依存にはさまざまな形態があり、それはまたさまざまな人間関係の精神力動の中に存在するわけだが、今日はその中でも特に看過されがちであるものに焦点を当てていささかの考察を加えたい。
本題に入る前に、割とあからさまで、傍からもよく見え、また当事者同士にも自覚が容易である種類の依存について考えてみたい。たとえば依存性人格障害の人が、強い分離不安や無力感を慢性的に感じていて親しい人間にしがみつくようであったり、しきりにいろいろな人間にアドバイスを求めることなくして何も決定できないような状況は、火を見るより明らかな依存である。それは本人としても強い不安感として自覚されるし、助ける側の人間としてもある種の負担として認識されることが多いであろう。
さて、ここで見落とされがちであるのが、「助ける側」の潜在的に持っている依存である。この立場の人間は、往々にして、「Helper」という己の役割とその関係性に依存している。誰かを「助ける」ことに依存しているのである。しかしこのHelperは一見するととてもしっかりしていたり、安定しているように見えたりするのでその病理は分かりにくい。
もしこのHelperの人間が、はっきりと己の意見や気持ちや願望や必要を認識していて、その自己の立場を常に踏まえたうえでHelperとして立っているのであれば、これは依存ではない。
問題は、こうした自己のNeedsについて認識できていない場合である。それが典型的に具現化されているのが、共依存(Co-dependency)の人間関係である。共依存において、やはり分かりやすい依存は頼る側の人間に見られるが、ここで重要なのは、支える側の人間が、相手を支えること、必要とされるということに依存していることだ。
もちろんあらゆる人間関係、とくに甘え文化の日本社会において、完全に独立した人間関係など稀であるけれど、共依存の関係とは、互いに成長することができない、互いが互いの成長を阻害している関係だ。たとえばアルコール依存症で無職の旦那と、彼を支える働き者の妻がいる。世間はこの妻の健気さや献身ぶりに感銘を受けたりするものだが、まずこの環境下において旦那の成長はまず望めないし、妻も旦那に傾倒することで自分自身の問題と向き合わずに済んだり、自分自身の本当のNeedsを認識できなかったりするので成長できない。
前置きがだいぶ長くなったけれど、つまり、助ける側にいることの多い人間において、何が依存で何が依存でない人間関係であるかは、その人が誰かと交流するときに、どれだけ自分の立場をきちんと認識できていて、自分の意見や気持ちを抑制することなく意識していて、相手に合わせたり、相手のNeedsに応えようとしたり、相手に好かれようちしたりすることではなく、自分をきちんと表現して、その関係性を本当に楽しめているか、ということになってくる。たとえば誰かと約束してどこかに出かけるとき、「相手がそれを望んでいるから」という理由と、「自分が行きたいから」という二つの気持ちがあるけれど、たとえばその理由が100%前者だけだったり、8割がた前者だけだったりしたら、それは「相手のNeedsに応える」ということへの依存である。
しかしこれが、50/50だったり、40/60だったりすると、その関係性のAuthenticityの度合いはずっと高くなってくる。理想としては100%自分がそうしたいから、という状況だけれど、相互依存(Inter-dependency.共依存ではない)の文化圏においては、たとえば30/70とか20/80とかの割合で十分にAuthenticかもしれない。もちろん状況によってはどうしても相手が望んでいるから、という理由の方が高くなることもあるわけで、やはりここで大切なのは、その人が常に自分の意見や立場を認識した上で、何かから回避するためではなく、その関係性にいることだろう。