興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

発言と関係性

2010-01-03 | プチ臨床心理学
 言葉というのはつくづく面白いものだと思う。

 世の中には、発言「し過ぎる」ことが問題で人間関係に問題を抱えているひともいれば、発言が「少なすぎて」人間関係に悩んでいるひともいる。また、発言数がいわゆる平均的なひとより多くもなければ少なくもないけれど、その発言の内容そのもので人間関係に問題を生み出しているひともいる。しかし今回は、「言いすぎ」、「言わな過ぎ」について考えてみようと思うので、3つ目のケースについてはここでは触れないことにする。

 では、何をもってして「言いすぎ」、「言わな過ぎ」といえるのだろうか。もちろんそれにはいろいろな可能性があるけれど、臨床心理学的にいえば、「その人の発言が多すぎたり、少なすぎたり」することによって、その本人、或いはその周りの近しい人間が、またはその両者がその人間関係に問題を感じている、というのが最も典型的な可能性のひとつだと言えるだろう。
 たとえば、誰から見てもおしゃべりな夫婦やカップルがいたとして、その両者が、機関銃のようにひっきりなしに、しかしピンポンの如くテンポの良い会話のキャッチボールをしていて両者ともその関係に満足していたら、とりあえずその二人の口数には何の問題もない。
 また、湖の水面のように静かなカップルが、たとえば一日一緒にいて、ほとんどしゃべらなかったけど、お互いが一緒にいることやその関係性に満足していたら、彼らの口数にもやはり問題はない。
 それから、ものすごくおしゃべりな人と、ものすごく無口なひとの組み合わせで、後者は前者の話にいつも興味を持っていて、前者は後者が本当に言いたいこと、大事なことはいつでも言ってくれると分かっていて、また、そのひとが自分の話に興味を持っていると分かっていたら、そこにも問題はないだろう(彼らが会社や学校などにおいての人間関係においてその口数によって問題を抱えているかも知れないが、今回は、Romantic relationship,親密な関係に限定する)。

 このように、多少極端ではあるが、上記の例において、そのカップルは少なくともそのシステム内において、「話し過ぎ」でも「話さなさ過ぎ」でもない。
 それでは一体どういうときが「言いすぎ」、「言わな過ぎ」なのかといえば、それはもちろん、パートナーの発言数についてもう一方の人間が困っている場合である。興味深いことに、こういう場合、どちらか一方だけが困っている、ということはあまりない。たいていは、両者が両者の発言数について悩みやら葛藤やらもどかしさやら不満やら苛立ちやら怒りなどを抱えている。そこにはコミュニケーションに問題が生じているのだ。
 互いが互いにお互いに言いたいことを言いまくっているけれどどちらも全然相手の発言に耳を傾けていなかったりするところもあれば、また、一方が相手が無口で何を考えているのかが分からずに一生懸命その人が口を開くように言うのだけれど、そう言えば言うほどに相手は黙ってしまって悪循環、ということも本当に多い。(続く)

finding a small win in a failure

2009-10-10 | プチ臨床心理学
 長いこと習慣化してしまった問題行動を変えていくときに―
それを何か新しい建設的な行動にしていこうと思ったときに―
すぐに古い行動パターンが新しいものに取って代わることなど
まずないわけで、そこにはいろいろなステップが存在することが
多い。
 
 でも、新しいことを試してみて失敗したり
思うようにいかなかったとき、ひとは往々にして、
「やっぱり駄目だ、うまくいかない」、と、不適応だけれど
よく馴染んだ心地よい行動パターンに戻ってしまう。
「失敗した」ときの、周りの反応や、ネガティブな感情が
条件付けられて、再びチャレンジすることが難しくなるのだ。
腰が重くなる。きっとまた失敗するだろう、不快感を味わうだろうと。

 このようにして、せっかく何か新しいことをしようと
思えたにも関わらず、すぐにやめてしまうことが多いので、
ひとはなかなか変わらなかったりする。

 しかし、チャレンジして「失敗した」ときのその行動を
冷静に見つめてみると、「すべてが失敗」で、
全然良くなかった、何も進歩はなかった、ということも
実は少ないものだ。「失敗」した経験を振り返って
見つめてみるのは決して愉快なものではない。
しかし、そこであえて振り返ってみると、何かしら
小さな進歩、小さな成功が、その失敗の工程のなかに
存在していることは多く、そういうものをきちんと自分で
見つけて、認めてあげることで、
「今回は結果はいまいちだけど、Aまではうまくできた。
つぎはBまでできるように挑戦してみよう」とか、
「Aをとりあえず行動に移せたけど、ぎこちなかった。
でも行動に移せたのだから、次は、もうちょっと
スムーズにできるように練習してみよう」、などと、
小さな成功を認識して重ねていくこともできる。

 そのようにして重ねていったSmall winが、
やがては新しい建設的な行動へと確実に繋がっていくので、
ものごとをそのときの感情だとか、結果だけで一緒くたにして
短絡的に駄目だったとしてしまわないことが大切だと思う。
そういう積み重ねが、自己容認、自分を受け入れることに
繋がっていくのだろう。

論理と感情

2009-10-04 | プチ臨床心理学

 議論が行われている最中に、「あれ?」と思うことがときどきある。
それは、今まさに問題とされている論点が、論者の本当の気持ちや、
本当にいわんとするところから、根本的に異なるところにあることに
気付いたときだ。
 あれ、こんなに熱く語っているのに、何かが伝わってこない。
本当は全然違うことが言いたいんじゃないのか。
不平や不満や本当の問題は、議論されている内容ではなくて、
その人間関係的な問題にあるのではないのか。
 
 そんな風にして続いていく議論からいささかの距離を置いてみると、
本質的なものが見えてきたりする。
 大人は言葉によって論理的に秩序立てて攻撃したり
防衛したりするけれど、その論理の奥にずっとシンプルな感情があることを
忘れてしまうことは少なくない。

 論理と感情は、水と油のように、相容れないものなのだ。
そのことが常に頭にあったら、時間とエネルギーの無駄になるような
非建設的な議論は回避とまではいかなくても縮小できるし、
そのような議論以上の相互理解も深まるものと思われる。


他者の気持ちはコントロールできない

2009-08-22 | プチ臨床心理学
 我々人間は日常の様々な人間関係において、いろいろな情緒体験をする。それが愉快で幸福なものであることもあれば、甚だ不愉快なものであったり、ストレスや緊張感、苛立ちや、怒りの経験であったりもする。

 今回は、とくに後者の場合についていささかの考察を加えてみようと思うけど、そうした対人関係におけるネガティブな情緒体験には、すべてとは言わないまでも、そこには往々にして、そのひとの、相手の気持ちや考えや感情をコントロールしたいという思いが関係している。ひとことで「相手の気持ちをコントロール」といっても、そこにはいろいろな状況がある。

 たとえば、母親が、彼女の価値感や、社会的な基準において好ましくないと思う行動をしている子供を何とか変えようとしているけれど、子供は反抗するばかりでなかなかうまくいかない。また、ある男性が、交際している女性に、彼がよいと思っているものを熱心に勧めているのだが思うような反応が得られない。また、ある人が、友人から、「こういう風に見られたい」という思いが強くていろいろと自分の話ばかりしたり、ある事象において自分と価値観の違う友人の考え方を自分のようにしたくていろいろ議論してみたりなど、状況を挙げていくと枚挙に暇がない。

 このような上記の例は、どちらかというと分かりやすいものだけれど、もっと深刻な例としては、たとえば重度の鬱で引きこもっていたり、自殺念慮のある家族や配偶者、恋人や親しい友人を何とか助けようとして、いろいろと働きかけるうちに、どんどん人間関係が難しくなっていくということもあるだろう。

 このように、一見いろいろと異なった状況にみえるいろいろな対人状況だけれど、ひとつ共通していると思われるのは、その心的葛藤や困難を経験している人間の、対象となる他者に対する過剰な同一視と、それによる対人距離の欠損だろう。つまり、あまりの同化で対象との距離がなくなりすぎているため、相手のこころが自分のこころの延長のような幻想を知らず知らずのうちに抱いているので、それが自分の思うように変わらないものだから、ストレスや苛立ちや怒りとなり、非生産的な言動には拍車がかかり、そのような投影を受ける対象の人間は、相手のそうした思いが直感的に伝わるので、さらに防衛的になり、悪循環は続いていく。

 これらの問題において、「どうしたって相手は他人であり、他人のこころはもともとコントロールできないものだ」という前提を持った上で、もっと距離を持って付き合っていくことが考えられる。もちろん、人間は互いに影響しあう生き物であり、「相手がこのようになればいいのに」と思うのも当然のことである。さらに、そうした気持ちは多くの場合、善意に基づいていて、実際に、相手としてもそのように変わりたいと望んでいたりすることも少なくない(たとえば先ほどの例で、鬱の友人の自殺念慮を軽減させたいという思いは、友人本人だってもちろんそのように思っているものだろう)。ただ、問題なのは、ひとはそれぞれが主体性を持っていて、それぞれのアイデンティティに基づいて生きているので、それが脅かされるほどに短い対人距離や強い投影を受けては、そこにどんな善意があっても、こころの防衛機制が働くので、人間関係は難しくなるばかりだ。

 だから、「人間関係はそういう風になり勝ちなのだ」と分かっていれば、過剰同一視も未然とまではいかなくても軽減できるし、「なんとしても相手をかえなければ」という気持ちもやわらいできて、ストレスや強い感情も収まってくる。それは、この前の「理想」の記事とも通じるもので、「相手を~のように変えなければ」というのは理想、つまり幻想であるのにたいし、「相手が~のようになったらいいなあ。そうなるように、相手のこころの領域に踏み込むことなく、自分にできることをしたり言っていこう」という希望をもって付き合っていくのは、ずっと健全な人間関係であり、逆説的に、そうしたスペースやこころの余裕があるぶんだけ、相手も却って変わりやすくなる。

 筆者は以前、「このブログを読む読者に『すごい心理学者だ!』って思われたい!!!!!!」という気持ちがあり稚拙な文章をがりがり書いて投稿していたような気がするけど、いつしかそういう気持ちがなくなってしまってから、こうしてたまに思いついて記事を書いてみるのがより楽しくなった気がする。自分の主張を誰かに聞いてもらったり、文章を誰かに読んでもらうことはできても、その人が自分についてどう思うかは、どうにもならないのだ。また、どうにもならないからこそ、人間関係は楽しいのだと思う。

理想

2009-08-15 | プチ臨床心理学
 人間、理想があるから成長や発展があるのだ、という考え方は
一般的だと思うけれど、一方で、理想があるゆえに、
がっかりしたり、怒りを感じたり、悲しみを経験する、ということは
意外と知られていないかもしれない。

 理想とは、ひとつの幻想ともいえる。
幻想とは、そのひとの精神世界や自己愛の賜物であり、
そこには「本当の意味」で、他者は含まれていない。
たとえば、ある夫が「理想の家庭」を思い描いたときに、
そこにもちろん妻や子供は存在するわけだけれど、
その「理想の家庭」のなかの妻や子が、いったいどれだけ
「現実」の妻や子の人格や価値観を反映しているだろうか、
それから、その「理想」を妻や子がまったく同じように
よいものと思っているだろうか、それを共有しているだろうか、
などと考えていくと、その理想の中の「他者」ですら、
そのひとが頭のなかでこしらえたものに過ぎないことが分かる。

 「理想の職場」、「理想の結婚相手」、「理想の家庭」、
「理想の友人」、「理想の社会」、「理想の上司」
それから「理想の恋愛の終わり方」、「理想の転職の仕方」、
「理想の借金の返し方」、「理想の口論の仕方」、
「理想の車の買い方」(書いていて段々わけが分からなくなってきた)
など、「理想の~」というのはその人が理想を持つ限り、
いくらでも存在する。(ところでこの記事は私の理想からはほど遠い)
上の例でも、たとえば、「理想の上司」がいるとして、
その上司との関係性のなかには、多かれ少なかれ、共同幻想が存在し、
無意識に目をそむけている、見たくないような欠点や問題点はあるだろう。
その「目をそむけている」ものがどんどん前面に出てきて、
遂に目をそむけきれなくなったとき、その共同幻想は崩れ、
ひとは失望や、怒りや、苛立ちや、悲しみを経験することになる。

 ところで、いうまでもないけれど、理想と希望とは二つの異なるものだ。
希望とは、もっと現実的で、幻想が少ない分、無理もなく、
そのようにならなかったときの精神的ダメージも少ない。
 たとえば、恋人と誕生日のデートをするひとが、
その日の「理想」をがちがちに固めて頭の中で夢想して切望していたら、
ちょっとしたずれや思いがけないできごとにがっかりするかもしれないけれど、
「こんな感じになったらいいな」ぐらいの「希望」であれば、
そこからちょっとやそっと現実がずれたところで、
もっと柔軟に構えて、その「ずれ」を楽しめるかもしれない。

 このように考えると、「理想などはじめから持たないほうがよい」、
という師の言葉にうなずけるところは多い。
理想があるから、その結果に点数をつけてみたり、自己批判的になったり、
たとえば「今回のプレゼンは90点」とかいって、
十分によくできたのに、フィードバックもよかったのに、
その「10点」ゆえに、フルに自分を認めてあげられなかったり
するひとも多い。

 理想をいえば、理想など持たずに、しかし現実的で柔軟な希望を持って、
そのときそのときの現実をきちんと経験して受け入れていくことだと思う。



 

Open-ended questions

2009-02-25 | プチ臨床心理学
 世の中のあらゆる質問は、Open-endedとClose-endedの二つに分けられる。
 たとえばあなたの友人が旅行から帰ってきたときに、「楽しかった?」と聞くのがClose-ended question (閉ざされた質問)であるのに対し、「旅行はどうだった?」と聞くのがOpen-ended question (開かれた質問)である。

 我々サイコセラピストが通常使うのはOpen-ended questionだけれど、それはOpen-ended questionが、文字通り、回答者に自由で広範な(つまりOpenな)回答の機会を与えるからだ。
 
 Close-endedな質問では、「うん、楽しかった」で終わってしまうかもしれないが、Open-ended questionでは、「楽しかったよ。渋滞が酷かったけど食べ物がおいしくて空気がきれいで景色もすっごいきれいだった」というより多くの情報がでてくるかもしれない。そして会話はさらに促進されてゆく。

 これは日常のいろいろなところで役立つもので、誰かが困っていて悩みを打ち明けてきたときなどに、ところどころでOpen-ended questionをしていると(アドバイスや判断を急がずに)相手はどんどん心を開いてくるし、その人のことや悩みの本質などがよく分かってくる。

 しかしOpen-ended questionは万能なわけではなく、その失敗例が上記の写真である。

感情の幅(Range of emotions)

2008-01-26 | プチ臨床心理学

人間の感情の浮き沈みには、かなり大きな個人差がある。

 社会的に受け入れられないほどに気持ちが大きくなる人も
いれば、外に出られなくなるほどに気分が落ち込む人もいる。

 また、人間の感情というものは、天気のようなもので、
誰でも上がり下がりがあるけれど、その感情の浮き沈みの
サイクルがやたらと早く、一日のうちで何度も気分が変わる人も
いれば、基本的に安定していて、変化が緩やかな人もいる。
人々が日常生活の中で、「あの人安定している」とか、
「あの人は不安定」というのはこの事を指している。
これは、主に幼少期の家庭環境に起因する、
それぞれの精神発達や人格の成熟度などと関係しているけれど、
それは本稿の範疇外なので割愛する。

 ところで、一人の人間の感情の幅や変動の傾向というのは、
大体において、その人の親のものとほぼ一致している。
もちろん違いはあるけれど、基本的に同程度のものだ。
父親と母親のどちらの感情傾向に似るかも遺伝や環境による。
たとえば、極端な性格の親を持った人は、感情の幅も広く
不安定になることが多く、バランスの取れた、安定した人の子は、
やはり安定していることが多い。

 外交的な親の子はやはり外交的になりやすいし、
内向的な親の子は、やはり内向的になりやすい。
精神を活性化するために個人が求める刺激の種類や度合いも、
やはり親と子で似ている場合が多い。

 それではなぜ親と子の感情の幅が似ているのかといえば、
子供の感情の幅は、その感情に対する親の耐性と密接に
繋がっているからだ。たとえば、乳幼児が身体的・感情的な
不快感を経験してぐずっていたり、取り乱し始めたときに、
その感情に対する親の耐性によって、その子供が「いつ」
親からケアや介入を受けるかは、
その親の感情の幅の傾向によることが多い。
ある親は、その子が泣きだす前に何かしらの対応を
するかもしれないし、ある親は、ある程度その子が
泣いていてもゆっくり対応するかもしれないし、
またある親は、その子が極端に取り乱しても
何の介入もしないかも知れない。

 逆に、子供が上機嫌で、おおはしゃぎしている時に、
ある親は、あまり激しいことに耐性がなく、かなり早いところで
介入するかも知れないし、ある親は、賑やかなのが好きで、
たとえば人や物に危害がない限り介入しないかもしれないし、
ある親は、子供が極端にはしゃいでいてそれが社会的に
不適切でも、その不適切さに気付かないで介入もしないかもしれない。

 このようにして、親は、子供の感情の浮き沈みに対して、
自分の感情の変動の幅を基にして介入をする。
(もちろん無意識の話だけれど)
それで、それぞれの人間は、大きくなるにつれて、
それぞれの感情の幅(上限と下限)を身につけていくわけだが、
なんらかの理由で、躁と鬱の幅がものすごく広い人もいれば、
上限が低く、下限がやたらと深い人もいる。
人々が、「私今日すごい鬱なの」とか「俺すっげーブルーなんだけど」
とか言ったところで、この主観的な「鬱」の意味するものが、
それぞれの人間のもともとの感情の幅によって全く別次元のものを
意味していたりするもの、このためである。


原因ときっかけの違い

2007-02-10 | プチ臨床心理学

 しばしば耳にすることだけれど、例えば、

「どこどこのカップルが別れた原因、何だと思う?○○だって。たった○○が原因だよ。信じられる?」

という内容のゴシップがある。

 具体的な例を挙げてみると、

「A男さんが、B子さんと旅行に行って、旅先の食事中に二人が塩コショウを使うタイミングの事で大喧嘩になり、二人はそれが『原因』で別れた。たったそれだけの原因だよ~」

というような内容の噂話だ。別にこれは男女関係に限らず、あらゆる人間関係に問題が生じた際に当事者及びに周りの人間によって語られる話で、
「たったそれだけで」とか、「そのことさえなければ」
というような意見や感想をよく耳にする。

 さらにこれはキャリアや仕事などにも言えることで

「○○さんは△△が原因で会社が嫌になってやめたんだって。たった△△で。堪え性がないよね」

という話もよく聞く。また、やめた本人から、

「オレはある日何故か急に△△が嫌になってやめちゃったんだよ」とか

「私は◇◇というどーでもいい失敗して
 普段全然気にならないようなことなのにその時は急に嫌になってやめたの。あの失敗さえなければ今頃まだ・・・」

という内省もしばしば聞こえてくる。

しかし、本当にそうなのだろうか。

こういう話を聞いた時に、私は基本的に、その「原因」とされていることは、実は一つの「引き金・きっかけ」に過ぎず、例えその出来事がなかったとしても、同等の、または一見全く異なるように見える何らかの別件で、同じような結果がもたらされていたであろうと捉えるようにしている。

 つまり、その出来事は「最後の一撃」に過ぎなかったわけで、水面下ではそこまでで既にいろいろなことが起こっていて状況は飽和状態にまで複雑化していることが多いのだ。
  
 問題は、最後の一撃、最後の一滴だ。
表面張力でこぼれずにバランスを保っているコップの水は、誰かの振動によってこぼれるかもしれないし、もう一滴加わることで溢れるかも知れないし、或いは猫がぶっつかってこぼれるかもしれない。ここで人々はテーブルを揺らした誰かを責めるかも知れない。

「あんたが揺らしたのが原因でコップの水が こぼれちゃったじゃない」

と。

 しかし私は思うのだ。そんな なみなみに 水を入れておいて、こぼれないはずないだろうと。こぼれるのは時間の問題で、それはただのきっかけに過ぎず、根本的な問題はもともとグラスに入っていた水の量であると。

 ここで冒頭の例に戻るけれど、一見取るに足らないあまりにも馬鹿げた「原因」で別れたカップルというのはちょっと見つめてみると、その出来事が起こるまでに、実にいろいろな未解決な問題が
山積みになっていたり、関係性は既にどうしようもなく絡まっていたりすることが多い。つまりそれは起こるべくして起こったのだ。

 しかし、人間は基本的に、自分の身に起こったことに関しては、状況、環境などの外的要因に原因を帰する傾向があり、また逆に、他人に起こった問題に
ついては、その人の性格や能力など、内的な要因に問題の原因を帰そうとする傾向があるので (これには認知心理学的な裏づけがある)自分に何か起きたときに、己の内面を省みる代わりに表面的な原因を見つけてとりあえず安心しようと
するのだ。「原因」を見つけることで、自分の属性や問題点などに向き合うことも回避でき、一応の精神衛生が保たれるからだ。

 (ところで、他人の身に起こったことに関して表面的な原因について人が噂する際には、
 「たったそれだけのことで。○○さんは 人間的に未成熟だ」というニュアンスが 見られることが多く、結局のところ、その人の内的要因が話題の面白さのポイントになっている)

 ここで、「最後の一撃」からもう少し掘り下げて考えてみて、「考えてみれば、過去に○○という出来事が起きて以来、少しずつ歯車が狂い始めた」という風に内省する人は少なくない。しかしここで、過去の一地点に問題を集約してしまっては「最後の一撃」に原因を帰するのと大して変わらなくなってしまう(それにしても随分違うとは思うけれど)。

 そもそも、それならば「何故その過去の一地点で ○○という出来事に遭遇したのだろうか」。また「その時に感じた気持ちの原因は何だろうか」。「他の感じ方はありえなかったのだろうか」。
「なぜ、その出来事が自分にとって特別に記憶されているのだろうか」、などについて見つめてみて、例えは、自分の過去の人間関係や、基本な人間関係、対象関係のパターンなどについて分析してみると、そこには本質的な変化のきっかけが見出されたりする。

 以上のことを踏まえて考えてみると、世の中のあらゆる物事は、(もちろん例外はあるけれど)それまでの出来事との関連性によって起こるもので、一見「原因」と思えることも実は一つのきっかけに過ぎないのではないかと思えてくると思う。

 ただ、人は、あらゆる事象に対してとりあえずの「原因」を見出してそこに「エンドマーク」を作って安心したい生き物でもあるし、そうした思考・行動パターンが今日の人間において広く見られるのは、進化心理学的にいうと、そこに
「何らかの適応」があったからだと考えられる。

 実際、そうした行動自体がこころの防衛機制として作用しているし、なんでもかんでも煎じ詰めて考えていこうとしたら本当にきりがないのだけれど仕事や人間関係など、本当に自分にとって重要な
出来事においては、「引き金」にとらわれずに 少し掘り下げて内省してみることに大きな意味があるように思えるのだ。この辺りが、よく言われる「学ぶ人」「学ばない人」の分かれ目なのかも知れない。


アメリカの仔犬は甘えない?

2006-12-02 | プチ臨床心理学
先日、教育分析の待合室で土井の
「甘えの構想」を読んでいてると
そこには面白いエピソードが出てきた。


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土井が、「甘えは日本文化固有のものだ」と
いう洞察を彼の中で暖めていた時に、
当時の彼の師にその考えを投げかけると、
師は怪訝そうに、

「でも君、子犬だって甘えるよ」

と言ったという。

しかし土井は、師にすら分からないくらい
「甘え」は日本文化に浸透しているのだと
思い、甘え日本文化固有説について
さらなる確信を得たという。


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カウンセリングルームのドアが開き、
出てきた師を見た瞬間、自分は彼に

「先生、『仔犬が甘える』って
 英語でどのように表現しますか」

という疑問を投げかけてみた。彼の
答えは分かっていたけれど、なんとなく
聞いてみたかったのだ。

日系人の彼は、予想通りのことを言った。

「う~ん。なんていうだろうねぇ。
 『なんてかわいいパピーなの』とか。
 英語ではやっぱり(甘える)とは
 言わないだろうね」

「やっぱりね。面白いですよね。
 今、土井の『甘えの構造』読んでたんです。
 でも、不思議じゃないですか。仔犬が
 人間にじゃれ付いてるのを見て、日本人は
 すぐに『あ~甘えてる』と言うけれど
 アメリカ人は、絶対言いませんよね。
 そんな表現がない。

 『かわいい』とか、『フレンドリーだね』
 とか、『この子あなたのことが好きなんだね』
 とかいろいろな表現があるけれど、あの
 現象を見て、甘えているって思わない。

 でもそれは、アメリカの仔犬が甘えないわけでも
 ないし、アメリカ人と日本人で、全く同じ
 現象をみて、全く異なった解釈をしている
 訳ですよね。それとも、アメリカ人にも、
 『仔犬が甘えてる』という感覚はあるけれど
 それに該当する言語がないだけですか」

「いや、言語がないということは、やっぱり
 そういう概念がないということだろうね。 
 アメリカ人と日本人は、同じものをみている
 けれど、二つの異なった現実を見ている」

「どちらの現実も本当なんですよね?
 面白いですよね。二人は全く同じものに
 違う現実を見ているけれど、かわいい
 仔犬が人になついているという現象を
 共有してその場を楽しむことはできる」


普段私たち日本人が何気なく使っている「甘え」
と言う言葉が、日本文化独特であり、土井の
研究以来、「Amae」という国際語ができて、
世界中の文化人類学者や心理学者や言語学者などに
よって研究され続けているというのは、考えれば
考えるほど不思議なことだと思う。

「甘え」という概念を、日本人はしばしば、
「未成熟」とか、「自立できていない」とか
「幼稚」と言った、何かしらネガティブな
ものとして捉える傾向にあるけれど、
実際のところ、甘えは日本人と日本社会に
とって必要不可欠なのもので、甘えゆえに
社会が円滑に動いているのもまた事実である。

「甘え」が人間関係や、社会の場で問題になって
くるのは、その人が甘えることができなかったり、
甘えることが苦手だったり、甘える相手を
間違えたりと、そこに何かしら精神病理が
絡んできたときである。甘えがその環境で
うまくいっているとき、その日本人は健康だし、
甘えの欲求が全く満たされないと、その人の
精神には支障が出始めてきたりする。

こういうことを言うと、「オレは甘えてない」
と言う日本人が必ず出てくるけど、甘えとは
例えばこういうことだ。

晩秋の冷え込んだ夜に、それほど親しくない
知人宅に呼ばれて訪ねたときに、

「何か温かいものいただけませんか」

と言うことなしに、以心伝心や暗黙の了解で、

「あぁ、寒かったでしょう。今温かいお茶を
 お淹れしますね」

と言って、冷え切った体が温まるものを出して
もらうのを暗に期待するのが甘えである。
さらに、着く頃合を見計らって、既に温かいものを
用意してくれていたりすると、我々は、相手に
気持ちを察してもらった気がして嬉しくなる。
気が利くなあと思ったりして、その人の心遣いに
嬉しくなる。

逆に、何も出てこなかったりすると、個人差は
あるにしても、我々日本人は、少し寂しかったり
残念に思ったりするのではないだろうか。

でも、アメリカ人は、アメリカ人宅へ行ったら、
欲しいものは欲しいと自分から言うことに
なっている。欲しいと言わないのは、欲しくないから
だという「暗黙の了解」があるのではないかと
思うくらい、直接の言語によるコミュニケーションが
大前提になっている。もちろん、愛情の細やかな
アメリカ人は、ゲストに対して自ら尋ねてきたり
するけれど、ここで、日本流に「遠慮」などすると、
相手には、「いらないんだ」と伝わる場合が多い。

「甘え」という現象には、必ず少なくとも二人の
人間が存在する。甘えを送信する側と、甘えを
受信する側だ。そして、甘えを受信する側が
満たされるのと同時に、供給する側も、自分の
行為が相手に受け入れられた、喜ばれたと言う風に
こころが満たされる。このように、甘えとはそこに
「送受信」が成立して初めて成立する。

逆に言うと、例えば、送信された甘えを、受信側が
ウェルカムに思わなかったら、それは「お節介」に
なってしまうし、受信側の甘えの必要性を、送信側が
拒んだり、気付かなかったりすると、受信側は
拒絶などを感じ、傷ついたり寂しくなったりする。

このような甘えの送受信は、会社をはじめとする、
大人の世界のありとあらゆる日本社会に存在する
わけで、日本人は、生涯を通して甘えを経験すると
言われている。実際、日本人の精神世界やその心性は
「甘え」の概念なしには語りえないし、日本人の
精神分析には、その人の甘えニーズの理解が必要だと思う。




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「甘え」について書きたいことはたくさんあるので
これからまたしばしば書いていくかもしれません。
ご意見、ご感想など、お気軽にお聞かせください。

中間的な関係

2006-12-01 | プチ臨床心理学

以前にも書いたけれど、対人恐怖症というのは
日本文化固有の病気で、日本国外では、
中国と韓国を除くと臨床例は非常にまれである。
Taijin-kyofusho(TKS)と、そのままの名前で
国際語になっているのも、それが日本文化独自の
ものであることを如実に表していると思う。

(ところで、対人恐怖症の一種であることが
 多い引きこもりが、Hikikomoriとそのまま
 国際語になっているのも、Hikikomoriがいかに
 日本独特の文化によるものかがうかがえる
 ことだと思う)

少し古い文献や、知識の不足した精神科医などの
研究では、対人恐怖症が、Anthrophobia(人間恐怖)
と誤訳されていたりするけれど、対人恐怖症の人が
実際に恐れているのは、人間そのものではなく、
「人間関係」や「場」であるので、対人恐怖は
Anthrophobiaとは異なるものだろう。

ところで、対人恐怖は、非常に広範な概念で、
その幅は実に、精神科受診の必要に至らないほどに
軽症で社会に普通に見られる例から、妄想などを
伴う、分裂病圏のものにまで至る。

しかし、今回扱う「中間的な関係」というのは、
こうした広範な精神病理の中でも、軽症といわれている
神経症圏の対人恐怖症のケースだ。

対人恐怖症の人は、人間関係に大きな不安や恐怖を
感じるというけれど、すべての人間関係が不安
なのではなく、多くの場合彼らが苦痛を感じるのは、
「中間的な人間関係」であるといわれている。

つまり、彼らは、家族とか、恋人とか、配偶者とか
親しい友人といった、特に親しい人との関係や、
その逆に、全くの赤の他人との関係には特別な
不安は感じないし、感じたとしても、それほど
大きなものではない。

それではどんな関係が不安を喚起させるのかと
いうと、職場の同僚や上司や部下、学校のクラスメート
などの、「それほど親しくもないけれど、それほど
知らない関係でもない」という、微妙な距離がある
人間関係だという。

日本文化は、暗黙の了解とか、以心伝心と言った
非言語的なコミュニケーションが文化的に美徳と
されていて、その傾向は今日にも残っていて、
日本文化圏に生きるものは、多かれ少なかれ、
周りの人間の非言語的なメッセージや、その場の
雰囲気などを、ほとんど無意識のうちに読みながら
生活している。そうした環境の中で、日本人は
「周りの目」を常に気にしているわけで、
その「不確かさ」が特に問題になってくるのが
この「中間的な関係」だという。

(どんなにマイペースと言われている日本人でも
 例えばアメリカ人と比べると、その傾向は
 必ずといっていいほどある。周りの目に対して
 完全に無頓着な人は、日本社会ではうまく
 機能できないとも、よく言われている)

気の知れた関係では、不確かさは少ないし、
例えば電車で乗り合わせた全くの赤の他人との
間には、人間関係を築いたり維持したりする
必要もなく、雰囲気などが読めなくても特に
問題にはならない。

そういうわけで、中間的な、微妙に親しくも
親しくなくもない人たちとの関係に難しさを
感じるのが軽症の対人恐怖だといわれている
けれど、なぜ捉われてしまうのかというと、
その不確かさの中で、完璧に振舞おうとする
「完ぺき主義」が影響しているという。

対人恐怖の人は、自分の粗相だとか、社会的
不器用さとか、視線の仕方とか、赤面とか、
自分のそうしたもので相手を気まずくさせたり
することを恐れている敏感で繊細な人たち
だけれど、完ぺき主義を捨て、「別にいつも
うまく振舞えないてもいいんだ」と知り
不安の場でとりあえずやれるように日常生活を
続けていくのが何より治療的だとする森田正馬の
森田療法は、とても理にかなっていると思う。