてみて気持ちがよかった、すっきり、でも1、2週間経ったら元に戻っていた、そういう種類のファスト・フード、ファストクローズよろしく、ファスト・サイコセラピーです。まず、サイコセラピーは、「ただ吐き出す」こととは本質的に異なります。「不満を吐き出せ」ば、人はそれなりにすっきりしますが、「吐き出す」だけでは根本的な変化は期待できません。吐き出す、という言葉はあまり好みませんが、吐き出す(言語化する)のであれば、吐き出したものをゆっくりと見つめて、向かい合って、検討していくプロセスが必要なのです。そこには当然、セラピストとしては「傾聴」以上のスキルが必要です。
皆さんこんにちは。ご無沙汰しております。いかがお過ごしでしょうか。
早いもので9月に入りました。季節の移り変わり目、夏休み明けなどで、気持ちに切り替えが何かと難しい時期であり、多くの方にとって、体調管理はもちろん、こころの管理にも注意が必要な時期であります。もちろん、体調管理とこころの管理は密接に繋がっております。新しい環境への適応、リラックスした休暇からの会社、学校などの元の環境やスケジュールへの適応などで、知らず知らずのうちにストレスを感じていて、そこに最近の予想不能な天候と温暖差などが加わり、気付いたら喉が痛くなっていた、風邪をひいてしまった、という方も多いと思います
さて、こうした新しい季節に臨んで、今回のタイトルは、『大きなYesのために大切なNo』です。
これは以前ここでも触れたBoundaries, 境界線にも通じる話ですが、ひらたくいうと、私たちは、人間関係において、誰かからの誘い、依頼、要求において、常に良い返事をして受け入れるわけにはいかず、必要に応じてきちんと断らなくてはならない、ということです。
なぜなら、すべてにおいて、Yesと返事をしていると、時間の問題であなたのリソースの限界がやってきて、最初は快く受け入れていた誘いや依頼も、徐々にこころの負担、ストレス源となってきて、やがては頼んできた人に対してネガティブな感情を抱くようになったり、自分にイライラしたりして、こころに支障がでてきます。「いや、私は大丈夫」、と、すべてを受け入れて、足りなくなった自分のための時間を捻出するために睡眠時間を短縮したりして頑張っているうちに、体を壊してしまう方もいます。
私たちの人生は、みんな平等に24時間しかなく、そこには人それぞれの人生における優先順位というものが存在し、そこには人それぞれの生活というものがあります。自分にとって、何が大事で、何が大事でないか、きちんと認識する必要があります。
そして、今の自分に、時間的、体力的、精神的、金銭的に、どれぐらいのゆとりがあるのかも把握している必要があります。こうしたあなたのリソースに合わせて、必要に応じて断ること、Noということが、何かもっと大事なことにおいて、選ぶこと、Yesということが可能になります。
断ることに伴う罪悪感が強く、ついつい何でも受け入れてしまうことで、いざというときにリソースが残っておらず、不本意にも、本当に選びたかったこと、受け入れたかったことを断らなくてはいけなくてさらに強い罪悪感、自己嫌悪に陥る方が世のなかには少なからずいます。
これはとても悲しいことです。その人の他者を受け入れる良い人柄が、結果として負に働いてしまうのです。こうならないためにも、普段から、ものごとの優先順位を意識して、あまり重要でないこと、興味がないこと、頼んでくる本人にもできそうなことなどには、Noという必要があるのです。Noということが、必ずしもその人を拒絶することにはなりません。選んで断ることが、逆説的に、相手をより深い意味で受け入れることに繋がります。
よくアメリカ人の日常会話で使われる面白い表現に"Passive aggressive"(消極的に攻撃的)というものがあります。Passive(消極的)と、Aggressive(攻撃的)という、ほとんど正反対の言葉がひとつに結び付いた、一見ありえないような形容詞ですが、これは会社でも学校でも、良く聞く言葉です。たとえば、「うちの上司は本当にPassive aggressiveなのよ」(My boss is so passive aggressive)とか、「彼女は今Passive aggressiveになっている」(She is being passive aggressive now)という感じです(脚注1)。
それで、Passive aggressive (パッシブ アグレッシブ) とはいったい何でしょうか。
パッシブアグレッシブとは、「消極的」に、また、間接的に、不満や怒り、「攻撃性」を表現することです。
ダイレクトでオープンなコミュニケーションが社会的に美徳とされるアメリカ社会において、間接的で、まっすぐでない(Indirective、インディレクティブ)コミュニケーションは、特にアメリカ人の間では不快感を感じるもので、彼らの普段のコミュニケーションのあり方にはそぐわない異質なものです。このため、その現象が起こっているとき、彼らは敏感にそれを察知します。
しかし、この言葉が良く使われることからもわかるように、この現象は、アメリカ社会のあらゆるところで、よく起こります。しかし、スタンダードなアグレッションとは性質が異なるため、それと区別するために、このような面白い言葉があるのです。
日本語には、これに該当する言葉がありません。なぜでしょう。日本人はダイレクトなコミュニケーションが大好きで、曲がったことをする人はどこにもいないからでしょうか。残念ながら、それは違います。周りとの調和、礼儀を重んじる日本社会では、ダイレクトな表現がなかなか難しく、敬遠されるため、怒りや不満を消極的、間接的に表現する人が多すぎて、この現象が、あまり人々の間で異質に映らないのです(脚注2)。
それでは、パッシブアグレッシブ、消極的攻撃性は、日本人のあいだでは、問題にならないのかというと、そんなことはありません。消極的攻撃性は、人間関係においてとても有害なもので、実際、日本人にも、これを常套手段とするひともいれば、これを滅多に使わないひとも多いです。社会において、これを使う人の割合が、日本ではアメリカと比べてずっと高い、ということであり、これを普段使わない日本人は、たくさんいます。
さて、消極的攻撃性とは、具体的に、どういった行為でしょうか。これは、本当にいろいろな例があります。
たとえば、あなたが誰かに用があって、メールをします。しかし、相手は、あなたに怒りを抱いていたり、あるいはその要件に不満があります。ここで、適切なのは、その不満について、返信のメールにおいて、適切にあなたに伝えることですが、消極的攻撃性のある人は、あなたへの返信を怠ったり、ものすごく日を置いて返信したり、あなたが挙げた重要な要件については何も触れずに別の内容で返信してきたりします。それであなたは気になるので、何気なくどうしたのか聞いてみると、「ごめん、携帯が壊れちゃってて」、とか、「コンピュータがウイルスに感染しちゃって」、とか、「すごく忙しくってすっかり忘れちゃってたんだ、ごめんねぇ」、と言った反応をするわけです。でもあなたとしたら、「へぇ、1週間も携帯壊れてたんだ」とか、「1週間、インターネット使えるところはどこにもなかったんだ?」と、疑問に思うわけです。疑問というよりも、相手が嘘をついていて、不満を間接的に表現しているのだと、普通にわかるわけです。
同様に、いくら電話しても電話に出なかったり、期限の迫っているプロジェクトで、協力が不可欠であるのに、いろいろと非協力的だったり、という表現もあります。
これよりかはいくらかましなもので、直接不満を言葉にする代わりに、間接的に相手を批判する、という場合もあります。たとえば、あなたが、他の4人の同期の人と、ひとりの上司と一緒に、小さな部署で働いていて、その上司があなた達にそれぞれ提出するように言っていた書類があり、あなた一人だけまだ提出していないとします。このとき、上司はまだあなたが提出していないことに不満があるのですが、それをあなたに直接いう代わりに、みんながいるところで、「皆さん、タイムリーに提出してくれてありがとう。助かるよ」、と言ったりします。これはあなたにとっては、結構じわじわくるものですが、相手としては、あなたに直接立ち向かうよりも楽なのです。それでいて、自分の不満も表現できるので、ストレスもたまりません。
嫌煙家のひとが、無作法に喫煙する人の横で、その人に注意するかわりに、ゴホゴホと大きな咳をし始めます。
遅刻の多い部下に不満のある上司が、その部下に注意する代わりに、その人の前で、他の皆を褒めはじめます。
などなど、枚挙に暇がありませんが、このように、消極的攻撃性は、日本社会に溢れています。
気になった方も多いかと思いますが、消極的攻撃性は、必ずしも悪いわけではなく、特に後者の例(間接的に言葉にして伝える)などは、場合によっては、その問題の相手を直接責めることを避けつつ、その問題について汲み取ってもらう、という良い意図が存在することもあるからです。上司は、部下を傷つけることなく、間接的に、フィードバックを与えているのかもしれません。
喫煙家の前でゴホゴホと咳をしはじめる嫌煙家においても、ダイレクトに注意するのが現実的に困難であったり、危険であったりする場合、このようにでも表現することで、相手に自分の意図が伝わり、ストレスがたまることもなく、これが最善の選択、ということもありえます(ところで、この例は、消極的攻撃性のなかでも、一番消極的でない、直接的な攻撃性に近いもので、割とダイレクトなコミュニケーションともいえます)。
また、前者の例でも、メールの送信を始める側に問題があり、たとえば、そのプロジェクトそのものが、間違ったことであったりして、しかし、力関係により、相手はダイレクトに反対はできないため、せめてもの抵抗として、また、それ以外に選択肢がないゆえに、しかたなく、返信を遅らせたり、怠ったりしている、というシナリオもありえます。
つまり、消極的攻撃性は、場合によっては、必要悪であったり、ある種の好ましくない状況下で最善の選択であったりもするわけです。どんなに健全な人格の持ち主で、公平でオープンなコミュニケーションを好むひとでも、たまにこうした手段を使わざるを得ない事態は存在します。
問題は、先にも述べたように、消極的攻撃性を、その人の人間関係の常套手段として使う人たちです。消極的攻撃性は、本人はそのようにして怒りを出しているので良いですが、それをされた相手はとても嫌な気持ちになるし、傷つきます。それはフェアでなく、気分の悪いものだからです。
そして、この最大の問題点は、消極的攻撃的である人は、他者とのきちんとしたコンタクトを取れないひとである、ということです。
どんな人間関係においても、気まずい局面、難しい対峙、というのは存在します。しかし私たちは、こうした難しい局面において、自分の気持ちに向き合い、相手ときちんと向き合って、互いに正直に話し合うことで、衝突はあるかもしれませんが、その結果、さらなる相互理解ができて、人間関係が深まります。
ダイレクトなコンタクトは、相手と親密になることです。
つまり、消極的攻撃的なひとは、他者と親密になることができません。きちんと他者と繋がれないのです。何しろ、他者とのコンタクトを回避しているわけですから。また、周りは、自分のことを相手が避けながら、悪意のあることをしているのが良く分かるので、とても嫌な気持ちになり、周りもその人を避けるようになります。また、周りは、その人が何かで怒っていたり、不満があるところまでは分かるものの、コミュニケーションを回避されているため、その人が実際に何を考えているのか分かりません。相互理解の断絶、悪循環です。
お分かりのように、消極的攻撃性は、ある意味非常に効果的です。怒りや不満を表現し、相手をコントロールしたり、自分の思い通りにしつつ、口論や話し合いといった、面倒くさいことを避けられるわけですから、当人は、たいしてストレスもたまりません。実際、社会的にとても成功していて、消極的攻撃的なひとはたくさんいます。
しかし、こういう人たちは、多くの人にとって、まず一緒に働きたくない人たちです。
まとめますと、消極的攻撃性は、その程度問題であり、使用頻度の問題です。また、これは対人関係における癖のようなものです。それがゴールを達成することにおいて効果的であれば、その行動パターンは、強化されます。そのため、なかなか見えにくくなっているかもしれません。
しかし、今のあなたの人間関係を見つめてみて、なんだかよく分からないけどこじれているところがある、何かが気持ち悪い、と思ったら、この消極的攻撃性の存在の可能性について考えてみてください。あなたがしているかもしれないし、相手がしているかもしれないし、お互いにしているかもしれません。
それに気づいたら、どのようにして、より素直に、自分の気持ちを相手に伝えられるか、その方法を模索して、試していきましょう。また、相手が、あなたに直接気持ちを伝えることに難しさを感じているかもしれません。思い当たるふしがあれば、少し踏み込んで、その人と話してみましょう。何か気になっていることはないか、実は困っていることはないか、上手に、でもストレートに、聞いてみましょう。そのような試行錯誤のなかで、その人間関係は、少しずつ、良くなっていくことでしょう。
(脚注1)正確には、Passive (消極的)の反義語は、Active(積極的、活発な)です。日本では、アグレッシブという言葉が、「もっとアグレッシブにならないと」とか、「アグレッシブに仕事に取り組む」などと、「アグレッシブ=積極的」というような、ポジティブなニュアンスで使われていますが、これは和製英語であり、あなたがアメリカ人と会話するときにこの言葉を使うのは注意が必要です。たとえば、「僕は積極的な女性が好きなんだ」、というときに、"I like agressive women"などというと、相手はびっくりするかもしれません。これは、アメリカ人には、「僕は攻撃的な女が好きなんだ」という風に聞こえます。積極的、であれば、"assertive," "proactive"などが適切ですし、また、"active"(活発な)も使えます。しかし、Aggressiveではありません。もちろんこれは文脈にもより、本当に引っ込み思案で消極的であることで、職にありつけない仲の良い友達を叱咤激励するときに、「もっとアグレッシブにいけ」"Be more aggressive”などのようには普通に使われます。つまり、アグレッシブという言葉は、英語圏では、あまりポジティブな意味合いでは使われません。ところでpassive aggressiveは「受動的攻撃性」とも訳されますが、「消極的攻撃性」のほうがこの言葉の持つニュアンスや面白さを良く表しているので私はこのように呼んでいます。
もうひとつ余談ですが、Naive(ナイーブ)という英語(語源はフランス語ですが)も、日本では、どちらかというと、ポジティブな意味合いで使われていますが、これは誰かを褒めたいときには絶対使うべきではありません。和製英語のナイーブは、「素朴な」とか、「素直な」というような良い響きがありますが、英語Naiveは、「世間知らずの」、「無知な」、「騙されやすい」という意味であり、誰かを批判するときに使われるものです。
さらに関係ない話ですが・・・Naim(ナイーム)とは、ヘブライ語で、「心地よい」という意味で、Lo Naim(ロ ナイーム)は、「不快感な」、「居心地の悪い」、という意味です。Loは、ヘブライ語で、No(ちなみにYesはKenです)、つまり、「ない」+「心地よい」=「居心地よくない」(Lo Naim)ということになります。
(脚注2)これはどこか、日本語の「腋臭(わきが)」に該当する言葉が英語には見当たらないのと似ています。日本人のあいだでは、わきがである人は少数派であるため、気を付けないと、人目を引くもので、そのため、この症状に、名前があるわけですが、西洋では、腋臭のひとが、そうでない人よりもずっと多いため、このような言葉自体が必要ないのです。
さて、この特集も今回で最後となりました。今回紹介するトンネル性視野も、多くのひとが、知らず知らずにうちに経験している、私たちのこころにとってとても有害な認知のゆがみです。「トンネル性視野」という名前から、それが何なのか大体想像がつく方も多いのではないでしょうか。これは、たとえばあなたが晴れの日に車や電車などに乗っていて、その乗り物がトンネルに入ったときのことを思い浮かべると分かりやすいかと思います。徒歩でもよいです。
もう、周りは真っ暗ですね。ずっと先に光が見えることもあれば、曲線を描いているため、その光すら見えない時間が続くかもしれません。そのとき、ひとは、当たり前ですが、暗闇の中にいます。そして、トンネルの壁のために、明るくてどこまでも開けた外の世界は見えません。また、トンネルの中があまりにも暗いので、そうした世界、可能性が存在していることすら忘れてしまっているかもしれません。
このように、トンネルビジョンとは、あなたが何らかの状況下で、落ち込んでいたりして、トンネルのように視野が狭められ、特定のネガティブなものにだけ意識が向いてしまうこころの様子を指します。
たとえば、最近、突然仕事を失ってしまった方が、お先真っ暗で、「仕事を失った。やっとありつけた仕事だったのに。やっと安定しはじめていたのに。もう駄目だ。自分には無理なんだ。どうしたってもうやっていけない」、と思ってしまうような状態です。
しかしこの人は、その仕事に従事している間に経験した、同僚たちとの良い人間関係、人脈、かけがえのない経験、また、その中で身に着けた、確かな知識とスキル、次の仕事の可能性など、実は確かに存在しているものが、このトンネルによって見えなくなってしまっているのです。そして、その暗闇が自分の世界のように錯覚してしまうことです。
でも待ってください。こうしたトンネルは、実際には存在しない、あなたが頭の中で作り上げたものです。あなたは実はトンネルの中になんかいません。人生は、いろいろな可能性で溢れているし、すべての物事には、悪い面もあれば、良い面もあります。ですから、今あなたが、「ああ、お先真っ暗」、「もう何にもしたくない」、「ああ死にたい」、と思ったら、あなたがこの精神のトンネルのなかに入ってしまっていることを思い出してください。その精神のトンネルの壁をぶち壊すのは、あなたであり、それは、「私は精神のトンネルの中にいる」、と気づくことから始まります。
なかには、長くて曲がりくねったトンネルもあります。また、その壁が分厚い場合もあります。その場合も、トンネルに風穴を開けることは可能でしょう。そこから穴を広げていって脱出します。ひとりでそれが難しいときは、信頼できるひとに相談して、その人の全く別の視野を借りることもできます。私もあなたの脱出を助けられます。もし壁があまりにも分厚くて直接壊せなくても、私はあなたと、トンネルの終わりまで一緒に歩くことだってできます。私はあなたの道を照らすとても明るい懐中電灯を持っています。いくつもあります。水も非常食も。一緒に出口を見つけましょう。その出口は必ず存在するのです。それは私の臨床的、また、個人的な経験から、確かなことです。なんだか宣伝みたいになってしまいましたね。でも本当です。いずれにしても、私はここに何かを探しにやってきてくれるあなたをいつでも応援しています。私はいつでもここにいます。あなたの健闘を、幸せを、願っています。
「あいつは馬鹿だ」とか、「私は負け組」とか、「これだからゆとりは」とか、「俺はどうせニートだし」、とか、人はしばしば自分や他人に何か特定のネガティブで固定した概念を当てはめて、その狭い概念を通してしか考えられなくなってしまいます。これが他人に向けば、人格攻撃になるし、自分に向けば、自虐、自己卑下になります。このように、あなたが何かしらネガティブで固定したラベルを他者やあなた自身に貼り付けてしまい、その人が持っているいろいろなポジティブなものを見ることができない認知のゆがみを「ラベリング」とか、「レッテル貼り」と呼びます。これは、以前紹介した「一般化」(Overgeneralization)のさらに極端な例で、たとえば、誰かのあるひとつの行動を、その人の人格に当てはめてしまったりするものですが、そのとき人は、そのひとの置かれていた環境や、外的状況などを考慮にいれることをしません。
たとえば誰かがどこか入りやすそうな会社の入社試験に落ちたときに、その周りのひとが、「あいつは駄目だ」、とか「あいつは馬鹿だ」とか決めつけてしまうもので、しかしその人は、試験直前に身内に不幸があって、夜も眠れず、最悪な精神状態で、試験中も頭が真っ白だった、という場合だってあるのです。あるいは、長年付き合っていた恋人との破局の直後だったかもしれないし、インフルエンザで熱もあり、体調は最悪で、全然集中できなかったのかもしれません。
「私のいとこの彼氏は負け犬よ」、と言うひとは、その彼氏が実は持っている、いろいろな良い面を認識することができません。いとこの彼氏という人格を、「負け犬」の一言に削減してしまうようなラベリングを還元主義(Reductionism)と呼びますが、これは本来複雑な対象を、過度に簡素化してしまう思考法で、レッテル貼りをしてしまったそのときから、その対象との間に良いものは生まれません。ある教育世代の人たちをひとくくりに「ゆとり」と呼ぶのも、高校を卒業してあらゆる理由で大学に進学しなかった、あるいは中退した人を「高卒」と呼ぶのも、様々な理由で現在教育や就労や訓練に従事していない人を「ニート」と呼ぶのも、こうしたレッテル貼りの還元主義の現れです。以前書いた記事「他人化」(Othering)の心理がこれに当たります。ステレオタイプの心理です。
レッテル貼りの最大の問題は、本来存在している外的な要素を無視したり否定したりすることで、その人を間違った方向に決めつけてしまうことです。残念ながら、これは日本人の間に非常によく見られる認知のゆがみで、実際、日本社会はこうした様々な「レッテル」で溢れています。お分かりのように、このレッテル貼りが自分自身に向いたとき、ひとは自己卑下や、低い自己評価、うつ、不安など好ましくない精神状態に陥ります。
この間受けたTOEICの得点がいまいちだった、勉強したのに、私は馬鹿なんだ。と思ったら、ちょっと立ち止まってください。世の中に、「馬鹿」という人は存在しません。それは、勉強の仕方に問題があったのかもしれないし、勉強時間が足りなかったのかもしれないし、試験前に何か不快なことがあって、集中力がいまいちだったのかもしれませんし、他に何か理由があるかもしれません。「あなたのひとつの行動や、結果」と、「あなたの人格」は、別のものです。また、あなたが「馬鹿」であることと相反する事実は、ゆっくり探してみれば、いろいろ見つかるはずです。次にあなたが他者やあなた自身を何かネガティブな固定概念で呼び始めたら、注意してみてください。ラベリングしたその瞬間から、その認知を修正するまで、対象は固定化されてしまい、それでは何も変わらず、良いものは生まれません。
よくアメリカ人の会話にでてくる、フォークサイコロジーで、ガラスのコップに入った水の話があります。ガラスのコップに、水が半分入っているのですが、これを見て、ある人は「水はまだ半分残ってる」(Half full)と認識し、別のある人は、「もう半分しか残ってない」(Half empty)と認識します。車のガソリンもそうですね。メーターが半分になっていたとき、燃料はHalf fullなのか、Half emptyなのか。そのふたりの人は、物理的にはまったく同じものを観察しているのに、まったく別のものを投影しているわけです。これで、Half fullと見た人は楽観的で、Half emptyと見た人は、悲観的、などという心理テストですが、今回扱う認知のゆがみ、「こころのフィルター」は、この"Half empty"の最たるもので、この傾向が強いと、人は深刻な不安や、鬱感情を経験します。
これは厳密にはSelective abstraction(選択的抽出)と呼ばれるもので、この認知のパターンにはまっているとき、人は物事の悪い面ばかりに意識がいってしまい、その良い面が、「こころのフィルター」によって除外(Filter out)されて認識できなくなっています。別の言い方をすると、ものごと全体の中から、その悪い面ばかりを「選択的に抽出」している状態です。
たとえば、軽度のうつ病に掛かっている18歳の翠さんが、お友達の萌美さんの紹介で、康夫さんとデートすることになりました。翠さんと康夫さんは意気投合し、楽しい時間を過ごしたのですが、その日の終わりに康夫くんと別れた帰路から、翠さんは、ふたりでスターバックスに入った時に康夫さんにした質問で、ふたりが一瞬気まずくなってしまったことで頭がいっぱいになってしまい、止まりません。「ああ、私馬鹿だなあ。なんであんなこと聞いちゃったんだろう。空気読めない奴って思われただろうなあ。常識ない人って思われたかもしれない。嫌われたな。悲しいなあ。もっと康夫くんと一緒に時間過ごしたかったのに。ああ、駄目だなあ私」、と、一人反省会が止まりません。一方で、康夫くんのほうは、「すごく楽しかったなあ。翠さんは面白くてかわいいなあ。彼女ともっといろいろなところに行って、もっと知りたいなあ」、と思っています。それで翠さんは、数時間後に康夫さんから来た次のデートの提案と今日のデートのとてもポジティブな感想に、とても驚いてしまいました。
この日、翠さんは、康夫さんと本当に楽しい時がたくさんあったのですが、「こころのフィルター」によって、それらはすべて意識から除外されてしまい、意識にあるのは、スターバックスであった一瞬の気まずさで、そのことばかり考えてしまっていたのでした。このような境地にいると、無意識に、悪いものをさらに探そうとします。「私ちょっとしゃべり過ぎたかな」、とか、「もっと相手の話をきちんと聞けばよかった」とか、「早く歩きすぎたかな」とか、「別の服着ていけばよかったかな」、とか、「あんな写真見せなければよかった」、など、探そうと思えば際限がありません。このとき翠さんは、康夫さんの、終始楽しそうな様子や、笑いが絶えなかったこと、話が合って、ほとんどの間会話が絶えなかったこと、いくつも共通の趣味があったことなどを忘れてしまっています。
さて、この脱出方法は、やはり、まずは立ち止まって、自分が「心のフィルター」を通して物事のネガティブなものばかり見てはいないだろうか、また、同時に、ものごとの良い面を見落としまくってはいないだろうか、考えてみることです。一枚の紙を用意して、真ん中に線を引っ張って、そのものごとの良い面と悪い面を書き出していくのもいいかもしれません。まず、「すべてが悪い」ものごとというのは、そうそうありません。ものごとのポジティブな部分ばかり見て、現実的なネガティブな要素を無視するのは別の意味で大きな問題ですが(脚注1)、要はそのバランスです。ネガティブに偏ってるなあと思ったら、その潜在的なポジティブについて考えてみるのが大切です。
(脚注1)これを精神分析学では、Hypomanic(軽躁)といいます。これは、一般にいう双極性障害の軽躁とは異なる精神分析学の専門用語で、無意識に働いている防衛機制を指します。ある種のひとは、何かあって、鬱に陥りそうになると、「鬱に対するディフェンス」として、一種の爽快感を経験します。このとき、その人は、ものごとの良い面ばかりに目が行き、現実的な問題点を見落としがちになります。現実的な問題点を認識することで鬱になるのが怖いからです。映画『風立ちぬ』の主人公にはこの防衛機制が働いていましたが(理想化の世界)、終盤にかけて、そのディフェンスの崩壊が起きました。彼が最初に見ていた夢と、終盤で見た夢は、同じ夢の中であるのに、全く異なった世界でした。この大きな隔たりの理由もここにあります。この映画の感想については別の記事で書いてみたいと思います。