今日の研修のゲスト・スピーカーの一人に
Rape Crisis専門の弁護士団体の弁護士が
いたのだけれど、長年に渡って性犯罪の
被害者の為に戦ってきた彼女の話からは
非常に学ぶところが多くありました。
そのお話の中から、特に印象的だったものを
皆さんとシェアしてみたいと思ったので、
ここに簡潔にまとめてみます。
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性犯罪という暴力が被害者の人生に与える
ダメージというものは、本当に計り知れない。
レイプの傷は、時が経てば自然に癒されるなどという
誤った考えを持った人は世の中に多いけれど、
この前の記事でも書いたように、レイプの経験は、
時に致命的といえるほどの大きな影響力を持っている。
また、惨事の後に、被害者がどのような経緯を
辿ったかによって、その人の人生は大きく変わってくる。
性被害において 最悪な状況の一つに、被害者の
体験を、誰も信じてくれない、というものがある。
「レイプなど存在しなかった」という、周りからの
全面的な現実否定である。
残念ながら、こうした現実否定は実に多い。そこには、
親やきょうだいや配偶者や友達といった身近な
人間は特に、
「そのような酷いことが自分の大切な人間の身に起こった」
などと言うことは聞きたくないという、話を聞くこと
そのものに対するネガティブな姿勢からくる防衛機制が
関係している。
また、たとえこれらの身近な人々に聞いてもらえても
警察に通報するなど、法的手段に出ずに泣き寝入りする
被害者は非常に多く、例えばLAにおいては、法的措置に
乗り出さないケースは90%にもなると言う。
全被害者のうちの、実に10%しか、リポートしない
という悲しい現実だ。性犯罪における社会的意識の
進んでいるLAにおいて、この数字なのだから、わが国
日本において、一体どれほどの人たちが泣き寝入り
しているのかは おおよそ見当もつかない。
しかし、法的手段に乗り出すと決意した女性達を
待ち受けているのは、様々な種類の新たな苦痛である。
ただでさえ 誰にも話したくないような話を、警察に
始まって、病院の看護師や医師、弁護士、裁判官など
実に様々な人たちに、様々な場所で、何度も何度も
話さなくてはならない。
しかも、そうした聞き手の全てが被害者に対して
共感的な姿勢を持っているわけではもちろんなく、
被害者は、批判的で心無い法的関係者などとの
接触の中で、「Second Rape」(セカンド・レイプ)とも呼ばれるような、
新たな精神的傷を負うことも多い。
こうした背景に加えて、被害者は事件当時、非常に
混乱しているため、適切な判断ができなくなっている
ことが多い。そんなことが自分の身に起こったという
こと自体忘れてしまいたいのが人間だと思う。
言うまでもないことだけれど、警察へのリポートは、
早ければ早いほど良く、時の経過とともに証拠は
どんどん薄れていく。病院で採取されるべき、
加害者の精子や唾液や汗などの、DNA鑑定に
関する証拠も、身体に残った傷も、すぐになくなってしまう。
例えば、人間、眼細胞の傷の回復は非常に早い
ことが知られているけれど、ヴァギナの傷の
回復も非常に早いことは、意外と知られていない。
月曜日に付いた傷が、木曜日には完治している
ことが多いという。
つまり、事件の直後、まだ 服や身体に犯人の証拠が
残っている時に警察に通報することが、法廷に
おいて勝訴ために非常に大切なプロセスなのだけれど、
ここが、被害者の置かれた最大のジレンマの一つだ。
一番 精神が混乱していて、正しい判断が一番難しい時に
訴えるかどうかの判断を下さないといけない。
(もちろんその後でも訴えられるけれど、一番
確実な手段として、法律関係者は直後の通報を
奨励している)
性犯罪の被害者の弁護士や支援者が一番よく聞く、
彼女達の 後悔は、ここにある。
「あの時、すぐに行動に出ていればよかった」と。
時の経過とともに、カウンセリングや、家族や
友人などのソーシャルネットワーキング等を経て
被害者は癒されていくわけだけれど、その中で
残りの人生においていつまでも残る後悔は、
犯人が捕まらなかったことや、裁判で真実が
認められなかったことだったという。
自信を回復して、精神が安定し、正しい判断が
出来るようになったとき、ほとんどの女性は、
法的手段を取るべきだったと思うという。そして、
その時には 全ての証拠が消えうせていることが多い。
なんともやりきれない話である。
性犯罪の被害者の癒しのプロセスで、ある意味で何よりも
パワフルであるのは、犯人が捕まって、法廷で勝訴したとき、
つまり、真実が真実として、人々から信じてもらえた
時だという。その時の、癒しの力は、絶大だという。
長い間うやむやにされていた 真実が聞き入れられた時
人々は癒される。
(余談だけど、殺人事件や、酷い事故の遺族や、
子供がいじめによって自殺した親たちが、
自分達の全てを掛けて、法の上に真実を追究するのも、
真実が認められたとき、彼らの心の傷が
癒されるからだろう。愛するものの死の
真実が明らかにされたとき、死者は報われ、
遺族達は癒される)
しかし、前述の、「一番混乱しているときに、
一番大事な決断を迫られる」というジレンマは、
どうにか回避されるべきである。それは、被害者に
とって、あまりにも酷である。
そこで、この講義の弁護士が実践している教育は、
「もし 自分が性犯罪の被害者になったときどうするか、
あらかじめ決めておく」
ということだった。その可能性について、以前から
よく考えて、決めておくことによって、その時に
なって決断することを避けられるということだ。
もちろん、そんな事件に巻き込まれたら、どうしたって
人は大混乱に陥るけれど、この方法は、機能するようだ。
「自分が性犯罪の被害者になったら・・・」
こんなこと、誰も考えたくない。
しかし、世の中の女性の4人に1人が、人生の中で
レイプの被害にあうという統計が示すように、
性犯罪というのは、実は身近なところにある。
一般に、共謀というと、二者が、主に悪事や不正を
働くために秘密裏に協力したり協定を結んだりする
ことを意味する。これは、ゲーム理論や経済学などの
用語だけれど、臨床心理学においてもCollusionという
概念がある。
基本的に、臨床心理学でCollusionというと、
therapeutic Collusion(治療的共謀)を
意味し、これは、治療者が、クライアントのもつ
問題の核心などに気付きつつも、クライアントと
暗黙に「協力」して、その問題に触れずに治療を
続けることを指す。
これは多くの臨床心理学者の間では、通常 好ましく
ない状況とされていて、Collusionはしばしば
Therapeutic Misalliance(治療上の誤った同盟)
と同義的に使われ、心理療法の進行の停滞や、後退
などの原因の一つとされている。
しかし、心理療法における全てのCollusionが
治療において有害なわけではなく、一時的なCollusionが
クッションのような役割をしていて、治療が決定的な
破局に向かうのを防止する効果も認められている。
例えば、臨床心理学者における慢性精神分裂病
(統合失調症)の治療において、分裂病患者のもつ
こころの問題の核心に触れる事象はあまりにも
患者にとって脅威的で、不用意にそれに触れるのは
あまりにも危険なため、互いにその問題を認識しつつも
あえて触れずに治療を行うことがある。
本題から逸れるので、これ以上の詳細は避けるけれど、
臨床心理学において、Collusionとはつまり、
セラピストとクライアントが暗黙のうちに協力して
ある問題を見ないようにすることだ。
でも、この臨床心理学においてのCollusionという
現象は、何も心理療法家とクライアントとの間だけに
起こることではなく、私たちの日常の至るところに
存在している。
例えば、セックスレスの夫婦やカップルにおいて、
どちらか一方が外で別の人と性的な関係を持って
いるのを、もう一方も うすうす気付きながらも、
あえてその問題を見ないようにして恋愛関係を
続けるというケースは世の中 多いと思う。
Collusionは、意識して行われていることもあれば、
ほとんど無意識的に行われていることもある。
例えば、上の例で、どちらかの浮気を、もう一方が
気付いているとき、浮気している方は、ばれている
ことに気付いていなかったりする。
また、浮気をされている側も、「もしかしたら」
という、意識レベルまでその疑念が浮上していない
無意識レベルで気付き始めていて、無意識のうちに
問題に触れる言動を控えたりする場合もある。
それとは逆に、浮気している側も、自分の浮気が
完全にバレていることを知りつつも、知らないフリを
してあえて続けるというケースも多い。
いずれにしても、こうしたカップルにおいて、「浮気」
という問題を明るみに持ち出して言語化することは、
二人の関係において致命的なダメージが予測され、
その結果破局を迎えるよりは、不正を認識しつつも
その問題には とりあえずお互い触れずにいようという
暗黙の同意や協力が存在する。
恋愛関係以外でも、友達関係において、友人が
明らかに間違ったことをしていたり、方向を誤って
生きていることに気付いているのに、友好関係に
問題が生じるのを恐れて、あえてその問題に触れない
人は世の中多いし、会社で、部下が不正を働いている
ことを認識しつつも、あえて注意しない上司もいる。
いずれにしても、Collusionの存在する人間関係
には、明らかな「ニセモノ」や「関係の不健全性」が
存在するわけで、そうした関係がずっと機能することは
ほとんどない。
しかし、ニセモノや胡散臭さや仮面の関係でも、
失うよりかはそれにすがり続けていたいのが
人間なわけで、こうしたCollusionは慢性化して、
機能不全ながらも続いていったりする。
コミュニティが崩壊し、人間関係が希薄になった
現代人において、こうようなCollusionが存在する
関係性というのは一昔前よりもずっと増えている
印象がある。もしかしたら、このような社会に、
特別なCollusionのほとんどない透明性の高い
関係を見つけるほうが難しくなっているのかも知れない。
Collusionは、二者間のもつ共同幻想が幻想であると
分かりつつも目を瞑ってみようとしない現象だけれど
それに直面した瞬間に大きなDisillusionment(幻滅)
を体験する可能性も多く、ほとんどの信頼関係において
Disillusionmentは「関係の終わり」に結びつくもので
いずれ問題に向き合わねばならぬことを知りながら、
その前段階としてCollusionの関係をもつ人は多いだろう。
前述のように、「一時的な」Collusionは、気持ちの
整理などの、こころの準備段階として、「ポジティブ」な
機能も持っているので、大切なのは、Collusionの関係を
慢性化させないことだと思う。
「被害妄想」と聞いて何かしらポジティブな ものをイメージする人はそうそういないと思う。
「あの人 被害妄想だよ」
「あんたそれ 被害妄想だよ」
このようにして使われる「被害妄想」という 言葉には、「自意識過剰で、防衛的で、懐疑的で 人のこと信用していないから悪いことを想像するんだよ。 考えすぎなんだよ」というような感じの否定的で批判的なニュアンスが必ずと言っていいほど含まれている。
しかしなぜ、その人は「自意識過剰」になるのだろうか。
なぜ「防衛的に、懐疑的に」なるのか。そもそも、 どうして他者を信じられないのだろうか。
「そういう性格だから」とか「神経質だから」とか 「強迫神経症だから」とか、人間とかく、その人の 性格的特徴などの属性に理由を見出しがちである。
しかし、臨床心理学には「健康な被害妄想」という概念が存在する。以前これについて少し触れたことがあるけれど、「健康な被害妄想(Healthy Paranoid)」とはつまり「ほどよい被害妄想」のことで、 「『妄想』かもしれないけれど、(あったほうが)ないよりも健康」な程度の懐疑心などについていう言葉だ。
白人至上主義のアメリカ社会で、アフリカ系アメリカ人が 社会で成功したりしてうまくやっていくには、この「適度」な被害妄想が必要不可欠だと言われている。
あからさまな人種差別こそなくなった現代社会だが、 一見分かりにくい人種差別(悪意や偏見を持った 警察官や教員や上司などの微妙で見分けにくい形の人種差別)は残念ながらどこにでも存在する。
そうした中で、他者、特に力をもっているもの (会社の上司、教員、警察官など)に対して何の疑問も抱かずに生活している非白人、特にアフリカ系アメリカ人は、社会でうまくやっていけない。「健康な被害妄想」がないゆえに潰されるという。つまり、ある種の適度な自意識や懐疑心や防衛性が、社会に存在する様々な「洗練された悪意」から身を守っているというのだ。
妄想とは、一般に、現実から離れた、根拠のない 悪性の想像で、これが病的にひどくなると、 「妄想型人格障害」(Paranoid Personality disorder) さらに、「妄想型 精神分裂病(統合失調症)(Paranoid Schizophrenia) 」などの極めて好ましくない 精神障害になるけれど、現実検討能力(reality testing) や現実的な客観性を持ち合わせた被害妄想は、ある程度はとても自然なことで、誰だって抱くものだ。
また、一般的に、人は、いろいろな外的要因に影響されて精神状態が悪くなっているときに、いろいろと良からぬ想像をするのもで、問題が好転したり、気分が良くなったらそうした「被害妄想」はス~と解消されるものだ。
以上のことを踏まえて考えてみると、自分の周りの誰かが「被害妄想」を抱いているなあと思った時、「そういう性格だから」と結論を急がずに、「何かそのような想像に結びつくことがあったのかもしれない」とか、「今いろいろあって精神状態が
良くないのかも知れない」とか、「いろいろ、裏切りの経験をしてきたのかも知れない」・・・と、より共感的にその人と付き合えるし、理解も深まるものだと思う。
同様に、自分が懐疑的になっていることにふとした瞬間に気付いたときに、「あ~やだなあ。自分頭おかしいよ」とか、「こんな風に考える自分ってやだなあ」とあまり自己否定的にならずに、自分のなかの客観性を総動員して、「なぜそのような想像が出てくるのか」「その想像に至るまでに
何が起こっているか」「自分は何を体験してきたか」などを冷静に見て、その時の精神状態や状況の悪さなどを考慮してみると、悪い想像も行き過ぎずに留まりやすくなる。
良い考えが浮かぶとまではいかなくても、
それ以上の精神状態の悪化や現実検討能力の低下も防げるし、そこには、いくらかのこころの平安がもたらされ、落ち着くこともできるかもしれない。
そういうわけで、全ての被害妄想が悪いものではないしある程度の被害妄想があるゆえに、こころの準備ができて善後策も取れているために、実際にそのような状態になったときにも、適切な行動が可能になる。
2006年5月に書かれたものです。
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人間、人生において困難に出くわしたとき、とりわけ、
命の危機や、その可能性に瀕したとき(たとえば、癌の
診断)特に周りの人間からのサポートが必要であることは
一般によく知られている。
命の危機とまではいかなくても、リストラ、離婚、失恋、
転職、犯罪の被害、大きな失敗、大きな喪失など、
人生には、様々な問題が存在するもので、そうしたときに、
私たちは、大きな決断を迫られるし、不安や焦燥感や恐怖や
怒りや悲しみや苛立ちと言った、様々な感情で圧倒される
ことも多い。
そうした時に、多くの人がしばしば取る行動として、
気分転換に仲間と買い物に行ったり、飲みに行ったり、
イベントに参加したり、いろいろな趣味や習い事や
仕事を持って、生活を忙しくして気を紛らわせたり
することが挙げられる。
また、逆の立場で、周りの人間が、そのようなピンチに
瀕しているときに、我々はしばしばその人を気遣って、
遊びや飲み会に誘い出したり、いろいろな方法で、こころの
サポートを試みたりする。
もちろん、こうした気分転換の時間は人が人生の
危機に瀕しているときにどうしても必要な、大事な
時間だけれど、ここで人々がとかく忘れがちなことがある。
それは、「一人になる、まとまった時間」だ。
これは、ある乳がんの生存者達とその精神世界における
研究によるものだけれど、乳がんと診断され、途方もない
「不確かさ」に見舞われた女性達が、診断から治療の
過程をスムーズに経過する過程で取る一つの戦略として、
「集中した一人の時間」というものがしばしば見受けられる。
乳がんの女性達の多くは、母親であったり、妻であったり
して、普段、「周りの面倒を見る人」という役割が
周りから期待されていて、自分たちでもそのようなロールを
アイデンティティの一つとしているものだけれど、
精神的に圧倒されている時期に、そうした役割を傍らに
置いて、一人の時間を確保する女性は多い。
これは、一人になることで、自分の問題と向き合い、
こころの整理をして、人生や、自分自身を深く省みて、
問題を徐々に受け入れていくのにとても大切な時間だ。
可能であれば、そうしたとき、人は物理的に一人の
時間を設けるけれど、それが難しい場合は、表面的に
日課をこなし、人々とも接しながら、精神的に、一人
静かに考える時間の方を大切にするという。
仕事をしていたり、結婚している女性が一人の時間を
持つのは難しいことだけれど、このようにして、この
研究の女性達は、こころの整理をして、治療過程をうまく
乗り越えてきたという。
言うまでもないけれど、このように、一時的に、
集中して一人の時間を持った後、彼女達は、もとの
人間関係の中に、より適切な形で、精神的なヘルプを
求めていけるようになる。
「この人は何を今更そんな当たり前のことを
書いているんだろう」
と思う方もいるかもしれないけれど、現代人は特に、
この、「一人で居るべき時間」と、「こころの繋がり」の
時期やタイミングをうやむやにしがちな傾向があるように
思えることが多いのだ。
一人でいるのが不安だから、また、問題に直面したく
ないから、なんとなく忙しくして、また、付き合いの時間を
持って、回避し続けたり、また、周りに困っている人が
居るとき、
「或いはその人はいま一人の時間が必要なんじゃないかな」
と推し量って、そっと見守ってあげたり、待ってあげたり
することをせずに、「助けたい」、「力になりたい」という
自分の欲求を優先して、無理に外へ誘い出してしまったり、
考える時間を邪魔してしまったり、そうした様子が非常に
しばしば見受けられるように思えるのだ。
周りの人間の存在や、人々との繋がりを本当の意味で
楽しんだり、感謝したりするには、時に、「一人になる
勇気」も必要ではないだろうか。そして、周りの人間の、
「一人の時間」も尊重していくことが、これからの時代、
ますます重要になっていくような気がする。
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Reference
Albaugh (2003). Spirituality and life-threatening
ilness: a phenomenologic study.
Oncology Nursing Forum, 30,4, 593-598
「結果よりもそのプロセス(過程)が大事」とは、
よく聞く言葉だけれど、日常生活の中で、どれだけの
人が、実際に結果よりもプロセスに重点を置いて
物事を判断しているだろうか・・・
こういう疑問は時々抱くのだけれど、今回はこの
「プロセスの重要性」について少し考えてみたいと思う。
世の中にはもちろん、「結果がすべて」という現実が
存在する。しかし、多くの物事においては、結果と
同じくらい、いや、それ以上に、そこまでの過程が
大切な事象も多い。
とにかく結果の方に意識や重点を置いている人のことを、
英語では、"Goal-Oriented"などと呼んだりするけれど、
極端に「目的達成」ばかり考えている人は、しばしば、
その過程の中で本来経験すべき気持ちや感情をあまり
経験しないで通り過ぎてしまうことが多い。
Goal-Orientedの人は、いかに目的を達成させるかを
効率よく考えるので、実際最終産物は完成度の高い
ものが得られることが多い。しかし、同時に、
ゴールのことばかり考えているので、気持ちに余裕が
なく、その過程を楽しんだり、その過程の中でいろいろ
学んだり、という好機を逃すことも多い。
(ちょっと余談だけれど、SEXにおいて、男性は
どちらかというと、ゴール(つまり射精)の方に
意識が向いている傾向にあるのに対し、女性は、
そこまでの過程のほうを大切にする傾向がある、と
言われているけれど、これも非常に興味深い話だと思う。
話を元に戻そう・・・)
さて、どれだけ物事のプロセスが大切かは、あなたが
今までに経験したいろいろな物事において、何が一番
あなたにとって大切な思い出になっているか、また、
何があなたを成長させたかを考えてみると分かると思う。
たとえば、ある人が教習所に通いつめて苦心して
車の免許を取ったとする。その時の達成感はとても
大きなものだと思う。後になってから、この人は、
免許を獲得した日を思い出しては幸せな気持ちに
なるだろう。でも、この人がもっとよく思い出すことは、
もしかしたら、それまでの小さな失敗や成功の試行錯誤
だったり、その教習所での小さな出会いだったり、
街に繰り出したときの風景だったりするかもしれない。
とにかく心を無にして、短期間で割り切って免許を
効率よく取ることだけ考えて免許を取った人は、
そのような風景や感情をあまり経験していないかもしれない。
と、ここまでで僕が言いたいのは、これから何かに
取り組むとき、また、人との付き合いなどを含めた、
様々な行動の中で、その過程の方を大切にしながら
行動していくと、思わぬ収穫やこころのゆとりが
出てくることが多いかもしれないということだ。
さて、ここからが今回の話題の本題である。
ここまでは、「自分」のプロセスとゴールについて
書いてきたけれど、これから、他者のゴールとプロセスに
ついて考えてみようと思う。
これは恐らくは当たり前のことなのかもしれないけれど、
私たちは、他者の経験において、多くの場合、その最終産物に
ばかり注意が行きがちで、そのプロセスについて考えることを
忘れがちである。
たとえば、誰かがある日突然、「会社を辞める」という
決断を打ち明けるとする。すると、多くの人は、とかく
「何で?」「どうして?」「やめるのは簡単だけど
もっとよく考えなよ」「甘いなあ」・・・などとついつい
言ってしまうものだけれど、その時に忘れがちなのは、
その人が、打ち明けるまでにどれほど考えたり悩んだり
したかという、その可能性についてだ。
会社を辞めるという、大切なことを、そうそう気軽に
決断する人もいないのは、少し考えればわかるもの
だけれど、他者の試行錯誤やプロセスは、見えにくい
だけに、忘れがちだ。
他者が何かの決断を下すまでに通ってきた過程を
考慮にいれることを忘れているために、周りの人が
その人を責めてしまうこともよくある。
たとえば、ある女性が、悩みに悩んだ挙句に、
妊娠人工中絶を選んだとき。
この女性の決意は、様々な葛藤や罪の意識や罪悪感に
さいなまれて、本当に大変なところを通ってきて、
ようやく出てきた結論なのかもしれない。
しかし、その最終産物である、「中絶」という事実だけに
人々は注意を向けがちで、勝手な推測や想像などを
無意識にこの女性に投影して、心無いことを言ってしまったり
する。面と向かって言わなくても、陰でそのようなことを
いう人は多いと思う。
これは、「プロセス」について察することをしないがために
傷ついている人をさらに追い込んでしまうというケースだ。
最近、ある人が、妹の結婚式に出ないことを、本当に
悩みに悩んだ挙句に決心した。その人は妹と大の仲良しで、
妹も、その人の決断を理解していたのだけれど、共感性に
欠ける両親は、その人を強く非難した。
その人が、その結論に至るまでにどれほどの涙を
流したのか、彼らはまるで分からないようだ。
皮肉なことに、他者の決断や結果において、その事象が
重要なものであればあるほど、周りの人間は、プロセスを
考慮しないで、自分の感情を投影して、その人を非難したり
裁いたりしがちである。大事な物事というのは、それだけ
私たちにとって、強い思いを伴うもので、その過程を
考慮に入れる余裕もなくなりがちなのだろう。
以上の様なことを踏まえてみると、プロセスについて
考えることは、それが自分のものであっても、他者の
ものであっても、心の余裕に繋がるもので、非断定的で
ゆとりのある人間関係にとってとても大切なもののように
思える。
あなたの周りの誰かが最近思いがけない決断をした時、
その決断に対して直接的にコメントするのではなくて、
その背景にあるいろいろなことを推し量ったり、なんとなく
聞いてみたりすると、あなたはその人にとって、より
支持的になれて、その人のこころの支えになるかも
知れない。
私たちは、過去に様々な経験をし、現在も何らかの 経験を現在進行中で、これから先もいろいろな 経験をしていくことになるけれど、その中には、 本当に楽しくて素晴らしいものもあれば、 思い出すのも不愉快だったり苦痛だったりする、 トラウマティックなものも多いと思う。
この、不愉快で苦痛な経験というのは、時に 精神に支障を来たすほどに深刻な体験だったり するけれど、トラウマとして記憶されている 自分の中でまだ未解決な出来事は その出来事における解釈とワンセットになって存在している。
ここで大切なのは、全ての物事には、 「起こったこと」そのものの意味での「現実」と、 個人によって捉えられた、解釈を含んだ「現実」とが 存在することだ。
もちろん、全ての経験された出来事には、 個人的な解釈が伴うわけで、それは、ポジティブな体験にもネガティブな体験にも言えることだけれど、 今回話題にしているのは、主にネガティブな 経験についての話である。
誰にでも、過去の出来事で、今でも思い出すたびに 嫌な気分になることってあると思う。また、 ここ最近を振り返ってみても、不快な体験の 一つや二つはあるのではないだろうか。
そうした出来事において、「なんでそれは 自分にとって不愉快なのかな」とか、 「その出来事の(具体的に)何が自分を これだけ嫌な気分にしているのだろう」とか、 「自分の気持ちを乱している本質はなんだろう」と 考えてみると、そこには必ず、その体験における なんらかの「意味」が見つかると思う。
たとえば、「とても愛していて、誠意を尽くしていた 恋人が、誰かと浮気をした挙句に、自分を捨てて その人の方に行ってしまった」、という体験。
この「体験」の描写は、割りと個人的なニュアンスが 含まれているけれど、もっと素のままの、 「一つの出来事」として捕らえてみると、 「カップルのうちの一人が、他の異性に興味をもって、 結局その新しい異性を選んだ」
というもっとシンプルな現実が出てくる。
この体験が、去られた人間にとって苦痛なのは 誰にでも分かることだと思うけれど、では なぜそれが苦痛なのかといえば、そこには、 「裏切り」、「見捨てられ感」、「拒絶」、 「幻滅」、「失望」、「尊厳の欠如」、 「一人の女/男としての敗北感」、「失敗」、 などの、「一方的で理不尽な形の失恋」という 意味や解釈が伴うからだったりする。
しかし、多くの人が体験するように、そうした 身を切られるような思いの失恋に伴う 辛い気持ちは、時を経て、忘れた頃に
癒されている。
どのようにして、失恋の傷は癒されたのだろうか。
そこには、時の経過や忘却のシステムなど様々な 要素が関与するけれど、それとは別に、私たちは、 時間をかけて、その体験から少し距離を持ちつつ、 その出来事に対する新しい意味を見出すようになる。
失恋の渦中にいるうちは、強烈な感情などで 見えなかったけれど、そのうちに、「そういえば、 自分は相手の気持ちに全然答えてなかったな」とか、 「もっと一緒にいる時間を作ればよかった」とか、 「もっとコミュニケーションを大切にすれば よかったかな」とか、「自分がそっけなくて、 相手は寂しかったのかな」・・・などと、いろいろ 新しいことを思いつくようになり、やがて、 失恋当時に感じていた解釈とは全く異なった 新しい意味が、その体験に見出されるようになる。 「裏切り」や、「敗北」とはまた違った意味が。
過去の経験で、今でもこころの中で未解決なもの というのは、ほとんどの場合、こうした、「新しい 意味」が見出せない状態だったりする。それは、 「新しい意味」など到底見出せないほどに複雑な 状況だったり、まだその出来事にたいしてこころの 距離が近すぎたりするわけだけれど、精神療法に よって、クライアントがトラウマから癒されて 進んでいける過程には、こうした深刻な体験の 意味の「分解」と、新しい形での、「再構築」が 伴うのだ。
「起こったこと」そのものの現実は一つなのだけれど、 そこには様々な概念や意味が存在する。
起こってしまったことは、もちろん元には戻らない。 しかし、人間は、それに伴って長いこと存在する 「ネガティブな意味」を、より建設的な意味へと 変えていくことができる。
なんだか大げさな話になってしまったけれど、 もっと小さな日常の嫌な出来事でも、それを、 「面倒なこと」「厄介なこと」「自分は被害者」と いうところから、なにかしら、自分を成長させる よい機会など、違った意味に置き換えることで、 ストレスは随分と軽減されたりする。
ある分析家は言った。
「私は、ストレスを感じるようになったとき、 なんでそれが自分にとってストレスになっちゃったのかな、それはいつからかな、と考えてみる」
「先進国の、私たちの日常生活で、ストレスの源のほとんどは、人間関係が絡んでいて、外部から来るように感じるストレスも、結局のところ、それをストレスにしているのは自分なんだよね」と。
今現在、何かあなたのこころを乱したり、嫌な 気分にしているものがあるかもしれない。その物事の 出来事としての現実は変わらないけれど、その意味だとか、捉え方というのは、変えていけるものだ。
しかも、そうした「意味の再構築」というのは、 「問題のすり替え」とは違って、本題に取り組みつつ体験していることの意味を作り変えているので、それはやがて、物事の本質的な 解決へと繋がっていく。
「時間」という言葉において、多くの人が、ほとんど
大前提のように抱いている概念は、Clock Timeだと
思う。いわゆる、世界共通の、過去から未来へと
流れる、不可逆的で、直線的な、「時間」だ。
でも、我々がこうして「時計」という器具を通して
便宜的に感じることができる、規則的に経過する
時間は、「時間」という概念のうちの、ほんの
一部に過ぎない。この「目に見える時間」ですら、
微分していったら、実は切りがない、本来は連続した
ものだ。時計やカレンダーによって知覚できる時間は、
ある意味で、時間であって時間でない。
「時間は止まらない」とか、「時間は不可逆」だとか、
「時間は直線的」だとかいう前提も、ある状況や環境では、
あまり意味を成さないものだったりする。
いくつかの文化においては、時間とは、直線ではなくて、
円周のように捉えられ、それは、過去から未来へではなく、
その周期として巡り巡ってくるものと捉えられたりする。
癌の生存者においても、時間の概念と言うものは、
大きく変わってくることが少なくない。たとえば、
我々は、自分の誕生日を迎えるとき、「また一歳年を
取った」と捉えることが多いと思うが、癌の生存者の
人たちには、人生は、誕生日を軸として、
円周のように捉えられるようになったりする。
未来記憶で触れたように、極度のストレスや、生命の
危機に晒されると、ひとの「未来記憶」は大きく
変わってくる。同様に、時間の概念も、人それぞれ
新しい形で捉えられるようになる。「あと何年生きられるか」
という直線的な時間ではなく、たとえば、「またもとの場所に
戻ってきた」という捉え方。
普段我々が意識している時間の概念だけれど、実はそれが
「時間の可能性のほんの一つに過ぎない」と考えてみた
とき、時間の意味は変わってくるから面白いと思う。
最近よく思うのは、人間関係においても、時間の
流れと言うのは、人それぞれ実にまちまちで、
個人差が大きいものだということだ。たとえば、誰かと、
ある物事を共有したとする。それがポジティブなもので
あれ、ネガティブなものであれ、我々は対人関係に
おいていろいろなことを経験する。
それで、自分の中ではとっくの昔に終わっていたことが、
相手の中ではずっと続いている、と言うことは少なくない。
その逆に、自分の中ではまだホットな事象が、相手の
中ではすでに忘却の彼方にある過去の物事だったりして、
一つの物事においても、時間の流れは人それぞれ違っていて
面白いと思う。
これは僕が気をつけていることの一つ
だけれど、誰かに何かもらったり、良くしてもらって、
それから日が経って、久しぶりに会ったとき、自分は
その間に実にいろいろなことがあって、そういうことも
すっかり忘れそうになるときがあり、でも、この
「自分の中では終わっていること」が、相手の中では
もしかしたら続いていることを決して忘れてはならない、
ということがある。
だから、久しぶりに会う人とは、前回会ったときに
何があったか、ちょっと思い出してみると良かったり
する。あと、誰かに何かすごい話をした後、自分の
中では解決したけど、相手はずっと心配してくれていた、
などということがないように、なるべく気をつけている。
カップルセラピーという心理療法があって、それは、関係がまずくなったカップルや夫婦が、最善の合意点(それは和解かも知れないし、離別かもしれない)を求めて、基本的にはカウンセラーと三者面談をするのだけれど、このカップルセラピーの初期の会話は、多くの場合、お互いの過ちや欠点や、問題点などの罵り合いだ。
これは当然といえば当然のことで、お互いがそれぞれの今現在の相手に対して不満や怒りを抱いている訳だから、この罵り合いはしばらく続く。
これは別に、セラピールームに限ったことじゃないと思う。友人のカップルが、険悪な関係になってあなたに相談しにやってきたとき、そういうことは普通に起こるだろう。相手の中傷や攻撃やこき下ろしなど、「いかに相手が酷い人で、いかに自分は
傷ついたか」という話が延々と続いたりする。
あらゆるカップルの争いには、「自己憐憫」(Pity)と罪悪感(Guilt)の感情が付き物で、この二つの感情は常に隣り合わせである。たいていの場合、自己憐憫を抱く側と、罪の意識を感じる側の、二者のやり取りで、その役回りは入れ替わったりする。
たとえば、浮気した彼女の行為に傷付いて、 自己憐憫の感情でいっぱいになる彼氏と、 彼が自己憐憫のムードになっていることで、罪悪感を感じる彼女。でも、浮気の背景には、彼が彼女をほったらかしにして寂しい思いをさせ続けていたかも知れず、ここで、「あたしは寂しかった」となると、彼女の罪の意識は自己憐憫に変わり、彼の自己憐憫な感情は、罪の意識へと変わる。
これは単なる一つの例に過ぎないけれど、このようにして、少しずつ、相手を非難したい感情も収まってきたりする。
実際に、カップルが、和解に向かって歩み始めるのは、相手のことを、表面的な言動ではなくて、人間全体のダイナミズムとして理解でき始めた時だ。結局のところ
誰でも欠点だらけで、根本は自己中心的な人間だから、間違いも犯すし、相手を深く傷付けることもしてしまう。
でも、それを含めて人間で、あらゆる行為には、その本人にしか分からない、意味は必ずある。
実際に、たとえば浮気をした彼女の「実際の体験」を彼が正確に知ることはできない。この彼は、「自分より他の男の方がよかったんだ。 自分に隠れて楽しんでたんだ。ひでえよ」と 思うかも知れないけれど、もしかしたら、彼女は、彼とは得られない、親密感や、こころの交流や、受容がどうしても欲しかっただけなのかもしれない。
全然楽しんでなかったかもしれないし、楽しんでいたにしても、彼の想像する快楽とは全然種類の違うものかも知れない。
同様に、彼の傷ついた気持ちや、それに付随して起こった、暴力や罵倒などの、本質的な動機については、彼女には分からないかもしれない。
古代から、「他者のこころ」についての問題は "Problem of Other Mind"として哲学者たちによって議論され続けてきたが、どうしたって、他人の体験を本当に理解しあうのは不可能なのが人間だ。(相手のこころがホントに読めたら人間発狂するだろう)
ただ、ここで面白いと思うのは、僕たち人間が、「他者の精神世界や体験は、全くユニークなものであり、本人にしか分からない」という事実を一度認めてしまうと、却って相手の事を深く理解できるように
なるということだ。
別の言い方をすると、「この人はこういう人で、こういう願望があったゆえにこういう行動に出た」などと決め付けてしまうと、相手に対する理解や共感性はここでストップし、相手に対する攻撃や反感や軽蔑がはじまる。
誰かが、腹立たしい行動に出たときや、人を失望させるアクションを取ったときに、自分の世界観を相手に当てはめて、その動機を推測して決め付けてしまうのは簡単だし、人間そういうふうに考えるようにできているけれど、そこで、踏みとどまって、
他の可能性があることを考慮に入れた上で喧嘩したら、もしかしたら、相手のことをより深く知った上での仲直りも、それほど難しくないのかもしれない。
以前Domestic Violence(家庭内暴力、DV)のリサーチを
している時に、Burlaeという、恐らくフェミニストの
心理学者の論文で、"Theory of Mindful Space"というものを
たまたま見つけました。
自分が当時リサーチしていた内容とは直接は関係して
いなかったので使わなかったのだれど、タイトルと、
Abstract(要約)に、なぜかとても引かれるものが
あったので、とりあえず入手して、寝かせておきました。
ずっと頭の片隅にあったのだけれど、最近夏休みに入り、
いろいろ書類を整理していたらこれが出てきたので、
ついに読みました。
アメリカのDVにおける研究の殆んどは、女性が、男性の
パートナーから受ける、精神的、肉体的、また、性的な
虐待におけるもので、実際のアンケートやリポート等からの
Dataによるものが主なので、この、とても哲学的で抽象的な
論文は、なんだか異彩を放っています。
とても含蓄があって、面白い内容だと思うので、
ちょっと紹介してみます。
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この論文は、基本的に、フェミニストのPerspectiveを
取っています。また、BurlaeのこのTheoryは、DVの、
Prevention(防止)に重点を置いているのが特徴的です。
この理論によると、あらゆる暴力とは、自然に起こりうる
もので、自然界のバランスが崩れた状態としています。
つまり、暴力とは、私たち一人一人が持っているスペースに
対する、外部からの侵入、または侵略、もしくは、Captivity
(とらわれの状態)であると見ることが出来ます。
このスペースには、3種類あり、1)Bodily Space
2)Personal Space 3)Cognitive Spaceがそれです。
1は、文字通り、その個人がもつ、肉体そのもののレベルの
スペースです。レイプなどの、性暴力で、女性の体の中に
直接外部からInvadeしてくるものがこれにあたります。
ナイフで刺されたときなどもこれです。もっと微妙な
レベルでは、ある人が、望んでいない誰かから、
腕を捕まれたり、肩を叩かれたり、抱きつかれたり、
と言うのもあります。そのような行為も、この理論に
よると、暴力に該当します。
2は、パーソナルスペースの侵入です。日本は満員電車や
多くの会社の状況などで、常にパーソナルスペース侵されて
いる、ある意味とても特殊な社会です。
3は、言葉の暴力(意図的なものと意図的でないものと
あります)や、性差別的なプレッシャーなど、認知や、
気持ちのレベルでの侵入です。
どこかに軟禁されたり、また、経済的な理由などに
つけ込まれて、他へ行きたくてもいけない状態も、
これらに含まれます。
著者は、女性が、これらのマインドフル・スペースが
誰かから何らかの形によって侵される前兆をいち早く
キャッチして、Limit Setting(限界設定)をすることで、
危害を事前に防いだり、最小限にとどめることが可能だと
しています。
この、前兆とは、なんか変だな、いつもと違うな、
というような、小さな変化だったりします。
Mindful Spaceの理論は、従来のDVの定義をより包括的に
することにより、暴力が暴力としての形をとる前の段階から
将来の可能性としてのDVを予期し、防止します。
ある男性から食事に誘われ、「なにか嫌だなあ」とか、
「なんとなく気が進まないなあ」というFeelingなども
実は、マインドフル・スペースが侵されていることの
サインなのです。
この、内面から来る、違和感というものを尊重して、
断ったり、NOといったり、限界設定をすることが暴力から
身を守る第一歩だと著者は言っています。
私が面白いと思ったのは、この著者が、暴力を
スペースの侵害としてとらえていろところです。
確かに、暴力は、あらゆる意味で、スペースが
侵害された状態と解釈できます。
Boundariesというコンセプトもそうだけれど、
人間は共同生活のなかで、お互いの境界線というものを
尊重することって本当に大切だと思います。
境界線とは、ただ単に物理的なスペースだけでなく、
こころのスペースも意味します。
最近、日本では、子が親を殺すという事件が相次いでいます。
私が気になるのは、加害者の人々が、口をそろえて、
「自分には家に居場所がなかった」と言っているところです。
彼らのいう「居場所」とは、決して、単なる誰も入って
こない、快適な部屋を意味しているのではないでしょう。
「居場所」とは、その人がそこにいていいのだという、
暗黙の、Acceptance(認めること)だと思います。
お互いの人権や境界線の守られた、生きていて安心の出来る、
物理的な空間を越えた「場所」です。
最近の日本では、そういう「安心できる場所」がない、
という人々が増えていっているように思えて仕方がないの
です。
誰かが誰かの境界線を飛び越えたときに、争いは生じます。
親や、環境から、常に境界線を侵されて育った人たちが
深刻なこころの問題を持つことになるのもある意味では
このためでしょう。