【この記事をお読みになる前に】
この記事の目的は、自己愛性パーソナリティや自閉症スペクトラム症といった診断をすることではありません。精神疾患の診断は、精神医療の専門家が、ご本人にお会いして時間を掛けて慎重に行っていくものです。
この記事の目的は、ご本人またはそのご家族やパートナー、お仕事などで深い関わりのある方たちが、当事者意識をもって、こうした精神疾患について理解を深めることで、差別や偏見を超えて、どうにかお互い幸せに共存していくか、それが非現実的であれば、どのように、互いに傷つけあうことなく距離を置くか、離れていくか、読者の皆さんと共に考えていくことにあります。
あらゆる精神疾患がそうですが、そこにはひとつの正しい対処法など存在しません。何が正しいかは、状況によって変化しますし、柔軟性をもって臨機応変に対応していくことが大切です。そこで大事なのが、相手がどのような性質を持っていて、どのようなこころの成り立ち方をしていて、どのように外界を解釈しているのかについて理解を深めていくことです。
他者がある状況をどのように解釈して行動に出ているのか理解できますと、我々はその行動を我々の尺度や価値観を使って限定的に解釈する、という、負の連鎖を防ぐことができます。
これは、一種のメタ認知力、メタコミュニケーション能力ですが、メタ認知力に問題を抱えたNPDやASDといった課題を抱えた人達に巻き込まれ過ぎずに適度な距離をもって関わっていくための、高度なメタ認知力、メタコミュニケーション能力の獲得への挑戦でもあります。
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自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害、Narcissistic Personality Disorder、本記事では以後NPDと表記します)と聞くと、皆さん、どのような人物像を思い浮かべるでしょうか? この語彙は、ひどく否定的な響きがありますね。
そもそも自己愛(narcissism)とは何でしょうか?
それは平たくいうと「自分を大事に思う心性」であり、これは人間誰しも持っています。持っていない人間はいません。
それはたとえ自暴自棄になっている人でも、自分を傷つけている人でもそうです。
「セルフ・ネグレクト」に陥っている人にも自己愛はあります。
自虐的になっている人も、自分を酷く扱うように自己愛が作用しています。
自分の顔が嫌いで整形をしたいと思っている人も、その人にそう思わせているのは自己愛の作用です。
子供のためにすべてを犠牲にしている、「自己犠牲的な親」の心性や言動にも、強い自己愛が関与しています。これは後ほど詳しく述べます。
このように、自画自賛に酔いしれる人も、自意識に苛まれて生活に支障をきたしている人も、自己愛の課題を抱えています。
自己愛とは、もともと精神分析学の概念であり、自己愛について最初に系統立てて理論を展開したのは精神分析学の創始者であるフロイトです。
とはいっても、ここに精神分析学の有名な言葉があります。
「フロイトは、精神分析学の世界において最初に言葉を発した人間であるけれど、最後に発言する人ではない」、というものです。
実際、自己愛に対する考え方は精神分析学の中でも時代と共に変容していくもので、殊に自己心理学(self psychology)のコフートによる「健全な自己愛」(healthy narcissism)の提唱以降、その流れは大きく変わりました。
かつてフロイトは、自己愛とは未熟な人格の表れであり、人間は自己愛を完全に克服して対象愛に変えなくてはならない、と主張していたようで、現在でも、フロイトの理論に直接的に流れを汲む自我心理学派(ego psychology) の分析家達は、そのように信じています。
フロイトは天才であり、超人であったので、その境地に達することができたのかもしれませんが、それはとてつもなく厳しくて非現実的な目標です。
ただ、たとえ人が完全にその境地にたどり着くことはないとしても、自己愛から対象愛へ、という流れは、人格の成熟の過程であることは確かですし、ひとりの人間が生涯を通して目指し続ける理念としては大いに意味のあることだと思います。
仏教の悟りや無我の境地、キリスト教のセルフレスネスも、こうした自己愛の超越の表れであり、実際にそこに到達できる人は、全人口のごくわずかですが、存在するかもしれません。「極めて健全な自己愛」は、無我の境地やセルフレスの近似なのかもしれません。イコールではないとしても、限りない近似です。宮沢賢治さんの『銀河鉄道の夜』にも、こうしたテーマがあるように思います。
話がまた少し逸れましたので元に戻してまとめますと、自己心理学以降、現在に至るまでの精神分析学界の新しい流れでは、人が人として幸せに生きていくためには、程よい自己愛、つまり健全な自己愛は必要であり、自己愛を全て対象愛に変容させるなどそもそも不可能であり、目標にすべきことでもない、という立場です。自己愛そのものは、かつて考えられていたように未熟で幼稚な心性でもなければ、みっともないものでもありません。
健全な自己愛を認めた立場の精神分析学のひとつの目標は、自己愛の超越ではなくて、不健全な自己愛から健全な自己愛へ、未熟な共依存から成熟した相互依存の対人関係への変容です。
自己愛とは、人間が生きていくために必要なものであり、問題は自己愛そのものではなくて、その度合いや質的なところにあります。
(次回へ続く。全文をお読みになりたい方はこちらから)