興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

自己愛と自己愛性パーソナリティ障害 #2

2022-11-16 | プチ精神分析学/精神力動学

(前回の続き)

自己愛性パーソナリティ関連のコンテンツは、SNSやブログ、ネット記事や書籍などでも扱われることが多いですが、それはそれだけNPDが多くの人々の人間関係の中で問題になっていることの表れだと思います。

例えば、かつては「熱血漢」とか「とても厳しい人」とか「難しい人」とか「怖い人」とか「思いやりのない人」とか「自分大好きな人」とか「自己中心的で自分のことしか考えていない人」などと片付けられていた人たちですが、社会の意識が高まった事で、例えば部活動の体罰やあおり運転という名の傷害事件、モラハラ、パワハラ、アカハラ、カスハラなどのあらゆるハラスメント、また、こうした「ハラ」の人たちが激昂した成り行きによる事件など、NPDの傾向の強い人達は以前よりもずっと多く新聞の三面記事でよく見かけるようになりました。最近はある高校の女生徒が部活の先生から顔を殴られて顎が外れたまま放置されていた痛ましい事件などが新鮮です。池袋で起きた、高齢者による暴走事件も、これに該当すると思われます。

もっとも、こうした人目を引くような事件に発展する人たちよりも、そうでないNPDの人たちのほうが遥かにたくさんいるのも事実であり、これから話しますが、NPDにも様々な深刻度があり、これは程度問題であるので、診断が付くほどではないけれどグレーゾーンで「困った人」は、実はどの社会にもどのコミュニティにも一定数遍在します。このグレーゾーンに該当する人はとても多く、それが相手の自己愛の問題であると気付かずにその対人関係にストレスを感じて悩み続けている方は多いです。

たとえば、自分の利益や都合のために、相手によって態度を変える人(例えば部下には厳しく上司には媚びを売っている人、店員さんに対しては態度の悪い人、など)、「わが子のためなら」と、社会や周りの人達に無自覚に犠牲を強いる人たちも、自己愛に問題のある人たちです。

「わが子のために」という大義名分を掲げて周りに犠牲を強いている人たちは要注意です。なぜなら「わが子」はその人の自己愛の延長(narcissistic extension)であり、自分と同一視したわが子への投資は--少なくとも進化心理学的、精神分析学的、生物学的には--本質的には自己投資であるからです。それ自体は至極当然のことであり、何の問題もありません。あらゆる他の生物がそうであるように、人間にしてもそれはあるべき姿です。

問題なのは、そうした親御さんのわが子への同一視が強すぎる、過剰同一視(over-identification)のケースです。自分がわが子に投資するのは、自分の自己愛の作用であり、本質的には自己中心的なことであると自覚がある方は健全です。そうした自己愛や自己中心性に気づかないで、「子供のために自分を犠牲にする」、「自己犠牲」の自分に酔ってしまっている人たちは、他人の子供を含めた、周りの人間を犠牲にしてでもわが子の利益を追求します。他人の子より自分の子の方が大切であるのは当たり前です。それでも世の中の多くの人、つまり健全な自己愛の人たちは、よその子や周りの人への配慮を怠ることはありません。わが子が第一で良いんです。そうすべきです。他者に対する配慮や思いやりや一般常識を保ちながら。それができていない例はたくさんありますが、たとえば、レストランなどで自分の子供が駆け回ったり大声を出しているのを放置して、他のお客さんにその子が注意されたら、「うちの家庭の教育方針に口を出さないでください」などと逆上する人たちの自己愛は深刻です。こうした人たちの病的な自己愛は、残念ながら、自分の子供に対しても無自覚のうちに出てしまっていて、子供を傷つけているのですが、こうした人たちはそれにも気づきません。こうして自己愛の問題は世代間伝達されていく傾向にあります。

このように、診断は付かないかもしれないけれど自己愛の強い人たちは世の中に遍在します。

しかし同時に私が気がかりなのは、NPDなど特定の精神疾患の概念が独り歩きを始め、人々がこうした「診断名」を不正確で乱暴に使い、誰かを切り捨てることです。

まず、「人格障害は治らない」というのは、多くの人が信じている誤解です。

確かにあらゆる人格というのは長年かけてできたものであり、本人の相当な根気と努力がなくては治りません。

しかしこれは逆に言うと、本人の相当な根気と努力によって改善しますし、治る方もたくさんいます。実際にかつてNPDの診断基準を満たしていた多くの方の改善に伴走し、こうした方たちのNPD克服を目撃してきた私が言うのだから、間違いはないと思います。

人格障害は大幅に改善しますし、治る方もたくさんいます。

とは言っても、NPDの方たちが自発的に心理カウンセリングを受けにお越しになることはなかなかありません。なぜならNPDをもつ人たちは、常に自分だ正しいと思っていますし、自分が正しい、という立ち位置に固定されているので、対人関係の問題が生じると、自分は悪くないので、相対的に、相手が悪いことになります。通常病識は希薄であり、問題意識がありません。悪いのは自分ではなく他者なのだから、どうして自分がカウンセリングへいかないといけないのか、という考え方です。

こうしたわけで、大抵は、配偶者から最後通告を受けたとか、配偶者が子供を連れて出ていったとか、この問題を治さないと職場を追われるとか、「好ましくない外的要因」によっていらっしゃいます。

そして、せっかくカウンセリングに来ても、長続きしない方は残念ながらたくさんいます。

なぜなら、彼らの強い自己愛や肥大化した自己肯定感は、彼らの本質的な脆弱性や打たれ弱さを保護して覆い隠すものなのであり、その本質に触れられることを彼らはとても恐れているからです。

本当はとても傷つきやすく、被害的で、恥などの感情を感じやすいです。

それは多くの場合、彼らにとっても無意識であり、無自覚なことです。

彼らは自分が恥を感じていることすら気づかないかもしれません。

代わりに彼らはその状況にはそぐわないような怒りを表出します。専門的には自己愛憤怒(narcissistic rage)と呼ばれるもので、怒りという「第二感情」を爆発させることで、本来の感情である恥や悲しみ、恐怖などから意識をそらし、それらの感情を覆い隠します。いわゆる彼らの逆鱗であり、地雷ポイントです。

彼らは自分の劣等コンプレックスや脆弱性を意識しないように非常に用心深いですし、とにかく意識したくないものなので、カウンセリングで、こちらが直面化などのテクニックを避けて、共感的に接していても、そうした内的な脅威は感じやすく、それは彼らにとって極めて不安で不快で耐え難いものなので、いろいろとやめる理由をつけて合理化して勝手に来なくなってしまう人も少なくありません。とにもかくにもプライドが高いのです。

彼らが自分たちの本質と向き合わない限りNPDの大きな改善は望めないですし、遅かれ早あれ彼らは自分と向き合わなくてはなりません。

しかし本質的に傷つきやすく、侮辱や羞恥心を非常に感じやすい彼らがこれらの気持ちを感じないように、また、これらの気持ちに対して少しずつ耐性を作りながら進めていくカウンセリングはある種の名人芸であり、一般的な精神疾患とは別次元の、格段に高い臨床スキルが要求されます。

ただ、こうしたセラピストという「他者」の首尾一貫性や共感性は本来彼らが主要な養育者から受ける必要があったことであり、それが経験できず、本当はずっと求めていたことなので、一度強い治療関係が構築されると、それが中断になることはなかなかありません。

(続く。全文をお読みになりたい方は、こちらから)



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