ひめゆりの由来・・・沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女子校は
それぞれに校友会誌があり、一高女は「おとひめ」師範は「白百合」
と名付けられていた。両校が併置されることによって校友会誌もひとつになり
両方の名前の一部「おとひめ」の姫と「白百合」の百合をあわせて
姫百合(ひめゆり)となった
ひめゆりの塔の慰霊碑(納骨堂)戦禍に散った女学校生徒の
名前が刻まれてある。来た人々は鎮魂の献花を捧げ、合掌。
ひめゆりの塔、終戦直後の物資難な時代に建立された事と
アメリカ軍統治下に建立されたという事情で
本当に小さな塔となった
アメリカ軍の攻撃によって多くの犠牲者がでた
沖縄陸軍病院第3外科(伊原第3外科)の壕
(ひめゆりの塔のガマ)
ひめゆり平和祈念資料館(1989年設立)
館内は暗く、写真と共に沖縄戦体験者などの言葉が書かれたものが
壁に掛っている。
実際の防空壕をモデルとしたジオラマが作られ
元ひめゆり学徒が語り部となって戦争の悲惨さ
残酷さを語っていた。
沖縄戦とひめゆり学徒隊のパネル
女子生徒及び職員総計240名のほとんどの方が亡くなった
他県から贈られた慰霊像。雨の滴が目元から落ち
悲しい涙として訴えてきた
真っ赤に咲いたハイビスカスの花が何か若き乙女達の
血の色に思えてならなかった。
合掌