興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

無意識のストレス

2019-05-29 | プチ精神分析学/精神力動学
以前、ストレスとは、その人がストレス源であるその事象をどう受け止めているか、どう解釈しているかで、軽減することもあれば、増大することもある、と書きました。

これはつまり、極論すると、自分の受け止め方次第で、同じ事象がストレスにもなれば、喜びにもなり得る、という話です。認知行動療法が、自分の「考え方について考える」事に重きを置くのもこのためです。

この基本姿勢はとても大切ですし、実際、我々が人生のあらゆる困難や逆境をうまく乗り切る秘訣は、その時々の苦境に対していかに楽観的(optimistic。楽天的ではありません)でい続けられるかだと思っています。

ただ、同時にとても気がかりであるのは、こうしたメンタリティに固執し過ぎて自覚すべきストレスを認識できないで生きている人たちです。これは一種の過剰適応であり、「前向きに考えよう」、「ポジティブ思考」、「大変だけれどいいことはたくさんあるし」、「辛いと思うから辛いんだ」、「ネガティヴに考えてもいいことないし」、「人生こういうものだ」、「心頭滅却すれば火もまた涼し」と、物事の良い側面ばかりにフォーカスし、そうでない側面から目を逸らしたり、そうした側面の影響力を否認して生活している事の現れです。

このような姿勢でいないと生活が立ちゆかないという現実も多々ありますし、「そうでない側面」を認識したらやってられなくなる、動けなくなってしまう、嫌になってしまう、といった不安が背景にある方も多いです。

それで生活が回っているのだからそれでいいじゃん、というわけですが、物事そんなにシンプルではありません。

実際、このように、合理化や否認の防衛機制によって巧みに無意識に抑圧されたストレス、意識の片隅に抑制されたストレス達は、消滅したのではなく、密かに生き続けています。まるで圧力釜です。こうした無意識のストレス達は、認識される機会を、表現される機会を狙って息を潜めています。

息を潜めていた無意識のストレス達は、その人の意識に上ろうと試みるのですが、そういう時、その人はその「意識に浮上してくる得体の知れない何か」に不安を感じ(これも無意識的な働きかけですが)、さらに合理化や否認、投影、抑制、抑圧、昇華などの防衛機制を総動員してストレスの意識化を制御します。

これで再び無意識のストレス達は一時的に制圧されるのですが、圧力はさらに増し、遂には暗躍を開始します。

この「無意識のストレスの暗躍」は、当人の意思とは無関係に、様々な形でその人を困らせるようになります。それは抑うつ状態かもしれないし、パニック障害や全般性不安かもしれないし、過剰な飲酒とそれに伴う問題行動、薬物依存、買い物依存、ゲーム依存、ギャンブル依存、摂食障害、不眠症、夫婦間葛藤、恋愛関係の困難、恋愛依存、性依存、クレプトマニアなどの反社会的行為、間欠性爆発障害、慢性疲労症候群、身体表現性障害など、枚挙にいとまがありません。

前向きに生きること、楽観的に生きることは、とても大切なことです。ただ、ここが本当に難しいバランスですが、ある程度以上の困難な状況に対して、「きちんとストレスを感じる」こと、「自分にストレスを認識することを許してあげる事」も、実はとても大切なのです。状況に不釣り合いにストレスを感じないのは要注意だということです。さらに厄介なのは、確かにストレスを一応は認識しているけれど、きちんと経験できていない人たちです。ストレスは、意識できる領域と、無意識の領域がありますが、こうしたケースでは、水上に現れた氷山の一角を全体だと錯覚している状態です。

ストレスをきちんと感じると、今までよりも疲れを感じやすくなりますが、その分無理をし過ぎる事もなくなり、より深く人生を経験することができるようになります。地に足をついて確かに生きているという感覚が増します。

ちゃんとストレス感じましょうって、世の中の多数派の価値観や考え方とはだいぶ異なりますが、ストレスを感じられずに生きづらさを感じている人が余りにも多い昨今の世の中には不安を感じるのです。もっと愚痴ったらいいです。もっと文句を言っていいんです。不平不満を言語化して表現していきましょう。

言わずもがなですが、こじらせましょう、などと言ってませんよ。こじらせるのは違います。ストレスのないところからストレスを作り出している人たちは、この記事の冒頭に戻って考える必要があります。でも「面倒くさい人」は意外と倒れないものです。過剰適応の人たちは、こじらせ系の方たちの「面倒臭さ」をもう少し取り入れるといいと思うんです。