興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

自分を他人と比べる心理: 社会比較理論 (Social Comparison Theory)

2014-03-04 | プチ社会心理学

 人は本質的に社会的存在であり、その社会的な環境においてうまく生きていくために、自分の能力、才能、実力、容姿、社会的ステイタス、経済状況などを、正確に評価しようとする傾向にあります。しかしひとは、何しろ社会的存在、そうした自分の立ち位置がどのあたりなのか、一人ではわかりません。たとえば、フィギュアスケートの上手な10歳のナナちゃんは、なぜ自分が上手であるのか知っているかというと、同じスケートのクラスの同年代のこの中で一番できるからです。でもナナちゃんは、自分が世界一でないことも良く知っています。浅田真央さんにあこがれてスケートを始めたわけで、自分にはできないことを、真央さんはやっています。さて、このように、人は自分と何かしら共通点のある他者と自分を比べて自分を評価するわけですが、これを最初に理論として提案したのは、レオン・フェスティンガー(Leon Festinger)というアメリカの心理学者です。これは今や古典的な理論ですが、現在でも有益なもので、またその基本は理解しやすく日常生活にも応用しやすいので、今回は、Takaさんから頂いた質問がきっかけで、書いてみることにしました。

 さて、「何かしら共通点のある他者」と言いましたのは、自分の何らかの属性を他者と比べるときに、有効な比較対象が必要です。たとえば、ナナちゃんは、自分と同年代のフィギュアスケートの選手と自分を比べたり、浅田真央選手と比べたりしますが、たとえば、プロ野球のダルビッシュ選手の投球と自分のスケートのどちらが優れているかとか、同学年のサッカー選手とどちらがすごいか、などと比べるのはやや無理があります(脚注1)。やはり、自分と何か同じことをしている誰かと比べるほうがしっくりきます。

 さて、ひとは自分を基準にして、他人と比べるわけですが、ナナちゃんの例にみられるように、人は2つの異なった比較を行います。ナナちゃんが、同年代の自分よりも劣る選手と自分を比べることを、下方社会的比較(Downward social comparison)といい、自分よりも優れている浅田選手と比べることを、上方社会的比較(Upward social comparison)といいます。ナナちゃんは、自分と同年代の子たちを比べることで、自分は人よりも優れているのだという優越感を感じ、また、浅田選手と比べて、一種の劣等感を感じ、もっとがんばろうと思います。ナナちゃんは優しくて健全な精神の持ち主なので、優越感を表に出すこともしないし、オリンピック選手と自分を比較して落ち込むこともありません。しかし、望ましいセルフイメージを保ちながら、向上心を持って練習していくために、ナナちゃんには両方の比較が必要なのです。

 ところで、ひとは、自分の置かれた状況や精神状態によっても、比較の方向が異なることが知られています。何らかの状況下で、自尊心が脅かされるようなときには、ひとは自分よりも良くないところにいる人と比べて精神の安定を図ります。リストラの対象になりそうな人が、ホームレスの人と自分を比べて、「大丈夫だ。まだ貯金だってあるし、家賃もしばらくは払える。あの人と比べたら自分は恵まれている」、と言い聞かせて安心したりします。

 逆に、安定した状況で、自己評価も高いひとは、より良くなりたいと思い、自分よりも良いところにいる人と自分を比較する傾向があります。恋人との関係が良好で、信頼関係が深まりながら1年が過ぎた人が、仲の良い友達で、最近婚約した人を見て、「いいな。私たちもがんばろう」、と前向きな気持ちになったりします。営業に携わるビジネスパーソンが、自分の成績がトップ3であり、向上心に燃えているときに見るのは自分より上にいる2人であり、自分よりも成績の良くない人とはあまり比べません。しかし、この人の成績が真ん中より少し下ぐらいになってしまったら、自分よりも下にいる人と比べて自尊心を守るかもしれません。

 まとめますと、人は心が安定していてそれなりの充足感があるときに、自己向上(Self-improvement)の欲求が強く、上方社会的比較によって、自分のモデルとなる人を見つけて、その人のようになろうとします。逆に、心が不安定で、自尊心が傷ついている状況だと、自己高揚(Self-enhancement)の欲求が高まり、下方社会的比較をして、傷ついた自尊心の修復、改善を図ります。このように、人は多かれ少なかれ、人と自分を比較する存在なのですが、問題は、比較手段がこのどちらかに偏っている場合です(脚注1)。比較手段が下方比較に偏っている人は、下の人と比べて満足してしまい、向上心も湧かないし、人生の幅は広がりません。また、下方比較にばかり依存する人は、無意識的に避けている、低い自己評価に挑む機会もないため、成長することも難しいです。

 逆に、自分に過度に厳しく、自己批判性の強いひとは、それが不適応である状況でも、常に上方比較をし、「自分はなんて駄目なんだろう」、と落ち込んだり、慢性的な鬱感情に悩まされたりします。つまり、大事なのは、そのバランスです。他人と自分をむやみに比較することはよくありませんが、もしあなたがひどく落ち込んでいることに気づいたら、自分が知らずのうちに上方比較をしていないか注意してみたり、ときには、自分よりも良くないところにいる人と比べてみるのも良いかもしれません。その人と自分の成功を願いながら。


 (脚注1)もちろんここでナナちゃんは、自分はまだプロじゃないけど、ダルビッシュ選手はプロとして活躍している。すごい。かっこいい。私もがんばろう!と思うかもしれません。また、ダルビッシュと自分の社会的ステイタス、経済状況など、別の分野によって上方比較が起こることもありえます。

(脚注2)たとえば、自己愛の強い人は、自分が他者よりも優れていると思いたいため、下方比較が防衛機制として常習化し、この防衛機制としての下方比較が利かなくなり、上方比較が避けられなくなると、ものすごい怒りを経験したり(自己愛憤怒、Narcissistic rage)、ひどい落ち込みを経験します。自己愛性人格障害のひとたちが、常に他者を見下したり罵倒したりするのもこのためです。


認知のゆがみ その10 「極大化と極小化」(Magnification and Minimization)

2014-03-04 | プチ臨床心理学

 ひとは、良くない精神状態にいるときに、ついつい物事の悪い面ばかり強調し、その良い面を見落としがちです。この認知のゆがみを「極大化と極小化」(Magnification and Minimization)と呼びます。これは文字通り、(あるものごとの悪い面の)「極大化」と、(そのものごとの良い面の)「極小化」を、同時に行うものです。つまり、あなたが、ある状況や、他者や、あなた自身について評価しているときに、必要以上にそのネガティブな要素に重点を置き、同時に、その良い側面において、必要以上に軽くあしらってしまう傾向です。この思考パターンも、他の認知のゆがみと同じように、不安やうつと密接につながっていて、実際このパターンは、うつ病や不安障害を持つ人に多く見られるものです。また、これが他人に向くと、人は不満や怒りなどのネガティブな感情を経験します。

 まず、これがどのように鬱感情を引き起こすのか見てみましょう(脚注1)。

 里美さんは、卒業生代表として卒業式にスピーチをしました。しかし、いざ舞台にあがると、聴衆のあまりの多さに圧倒され、頭が真っ白になり、最初の10秒ぐらい、喉が詰まったりしてぎこちなくなってしまいました。しかしそのあと彼女はすぐに調子を取り戻し、とても立派なスピーチをしました。大きな拍手があり、式の後も、先生や友達から、そのスピーチについてほめられました。しかし里美さんは、スタートのぎこちなさが気になってしかたがなく、あれは恥ずかしくてひどい出来であったと思い、2日ほどそのことについて考えて落ち込んでいました。

 お分かりのように、里美さんは、全体として素晴らしかったスピーチの、最初の10秒の問題を「極大化」し、それ以外の良かったところ、また、皆からのポジティブな感想などを「極小化」し、落ち込んでしまいました。それで、卒業式のあとの友達とのパーティーでもなんだか悶々として楽しめずにいました。

 さて、次に、これがどう不安と結びついているのか考えてみましょう

 義明くんは、対人恐怖症の傾向があり、パーティーに参加したい気持ちはあるものの、それはとても恐怖なことでした。しかし、仲の良い悟君の励ましもあり、二人で共通の友人のパーティーに参加しました。珍しくパーティーにやってき義明君のことを皆歓迎してくれ、彼は思いがけず楽しい時間を過ごしました。しかし、そのパーティーのある時に、明子さんとふたりで話す機会があり、なんだか間が持たずに少し気まずい思いをしました。優しくて敏感で明るい明子さんは、それにはあまり気にせずにいろいろな話をしてくれて、悪くない会話でした。しかし義明くんは、パーティー後も、明子さんとの会話のことを悶々と考えていました。なんで自分は人ときちんと会話ができないんだろう。つまらないやつだと思われたかもしれない。嫌われたかも。などと思いました。数か月後、悟君が再びパーティーに行こうと誘ってくれたのですが、義明君は、明子さんとの件のことが頭から離れず、「パーティーの小話が怖い。気まずい思いをしたくないけど、またああなるかもしれない。行きたいけど人とうまく話せるかわからない。つまらないやつだと思われたくない。どうしよう」、と、ものすごい予期不安に悩まされました。

 さて、義明くんは、確かに明子さんとほんの少しだけぎこちないときがあったのですが、優しい明子さんは、全然気にしていなかったし、むしろ義明君と話せてよかったと思っていました。また、義明くんは、全体としては、いろいろな人ときちんと交流できて、8割方良い時間を過ごせたのでした。こうしたポジティブな要素が「極小化」され、ぎこちない時があった、というむしろ些末な要素が「極大化」され、「自分は社交スキルのない人間だ、という結論に至ってしまい、社会不安が続きます。

 義明君は、冷静にパーティ―の全体的な体験を振り返り、客観的にみつめ、この「極大化と極小化」のパターンに陥っていないか検討することが大切です。そのパーティーで良かったものはなんだろう。うまくいったものはなかっただろうか。あのぎこちなさがそんなにまずいものか。あれは誰にだって起こり得るもので、まず自分はパーティーの経験が少ない。少ない経験であれだけ楽しめたのだし、もっと積極的に参加したら、ぎこちなさも減るだろう。という風に考えていきます。

 里見さんについても、「極大化と極小化」のパターンについて、自覚して立ち止まることが大切です。ここでもまた、「自分の最大の批判者は自分自身である」という図式が見られますね。


 

 (脚注1)この認知のゆがみが鬱感情や不安を起こしますが、鬱や不安の特性として、このような思考パターンが起こるのも事実で、このパターンゆえ、そのこころの問題からの脱出が難しくなっているわけです。 


認知の歪み その2 「白か黒か、0か100かの思考パターン」(All-or-nothing thinking)

2014-03-04 | プチ臨床心理学

 これから12回にわたって、この前で紹介した12個の認知のゆがみのパターンについて説明していきます。

 その第一弾は、All-or-nothing thinking--「オールオアナッシング、全か無か、0か100か、白か黒かの思考パターン」です。

 これは、前述のように、Dichotomous thinking(二分法的思考)とも呼ばれるもので、あなたが、自分の置かれている状況や、誰か他者やものごとの評価において、それらを2つだけのカテゴリーとして認識する傾向です。このカテゴリーは通常、良いか悪いか、善か悪か、好きか嫌いかなどの、ポジティブとネガティブの極みです。実際のところ、この世のあらゆるものごとは、連続性のある、スペクトラム的なものであり、カテゴリーではなくて、その程度差なのだけれど、この思考パターンが働いていると、ものごとの黒と白との中間の広いグレーゾーンが見えません。

 いろいろな例があります。たとえば、美由紀さんは、勝君に恋心を寄せていました。美由紀さんは、勝君が恰好よくて、面白くて優しい人であると認識していました。しかしある日美由紀さんは、勝君が煙草を吸っていることを知ります。大の嫌煙家の美由紀さんは、急激に勝君に対して嫌悪感がでてきて、勝君が全然魅力的でなくなってしまいました。「煙草を吸う」という事実で、美由紀さんにとって、勝くんが真っ黒になってしまったのです。今の美由紀さんには、勝君の喫煙以外の、彼女にとって魅力的だったいろいろな良い側面がまったく見えなくなっているのです。これは、仲の良い友達、恋人関係のふたりが喧嘩したときにも、しばしばみられるものです。一時的にではあるけれど、相手が自分にしたひどいことで頭がいっぱいになって、相手のそれ以外の良い面がまったく見られなくなってしまったり、相手の言い分がまったく理解できない、受け入れられない、というような状況です。

 また、ゆかりさんはダイエットをしていて、1週間ほど順調にいっていたのですが、今日はついつい決めていた限度以上の量を食べてしまいました。それによって、ゆかりさんはダイエットも自分自身もすっかり嫌になって、ダイエットをやめてしまいました。もしゆかりさんがこの思考パターンに気付けば、「1週間がんばっていたじゃん。今日はいろいろ辛いことがあったんだし、仕方ないよ。ちょっと食べ過ぎただけだし。明日から頑張ろう。ドンマイ」、と、ダイエットを続けられたかもしれません。

 それから、会社のあるプロジェクトに精を出していた和樹さんは、それが結構な評判だったのに、自分が思い描いていた「大成功」に至らなかったため、「プロジェクトは失敗だ。自分はまったくダメなやつだ」と感じて、とても落ち込んでしまいました。もし彼が、ものごとをもっとスペクトラム的に、程度問題として見つめられたならば、「今回のプロジェクトは完璧ではなかったけど、80%成功かな。次回は90%成功するように頑張ろう」、といった具合に、前向きでいられたかもしれません。

 このような、黒か白かの思考パターンは、完璧主義のひとにもしばしば見られます。「完璧」にできなかったら、それは失敗になってしまうのです。そして、このような思考パターンは、自己批判に直結し、あなたを必要以上に落ち込ませたり、鬱にしたりします。また、これが他者に向いているときは、怒りは必要以上に大きくなるし、必要以上に長引きます(脚注1)。それは人間関係にも悪影響を及ぼすし、ひとは、相手が真っ黒に見えるとき、自分自身も真っ黒な世界にいるこで、本人のこころにとっても有害です。

 あなたが何かを経験して、強烈な落ち込み、落胆、うつ、また、極度の憤慨など感じたときに、立ち止まって、自分がこの白か黒か、0か100かの思考パターンに陥っていないか見つめてみましょう。「もしかして」、と思ったら、今あなたが置かれている状況や、あなたが評価している対象(自分自身かもしれません)において、そのグレーゾーンの可能性を探してみましょう。

 具体的なやり方としては、たとえば、あなたが自分の仕事の出来具合で落ち込んでいたら、そこに0から100までの点数をつけてみましょう。このとき注意すべきは、0と100に、あなた自身の過去の経験に基づいて、基準をつけることです。0点とは、過去のどのときであり、100点とは、過去のどのときか。「100点など経験したことないよ」、というひとは、過去のあなたの最高の出来であった仕事に点数をつけてください。たとえば以下の感じです。過去最低のパフォーマンスであったプロジェクトAは、5点で、過去最高のパフォーマンスであったプロジェクトKは70点。それでは、今回のプロジェクトGの仕事のできは、何点でしょう。このとき、あなたがどのように、過去のプロジェクトAとKを採点したのか、その基準を書き出したりして、頭に入れておいて、その基準をもとに、今回の仕事のできを評価してみてください。0点ではないはずです。「そんなのくだらない」、と思った方、騙されたと思ってやってみてください。ちなみに、こうした「客観性を作る作業」に取り組むこと自体が、この黒か白かの思考パターンからの脱却につながります。このようにして、グレーゾーンを探していきます。

 また、あなたにとって、「失敗」とは何か、また、「成功とは何か」、具体的に定義してみてください。何をもってして、仕事は「成功」といえるのか、何をもってして、仕事は「失敗」といえるのか。オリンピックにおいて、メダルがもらえなかったら失敗だ、という考え方も、この0か100かの思考パターンです。今回のソチオリンピックにおいて、6位に入賞した浅田真央さんは、メダルこそ逃したものの、最初の演技では大きな失敗があったものの、そこからの目を見張る立ち直りと、素晴らしい最終演技に、多くの人は、彼女の大きな達成を認めています。彼女のパフォーマンスに感動し、勇気をもらった、という方は本当に多く、真央さんを「失敗者」とみる人は少ないでしょう。

 このように、ものごとは、0か100、白か黒か、成功か失敗か、善か悪かの2つのカテゴリーではなくて、プリズムのような、無数の段階にわかれています。その、実は確かに存在している、「程度の違い」について、目を向けてみてください。

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脚注1)これは、パーソナリティ障害のひとたちにもよく見られるものです。境界性人格障害の人たちにこの傾向が強いことは知られていますが、自己愛性人格障害の人たちもしばしばこの思考パターンに陥ります。

たとえば、高校の生徒会長の橋上君は、全校の20%ほどの生徒たちが、彼のやり方に疑問を持っていることを知りました。橋上くんは、その「20%の生徒たち」にことを苦々しく思い、「僕がせっかくうちの学校を良くしようとしているのに、僕に反対している分からず屋がいる。あいつらのせいで学校にまとまりがない。こんなのはうんざりだ。今の時点でいったいどのくらいの生徒たちが僕のことを支持してくれているんだろう。ああ、気分悪い」と悶々とし、やがては「わが校の生徒たちの真意を問うために生徒会長を辞任して立候補しなおします。僕に文句のあるやつは対抗馬として立候補して僕と戦うべきです。本当にうちの生徒たちはまだ僕と同じものを見ているのかわからない。選挙をやり直さないといけない!!」などといきり立ってしまいました。生徒たちは橋上くんの自己中心的で大人げなく突拍子もない様子に唖然としています。

橋上くんの高校はとても大きな学校で、本当にいろいろな生徒がいるため、すべての生徒が彼を支持するようなことは現実的ではないのですが、彼にはそれがわかりません。彼には80%の支持者がいるわけで、生徒会長として大変優秀なわけですが、0か100かの思考パターンに陥っている橋上くんにはそのグレーゾーンに留まることが非常に心地悪く、しっくりこないのです。