興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

自分との距離~disidentification(脱同一視化)

2014-03-14 | プチ精神分析学/精神力動学

 人間誰でも、辛い経験をしていたり、困難な状況に立たされた時、鬱感情に襲われたり、強い憤りを感じたり、生きづらさを感じたりします。 その状況や経験の度合いによっては、人は時に発狂しそうになったり、消えてしまいたくなったり、耐え難い屈辱感や怒りや罪悪感などによって精神に支障をきたすこともあります。

 いずれにしても、生きていれば誰でもどうしようもない生き辛さを経験することはあります。

 しかし、なぜ人間はそのように、耐え難いほどの悪感情を経験して苦しくなるのでしょうか。

 その原因のひとつに、自分との過剰同一視 (Over-identification)というものが考えられます。過剰同一視というとあまり馴染みがないけれど、同一視という言葉は聞いたことがあるという方は多いと思います。

 同一視とは、たとえば、私たちが小説や映画などを面白いと感じている時に必ずその中の登場人物の誰かに感情移入しているもので、 この「誰かに感情移入すること」が、同一視(Identification)と呼ばれます。このときに、あなたがあまりにもその登場人物の誰かにのめりこみ過ぎて、その物語の人物と、一ミリの隙間もないほどに同一視する状況を、過剰同一視といいます。このようなときに、あなたはその登場人物の敵に対して強い怒りや不快感を感じたり、味方に対して親近感や愛着を覚えたりします。お分かりのように、これは私たちの日常生活でも自然にみられるものです。

 逆に、何らかの理由で小説や映画などのいずれの人物にも同一視できないとき、私たちはその作品をつまらなく感じます。これはドキュメンタリーの作品にありがちですが、良いドキュメンタリー映画は決まって、上手に視聴者の同一視を引き出します。

 いずれにしても、同一視とは私たちが日常の中で広く行っているもので、普段の人間関係の中に同一視という心の働きは常に存在しています。

 ところで、誰かが傷ついたり困ったりしている時に、その人の立場になって、話を聞くときに起きている「共感」という現象が起こるためには、同一視が不可欠なのですが、これが行き過ぎて、「かわいそう。なんとしても自分がこの人を助けないと」と思うのが、「同情」の心理で、これが過剰同一視となります。 このとき、あなたはその人との間に十分な距離がありません。その人の問題を、まるであたかも自分の問題のように錯覚している状態です。

 このように、私たちは常に自分の周りの他者に多かれ少なかれ同一視しているわけですが、人間、他者にする以上に強い同一視を自分自身にしていることは意外と忘れられがちです。

 人間誰しも、自己愛(ナルシズム:自分を大事に思う気持ち)を持っているけれど、この「自己愛」が傷ついた時、私たちは怒り、悲しみ、憎しみ、恥、罪悪感などといった悪感情を経験します。

 私たちが辛さを感じる時というのは、この自己愛の影響によって、自分という存在に過剰同一視してしまっている時だと考えることもできます。というのも、辛いのは、悲しいのは、苦しいのは、自分という人間が大切だからです。自分に対して怒りを感じたり自己嫌悪を感じるのも、自分という存在が自分にとって重要であるゆえに起こることです。

 例えば、自分の子供に不満を感じるのは、その子供が自分にとって大切で、「関係がある」ゆえのもので、全く面識のない赤の他人の子供にはそうした不満は通常抱かないものです。

 さて、前置きが長くなりましたが、今回のテーマである、disidentification (脱同一視化)という概念はここから一段上のものです。

 自分が大切だから、自己愛が強すぎるから、人間は極度に怒ったり悲しくなったり傷ついたり、あらゆる負の感情を経験するわけですが、そういう時、 人は、自分自身の感情や自らの置かれた状況を客観視できなくなっています。心の余裕がなくなってしまっています。

 この生きづらい状況からうまく脱出する方法は、「自分自身をその状況から少し引き剥がしてみる」ことです。これが、「自分との距離」、つまり 「脱同一視」だけれど、言ってみれば、自分と自分の取り巻く人々や状況を、もう一人の自分が上から静かに観察することでもあります(このためのテクニックとして、少し前に紹介した12個の『認知のゆがみ』について自覚することも効果的です)。

 まるであたかも、物語でも見ているかのように、自分自身を「観察」してみます。

 この「脱同一視」とよく似た現象で、精神病理の症状に、「離人症」(Depersonalization)というものがあります。これは、「自分が自分でない様に感じる」 、「自分の経験していることがまるであたかも他人のしていることのように感じる」という自我の脆弱性に起因するもので、「解離性障害」と呼ばれる精神障害のひとつです。ここで、精神病理である 「離人症」と、健全な「脱同一視」の大きな違いは、そこに「Awareness:自覚と気付き」 が存在するかどうかです。

 離人症の人は、過度のストレスを感じると、まるであたかも幽体離脱のように、自分自身から気持ちを切り離すという防衛機制が習慣化してしまった状態です。これは無意識に起こるもので、その人のコントロールを超えていて、制御できるものではありません。

 反対に、脱自己同一視というのは、自身の意思によって能動的に行われるもので(たとえば有能な心理カウンセラーなどは、これが訓練によって習慣化されています)自我の超越によって起こります。

 ところで、マザーテレサなど、自己実現(Self-actualization)した一部の人間は、 無我(Selfless)という境地に達していると言われていますが、自己愛の解消、自我のマスター、脱自己同一視の先にあるのがSelflessの境地で、「自分がない」と言われる、自我の脆弱性と、 自己実現の現れの「無我」は、一見似ているようで、大きく異なるものです。

 セルフレスの境地には、成功も失敗も、勝ちも負けもないと言われています。自己愛が解消されてしまうと、人間のこころは極限に自由自在になるといいます(「勝ち組」とか「負け組み」とかいう世間の概念も、人間の自己愛の仕業です) 。

 それは、人生の熟練者のたどり着くところであり、歳をとれば誰でもなれるものでもないけれど、そうした自己実現へのステップとしても、 脱同一視化、つまり、自分と距離を置いて、客観的に自分を観察する練習をしていくのはとても有意義なことだと思います。自己実現は別として、脱自己同一視化によって、ずっと生きやすく自由になれるのだから普段の生活のいろいろな機会に意識して練習していくのはうまく生きる秘訣のように思います。「ああ辛いなあ、苦しいな」、と感じるときに、「今、苦しんでいる自分がいる」、と自分自身を少し客観視してみることで、がんじがらめにならずに、何か新しい解決策が見えてきたりするわけです。

(オリジナル:2006年12月4日 執筆)


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4 コメント

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Unknown (ピタ?)
2007-02-03 20:23:23
お久しぶりです。

嫌々結婚しようとしている友人がいます。
落ち込んでネガティブなメールがよくきますが
我慢して耐えようとする彼女の気持ちが理解できませんでした。

彼女の話を一緒に聞いていた友人たちは
辛いことに耐えてる自分に酔っているだけだ
と言っていました。
そんなことないだろうと私は思いましたが
あながち間違いではないようですね。
私だけ気づかなかったとは鈍感ってことですかね…
返信する
Unknown (yodaka)
2007-02-10 17:34:51
ピタ?さん

コメントありがとうございます。
このブログしばらく放置していて
コメント遅れました、ごめんなさい。。。

周りのご友人達の言葉は
みもふたもないものだけれど、
その当事者のお友達が、
自分との距離が近すぎていろいろな
ものに盲目になってしまっている
かもしれないという点では実際
お門違いな見解ではないですね。

ただ、察するにピタさんは
そのお友達の話を一番親身になって
聞いてあげていたのでしょう。
それかれ、一番真剣に、一緒になって
悩んでいた。それは、とてもいいことだと
思うんです。

この記事に関連付けてみると、つまり
ピタさんは、その当事者のお友達との同一化が
他の、どちらかというと非共感的な
周りのお友達に対して強かったということ
でしょう。周りのお友達は、どこか
冷めた目で、「脱同一視化」してその
お友達を眺めていた。そういうことだと
思います。

ただ、いつも思うのだけれど、共感って
一番大切なことだと思います。共感は
人を本当に癒します。

だから、理想は、共感しつつ、同時にどこかで
脱同一視化もしながら、自分にできることを
その困っている人に無理なくしてあげる
事なのかもしれませんね。
返信する
誠が愛を脱同一視化する?! (シオピー)
2007-02-11 09:07:06
 人は、特に失敗や困難を多く経験し、その経過を辿って、現在の時点に至り、又別の困難に直面したりして、年を重ねる訳ですが、その時々に於いて、最善の打開策を考え、あらゆる手を尽くし、少しでも不利益の少ない方法の探索に最大限努力し、何らかの結果に至り、良くも悪しくも、自分なりの条件的ノウハウを得るものです。

 この蓄積は、多くの演繹を生み、自分の中に、リスクに対するシミュレーションを繰り返す事ができ、未知の困難にもうろたえず、冷静に持てる選択肢を探索できるようになります。

 同じような困難に接しても、二度目に遭遇した場合には、過去の自分が過去のプロセスを解析してしまっているので、結果をある程度評価できる訳で、現実に直面している今の自分には、もはや過剰同一視には至らず、脱同一視化の状況にあると言えるのではないでしょうか。

 これを、恋愛の場合について捉えれば、恋愛の経験に疎い、純な年頃には、心は純白で、女性の白さばかしが眩しくて、恋心を抱けば、舞い上がり、すべての姿かたち、指先の向かう先にさえ、美しい花の花粉が零れ落ちるように心に映る、その純白さへの憧れは、まさに過剰同一視の結果ではなのでしょうか?

 ところが、やがて大学生となり、眼鏡をコンタクトに変えると、辺りの風景は歴然と変わり、昔の憧れの女性も、色褪せた顔肌が、雑念と輪郭を変え、脱同一視化のかなたへ、たそがれていく。

 更に、社会に出て、多くの恋愛を経験し、今ふと、あの頃の恋愛のパッションに憧れる僕は、もはや過剰には同一視できない枯れた?人間なのか?

 ともあれ、困難な事柄に対しては、常に、脱同一視化された自分となり、そしてまた、真に愛する女性には、いつも過剰同一視していたい。(もっとも、その人に、逆の過剰同一視をされてたら、身も蓋もないのですが)
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Unknown (yodaka)
2007-02-12 14:53:08
シオピーさん

いつも読み応えのある面白い見解を
ありがとうございます。面白いですね。

実際、Risk Managementなどがうまく、
CostとBenefitをきちんと天秤にかけられる
人というのは、失敗も含めた
過去の経験を主とする客観性の強い人で、
とりわけBusinessの場において、
対象との距離の取り方が非常にうまい人の
ように思います。

また、そうしたBusinessにおいて必要不可欠な
客観性は、Businessとどこかで割り切って
いるからこそできる面もあるようにも
思えるんです。というのも、ここで使われる
Disidentificationは、Objectification
(対物化と仮に訳します)を伴うもので、
対象への共感性が低いゆえに出来るものです。

つまるところ、人間関係においては、
Disidentificationと、Identificationの
中庸の、客観性を持った同一視、つまり
共感性(Empathy)がやはり重要であるように
思えるけれど、EmpathyとSympathy(同情)は
また異なるもので、やはり人間関係って
一番複雑で、だからこそ味わい深いものだと
思うのです。

ちょっと論点がずれましたね(汗)・・・
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