今回は、皆さんからよく質問をいただく「自己愛」をテーマに書いてみたいと思います。
そもそも、自己愛とは何でしょう?
和田秀樹さんがある著書で、「自分を大事に思う気持ち」と表現されていました。
これは端的で的を射ていてしかもわかりやすい定義なので気に入っていてしばらくこの説明を使わせていただいておりましたが、ひとつややこしいのは、この「自分を大事に思う気持ち」を必ずしも本人が意識しているとも限らず、むしろ無意識的な場合も多いということです。
つまり、自己愛が「自分を大事に思う気持ち」であることは正しいけれど、それを本人が意識できているとは限らず、たとえば「セルフ・ネグレクト」を自認している人の中にも確かに自己愛はあるのですが、当人にはこの定義ではピンとこないかもしれません。
そこで私なりにより包括的なものを考えてみました。現時点で一番気に入っている定義は、「自分に重きを置く心性」です。
今回の記事で扱う自己愛は、この「自分に重きを置く心性」という意味で進めていきたいと思います。
精神分析学における自己愛の歴史は長く、自己愛について最初に理論を展開したフロイトは主張していました。「自己愛とは未熟な愛であり、克服すべきものであり、対象愛へと移行していかなくてはならない」と。
精神分析学で自己愛とは、精神的エネルギー(リビドー)が、自己に向いている状態を指します。一方、対象愛とは、文字通り、対象、つまり他者に精神的エネルギーが向いている状態です。
自己に精神的エネルギーが向いている状態が強すぎると、人は自己中心的になりますし、自己中心性が強いほどに、他者の立場に立って感じたり考えたりする「共感性」が低くなっていきます。自分のことばかりになってしまいます。
自分のことばかり、というと、多くの人々が「自己愛」と聞いてすぐに思いつく、自分大好きで自己陶酔型で自己顕示欲の強いイケイケな人達ですね。確かにこういう人たちの自己愛が強いのは間違いないですし、一番分かりやすい形の強い自己愛です。
ただ、先ほど例で出した自称セルフネグレクトの人や、悲観的で被害的で自己肯定感が低い人が、自己愛が低いのかというと、そういうわけでもありません。こうした人たちはまた、自分のことでいっぱいいっぱいだったり、自己憐憫の境地であったりして、精神的エネルギーは自己に向いています。
フロイトに流れを汲む、伝統的な精神分析学の心理療法家たちは、現代でも、自己愛とは克服すべき未熟な心性だという前提で臨床に取り組んでおられます。
ただ、ヘインツ・コフートが打ち出した「自己心理学」という新しい流れの中で、コフートが「健全な自己愛」(healthy narcissism)という概念を提唱して以来、精神分析学のなかでの「自己愛」の扱いも変わっていきました。
もっとも、先述した伝統的な精神分析学の人たちは今でも自己愛に対して否定的ですし、「健全な自己愛」などはオクシモロンだと言います。
コフートの提唱した健全な自己愛とは、人間が生活の営みの中で幸せに生きていくために必要であり適切なレベルでの自分を大事に思う気持ちであり、自分に重きを置く心性です。
(続く)